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ダークナイト

 作品としての出来の良し悪しにかかわりなく、画面が暗い(文字どおりの意味で光度が低い)映画が苦手である。曇りの日に気が滅入るのと同じで、生理的なものであろう。

 だから、ヒーローが夜しか活動しないので必然的に夜のシーンばかりのバットマン・シリーズは苦手なんだ。ゴッサムシティって、昼間でもなんか薄暗いし。

 前作(『バットマン・ビギンズ』)よりはおもしろかった、というのが端的な感想だが、前作については、キリアン・マーフィーがとにかく変な顔だった(整っているのに、目鼻のバランスが妙)、ということしか印象が残っていない。

 「人間の本性は善か悪か」という問いは、心底どうでもよくて(どっちも本性ってことでええやん)、悪役が「人間の本性を見せてやるぜ」とか言い出すと、いやもう勘弁してください。二時間半も使ってやることじゃないだろう。あと、暴力シーンが痛々しいものが多くて、しんどかった。

 ヒース・レジャーのジョーカーの演技は壮絶で、本当にぎりぎりまで自分を追い込んでいる印象だ。たとえ観ているほうが彼のその後を知らなかったとしても、痛々しさは否めない。
 アーロン・エッカートは正義感の強い検事を演じてなかなか巧かった。ゲイリー・オールドマンは善人の演技が巧くなったなあ(前作ではまだ少々違和感があったのに)。そしてますます「爆死」から遠ざかるのだな。

 (画面が暗いのも含めて)重苦しかったが、映像その他、いろいろと得るものがある作品ではあった。

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インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国

 そういえば『インディ・ジョーンズ』をちゃんと観たのは初めてなのだった。○曜洋画劇場で放映してるのを、ちらっと見たことがあるくらい。カレン・アレンはスチールで知ってたけど。

 1957年、ネバダの軍事施設に「スターリンの娘」イリーナ・スパルコが部下を率いて進入する。その目的は巨大な倉庫の中から「ある物」を探し出し、持ち去ることだった。その際、「ある物」を探し出させるためだけに、わざわざメキシコ(だっけ?)にいたインディ・ジョーンズを誘拐してくる。で、彼が首尾よく見つけたのは、グレイ(ロズウェルのあれ)のミイラであった。

 57年つったら、スターリン批判の後だし、赤狩りも下火になってるはずだし、ネバダの核実験だって何年も前からたびたび行われている。その設定にした理由がいまいち解らんなあ。まあたぶん、敢えてでたらめにしたんだろう。
 チリで発見された、ということでクリスタル・スカルが登場した直後に、「クリスタル・スカルって?」と尋ねられたインディ・ジョーンズが「メソ・アメリカのものだ」と答えたり、「アマゾンの古代文明」でマヤ語が使われてたり、突っ込み出したらきりがないから突っ込まない。

 しかしアマゾンにミイラがあったり、遺跡の中の壁画がマヤ風だったりと、ちゃんと調べた形跡があるにはある。あの壁画は結構よくできていた。それと、アマゾンのジャングルでコサックダンスを踊るソ連兵、というのも観れたから、細かいところはどうでもいいや。

 最初からずっとテンポが良かったが、軍隊蟻のシーンが長すぎて、そこから少々だれてくる(軍隊蟻が登場すること自体は、いかにもそれらしくて良いのだが)。その後の展開も、お宝を発見して帰ってくるだけだしね。

 シャイア・ラブーフは、登場直後はリーゼントで50年代の若者に見えるんだが、その後はすぐに髪が乱れてしまうので、あんまり50年代風に見えなくなる。お猿のほうが、よっぽどちゃんとしたリーゼントだったよな。

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大災厄

 08年7月の記事に加筆修正。

 シリーズの基本設定の一つ。地球規模の災厄と文明崩壊。スペイン語では「カラミダード」calamidad。これだけだと実際には、単に「災厄」って意味なんけど(英語だとcalamity)、それはともかく。

 22世紀末、世界各地の動植物にさまざまな疫病が発生する(『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収:「The Show Must Go On, and...」および「'STORY' Never Ends!」)。
 病原体はいずれも新種で、致死性、感染力、薬剤耐性が異常に高く、しかも変異が速いため治療も予防も追いつかない。疫病と飢餓により、政治と経済は混乱し、二世紀近く続いてきた平和と繁栄は終焉を迎える。

 2230年代も終わり近くになって、すべての元凶はたった一種のウイルスであるらしいことが明らかになる。このウイルスは、「キルケー」と仮称された。
 しかし人類を滅亡寸前まで追い遣ったのは、疫病や飢餓そのものよりも、人間同士の殺し合いだった。大量破壊兵器が災厄を拡大し、地球は荒廃する。
 まだそれなりに科学技術が残っていた時代には、工業汚染も災厄に拍車を掛けた。

 やがて文明は完全に退行し、科学技術による大量殺戮と大規模な環境破壊はなくなる。『グアルディア』の頃には、ウイルス禍は小康状態となっており、地域によっては文明の復興が始まっている。しかし旧時代の記憶は失われ、大災厄とかつての繁栄は伝説と化している。

「大災厄(カラミダード)」とは『グアルディア』の中での呼び名であって、『ラ・イストリア』では災厄が現在進行中なので、総称は存在しない。時代や地域、文化によって、呼び名は異なり、語られる伝説もさまざまである。
『ミカイールの階梯』に於いては、カタストロファ(破滅 катастрофа)、ジャーヘリー(暗黒時代 ラテン文字表記はjahely)と呼ばれる。前者は中央アジア共和国での呼称、後者はマフディ教団領での呼称である。

 共和国も教団もそれぞれ、人類が正しいイデオロギー(ルイセンコ主義とマフディ信仰)を蔑ろにした報いとして災厄と文明崩壊が起こった、と説く。破滅、暗黒時代、という呼称は、そうした史観の表れである。
 なお、災厄に先立つ「イデオロギー的に間違った時代」を、中央アジア共和国では「大反動時代」と呼ぶ(具体的には、ソ連崩壊後から遺伝子管理局支配の二百年余り)。
 マフディ教団では、災厄と「間違った時代」を併せて「暗黒時代」と呼ぶ(「間違った時代」がいつ始まったかは明らかにされていない)。災厄の時代のみを「暗黒時代」と呼ぶこともある。

 災厄の具体的な事例

 最初の大規模な災厄は、欧州(エウロパ)大飢饉である。土壌微生物の変異から植物に影響が及び、食料生産が壊滅的な打撃を受けた。これにより、欧州人の大離散が始まる。
 中米では密林の枯死、南米では密林の異常繁殖が始まるが、まだこの時期は人類に対する影響はそれほど大きくない。

 エウロパ大飢饉によって、ユーラシア全土で西から東への民族大移動が始まるが、この第一波が終息しないうちに、第二の大飢饉と大移動が起こる。今度の原因は草食禽獣の激減だった。腸内のセルロース分解微生物の変異によるもので、特に反芻動物と馬は絶滅の危機に瀕した。
 これらの人口移動には無論、さまざまな規模の暴力が伴った。

 海洋生物の被害も深刻で、23世紀半ばのカリフォルニア半島の太平洋岸では、鯨の回遊が見られなくなり、鯨が定住するほど豊かだったコルテス海(カリフォルニア湾)では鯨も魚も死に絶えた。

 同じく23世紀半ば、北米では白人至上主義が支配的になったため、有色人に分類された人々が大量に南へと逃れた。政治的な軋轢に加え、中南米の人々の「北米人に病原体を持ち込まれる」という恐怖が、南北アメリカ戦争(第二次)を引き起こすことになる。

 以上のヨーロッパ、中央アジア、中南米以外の地域に於ける災厄の事例は、今のところ不明である。

関連記事: 「年表」 「キルケー・ウイルス」 「コンセプシオン」 「絶対平和」

        「遺伝子管理局」 「管理者たち」 「封じ込めプログラム」

        「亜人」 「変異体」 「グロッタ」 

         「生体甲冑 Ⅰ」 「生体甲冑 Ⅲ」 

        「テングリ大山系一帯」 「マフディ教団と中央アジア共和国」 

        「25世紀中央アジアの食糧事情」 

        「コンセプシオン、疫病の王、生体甲冑、そしてキルケー・ウイルス」 

設定集コンテンツ

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バーン・アフター・リーディング

 ブラッド・ピットが本物のバカに見えるのがすごい。ジョージ・クルーニーの「バカ」演技が、これまでのコーエン兄弟作品(『オー、ブラザー』『ディボース・ショウ』)の時と同じく大仰であるのに対して(まあ彼の場合、これくらい大仰にしないと「ジョージ・クルーニーっぽさ」を払拭できないのだろうが)、ピットの場合は本当にナチュラルにバカに見える。

 これまで彼が演じてきた役が、頭がよさそうだったかというと、そんなことはないんだけどね。しかし、バカを演じて本物のバカに見えるのはすごい。

 コーエン兄弟が最初に思い付いた絵面は、「ジョン・マルコヴィッチがバスローブ姿(下はランニングシャツとトランクス)で斧を片手に歩き回っている」だったそうな。で、本当にそのまんまの映画でした。
 ただし、「ジョン・マルコヴィッチが(中略)斧を片手に歩き回っている」ような映画はたくさんあるが、これはコーエン兄弟印の「ジョン・マルコヴィッチが(以下略)」映画である。素晴らしい。

 ナチュラルという点では、ティルダ・スウィントンもナチュラルに怖かった。終盤の仕事中の彼女は、さながら白い魔女だ。
 マルコヴィッチはいつもどおり見るからに異常だが、登場人物たちの中で実は一番病んでいるのは、ジョージ・クルーニーだろう。セックス中毒で陰謀パラノイアなのはまだしも、自宅の地下であんなものを妙に器用に製作し、それを愛人ばかりか妻にも見せるつもりだったらしいのである。逆に、一番社会的にまともで、かつ巧く世渡りしているのは、彼の妻だなあ。

 エンドクレジットに流れる「CIAマン」もまた素晴らしかった。阿呆で。

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ルイセンコ主義

 ルイセンコ主義という疑似科学が、かつてソ連を支配した。農民出身の植物品種改良家トロフィム・ルイセンコ(1898~1976)が唱えたもので、彼は己の似非理論に独学の育種家ミチューリン(1855~1935)の名を冠し、「ミチューリン主義」と名付けたが、国外では「ルイセンコ学説」の名のほうで知られていたようだ。
「ルイセンコ主義」の名称はあまり使われないが、「学説」とは到底呼べぬ代物なので、『ミカイールの階梯』ではこちらを使う。

 その内容は、一言で言えば獲得形質遺伝説である。しかしこれはラマルクの流れを汲むというよりは、単に頭が悪い上に学がなくてメンデル遺伝学を理解できない男の妄言に過ぎない。
 彼が台頭するきっかけとなったのは、1928年に発表した「春化処理」である。秋撒き小麦の種子を湿らせて冷蔵しておくと春撒き小麦になる、すなわち厳しい「環境」によって、春撒き小麦の形質を「獲得」するというのである。
 こんなたわ言が罷り通ったのは、ルイセンコとその主張がスターリンに気に入られたからだが、その背景にあったのは、ソ連の社会に通底する「小難しい理論への反発」「西側世界への反発」だと言える。

 1930年前後、「ブルジョア科学」を排斥し「プロレタリア科学」を打ち立てよう、という動きが、若い科学者たちの間で起こっていた。優れた業績を上げてきた多くの研究者が、「ブルジョア的」「観念論的」「反マルクス主義的」だとして糾弾された。
 この動きによって、メンデル遺伝学とラマルク主義の対立も激化した。どちらも自分たちこそがマルクス主義と弁証法的唯物論に合致する唯一のものだと主張したが、形勢はラマルク主義者たちに有利だった。

 DNAも発見されていない当時では、メンデル遺伝学は「形式主義的」「観念論的」という批判を受け易かった。さらに、無目的な突然変異を通してのろのろと進む進化、という概念は、門外漢には魅力がないものに映った。新しい条件や個人の努力によって急速に変わることができる、という獲得形質遺伝説のほうが遥かに革命の理念に相応しい。
 国際的にはラマルク主義がますます形勢不利になっていくことも、ソ連人民のブルジョア的なもの、西側的なものへの反発を刺激した。

 このような状況に、ルイセンコは乗じたのである。「春化処理」の論文は、学会では多数の批判を浴びたにもかかわらず、ちょうど秋撒き小麦が大規模な冷害を蒙ったウクライナで、大規模な実験が行われることがソ連邦人民委員部によって決定された。
 結果は大失敗だったが、農民たちがきちんと手順を守らなかったからだ、ということになり、大勢が収容所送りになった。以後、反対者との論争に政治的デマゴギーを用いるのがルイセンコの常套手段となった。理論の問題を階級の敵との闘争にすり替えたのである。

 そうして、多くの優れた研究者たちが弾圧、粛清された。メンデル遺伝学者たちは、「遺伝子などという存在しないものを信じる観念論者」とされ、「メンデル主義者」は「ブルジョア」「反動分子」などと同等の罵り言葉となった。ショウジョバエ(遺伝学の実験ではお馴染み)を飼うことは、反動的行為とされた。

 1950年の論文では、ルイセンコは生物種は環境によって如何様にも変わり得るという妄言をさらに推し進めて、雑草というものは生育環境が不適切だったために穀物から変化したものだ、とまで述べている。その論拠というのが、収穫した大麦に雑草が混じっていたから、であった。

 遺伝学、農業学以外の分野にも「ブルジョア科学」を撲滅する動きは続いていた。生物学全般、医学、物理学、化学、工学など。53年にスターリンが死ぬと、数年でこれらの分野は正常な軌道に立ち戻ったが、ソ連の科学は相当な遅れを蒙った。
 そしてルイセンコ主義は、スターリンの死後もソ連の生物学を牛耳り続けていた。フルシチョフもまたルイセンコ主義を気に入っていたからである。64年にフルシチョフが退陣すると、さすがに持ち堪えられなくなり、65年にルイセンコは失脚し、遺伝学研究所長の地位を失った。

《HISTORIA》シリーズでは、ソ連の科学全般はこの遅れを結局取り戻せず、ひいてはソ連自体の滅亡に繋がることになっている。そして、遺伝子管理局の支配が崩壊すると、ルイセンコ主義が息を吹き返すのである。
 キルケー・ウイルスによって、遺伝子は非常に変異し易い不安定なものになり、またそれまでの遺伝子操作技術が通用しなくなった。ルイセンコ主義の主張が罷り通る余地が生まれたのである。

「資本主義陣営」の著者たちによる文献では、ルイセンコ主義はルイセンコの失脚とともに滅んだかに書かれている。だがメドヴェジェフ(『ルイセンコ学説の興亡』など)によると、少なくとも70年代の段階ではルイセンコ主義は息の根を止められてはいない。なぜなら、ルイセンコとその追随者たちの多くは国家から功績を称えられているので、それを否定することは国家権威の否定になりかねないからなのであった。
『ミカイールの階梯』では中央アジア共和国で独裁者が死去した後、これと同じ状況が新ルイセンコ主義に起こる。

 ルイセンコ主義者たちは、スペンサー式の「社会進化論」(生存闘争が進化を促す)をも激しく攻撃した。彼らは自分たちこそ正当なダーウィン主義者であると見做していたのだ。
 どういうわけか、ロシア人たちは昔からダーウィンとダーウィン進化論が大好きで、欧米の連中はダーウィン進化論を曲解しており、自分たちこそが正しい理解者なのだと信じているのである。これは右にも左にも共通の傾向であり、そしてそのままソ連に受け継がれたのであった。
 そういう意味では、ルイセンコは帝政ロシア以来の伝統を受け継いでいたのだと言える。

関連記事: 「大災厄」 「マフディ教団と中央アジア共和国」  「グワルディア」 

参考記事: 「ロシアのダーウィニストたち」 「ボグダーノフ『赤い星』」

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ボグダーノフ『赤い星』

 カテゴリー「思い出し鑑賞記」は、数ヶ月以上前に鑑賞したものの感想です。

『赤い星』 ボグダーノフ 大宅壮一・訳 新潮社 1926(1908)

 国会図書館にて、マイクロフィッシュ保存されているものを拡大鏡で読む。革命前に表舞台を去った人物の、しかもSFだから、聞いたこともないような出版社から出ているのだろうと思ったら、新潮社だったので少々驚く。1926年当時でも、けっこう大手だったよな。
 しかも翻訳者が大宅壮一である。えーと、大宅壮一って、あの大宅壮一? 国会図書館ホームページの書誌表示では生没年が1900-1970となっていて、あの大宅壮一と一致するので本人のようだ。ドイツ語からの重訳。実は有名だったんだろうか、『赤い星』。

 ロシアの若き革命家レオニードが、メンニという名の外国人と会うのだが、実はメンニは火星人である。レオニードを人類の代表として適格と見込んで、火星に連れて行く。火星人たちは世界各地に潜入していたのだが、ロシアが最も前途有望な国なのだそうである。ああそうですか。

 ボグダーノフのもう一つのSF小説『技師メンニ』は、『ロシア・ソビエトSF傑作選(上)』(早川書房 深見弾・訳)で読める。『赤い星』で主人公を火星に導く(だけの)役柄のメンニが延々と思想を語っているだけである。同じ思想小説でも、先に書かれた『赤い星』のほうは物語や設定のおもしろさがある。

 主人公はネッティという名の若い火星人に惹かれる。ネッティは女性なのだが、火星人たちは外見から男女の区別がほとんど付かないため、主人公は当初ネッティを男性だと思い、なぜ「彼」にこうも惹かれるのだろうと思い悩む(その辺、あまり突っ込んでないが)。
 ネッティが女性だと判明すると、一気に恋愛に発展するが、すぐに火星人の恋愛観や貞操観が地球人(当時のロシア人)に比べてかなり自由であることを知り、嫉妬に苦しむ。wikiによると、このくだりはSFに於けるフェミニズム的主題の走りでもあるらしい。

 火星はユートピア(完璧ではないものの)として描かれ、労働形態や育児方法は「理想的」なものとして描かれる。それが1920年代にソ連で行われた実験的な試みとけっこう合致していたりして、ボグダーノフの影響力の大きさを感じさせる。
 結局、それらの試みは頓挫するわけだが、ボグダーノフ自身も1928年、『赤い星』で描いた「輸血による不老法」を自分を実験台にして行おうとして、それが元で死んでいる。なんつーか、偉大なる奇人だね。

 本文中、三箇所ほど伏字があった。一つは「彼等の間には×隊と証する訓練された人々から成り立ってゐる有力な虐殺團があります。」(地球の制度について)という一文で、伏せられているのは「軍」であることは容易に判るが、ほかは「つまり地球では暴力が××の假面を被つてゐます。」みたいに二字の語が二字とも伏せられてるんで、推測できひんかった。「政府」とかかなあ。

参考記事: 「ロシアのダーウィニストたち」 

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祖先の物語

『祖先の物語――ドーキンスの生命史』上下巻 リチャード・ドーキンス 垂水雄二・訳 小学館 2006(04) 

 なんで今まで読まなかったかと言うと、多作な科学者の本は後へ行くほど「はずれ」が多い、という経験則からなのであった。以前の著作との重複が多かったり、或いは仮説とも呼べない単なる思い付きをだらだら並べたりするだけだったり。
 しかし『ミカイールの階梯』執筆中に読んだ資料の中に、本書から引用がされていたので、これは読んだほうがいいかもしれん、と思いつつ、時間がなくてその時は見送ったのであった。

 で、読んでみましたらば、大変充実した内容でございました。幸いにして(とか言うな)『ミカイールの階梯』のネタに不都合なものはなかったけど。
 まあいろいろ余談雑談も多いんだけど、おもしろいものもある。例えば、2004年当時、ブレア首相は自国のメディアから「ブッシュのプードル」と呼ばれていたそうである。ブッシュと並んで歩いている時は、「カウボーイ気取りの」歩き方まで真似していたことが指摘されているとか。
 しかしこれだけならおもしろかったんだが、実際には何頁にもわたる「ミーム」ネタの一部として紹介されているのであった。ミームの話になると、途端に飲み屋で与太を飛ばす親父と化すな、ドーキンスは。

 以下、少々気持ち悪い話なので御注意。

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 北米に、「ホシハナモグラ」という動物がいる。ユーラシアの普通のモグラの仲間で、普通のモグラと同じようにシャベル状の手を持ち、地中生活をするんだが、少々(いや非常に)特殊な鼻を持っている。普通のモグラと同じ尖った鼻面の先の小さな二つの鼻孔の周囲に、イソギンチャク状の触手が11本ずつ、計22本ついているのである。「ホシハナ」という名は、その形状に由来する。

 上巻355頁に、ホシハナモグラを真正面から捉えた写真が掲載されている。最初にそれを見た時、私はそれがなんなのか理解できず、本文を読み、再び写真を見て、「鼻孔の周りに生えた触手」であることを認識した瞬間、「いっっっぎゃあああああああっ!!!」と絶叫しそうになった。叫びはせんかったが、震え上がって目を背けた。
 ううううううう、きもい、きもい、きもい。ほんとにこんな生物が存在するのか。「鼻行類」とかと一緒じゃないのか。怖いよ怖いよ。
「触手」の名のとおり、触覚が非常に発達している(あらゆる哺乳類のうちで最も)のだそうである。

「怖いもの見たさ」の人は、本書を読むか、ぐぐって画像を探すかしてください。責任は取りません。

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テングリ大山系一帯

『ミカイールの階梯』の舞台。

 テングリ大山系とは天山山脈のことだが、「天山」はモンゴル語の呼称「テングリ・オーラ」の漢訳であり、作中ではこの地から中国系勢力は撤退してしまっているので、本来の「テングリ」の呼称が復活している(「テングリ」という言葉はトルコ系言語にもある)。また、天山山脈は幾つもの山脈の複合体であり、「大山系」と呼ぶほうが適切である。

 ただし、『ミカイールの階梯』の舞台はテングリ大山系(天山山脈)の西部(旧ソ連領)が含まれていない。天山山脈東部とその南北の盆地(タリム盆地とジュンガル盆地)は、現代の区分だと新疆ウイグル自治区にそっくり該当するのだが、文明崩壊後の25世紀の作中に於いては、もちろん適切な名称ではない。
 ちなみに「新疆」とは「新しい境界」「新しい領土」といった意味で、18世紀にこの地を支配していたジュンガル帝国が清朝に滅ぼされ、領土に組み込まれた時からの名称である。
 新疆ウイグル自治区の呼称はほかに「東トルキスタン」があるが、これも以下の理由によって本作に於いては適切ではない。

 本作というか、《HISTORIA》シリーズの設定では、22世紀末から始まったウイルス禍によって、まずヨーロッパで大飢饉が起き、大量の難民が世界各地に離散した。それによって、さまざまな混乱、紛争がもたらされた。
 ユーラシアでは、バルカン半島、西トルキスタン(旧ソ連中央アジア)、さらには西アジアの人々が、ヨーロッパ難民に押し出される形で西から東へと玉突き状に民族大移動が起きた。
その結果、テングリ大山系一帯、特に南部と西部では、イラン語系民族が多数を占めるようになっており、「トルコ人の地=トルキスタン」という名称は無効になっているのである(同様の理由で、「ウイグル人の地=ウイグリスタン」も適切ではない)。
 なお、割合としては少ないがヨーロッパからの難民もおり、ロシア・スラヴ系が中心である。

 ロシア語では、スレードニャヤ・アジアСрдняя Азияとツェントラリナヤ・アジアЦентрарьная Азияという二つの語があり、どちらも訳せば「中央アジア」となるが、スレードニャヤ・アジアのほうは西トルキスタン、ツェントラリナヤ・アジアは東トルキスタンに相当する。
 つまり、「ツェントラリナヤ・アジア」に相当する日本語があれば、なんの問題もなかったんだけどね。ないからしょうがない。「テングリ大山系一帯」とでも呼ぶしかないのであった。

 この「テングリ大山系一帯」で対立する二つの勢力、中央アジア共和国とマフディ教団のうち、前者の支配層はロシア系難民の子孫であり、無論、「中央アジア」は「ツェントラリナヤ・アジア」である。

関連記事: 「大災厄」 「ミカイリー一族」 「マフディ教団と中央アジア共和国」 

       「25世紀中央アジアの食糧事情」 

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『ミカイールの階梯』発売

 風邪をひいて苦しんでいる間に、『ミカイールの階梯』が発売されていました。都内では昨日から書店に並んでいたようですね。ということをさっき知る著者……(25日発売だったのが予定が早まったことを知らなかった)。

 今回もグラフィックデザイナーの妹Ⅱ(Yoko)が、巻頭の地図作成を担当してくれました。同居しているので、打ち合わせは便利です。家内手工業。

 もう一人の妹(妹Ⅰ)は、姪っ子のママなのですが、先日、引越しをしたので手伝いにいったら、ダンボールから私があげた『グアルディア』(Jコレ版)が出てきた。頁がべこべこになっている。
 それを見た瞬間、妹Ⅰから当時もらったメールの記憶がまざまざと蘇りました。姪(当時1歳)が『グアルディア』を気に入って、べろべろ舐めている、という……。

 まあそれでも妹Ⅰは『グアルディア』を読了してくれたのですが、なお彼女は「SF」を「スペース・ファンタジー」の略だと思っていやがる。「『グアルディア』には宇宙出てきてないやん」と抗議すると、「え、でもなんか降りてくるじゃん、宇宙から」。いや確かに何かは降りてきますが。

 ほかにも妹Ⅰは、『グアルディア』を買って読むと言ってくれた友人に「高いからやめときなよ、図書館で借りなよ」と答えた経歴もあるのですが、今回は勤め先の中華レストランの同僚(中国人、日本語の小説を読めるほどの日本語力はない)に、『ミカイールの階梯』の宣伝をしてくれたそうです。
「陳(仮)さん、今度うちのお姉ちゃんが中国を舞台にしたSFを出すんだって。中国にUFOが降りてきて、中国人を殺しまくるんだってさ」

 そんな話ちゃうわ。

『ミカイールの階梯』(上下巻、ハヤカワJコレクションシリーズ)は、天山山脈一帯(現在の中国新疆ウイグル自治区)が舞台ですが、文明崩壊後の25世紀、ロシア人政権と神秘主義教団との対立を軸にするSF叙事詩です。

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2009年度佐藤亜紀明治大学特別講義第1回

 三年目。前年度は皆勤できたんだけど最後の回(12月、5回目)はブログにまとめを上げられなかったんだよな。『ミカイール』が追い込みに入ってて。

 で、今年度第1回。御茶ノ水に行くのはちょっと久しぶりだったんで、所要時間を忘れていて5分遅れる。講義はすでに始まっている。そしてペンを忘れたことに気がつく。誰かに借りてる時間もない。どうしてもメモは取りたかったので、アイライン(茶色)を用いましよ。書きにくいんでちゃんとしたメモじゃない上に、判読も困難……

 スピルバーグ作品に於ける「顔」の問題について。「顔」を特異な撮り方をするようになったのは、『シンドラーのリスト』からだと先生は思うのだが、人によっては(例えば蓮実重彦)『アミスタッド』からだとする。
『アミスタッド』は、前半はおもしろいのだそうである。反乱を起こす黒人たちの「かっこよさ」は、植民地主義に於けるかっこよさ(ドラクロワなど)と同質なのだけれど、にもかかわらず「人間の尊厳」のただならぬ雰囲気を出すことに成功している。

『宇宙戦争』について。なぜアメリカ人にとって、9.11はそんなにもショッキングだったのか。

「正しい方法さえ用いれば、世界は操作できる」という信念(「正しい方法」を用いれば勝ち組で、用いないと負け組になる)が崩壊したからだが、この信念の提唱者はアイン・ランドである。亡命ロシア人である彼女が、社会主義と対決し、また(移民にありがちなことだが移民先の)アメリカの価値観に過剰に適応した結果が、この信念なのである。

 という話を聞いた翌日の17日、流し見していたNHKスペシャル「マネー資本主義 第二回」でアイン・ランドの名が出てきたんで吹いた。米国FRB(連邦準備制度理事会)元議長グリーンスパンが若き日に「運命的な出会い」をした哲学者、として紹介されてましたよ。出会い、って著作にだが。

 番組ではアイン・ランドの『水源』を「聖書に次いでアメリカで影響力を持つ本」とか言ってたが、佐藤先生によると、米国には「アイン・ランド協会」なるものがあって、全米の高校にランドの小説をせっせとばら撒いているのだそうな。で、小説なんか全然読まないガキどもが、課題図書として無理やり読まされる、と。

 社会主義者のアメリカ人で、アイン・ランドとは同時代だが異なる立場にいたはずの文芸評論家エドマンド・ウィルソンも、まったく同じ信念を抱いていた。ナボコフと親交があって、アンチ・カフカだったという。『小説のストラテジー』の最終章で取り上げられてる人だね。

 ウィルソンにとって、なぜカフカが駄目かというと、フロンティアに挑戦していない「意気地なし」だからである。文豪というものは国民に対して手本にならなければならない存在だが、カフカは誰に対しても手本にならないからである。
 つまり、レーニンがすべてを解決してくれるような作品(シュワルツネッガーのようなレーニン)を生み出すことを、文学の役割と見做しているのである。

『宇宙戦争』は、「人間から顔が剥奪される瞬間」を描いた作品だが、当時(2005)はまだそれほど顕著ではなかった、「もう一つのアメリカの理想の崩壊」も描いている。すなわち、格差社会である。
 冒頭、トム・クルーズとミランダ・オットーの離婚の原因は、階級差であったことが頻々と示される。弁護士の母親と一緒に暮らしている子供たちは、すでに父親とは別世界の人間となっている。高校生の息子は宿題でアルジェリア独立戦争についてのレポートを書き、小学生の娘はアレルギーでピーナツバターが食べられない。港湾労働者の父親は、「アルジェリア独立戦争」や「ピーナツバターが食べられない人間」が存在しない世界の住人なのである(こんな格差のある男女が結ばれたことが、かつては「アメリカの理想」だったのだろう)。

『トゥモロー・ワールド』(06)の序盤では、店のショーウィンドがなんの前触れもなしに爆破される。それまでの映画では、サスペンスを煽るために爆発の予告がさりげなくなされていたものである(へたくそな場合は「さりげなく」ではなく)。
 しかし、現実のテロ(テロに限らず事故全般も)は前触れなどないものである。今までもずっとそうだった。「前触れのある爆発」という表現が無効になったのである。

 このような状況で、どのような表現が可能となるのだろうか。

 例えばローマ帝国の彫像。

200pxstatueaugustus20080218002014  左と右の像を見比べて、右を「ローマが衰退した時代だから芸術も衰退したのだ」(=へたくそ)と捉えてしまえば、そのまま前を素通りしてしまうだろう。この像を「見た」ことにはならない。

 なぜこのような表現になったのか、当時、何が求められていたのか。
「この世のものならぬ何か」を作り出そうとしたから、このような表現になったのである。

 様式によって視点を変えなければならない、ということなのである。視点とは、世界への意味付けの仕方の違いである。無論、その作品が作られた当時の視点に立つことは無理であるにしても。
 一つの世界の見方(様式)が期限切れになったところで、新しい見方が出てくる。

 ほかにもハリー・ポッターの国籍問題(「二重国籍」なのか?)とかいろいろおもしろい話があったんだけど、いよいよアイラインの芯が潰れて判読不能、筆記不能。次はペンを忘れませんよ……

 様式について、以下のような質問をしました。

 脳関係の研究者は、芸術の様式を認知論と結びつけて説くことがある。文化によって様式が異なるのは認識のフレームが違うから、というのである。
 例えば、あるアフリカの部族に紙に描かれた絵(西洋絵画)を見せて、「これはなんだと思う?」と尋ねると、まず触ってみて、くしゃくしゃにして音を聞き、ちぎって口に入れ、「色の付いた紙だ」と答えた。彼らの文化では、絵とは布に描いてあるものであり、「紙に描かれた絵」は、絵として認識できないのである。
 また、密林に住む部族は「遠近感」というものを理解できない。見通しの悪い環境に住んでいるので、「遠くにあるものは小さく見える」ということを知らないし理解できないのである。

 或いは、ピカソがある時、列車のコンパートメントで見ず知らずの男と乗り合わせた。男は相手がピカソだと知ると、「どうして普通に描かないんですか」と尋ねた。ピカソが「普通とは?」と問い返すと、男は「こんなふうにです」と一枚の写真を取り出した。「妻です」
 ピカソは写真を手に取って眺め、言った。「ずいぶん小さくて平べったいんですね」

 こういう論は、おもしろいけど少々単純化しすぎているような気がするので、先生はどう思いますか、と尋ねたのでした。
 先生の答えは、フレームの問題として論じることは可能でしょう、というものであった。芸術評論の畑から、こういう脳科学の立場へのアプローチがもっとあったらおもしろいと思うんだけどなあ。さすがに、先生に「やってください」とは言えなかったのであった。もちろん、自分でやる気もないけどさ(小説のネタにすることはあるかもしれない)。

2008年度講義第一回 

2009年度講義第二回 

特別講義INDEX

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それはヒト固有の能力である

 SFセミナー2009:「仁木稔とHISTORIAシリーズを語る」より

 冒頭、用意した以下のレジュメを読み上げました。

         * * * *

 人間の脳は、「隠された意味」を発見した時に快感を得るようにできている。快感は「報酬」であり、意味を見出した時のみならず、見出すまでの過程にも快感を覚える(その結果、意味のないものにまで意味を見出そうとする)。
「隠された意味」を見出そうとするのは、紛れもなくヒト特有の能力である。敢えてナンセンスな作品を生み出そうとする行為すら、結局はその能力の延長線上にある。

『ヒトはいかにして人となったか 言語と脳の共進化』(テレンス・W・ディーコン 金子隆芳・訳 新曜社 1999 原書:the symbolic species 1997)より
「脳は事件をモデル化し予測するシステムを進化させたが、記号能力の進化はこの能力を他の種に於ける以上に特に増幅したというより、むしろいつの間にか倒錯的モデルの傾向を生じた。記号能力はそのモデルとする対象に記号性を読み込みすぎる傾向をもたらした。
 サバンは草原の花の咲き乱れを見ずに247輪の花を見る。同様に、我々は物的プロセス、事故、繁殖生物、複雑な計画、欲望、必要を生み出す生物学的情報プロセッサーのただの世界を見ない。代わりに、無限の知恵の創造物、聖なるプランの成果、創造者の子供たち、善と悪との葛藤を見る。
 我々は偶然的なものにも、しつこい疑問を持つ。偶然の一致はただの偶然の一致ではなく、何かのサインかもしれない。何を見ても、ヒトは目的を見ようとする。…………

 …………明らかにヒトは意味のある世界に意味のある生活をするのが快適である。そうでないものは不安である。」

 ちなみにこの本は、『ラ・イストリア』の参考資料の一つ。別に私はディーコンの主張や、「隠された意味」を見出した時に反応する神経基盤(報酬系)が存在するとか、本気で信じているわけではない。まあ、半分くらいは信じてるかもしれない。

 ともかく私は、読者がこの「深読みする能力」を使ってこそ楽しめる作品を書いている。もちろん、「隠す」ための仕掛けもたくさん用意してある。

 漫画を、漫画だからというだけの理由で馬鹿にする人は少ない(そういう人こそ見識を疑われる)。個々の作品として評価する土壌があり、読者の深読み能力を遺憾なく発揮させる作品も多数ある。
 しかし「漫画的な要素を持った小説」(いわゆるライトノベルに限らない。広義にはSFすら含まれるだろう)は、深読み能力を必要としない「ジャンル」として一括りにされる傾向が強い。
 アニメ『SPEED GRAPHER』のノベライズ第一巻で、ごく短いオリジナルのシーンを挿入した(主人公とヒロインが無言で歩いている。時折、視線を交わすが、互いに何も言うことができない)。
 編集者に、「もっと台詞や説明を入れないと、読者には理解できない」と苦言を呈された。しかし漫画やアニメで同様のシーンがあったら、読者・視聴者はさまざまな意味を読み取るはず。

 このような作り手側と受け手側双方の思い込みは、深読み能力の発揮を妨げる。私が作品に殊更「漫画的な要素」を取り入れるのは、もちろんそういう要素が好きだからなのではあるが、読者の深読み能力を試す仕掛けであり、そういった表面的なものに惑わされない読者を求めているからである。
 それが、ノベライズを引き受けた理由の一つでもある。思い込みに囚われずに深読み能力を使ってノベライズを読んでくれる人を、私は無条件で信頼します。

「感情移入」も、ヒト固有の能力である(おそらく起源は深読み能力より古い)。フィクションに於いては通常、作る側も受ける側もこの共感能力(による情動の高揚)のほうが、深読み能力よりも重視される。人によっては、「泣ける」「泣けない」を絶対の物差しとしさえする。
 私は、共感能力による情動の高揚は、深読みの妨げになる(ことがままある)と思っているので、あまり重視はしていない。軽視したり無視したりするつもりもないが。読者が簡単に「感情移入」して「感動」してしまわないよう、ワンクッション挟むようにしている。これも、編集者に嫌がられることの一つ。
 しかし、「隠された意味」を発見した時に快感があるのと同様、判り易いものより判り難いものに共感できた時のほうが感動も大きいのではないかと思う(したがって、安易に「感情移入できなかった」「泣けなかった」とか言う人は、共感能力にも問題があるのかもしれない)。その辺りを追究する気はないが。

         * * * *

……てなことを語った後は、パネリストの岡和田晃氏と伊東総氏、および来場者の方々の質問に答えて約四時間。最後は仁木稔作品とはなんの関係もない雑談で終わりました。いや、楽しい時間でした。

関連記事: 「ヒストリア」 「語り手、および文体」 「レズヴァーン・ミカイリー」 

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『ミカイールの階梯』表紙イラスト

 今月25日刊行の『ミカイールの階梯』上下(早川書房 Jコレクション)の表紙は、藤原ヨウコウ氏に描いていただきました。

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   クリックすると、少し拡大します。御覧のとおり、今回も群像劇です……(これまで以上に群像劇と言うべきか)

 今回のヒロインは二人で、上巻(左側)の黒髪の女の子と下巻(右側)の赤毛の女の子です。

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 私は映像を頭の中で「見て」、それを文章にすることで小説を書いています。視覚的な場面でない、作品世界の背景等についての記述でも、発芽した植物から枝葉が伸びていくようなイメージで文章を展開していきます。人によっては映像を「見る」ことなしに小説を書くそうですが。少なくとも、数年前知り合った小説家志望の男性(当時20代後半)は映像は見ないと言っていました。

 そんなわけで私はキャラクターたちの容姿や服装も、かなり具体的に「見て」います(キャラクターによっては、意識して具体的な容姿を「見ない」ようにすることもありますが)。
 そうしたキャラクターたちの姿をイラストレーターの方々に実際に絵にしていただくのは、本が出る際の大きな喜びの一つです。

 どれだけ私が「見た」絵に忠実か、ということではありません。私が「見た」キャラクターたちを文章にし、そこからイラストレーター各氏がどのような「絵」を「見て」、それをさらに実際に描く。そうした過程を経て、最終的にどのようなイラストが出来上がるのか。
 それによって、作品という世界がさらに広がる。そのことが大いなる喜びなのであります。

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スラムドッグ$ミリオネア

 貧困や戦争といった状況に置かれた人たちを「逞しく生きている」とか評する言説が嫌いである。そら逞しいはずだよ、逞しくない人たちはとっくに死んじゃってるんだから! というのは措いといても、「豊かさの中で失われた本当の人生」云々、「子供たちの瞳の輝き」云々と発言する人は、それが上からの目線であり、そうした状況の肯定や賞賛になりかねないことを自覚すべきだろう。

 てなわけで、単に舞台がインドだからってだけじゃなくて、作りが巧いからである、「御都合主義」という言葉が批判だと思ってる人たちの批判を成立させないほどの力をこの作品が持っているのは。

 しかし、登場するすべての人物と価値観の中で、ぶっちぎりに「最強」で「正しい」のは、全身うんこまみれの少年に平然とサインしてあげる映画スターである。

 最後だけマサラ・ムービーにするなら、駅の群衆だけじゃなくて、クイズ番組の司会者とスタッフ、観客、テレビの視聴者たちにも踊らせてほしかったけどな。
 アカデミーを受賞した作曲のラフマーンは、『ムトゥ 踊るマハラジャ』の人。サントラ買おうっと(『ムトゥ』のサントラは、もちろん持ってるとも)。

『ロボット』感想

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シューテム・アップ

 映画の感想を書く際、ほぼ必ず俳優の容姿について言及しているような気がする。見た目は重要である。で、とにかく顔が嫌い、という役者がいて、かねてよりメル・ギブソン(理由:でかいから)とトム・ハンクス(理由:ゴムのお面みたいで気持ち悪い)の両人であったのだが、近年、クライヴ・オーウェンが加わった。

 メル・ギブソンは『ブレイブ・ハート』以来、顔、演技ともに見るのも嫌だが、トム・ハンクスのほうは演技はそれほど嫌いではない。なので、テレビ画面で見る分には耐えられるし、髭付きだった『レディ・キラーズ』では、トム・ハンクスに見えなかったので大画面でも平気であった(役柄自体もトム・ハンクスらしくなく、大いに結構であった)。

 さて、クライヴ・オーウェンなんだが、なんか知らんがあの顔を見るとイラつく。たぶん、全体的にしけたツラしてんのに、唇が妙にムニっとしてるのがイラつくのであろう。
 しかしこの『シューテム・アップ』は、「クライヴ・オーウェンにしては良い」という評判を聞いたのと、何よりモニカ・ベルッチが出ているために観てみたのである。

 感想:しけたツラを活かしたしけた雰囲気でアクションをこなすクライヴ・オーウェンは、確かになかなかよかった。使いどころがよかったのであろう。
 何より、作品そのもののテンポがいい。「その場にある物をなんでも使うアクション」は香港映画っぽいと思ったら、監督はジョン・ウーのファンだそうである。

 プロットは単純だが、ポール・ジアマッティ演じる敵(元FBIのプロファイラー)が探り出したクライヴ・オーウェンの湿っぽい過去が、当たってるのかどうか最後まで不明のままだったりと、以外に細かいところに気が配られている(「細かいところまで」ではないけどな)。

 モニカ・ベルッチ(『映画秘宝』に倣って「ベルッチ様」と呼びたい)は、さすがに少々フェイスラインが崩れてきており、そのため「場末の娼婦」役が似合っている。少し前までだったら、綺麗すぎたからね。いつもよりイタリア訛りが強めで、それも素敵でございました。

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ウォンテッド

 ジェームズ・マカヴォイ演じるへたれた兄ちゃんが、へたれた日常を送っていると、謎の美女アンジェリーナ・ジョリーに拉致されて、モーガン・フリーマンに銃を突き付けられて蠅の羽を撃てと命じられる。

 蒸発した父親が実は凄腕の暗殺者で、組織の裏切り者に殺されたから仇を討てとか言われていきなり信じてまう主人公はどうかと思うが、まあ実際蠅の羽を撃てちゃったから信じるしかないと言ったところか。それ以上に、彼のそれまでの荒涼とした日常の描写がなかなか凄まじいんで、せやったら暗殺者のほうがかっこいいよね、という説得力はある。

 というか、謎の美女がアンジェリーナ・ジョリーで、組織のボスがモーガン・フリーマンときたら、これはもう信じるよりほかないとでも言うべきか。

 アンジェリーナ・ジョリーが老けメイク(監督の趣味?)で、何か異様な迫力だ。演技力がどうのというレベルをもはや超越している。
 トーマス・クレッチマンは、ドイツものだと善いナチ(『戦場のピアニスト』)とか斜に構えたナチ(『ヒトラー最後の12日間』『ワルキューレ』)とか、父親の罪に苦悩するナチの息子(『マイ・ファーザー』)とかになるわけだけど、ハリウッドだとやっぱり悪人顔ってことになってまうのね。
『ナイト・ウォッチ』シリーズの主役(コンスタンチン・ハベンスキー)が端役で出張。

 ネタばれとかどうでもいいような内容なんだけど、一応以下ネタばれ注意。

 暗殺の正当化にどうにも賛同できないのは措いといても、「1人を殺して1000人を救う」というわりには巻き添えにする人や物が多すぎるのが気になって仕方なかったので、実は悪の組織でした、という展開はまあまあよかった。
 ここでもジェームズ・マカヴォイはあっさり信じすぎだが(トーマス・クレッチマンだし、真相を告げるのがテレンス・スタンプであるにしても)、今さらもういいや。

 モーガン・フリーマンが組織を私物化していたのは、「運命の織機」によって自分が暗殺のターゲットだと予言されたからだが、ハリウッドのお約束では「運命に逆らう」のは是とされるよな。主人公は「運命に従う」を是としたってことか? そうすっと、最後のモノローグと矛盾するんだが。たぶん、そこまで考えて作ってないんだろうな。

 特殊効果は『ナイト・ウォッチ』シリーズの時よりはすっきりしているし、丁寧に作っているようでもある。洗練された、ということなのだろう。

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ヒトラーの贋札

 第二次大戦中、ドイツが英米の経済撹乱を目論む。で、強制収容所でユダヤ人たちに贋札作りをさせるのである。

 印刷工や金融業者など、技能や知識を持った者たちが各地の収容所から拾い集められる。
 贋札工場のユダヤ人たちは、一般囚人に比べれば天国のような生活を与えられる。食事は充分だし、ベッドはすし詰め状態だが柔らかくて清潔だし、狭いながらも運動場まであり、日曜は休日でシャワーが浴びられる。最低限の「健康で文化的な生活」である。

 彼らの仕事を監督するのは親衛隊員とはいえ「人道的」な人物で(自称元コミュニスト)、仕事場では常に美しい音楽が流れている(主にカンツォーネである)。
 しかし音楽は外の物音(一般囚人の悲鳴と看守の怒声、そして銃声)を掻き消すためのものであり、彼らもまた贋札作りに失敗すれば命はない。

 以下、ネタばれ。

 ポンド札の偽造は大成功し、贋札作りたちの首は(文字どおり)繋がるが、ドル札偽造の段階になるとアドルフ・ブルガーという若い印刷工がサボタージュを行う。
 ブルガーは妻をアウシュビッツで殺されている。旅券偽造担当にされた男は、「見本」として送られてきた本物の旅券の中に、自分の子供たちのものを見つけてしまう。壁の外では一般囚人たちが日々殺されていく。

 ブルガーのサボタージュに仲間たちは気づいていながら密告はせず(彼を非難はするが)、ドル札偽造を数ヶ月間遅らせたことで、彼らはドイツの敗北にいくらか貢献することができた。
 そのため「美談」ということになり、特にブルガーは賞賛されることになるのだが、もし彼ら全員もしくは幾人かだけでも殺されていたら、或いはブルガーが密告されていたらどうなっただろう。

 原作はブルガーの著書だそうである。彼ではなく、贋札工房の「主任」サロモン・ソロヴィッチ(娑婆で贋札作りを生業にしていた)の視点にして成功していると思う。親衛隊少佐がサロモンを逮捕した捜査官だった、という「因縁」は少々やりすぎのような気もするが。
 この少佐がまた、偽善(自覚)と独善(無自覚)が絶妙に入り混じった奴でなあ。こういうドイツ人は確実に何%かはいたんだろうなあ。

 戦後、サロモンはカジノで一人の若い女と行きずりの関係を持つんだが、どうも見覚えがあるような気がすると思ったら、ドロレス・チャップリンだった。いや、本人は初めて見たんだが、笑うと口許が叔母さんとお祖父さんによく似てるんだわ。

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ホット・ファズ

 邦題(副題)はめんどくさいから省略。
 ロンドンの有能な警察官が、有能すぎるゆえに上司にも同僚にも疎まれて田舎町に飛ばされる。一見平和で退屈なその町には、実は恐るべき陰謀が秘められていたのであった。

 コメディでありながら昨今の風潮への批判になってるとかそういうことは、私が言わなくても誰かが言うだろうから言わない。とにかく、小ネタがものすごく多くて、しかもそれらをいちいち丁寧に回収するのである。終盤になってくるとさすがに少々くどい気がしてきたが、とにかく全体としては非常におもしろかった。

 いろんな映画からの引用(パロディ)が多いらしい、ということは観ていて察せられたが、実際に元ネタがわかったのは、劇中でわざわざ説明してくれている『ハート・ブルー』のほかは『ロミオとジュリエット』(ディカプリオの)と『わらの犬』だけだった。あと、日本の怪獣映画。ポリスアクションものとホラーが多そうだけど、どっちも観ないジャンルだからな。ま、元ネタがわかんなくても充分楽しめました。
 

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屋久島旅行

 二泊三日で家族と屋久島へ行く。父、母、妹Ⅰ、妹Ⅱ、姪(妹Ⅰの娘。今回はパパは欠席)。

『ミカイールの階梯』の脱稿が近付いた2月頃から、ゴールデンウィークに家族旅行をしようと、皆で計画していたのであった。当初、海外へ行きたいという希望だったが、予算の問題で見送り。しかし「とにかく海外」ということで、屋久島が目的地と定まったのである。

 飛行機で鹿児島へ。そこからすぐに港へ行き、屋久島へ渡る。普通の船ではなく、ジェットフォイルという高速船で。速いし揺れないが、航行中は甲板に出ることはもちろん、船内を歩き回ることもできないのでつまらん。船酔いする人にはいいだろうけど。
 5歳の姪は前日(私の家に泊まった)から興奮しっぱなしで、生まれて初めて乗った飛行機はもちろん、船の中でもずっと喋り続けていた。

 その日は宿へ着いたらすでに夕方で、温泉に入った後、皆で屋上で鬼ごっこをし、夕食を食べただけで終わる。
 夜、ゲラの見直しをやってる夢を見る(まだ残っていたのである)。常日頃、執筆中やゲラ作業中は始終うーうー唸ってるのだが、朝起きたら妹たちに、「夜中唸っててうるさかった」と言われる……

 二日目は島一周ドライヴとハイキング。縄文杉へは10時間のトレッキングコースなので、当然諦める。ハイキングは30分コースだが、入り口まで山道を車で登っていく過程で、猿や鹿に遭遇。やはり離島の固有種だからなのか、本土のものより小型である。鹿はすぐ逃げてしまうのであまりはっきり見ることができなかったが、猿は道路の真ん中で堂々と毛繕いしているので、じっくり観察できた。小さい上に体毛も長くてきれいな灰色なので、とても可愛い。

 もっとも、猿も鹿も珍しがっていたのは最初だけで、一日ドライヴしている間に飽きるほど見ることになるのだが。普通に民家のある集落でも奴らを目撃する。やはり農作物への被害は深刻らしく、柵で囲って電流を流してある畑をしばしば見かけた。

 30分の山歩きでは、町育ちの姪は最初こそ木の洞を見つけては「妖精のおうちだー」などと喜んでいたが、十分ほどもすると森の薄暗さと木々の巨大さに怯えてぐずり始める。
「怖いものなんか何もいないよ、いるとしたら優しい妖精だけだよ」と言い聞かせても、「それでもやだ」と私にしがみついて離れない。ママはデジカメ係だったので、しがみついてはいけないと判断できるだけの余裕はあったということである。なんだかんだ言いつつ、泣きはしなかったしな。

 姪が喜んだのは、海岸での貝殻とガラス拾いだった。屋久島の浜は狭くて石ころだらけで、貝殻は欠片ばかり、ガラスはあまり磨かれていないものばかりだったが、それでも満足だったようだ。
 しかし旅の終わりに、「何が一番楽しかった?」と尋ねられた姪の答えは、「鬼ごっこ」であった。それは屋久島じゃなくてもできるよね。まあそんなものだ。

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ワールド・オブ・ライズ

 冒頭、CIAの現地工作員であるディカプリオのところへ、イスラム系テロ組織の男が情報屋になりたいと接触してくる。その理由というのが、「知りすぎたために消される=自爆テロを命じられた」。

 この時点で「?」となり、そうかこれは現実のCIAとも現実のテロ組織ともなんの関係もない話なんだな、と思うことにする。
 そう思ってみると、なかなかおもしろいサスペンス&アクション映画でした。たぶん、イギリス人監督リドリー・スコットが、中東のエキゾティシズムを背景にアメリカ人を馬鹿にした映画なのでしょう。批判じゃなくて、ただ馬鹿にしてるのな。

 レオナルド・ディカプリオが、馬鹿は馬鹿だけどいい意味で馬鹿なところもあるアメリカ人を演じる。『ブラック・ダイヤモンド』といい『アヴィエイター』といい、童顔のまま大人になってしまった彼の一番のはまり役は、「大人になりきれない男」といったところでしょうか。

 対してラッセル・クロウは、ただただ悪い意味での馬鹿なアメリカ人(無知で無神経で傲慢)を好演している。
 私は髪が長くて太っているラッセル・クロウは苦手だと今まで思っていたのだが、今回、太ったラッセル・クロウでも髪が短ければ平気だということを発見した。太っていようがいまいが、あの顔に長い前髪が掛かっているのを見るとイラつかせられるらしい。

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太陽の帝国

 刊行作業がすべて(私がやる分は)終わったので、再びDVD鑑賞する時間と心の余裕ができる。

 で、映画版。87年、スピルバーグ監督作。原作はJ・G・バラードの自伝的小説。SFセミナーの準備のためにしばらくバラード期間だったんだが、これはSFセミナーが終わったら先に映画版を鑑賞しようと思っていたのである。

 上海生まれの上海育ちの英国人少年が、中国人の使用人が運転する高級車で貧民の群れを掻き分けてハロウィーン・パーティーへ行くような生活をしていると、日本軍が攻めてくる。

 英国人少年が収容所の環境に「適応」し、「大空への憧れ」を特攻隊員の少年と共有する。そのねじれを演じきっているクリスチャン・ベールがすげえ。当時13歳である。いったいどんな役作りをしたんだか。今の彼も巧い役者だが、『太陽の帝国』の時はとにかくすごい。顔はあんまり変わってないんだけどね。

 そしてその「ねじれ」を解り易いお話に落とし込まずにそのまんま撮るスピルバーグもすごい。80年代によくこんな映画を撮れたものだ。06年の『硫黄島からの手紙』でさえ結構な驚きであり、しかもあれはその前に『父親たちの星条旗』を撮る必要があった。『太陽の帝国』の評価がそれほど高くないというのも頷ける。当時の観客には、このねじれは理解できまい。

 原作は数ヶ月後くらいに読もうと思う。たぶん、『MILLENNIUM PEOPLE』の邦訳が出たら(出るってSFセミナーで聞いた)、『スーパー・カンヌ』と併せて読んだ後くらいに。

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SFセミナー:バラード追悼企画

 こんなことを発表しました(用意したレジュメに加筆修正)。

『クラッシュ』(73/96)
『結晶世界』 中村保男・訳 東京創元社(66)

『楽園への疾走』 増田まもる・訳 東京創元社(95)
『夢幻会社』 増田まもる・訳 東京創元社(79)
『コカイン・ナイト』 山田和子・訳 新潮社(96)
『女たちのやさしさ』 高橋和久・訳 岩波書店(91)
『奇跡の大河』 朝倉久志・訳 新潮社(87) 

 バラードとの出会いは、映画版『クラッシュ』(96年)。これがあれなのはクローネンバーグのせいであるかもしれない。
 と思ったので、『2005年度版SFが読みたい』で紹介されていた『結晶世界』(66年)と短編1冊(紹介されてたのは『ヴァーミリオン・サンズ』だが、どうも違うのを読んだ気がする。思い出せん)を読む。やっぱりバラードは合わないと思い、終了。

 岡和田氏から『楽園への疾走』(95)読書会企画(この時点ではまだ御存命だった)へのお誘い。まあそういう機会でもないと読まないしな、と思い、読んでみる。非常におもしろかったので、いったい何が違ったのだろう、と『夢幻会社』(79)を読む。選択理由は増田氏の解説による。
『結晶世界』よりはおもしろかったので、歳月・時代による変遷なのかと思い、『コカイン・ナイト』(96)を読む。んー……? →『女たちのやさしさ』(91)→『奇跡の大河』(87)となし崩し的に読み進む。

 私は内宇宙(インナースペース)に興味がない。人間全般の認知については非常に興味があるし、個人の心理と行動の関係についてはそこそこ興味があるが、心理それ自体には興味がない。私自身、自作に対して「無」でありたいと思っているので、他者の作品にもそれを求める。
 したがって、バラード本人(経歴も含む)に興味はあるにはあるが、それが作品にどれだけ反映されているかは興味がないし、そのような読み方もしたくない。自伝的要素の強い『女たちのやさしさ』についても、どこからが事実でどこからが創作か、ということには興味がない。

『夢幻会社』が『結晶世界』よりおもしろいのは、幻想が遥かに生々しく濃密だから(五感に訴えかけてくる)。増田氏が『楽園への疾走』で解説しておられるとおり、『結晶世界』は視覚的な描写に留まる。
 もう一つは、「閉じた世界」が巧く作り出せていること(一人の男の妄想もしくは死に閉じ込められた、という解釈してしまうとあまりに平易だが)。『結晶世界』はそうではない。

『奇跡の大河』『楽園への疾走』『コカイン・ナイト』は、「閉じた世界」だが完全な閉鎖世界ではなく、外部から切り離されている理由付けが(一応)なされている。『結晶世界』では、理由付けがあったかどうかは忘れた。
 三作品とも、外部と切り離された理由は、外部が関心を向けないからだとされている。『奇跡の大河』はアフリカで、しかも先進国の注目を浴びていない地域だから。『コカイン・ナイト』は地元社会とほとんど交流のないリゾート地だから。とそれぞれ充分に説得力のある理由のはずなのに、あんまり説得力がない。たぶん、「関心を向けない外部」について、ほとんど描かれていないからだろう。

『楽園への疾走』は、「閉じた世界」が出来上がっていくまでの過程≒外部が関心を失っていく過程が、かなり丁寧に描かれており、その分説得力が上がっている。

『夢幻会社』と『奇跡の大河』の主人公=語り手が、どれだけバラードの自己投影であるか、というのはともかく、彼らが「他者」ではないのは明らかである。
『コカイン・ナイト』の語り手は狂言回しで、中心に置かれたのはクロフォードだが、彼は作品に於ける著者の主張の擬人化ともいうべき薄っぺらい存在である。薄っぺらだからこそ、彼の追従者たちの自律性が浮かび上がるわけだが。

 一方、『楽園への疾走』で中心に置かれているのは女である。私が読んだ他のバラード作品では、女は常に「他者」であり、この作品でもそうである。
『楽園への疾走』は他のバラード作品よりも巧みに「閉じた世界」を作り上げているにもかかわらず、中心に他者すなわち「外部」である女を置いたために、内部と外部とを併せ持つ作品になっている。

 読み始めてすぐ、Dr・バーバラはダイアン・フォシー・タイプかと思った。ダイアン・フォシーとは、70年代にルワンダでゴリラを研究した人類学者で、88年、シガニー・ウィーバー主演で映画化(『愛は霧のかなたに』)。ちなみに環境論の授業で鑑賞。少なくとも映画で観る限りでは、ゴリラを愛して人間を愛さず、ゴリラを密猟する地元住民の事情をまったく斟酌しない近視眼的な女性。密猟者たちを襲撃し、終いには自分が殺される。

 が、読み進めるうちにダイアン・フォシーとは違うと判明。
 Dr・バーバラの主張や行動には、一貫性がない。結局、「死は究極の安らぎであり、自分だけがそれを他人に与えることができる」という信念(のようなもの)が根底にあることが明らかになるが、それが表面化するのは二十代の頃の安楽死事件と最後の大虐殺の際だけである。

 彼女の主張や行動は、別段女性的でも母性的でもない。環境保護も、「女だけの王国」も、行き当たりばったりである。一貫しているのは、他人を支配しようとする欲求だが、これは男女の別があるものではない。「女だけの王国」にしても、男よりも女に対して支配力を及ぼしやすい条件が揃ったからに過ぎないように思える。
 バラード作品に於いて狂気の中心に置かれるのが男である場合、(それが自己投影であるかどうかはともかく)狂気は他者ではない。その意味に於いては、「男性原理の狂気」と呼んでも差支えがないだろう。
 しかしDr・バーバラは女だから「他者」であり、また女であることが主張や行動に影響しているのは確かだが、だからといってその狂気は「女性原理」ではない。増田氏へ異議を唱えることになってしまって申し訳ないが。

 私がそう考える根拠は『難破船バタヴィア号の惨劇』(マイク・ダッシュ 鈴木主税・訳 アスペクト)との類似である。原書は2002年刊で、著者はイギリス人だが主としてオランダ語の古文献に拠って書かれているので、バラードがこの事件について知っていたとは思えない。
 閉鎖的な環境に於いてのみカリスマ性を発揮し独裁者となる人物、なぜか彼(彼女)に惹き付けられ、言いなりになってしまう周囲の人々。無人島という環境の一致が、余計に『楽園への疾走』との類似性を感じさせるわけだが、『バタヴィア号』ではイエロニムス・コルネリスという特異な人物をサイコパスだったのではないかと推測している。

 私はサイコパスの厳密な定義に興味はないし、架空の人物を分析して症例名を与えるのは馬鹿馬鹿しい限りだと思う。が、厳密な定義は措いても「そういう傾向の人々」がいるのは事実だし、バラードがそういった症例を知っていた可能性は大いにある。

『バタヴィア号の惨劇』376頁より(『診断名サイコパス』の著者ロバート・ヘアによる「サイコパス・チェックリスト」を参照した記述)
「口が達者、表面的なことを重んじる、衝動的に行動する、責任感に欠けているなどがある。サイコパスはヒトを騙して巧みに操る。他人に対して権力を行使することを好むのだ。……将来の計画を立てる能力に欠け、短期間で手の届く現実的な目標よりも壮大な夢物語のほうを好む。とりわけ、ヘア博士の説明にあるように、サイコパスは自己愛が強く、自分の価値や存在を実際よりもずっと重要だと考える。……世界は自分を中心に回っていると感じ、自分が特別に優れた存在で、自分の決めたルールに則って生きることが許されると思っている」

補足; 『天才と分裂病の進化論』デイヴィッド・ホロビン 金沢泰子訳 新潮社 2002(01)第13章より
「他人にも感情があるということを理解していないような行動を取る、或いは理解していたとしても、共感するより利己的にそれを解釈する者を、専門的にソシオパスまたはサイコバスと呼ぶ。このような行動が自己の進歩に役立つような状況に於いては、サイコパスは頭角を現し、指導者にまで登り詰める。
 真の民主的コントロールが機能している組織や機構に於いては、「ならず者を追い出す」という自浄能力があり、サイコパスの者が長い間トップの座に留まることはできない。共感の欠如とあからさまな利己主義が行き過ぎて忌避されるからである。企業や慈善団体などは、民主的コントロールが弱い。特に慈善団体、学術団体はサイコパスの指導者を生み出す傾向がある。そのような集団の一般構成員は礼儀正しく、自分たちは明白なよい動機に基づいて働いていると思っているので、容易に操られる。」

 無論、バラードがDr・バーバラをサイコパスとして描いた、と主張するつもりはない。彼女がそのような「傾向」に当て嵌まる、という点も含めて、非常に多くの点に於いて『楽園への疾走』は、他のバラード作品(私が知る限り)よりも「ありそうな話/現実味のある話」なのである(「リアリティ」と言っちゃうのは躊躇われるのだが)。これは偏にバラードにとって「他者/外部」である女を中心に据えたことに拠るのだろう。

 ……てなことを喋りました。

 冒頭、岡和田氏がバラード作品全般についての解説を立て板に水の勢いで行ったわけですが、パネリストの一人である増田まもる氏をふと見ると、慈愛に満ちた眼差しを岡和田君に向けておられる。
「ああ、若い者が頑張ってるなあ、とか微笑ましく見守ってはるのだな」と思ったのですが、私が喋ってる時にも同じ笑みを向けてくれはりました……

 以下、時間に余裕があったら喋ろうと思って用意し(実際に喋ったのは①についてのみ)、終了後に増田さんに見ていただいたメモです。

 非常に巧みに作られた作品だが、三点ばかり気になったことが。

① 三人称だが、16歳の少年ニールが狂言回しを務める。視点はほぼ彼に固定されているのだが、前半、時々彼が洞察力がよすぎることがあるのが気になる。マスコミへの洞察など。16歳でもこのくら洞察力のある少年はいるだろうが、ニールはそこまで頭のいい設定じゃないような気が……。だってバラードの自己投影だから、という解釈は、ニールに限ってはあんまり成り立たない気がする。まあ、大した問題ではないし、彼も次第に思考を放棄していくのだが。

② 登場人物たちは国籍/民族が非常に豊かである。ほんの少ししか出番がない脇役たちについても、簡潔だが丁寧な描写がなされている。例外は「フィリピン人船員」たち。何人いるかすら定かではない。彼らだけが、「現地人の人夫」並みの扱い。

 オリエンタリズムそれ自体は必ずしも「悪」ではない、と思う。彼我が存在する限り、「偏見」も「憧憬」も存在する(この両者は同列である)。そして「憧憬」はそれがどれだけ間違っていようと、紛れもなく魅力である。また、自己に対してもセルフ・イメージという形での歪みは生じる。
 ただし、作者はオリエンタリズムについて自覚的であるべきである。『奇跡の大河』のヌーンの扱いは、当時は少女兵士の実態が知られていなかっただろうからそれはまだいいとして、あまりに無頓着。彼女は主人公の妄想が生み出したかもしれない、というオチはつくが、それにしたって、である。
「フィリピン人船員」たちの扱いは、バラードのそうした無頓着さが、「ついうっかり」露呈されたのかもしれない。

③ サン・エスプリ島の生態系への影響が、まったく問題とされない。ほぼあらゆる細部について、きちんと詰められているのにもかかわらず。念頭にも浮かばなかったにせよ、敢えて無視したにせよ、そこまで詰めない、ということ自体、他の作品で「外部」への無関心と地続きであるように思える。

 増田さんによると、バラードが最も関心があるのは「閉じた世界」内部のことで、後期になってくると外部の世界(社会)についても書くようにはなってくるのだが、やはり二の次になるので、私が挙げたような「ついうっかり」が出ることがあるのだそうです。

 で、『楽園への疾走』解説でDr・バーバラの狂気を「女性原理」と表現したのは、『夢幻会社』の時、ブレイクの狂気(妄想)に非常に強い嫌悪を示す女性読者が多かったので、後者を男性原理としたのに対して前者を女性原理をしたまでであって、特に二元性に拘るわけではないそうです。

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SFセミナー終了

バラード追悼企画および仁木稔パネルに御来場してくださった皆様、ありがとうございました。

 後者は時間帯が最終だったので成り行きでオールナイトになってしまったので(といっても後半はパネル内容とはなんの関係もない雑談)、今も眠くて仕方がありません。取り急ぎ御礼のみ。

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