« グラン・トリノ | トップページ | チャーリー・ウィルソンズ・ウォー »

マフディ教団と中央アジア共和国 Ⅰ

『ミカイールの階梯』の舞台となる25世紀半ばのテングリ大山系(天山山脈)一帯で対立する二大勢力。2390年代から各々勢力を伸張する。

 イスラムの流れを汲む神秘主義を奉じる教団と、「人間の意志による進化」をドグマとし神を否定する共和国は当初から相容れなかった。わずか数年でマフディ教団は大山系南麓のタリム盆地、中央アジア共和国は北麓のジュンガル盆地をほぼ掌握する。境界をじかに接するようになったことで対立は激化し、現在に至る。

 というのは実は見せ掛けで、両勢力は勃興期から裏で手を結び、協力し合ってきた。その事実を知るのは、双方の指導者たちとミカイリー一族のみである。
 ミカイリーは、両勢力に同盟を結ばせ、知識や技術を提供することで支援してきた。マフディ信仰と新ルイセンコ主義という二つのイデオロギーを、テングリ大山系一帯に新しい秩序をもたらすものとして見込んだがためである。

 24世紀後半、地球規模の災厄は収まりつつあるように見えたが、これは戦争と移動という人間の活動が抑止されたことが大きな要因だった。

 汚染された大地に、島のように点在する居住可能な土地で、人々は孤立を余儀なくされていた。そのように互いに遠く隔たった飛び地から飛び地へと移動するのは、非常に困難だった。文明が崩壊して移動手段が限られた上に(ユーラシアでは乗用・運搬用の大型有蹄類も激減していた)、それぞれの土地で疫病が風土病化していたのである。
 長距離移動は、行く先々の疫病に罹ることであり、また行く先々に疫病を持ち込むことであった。

 テングリ大山系一帯では汚染が比較的少なく、またミカイリー一族の存在があることで、周辺地域に比べれば高度な文明とまとまった人口が維持されてきたが、オアシスや谷に小勢力が割拠する膠着状態が続いてきた。
 大規模な戦争は大規模な移動を伴い、必ず大規模な疫病発生が伴う。そのため、敢えて勢力を広げようとする野心家はいなかった。それ以前に、災厄に打ちのめされた人々はそのような野心を抱くことができなかったのである。

 マフディ信仰と新ルイセンコ主義がそれぞれ多数の信奉者を獲得し、またその指導者たちが統一政権を樹立しようという野望を抱いたのは、人々が活力を取り戻したことの現れであった。
「救世主マフディによる救済」と「獲得形質進化による救済」をそれぞれ約束する二つの勢力を、それぞれの信奉者たちは熱狂的に支持した。だが双方の指導者たちは遥かに賢明であり、イデオロギーを方便、ただし非常に有効な方便だと見做していた。そうと知ったからこそ、ミカイリーは両者に接近し、手を結ばせたのである。

 大規模な戦闘行為は必要なかった。信奉者たち(信徒または「細胞」)は各地に浸透し、またミカイリーがそれまで出し惜しみしてきた高度な知識と技術を提供したことで、高性能な兵器が製造された(それが可能な程度の工業力は維持されていたのである)。カラシニコフ自動小銃の一斉射撃やТ‐72戦車の威容の前に、総じて士気の低かった在来勢力の軍隊はほとんど抵抗らしい抵抗を示さなかったのである。

 2390年代初めに締結された秘密協定は、上述のとおり両勢力が在来勢力をほぼ駆逐し、じかに境界を接するようになった時点でいったん崩壊する。マフディ教団の勢力圏内(大山系南部)にいるミカイリー一族を奪わんと、共和国が侵攻を行ったことで、戦端が開かれた。
 たちまち疫病が両軍に蔓延し、賢明な指導者たちは我に返った。2406年、新たな協定が結ばれ、両勢力は今までどおり表向きは敵同士として対立を続けることになった。

 統一を果たしても汚染された自然が回復するわけでもなし、信奉者たちに約束した「明るい未来」は実現不可能であることを、指導者たちはよく解っていた。人々の不満を逸らすために、「解り易い敵」が必要だったのだ。
 そして2447年現在に至るまで、テロルと報復の応酬が継続されてきたのである。

 ただし共和国では2429年、独裁者「人民の父」の死を契機にルイセンコ主義の誤りが認められたことから、代わって民族主義が台頭する。マフディ教団でもこの頃から、マフディによる救済よりも、共和国への敵意が煽られ、民族主義的な傾向が強くなる。両政権下の人々は、もはや救済の約束を信じられなくなりつつあったのだ。
 だが人々は自主的に「解り易い敵」を欲し、暴力は指導者たちのコントロールを離れようとしていった。それが、2447年の状況である。

 なお、中央アジア共和国はテングリ大山系北麓をほぼ手中に収めた2400年代初頭、法によって民族分類を定めた。

 以下の五つの民族に区分される。

ルース族 「ルース」は「ロシア」(現代ロシア語では「ルーシ русь」)の古名。ちなみに原義は「赤毛」。エウロパ大飢饉によって中央アジアへと逃れてきた難民の末裔である。彼らヨーロッパ系難民はさまざまな民族が入り混じっていたが、やはりロシア・スラヴ系が最も多く、長年の間に同化吸収されてしまった(無論、アジア系との混血も行われてきた)。ロシア系難民が奉じていた新ルイセンコ主義が台頭してきたことにもよると思われる。
 新ルイセンコ主義を支持したのはルース族だけではなかったにもかかわらず、共和国が政権を握ると指導者層はルース族ばかりで占められるようになる。
 数の上では五族の中で最も少なく、そのためかソ連と帝政ロシアに強烈な郷愁を抱いてきた。新ルイセンコ主義を奉じて無神論だったが、少数ながら新ルイセンコ主義には従わず、ロシア正教の流れを汲む信仰(「正教」と呼ばれる)を伝えてきた人々もいた。
 ルイセンコ主義の衰退と民族主義の台頭によって、正教に回帰したルース族も多い。

タジク族 「タジク таджик」は本来東方イラン系民族とその言語を指した名称で、作中でもその用法に従う。文明崩壊後の中央アジアで、イラン(国名ではなく民族名)系言語と文化を伝承してきた人々の総称であり、実在するタジク族と直接関係があるわけではない。
 イスラムの流れを汲む信仰(「神秘主義」)を奉じており、そのために共和国では迫害される。建国期には棄教して新ルイセンコ主義者となった者も多かったが、待遇はさほど変わらなかった。
 2410年代半ばからはジュンガル盆地の沙漠地帯へと強制移住させられ、その際抵抗した人々が無数に殺された。それでも2449年の時点でなお、チュルク族と並んで共和国で最も数が多い。

チュルク族 тюрк  トルコ系民族の末裔の総称。タジク族とは宗教や生活様式などの共通点が多く、混血も進んでいる。共和国の支配下に組み入れられてからは、タジク族と同じく受難の道を歩む。
 バイリンガルの者も多く、二つの民族の区分は曖昧だったが、共和国の政策によって分断が進んでいる。政府の支配が及ばない西部辺境(イリとボロタラの二州)では、両者の区別は曖昧なままである。

キタイ族とモンゴル族 катай, монгол  キタイはロシア語で中国のこと(語源は「契丹」)。両民族ともルース族に比べれば人口は多かったが、タジクとチュルクに比べれば、やはり圧倒的に少数である。
 そのため以前からこの三民族は団結する傾向にあった。懐古趣味のルース族たちはかつての盟友キタイとモンゴルに親近感を抱き、また仏教系宗教(密教の要素が強い)の信者であるキタイ族とモンゴル族は、神秘主義信徒たちに比べれば新ルイセンコ主義への抵抗が少なかったのも、三者を結び付けた大きな要因だっただろう。
 建国後はルース族に次いで優遇される。キタイ族にもモンゴル族にも神秘主義信徒はいるが、民族分断政策のため、チュルク・タジク族ほどは弾圧されてこなかった。

 作中の時点では、地方のキタイ・モンゴル族は政府への忠誠をとうに失い、ルース族への反発を強めているが、中央区に於いては相変わらずルース族に次いで優遇され、政府に忠実である。

 国民を民族ごとに分断し、支配を容易にするための政策であったが、民族分類自体は以前からあったおおまかな区分に基づいたものである(各民族名は言語によって発音が多少異なるが、作中では便宜上統一してある)。

 マフディ教団領のタリム盆地では、「タジク・チュルク系信徒」(タリム盆地では従前からタジク語が優勢であった)と「それ以外」が峻別される。タジク・チュルク系の他の神秘主義教団信徒(当然ながら共和国領内の)については「同胞」と呼び、その苦境に同情を寄せるが、無論プロパガンダに過ぎない。

なお、作中で使用されている各言語は、それぞれに相当すると想定される現代の言語を、便宜的に当てたものである。

「マフディ教団と中央アジア共和国 Ⅱ」へ 

設定集コンテンツ

|

« グラン・トリノ | トップページ | チャーリー・ウィルソンズ・ウォー »

HISTORIA」カテゴリの記事