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SFセミナー:バラード追悼企画

 こんなことを発表しました(用意したレジュメに加筆修正)。

『クラッシュ』(73/96)
『結晶世界』 中村保男・訳 東京創元社(66)

『楽園への疾走』 増田まもる・訳 東京創元社(95)
『夢幻会社』 増田まもる・訳 東京創元社(79)
『コカイン・ナイト』 山田和子・訳 新潮社(96)
『女たちのやさしさ』 高橋和久・訳 岩波書店(91)
『奇跡の大河』 朝倉久志・訳 新潮社(87) 

 バラードとの出会いは、映画版『クラッシュ』(96年)。これがあれなのはクローネンバーグのせいであるかもしれない。
 と思ったので、『2005年度版SFが読みたい』で紹介されていた『結晶世界』(66年)と短編1冊(紹介されてたのは『ヴァーミリオン・サンズ』だが、どうも違うのを読んだ気がする。思い出せん)を読む。やっぱりバラードは合わないと思い、終了。

 岡和田氏から『楽園への疾走』(95)読書会企画(この時点ではまだ御存命だった)へのお誘い。まあそういう機会でもないと読まないしな、と思い、読んでみる。非常におもしろかったので、いったい何が違ったのだろう、と『夢幻会社』(79)を読む。選択理由は増田氏の解説による。
『結晶世界』よりはおもしろかったので、歳月・時代による変遷なのかと思い、『コカイン・ナイト』(96)を読む。んー……? →『女たちのやさしさ』(91)→『奇跡の大河』(87)となし崩し的に読み進む。

 私は内宇宙(インナースペース)に興味がない。人間全般の認知については非常に興味があるし、個人の心理と行動の関係についてはそこそこ興味があるが、心理それ自体には興味がない。私自身、自作に対して「無」でありたいと思っているので、他者の作品にもそれを求める。
 したがって、バラード本人(経歴も含む)に興味はあるにはあるが、それが作品にどれだけ反映されているかは興味がないし、そのような読み方もしたくない。自伝的要素の強い『女たちのやさしさ』についても、どこからが事実でどこからが創作か、ということには興味がない。

『夢幻会社』が『結晶世界』よりおもしろいのは、幻想が遥かに生々しく濃密だから(五感に訴えかけてくる)。増田氏が『楽園への疾走』で解説しておられるとおり、『結晶世界』は視覚的な描写に留まる。
 もう一つは、「閉じた世界」が巧く作り出せていること(一人の男の妄想もしくは死に閉じ込められた、という解釈してしまうとあまりに平易だが)。『結晶世界』はそうではない。

『奇跡の大河』『楽園への疾走』『コカイン・ナイト』は、「閉じた世界」だが完全な閉鎖世界ではなく、外部から切り離されている理由付けが(一応)なされている。『結晶世界』では、理由付けがあったかどうかは忘れた。
 三作品とも、外部と切り離された理由は、外部が関心を向けないからだとされている。『奇跡の大河』はアフリカで、しかも先進国の注目を浴びていない地域だから。『コカイン・ナイト』は地元社会とほとんど交流のないリゾート地だから。とそれぞれ充分に説得力のある理由のはずなのに、あんまり説得力がない。たぶん、「関心を向けない外部」について、ほとんど描かれていないからだろう。

『楽園への疾走』は、「閉じた世界」が出来上がっていくまでの過程≒外部が関心を失っていく過程が、かなり丁寧に描かれており、その分説得力が上がっている。

『夢幻会社』と『奇跡の大河』の主人公=語り手が、どれだけバラードの自己投影であるか、というのはともかく、彼らが「他者」ではないのは明らかである。
『コカイン・ナイト』の語り手は狂言回しで、中心に置かれたのはクロフォードだが、彼は作品に於ける著者の主張の擬人化ともいうべき薄っぺらい存在である。薄っぺらだからこそ、彼の追従者たちの自律性が浮かび上がるわけだが。

 一方、『楽園への疾走』で中心に置かれているのは女である。私が読んだ他のバラード作品では、女は常に「他者」であり、この作品でもそうである。
『楽園への疾走』は他のバラード作品よりも巧みに「閉じた世界」を作り上げているにもかかわらず、中心に他者すなわち「外部」である女を置いたために、内部と外部とを併せ持つ作品になっている。

 読み始めてすぐ、Dr・バーバラはダイアン・フォシー・タイプかと思った。ダイアン・フォシーとは、70年代にルワンダでゴリラを研究した人類学者で、88年、シガニー・ウィーバー主演で映画化(『愛は霧のかなたに』)。ちなみに環境論の授業で鑑賞。少なくとも映画で観る限りでは、ゴリラを愛して人間を愛さず、ゴリラを密猟する地元住民の事情をまったく斟酌しない近視眼的な女性。密猟者たちを襲撃し、終いには自分が殺される。

 が、読み進めるうちにダイアン・フォシーとは違うと判明。
 Dr・バーバラの主張や行動には、一貫性がない。結局、「死は究極の安らぎであり、自分だけがそれを他人に与えることができる」という信念(のようなもの)が根底にあることが明らかになるが、それが表面化するのは二十代の頃の安楽死事件と最後の大虐殺の際だけである。

 彼女の主張や行動は、別段女性的でも母性的でもない。環境保護も、「女だけの王国」も、行き当たりばったりである。一貫しているのは、他人を支配しようとする欲求だが、これは男女の別があるものではない。「女だけの王国」にしても、男よりも女に対して支配力を及ぼしやすい条件が揃ったからに過ぎないように思える。
 バラード作品に於いて狂気の中心に置かれるのが男である場合、(それが自己投影であるかどうかはともかく)狂気は他者ではない。その意味に於いては、「男性原理の狂気」と呼んでも差支えがないだろう。
 しかしDr・バーバラは女だから「他者」であり、また女であることが主張や行動に影響しているのは確かだが、だからといってその狂気は「女性原理」ではない。増田氏へ異議を唱えることになってしまって申し訳ないが。

 私がそう考える根拠は『難破船バタヴィア号の惨劇』(マイク・ダッシュ 鈴木主税・訳 アスペクト)との類似である。原書は2002年刊で、著者はイギリス人だが主としてオランダ語の古文献に拠って書かれているので、バラードがこの事件について知っていたとは思えない。
 閉鎖的な環境に於いてのみカリスマ性を発揮し独裁者となる人物、なぜか彼(彼女)に惹き付けられ、言いなりになってしまう周囲の人々。無人島という環境の一致が、余計に『楽園への疾走』との類似性を感じさせるわけだが、『バタヴィア号』ではイエロニムス・コルネリスという特異な人物をサイコパスだったのではないかと推測している。

 私はサイコパスの厳密な定義に興味はないし、架空の人物を分析して症例名を与えるのは馬鹿馬鹿しい限りだと思う。が、厳密な定義は措いても「そういう傾向の人々」がいるのは事実だし、バラードがそういった症例を知っていた可能性は大いにある。

『バタヴィア号の惨劇』376頁より(『診断名サイコパス』の著者ロバート・ヘアによる「サイコパス・チェックリスト」を参照した記述)
「口が達者、表面的なことを重んじる、衝動的に行動する、責任感に欠けているなどがある。サイコパスはヒトを騙して巧みに操る。他人に対して権力を行使することを好むのだ。……将来の計画を立てる能力に欠け、短期間で手の届く現実的な目標よりも壮大な夢物語のほうを好む。とりわけ、ヘア博士の説明にあるように、サイコパスは自己愛が強く、自分の価値や存在を実際よりもずっと重要だと考える。……世界は自分を中心に回っていると感じ、自分が特別に優れた存在で、自分の決めたルールに則って生きることが許されると思っている」

補足; 『天才と分裂病の進化論』デイヴィッド・ホロビン 金沢泰子訳 新潮社 2002(01)第13章より
「他人にも感情があるということを理解していないような行動を取る、或いは理解していたとしても、共感するより利己的にそれを解釈する者を、専門的にソシオパスまたはサイコバスと呼ぶ。このような行動が自己の進歩に役立つような状況に於いては、サイコパスは頭角を現し、指導者にまで登り詰める。
 真の民主的コントロールが機能している組織や機構に於いては、「ならず者を追い出す」という自浄能力があり、サイコパスの者が長い間トップの座に留まることはできない。共感の欠如とあからさまな利己主義が行き過ぎて忌避されるからである。企業や慈善団体などは、民主的コントロールが弱い。特に慈善団体、学術団体はサイコパスの指導者を生み出す傾向がある。そのような集団の一般構成員は礼儀正しく、自分たちは明白なよい動機に基づいて働いていると思っているので、容易に操られる。」

 無論、バラードがDr・バーバラをサイコパスとして描いた、と主張するつもりはない。彼女がそのような「傾向」に当て嵌まる、という点も含めて、非常に多くの点に於いて『楽園への疾走』は、他のバラード作品(私が知る限り)よりも「ありそうな話/現実味のある話」なのである(「リアリティ」と言っちゃうのは躊躇われるのだが)。これは偏にバラードにとって「他者/外部」である女を中心に据えたことに拠るのだろう。

 ……てなことを喋りました。

 冒頭、岡和田氏がバラード作品全般についての解説を立て板に水の勢いで行ったわけですが、パネリストの一人である増田まもる氏をふと見ると、慈愛に満ちた眼差しを岡和田君に向けておられる。
「ああ、若い者が頑張ってるなあ、とか微笑ましく見守ってはるのだな」と思ったのですが、私が喋ってる時にも同じ笑みを向けてくれはりました……

 以下、時間に余裕があったら喋ろうと思って用意し(実際に喋ったのは①についてのみ)、終了後に増田さんに見ていただいたメモです。

 非常に巧みに作られた作品だが、三点ばかり気になったことが。

① 三人称だが、16歳の少年ニールが狂言回しを務める。視点はほぼ彼に固定されているのだが、前半、時々彼が洞察力がよすぎることがあるのが気になる。マスコミへの洞察など。16歳でもこのくら洞察力のある少年はいるだろうが、ニールはそこまで頭のいい設定じゃないような気が……。だってバラードの自己投影だから、という解釈は、ニールに限ってはあんまり成り立たない気がする。まあ、大した問題ではないし、彼も次第に思考を放棄していくのだが。

② 登場人物たちは国籍/民族が非常に豊かである。ほんの少ししか出番がない脇役たちについても、簡潔だが丁寧な描写がなされている。例外は「フィリピン人船員」たち。何人いるかすら定かではない。彼らだけが、「現地人の人夫」並みの扱い。

 オリエンタリズムそれ自体は必ずしも「悪」ではない、と思う。彼我が存在する限り、「偏見」も「憧憬」も存在する(この両者は同列である)。そして「憧憬」はそれがどれだけ間違っていようと、紛れもなく魅力である。また、自己に対してもセルフ・イメージという形での歪みは生じる。
 ただし、作者はオリエンタリズムについて自覚的であるべきである。『奇跡の大河』のヌーンの扱いは、当時は少女兵士の実態が知られていなかっただろうからそれはまだいいとして、あまりに無頓着。彼女は主人公の妄想が生み出したかもしれない、というオチはつくが、それにしたって、である。
「フィリピン人船員」たちの扱いは、バラードのそうした無頓着さが、「ついうっかり」露呈されたのかもしれない。

③ サン・エスプリ島の生態系への影響が、まったく問題とされない。ほぼあらゆる細部について、きちんと詰められているのにもかかわらず。念頭にも浮かばなかったにせよ、敢えて無視したにせよ、そこまで詰めない、ということ自体、他の作品で「外部」への無関心と地続きであるように思える。

 増田さんによると、バラードが最も関心があるのは「閉じた世界」内部のことで、後期になってくると外部の世界(社会)についても書くようにはなってくるのだが、やはり二の次になるので、私が挙げたような「ついうっかり」が出ることがあるのだそうです。

 で、『楽園への疾走』解説でDr・バーバラの狂気を「女性原理」と表現したのは、『夢幻会社』の時、ブレイクの狂気(妄想)に非常に強い嫌悪を示す女性読者が多かったので、後者を男性原理としたのに対して前者を女性原理をしたまでであって、特に二元性に拘るわけではないそうです。

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