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2009年度佐藤亜紀明治大学特別講義第1回

 三年目。前年度は皆勤できたんだけど最後の回(12月、5回目)はブログにまとめを上げられなかったんだよな。『ミカイール』が追い込みに入ってて。

 で、今年度第1回。御茶ノ水に行くのはちょっと久しぶりだったんで、所要時間を忘れていて5分遅れる。講義はすでに始まっている。そしてペンを忘れたことに気がつく。誰かに借りてる時間もない。どうしてもメモは取りたかったので、アイライン(茶色)を用いましよ。書きにくいんでちゃんとしたメモじゃない上に、判読も困難……

 スピルバーグ作品に於ける「顔」の問題について。「顔」を特異な撮り方をするようになったのは、『シンドラーのリスト』からだと先生は思うのだが、人によっては(例えば蓮実重彦)『アミスタッド』からだとする。
『アミスタッド』は、前半はおもしろいのだそうである。反乱を起こす黒人たちの「かっこよさ」は、植民地主義に於けるかっこよさ(ドラクロワなど)と同質なのだけれど、にもかかわらず「人間の尊厳」のただならぬ雰囲気を出すことに成功している。

『宇宙戦争』について。なぜアメリカ人にとって、9.11はそんなにもショッキングだったのか。

「正しい方法さえ用いれば、世界は操作できる」という信念(「正しい方法」を用いれば勝ち組で、用いないと負け組になる)が崩壊したからだが、この信念の提唱者はアイン・ランドである。亡命ロシア人である彼女が、社会主義と対決し、また(移民にありがちなことだが移民先の)アメリカの価値観に過剰に適応した結果が、この信念なのである。

 という話を聞いた翌日の17日、流し見していたNHKスペシャル「マネー資本主義 第二回」でアイン・ランドの名が出てきたんで吹いた。米国FRB(連邦準備制度理事会)元議長グリーンスパンが若き日に「運命的な出会い」をした哲学者、として紹介されてましたよ。出会い、って著作にだが。

 番組ではアイン・ランドの『水源』を「聖書に次いでアメリカで影響力を持つ本」とか言ってたが、佐藤先生によると、米国には「アイン・ランド協会」なるものがあって、全米の高校にランドの小説をせっせとばら撒いているのだそうな。で、小説なんか全然読まないガキどもが、課題図書として無理やり読まされる、と。

 社会主義者のアメリカ人で、アイン・ランドとは同時代だが異なる立場にいたはずの文芸評論家エドマンド・ウィルソンも、まったく同じ信念を抱いていた。ナボコフと親交があって、アンチ・カフカだったという。『小説のストラテジー』の最終章で取り上げられてる人だね。

 ウィルソンにとって、なぜカフカが駄目かというと、フロンティアに挑戦していない「意気地なし」だからである。文豪というものは国民に対して手本にならなければならない存在だが、カフカは誰に対しても手本にならないからである。
 つまり、レーニンがすべてを解決してくれるような作品(シュワルツネッガーのようなレーニン)を生み出すことを、文学の役割と見做しているのである。

『宇宙戦争』は、「人間から顔が剥奪される瞬間」を描いた作品だが、当時(2005)はまだそれほど顕著ではなかった、「もう一つのアメリカの理想の崩壊」も描いている。すなわち、格差社会である。
 冒頭、トム・クルーズとミランダ・オットーの離婚の原因は、階級差であったことが頻々と示される。弁護士の母親と一緒に暮らしている子供たちは、すでに父親とは別世界の人間となっている。高校生の息子は宿題でアルジェリア独立戦争についてのレポートを書き、小学生の娘はアレルギーでピーナツバターが食べられない。港湾労働者の父親は、「アルジェリア独立戦争」や「ピーナツバターが食べられない人間」が存在しない世界の住人なのである(こんな格差のある男女が結ばれたことが、かつては「アメリカの理想」だったのだろう)。

『トゥモロー・ワールド』(06)の序盤では、店のショーウィンドがなんの前触れもなしに爆破される。それまでの映画では、サスペンスを煽るために爆発の予告がさりげなくなされていたものである(へたくそな場合は「さりげなく」ではなく)。
 しかし、現実のテロ(テロに限らず事故全般も)は前触れなどないものである。今までもずっとそうだった。「前触れのある爆発」という表現が無効になったのである。

 このような状況で、どのような表現が可能となるのだろうか。

 例えばローマ帝国の彫像。

200pxstatueaugustus20080218002014  左と右の像を見比べて、右を「ローマが衰退した時代だから芸術も衰退したのだ」(=へたくそ)と捉えてしまえば、そのまま前を素通りしてしまうだろう。この像を「見た」ことにはならない。

 なぜこのような表現になったのか、当時、何が求められていたのか。
「この世のものならぬ何か」を作り出そうとしたから、このような表現になったのである。

 様式によって視点を変えなければならない、ということなのである。視点とは、世界への意味付けの仕方の違いである。無論、その作品が作られた当時の視点に立つことは無理であるにしても。
 一つの世界の見方(様式)が期限切れになったところで、新しい見方が出てくる。

 ほかにもハリー・ポッターの国籍問題(「二重国籍」なのか?)とかいろいろおもしろい話があったんだけど、いよいよアイラインの芯が潰れて判読不能、筆記不能。次はペンを忘れませんよ……

 様式について、以下のような質問をしました。

 脳関係の研究者は、芸術の様式を認知論と結びつけて説くことがある。文化によって様式が異なるのは認識のフレームが違うから、というのである。
 例えば、あるアフリカの部族に紙に描かれた絵(西洋絵画)を見せて、「これはなんだと思う?」と尋ねると、まず触ってみて、くしゃくしゃにして音を聞き、ちぎって口に入れ、「色の付いた紙だ」と答えた。彼らの文化では、絵とは布に描いてあるものであり、「紙に描かれた絵」は、絵として認識できないのである。
 また、密林に住む部族は「遠近感」というものを理解できない。見通しの悪い環境に住んでいるので、「遠くにあるものは小さく見える」ということを知らないし理解できないのである。

 或いは、ピカソがある時、列車のコンパートメントで見ず知らずの男と乗り合わせた。男は相手がピカソだと知ると、「どうして普通に描かないんですか」と尋ねた。ピカソが「普通とは?」と問い返すと、男は「こんなふうにです」と一枚の写真を取り出した。「妻です」
 ピカソは写真を手に取って眺め、言った。「ずいぶん小さくて平べったいんですね」

 こういう論は、おもしろいけど少々単純化しすぎているような気がするので、先生はどう思いますか、と尋ねたのでした。
 先生の答えは、フレームの問題として論じることは可能でしょう、というものであった。芸術評論の畑から、こういう脳科学の立場へのアプローチがもっとあったらおもしろいと思うんだけどなあ。さすがに、先生に「やってください」とは言えなかったのであった。もちろん、自分でやる気もないけどさ(小説のネタにすることはあるかもしれない)。

2008年度講義第一回 

2009年度講義第二回 

特別講義INDEX

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