ルイセンコ主義
ルイセンコ主義という疑似科学が、かつてソ連を支配した。農民出身の植物品種改良家トロフィム・ルイセンコ(1898~1976)が唱えたもので、彼は己の似非理論に独学の育種家ミチューリン(1855~1935)の名を冠し、「ミチューリン主義」と名付けたが、国外では「ルイセンコ学説」の名のほうで知られていたようだ。
「ルイセンコ主義」の名称はあまり使われないが、「学説」とは到底呼べぬ代物なので、『ミカイールの階梯』ではこちらを使う。
その内容は、一言で言えば獲得形質遺伝説である。しかしこれはラマルクの流れを汲むというよりは、単に頭が悪い上に学がなくてメンデル遺伝学を理解できない男の妄言に過ぎない。
彼が台頭するきっかけとなったのは、1928年に発表した「春化処理」である。秋撒き小麦の種子を湿らせて冷蔵しておくと春撒き小麦になる、すなわち厳しい「環境」によって、春撒き小麦の形質を「獲得」するというのである。
こんなたわ言が罷り通ったのは、ルイセンコとその主張がスターリンに気に入られたからだが、その背景にあったのは、ソ連の社会に通底する「小難しい理論への反発」「西側世界への反発」だと言える。
1930年前後、「ブルジョア科学」を排斥し「プロレタリア科学」を打ち立てよう、という動きが、若い科学者たちの間で起こっていた。優れた業績を上げてきた多くの研究者が、「ブルジョア的」「観念論的」「反マルクス主義的」だとして糾弾された。
この動きによって、メンデル遺伝学とラマルク主義の対立も激化した。どちらも自分たちこそがマルクス主義と弁証法的唯物論に合致する唯一のものだと主張したが、形勢はラマルク主義者たちに有利だった。
DNAも発見されていない当時では、メンデル遺伝学は「形式主義的」「観念論的」という批判を受け易かった。さらに、無目的な突然変異を通してのろのろと進む進化、という概念は、門外漢には魅力がないものに映った。新しい条件や個人の努力によって急速に変わることができる、という獲得形質遺伝説のほうが遥かに革命の理念に相応しい。
国際的にはラマルク主義がますます形勢不利になっていくことも、ソ連人民のブルジョア的なもの、西側的なものへの反発を刺激した。
このような状況に、ルイセンコは乗じたのである。「春化処理」の論文は、学会では多数の批判を浴びたにもかかわらず、ちょうど秋撒き小麦が大規模な冷害を蒙ったウクライナで、大規模な実験が行われることがソ連邦人民委員部によって決定された。
結果は大失敗だったが、農民たちがきちんと手順を守らなかったからだ、ということになり、大勢が収容所送りになった。以後、反対者との論争に政治的デマゴギーを用いるのがルイセンコの常套手段となった。理論の問題を階級の敵との闘争にすり替えたのである。
そうして、多くの優れた研究者たちが弾圧、粛清された。メンデル遺伝学者たちは、「遺伝子などという存在しないものを信じる観念論者」とされ、「メンデル主義者」は「ブルジョア」「反動分子」などと同等の罵り言葉となった。ショウジョバエ(遺伝学の実験ではお馴染み)を飼うことは、反動的行為とされた。
1950年の論文では、ルイセンコは生物種は環境によって如何様にも変わり得るという妄言をさらに推し進めて、雑草というものは生育環境が不適切だったために穀物から変化したものだ、とまで述べている。その論拠というのが、収穫した大麦に雑草が混じっていたから、であった。
遺伝学、農業学以外の分野にも「ブルジョア科学」を撲滅する動きは続いていた。生物学全般、医学、物理学、化学、工学など。53年にスターリンが死ぬと、数年でこれらの分野は正常な軌道に立ち戻ったが、ソ連の科学は相当な遅れを蒙った。
そしてルイセンコ主義は、スターリンの死後もソ連の生物学を牛耳り続けていた。フルシチョフもまたルイセンコ主義を気に入っていたからである。64年にフルシチョフが退陣すると、さすがに持ち堪えられなくなり、65年にルイセンコは失脚し、遺伝学研究所長の地位を失った。
《HISTORIA》シリーズでは、ソ連の科学全般はこの遅れを結局取り戻せず、ひいてはソ連自体の滅亡に繋がることになっている。そして、遺伝子管理局の支配が崩壊すると、ルイセンコ主義が息を吹き返すのである。
キルケー・ウイルスによって、遺伝子は非常に変異し易い不安定なものになり、またそれまでの遺伝子操作技術が通用しなくなった。ルイセンコ主義の主張が罷り通る余地が生まれたのである。
「資本主義陣営」の著者たちによる文献では、ルイセンコ主義はルイセンコの失脚とともに滅んだかに書かれている。だがメドヴェジェフ(『ルイセンコ学説の興亡』など)によると、少なくとも70年代の段階ではルイセンコ主義は息の根を止められてはいない。なぜなら、ルイセンコとその追随者たちの多くは国家から功績を称えられているので、それを否定することは国家権威の否定になりかねないからなのであった。
『ミカイールの階梯』では中央アジア共和国で独裁者が死去した後、これと同じ状況が新ルイセンコ主義に起こる。
ルイセンコ主義者たちは、スペンサー式の「社会進化論」(生存闘争が進化を促す)をも激しく攻撃した。彼らは自分たちこそ正当なダーウィン主義者であると見做していたのだ。
どういうわけか、ロシア人たちは昔からダーウィンとダーウィン進化論が大好きで、欧米の連中はダーウィン進化論を曲解しており、自分たちこそが正しい理解者なのだと信じているのである。これは右にも左にも共通の傾向であり、そしてそのままソ連に受け継がれたのであった。
そういう意味では、ルイセンコは帝政ロシア以来の伝統を受け継いでいたのだと言える。
関連記事: 「大災厄」 「マフディ教団と中央アジア共和国」 「グワルディア」
参考記事: 「ロシアのダーウィニストたち」 「ボグダーノフ『赤い星』」
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