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女子大生とフォルクローレ

 数年振りに友人に会った時のことだ。彼女は私が「すごく変わった」とひどく驚いていた。どう変わったかと言うと、以前は太っていたし化粧もしていなかったのだそうだ。

 私は大学入学時には平均体重、その後太り始めたが翌年夏から徐々に痩せ始め、四回生になる頃には平均体重に戻り、それから現在まで増減はほとんどない。彼女とは大学で知り合い、疎遠になるまで八年余りの付き合いがあった。

 つまり彼女と付き合いがあった期間の半分以上は、「痩せて」いたわけである。同じく化粧についても、アレルギーがあるので毎日は無理だったが、全然しなかったわけではない。
 そう繰り返し説明しても、彼女は「あの頃は素朴だったのに」と、「太ってノーメイクだった」私を繰り返し懐かしむのである。化粧は毎日でもしたいけれど無理なのだ、との言葉にも聞く耳持たない。

 彼女の家に向かう途中、駅前でアンデスの民族音楽を演奏しているグループがいた。彼女は足を止め、その音楽が「素朴」であると述べた。そして彼らが販売しているCDを買いたい、と言い出した。2000円くらいはする代物である。
 その値段なら、ちゃんとした店で売ってるのんを買ったほうがいい、と私は意見した。彼女は聞く耳持たず、私もそれ以上は止めなかった。

 帰宅して、彼女は早速CDを聴き始めた。流れ出したのは、アンデスの民族楽器で演奏される日本のポップスだった。こんなのじゃなくて演奏してたみたいな素朴なのがいいのに、と彼女は言った。
 私は日本語で書かれた曲目を見てみた。十曲ほどのうち半分が日本のポップスだった。

 もっと素朴なのがいいのに、と落胆した彼女は繰り返し言った。言わんこっちゃない、とは私は言わず、これならちゃんと民族音楽だよ、と残り半分のアンデス民謡の中から「花祭り」を選び出して再生した。
 ああうん、これなら素朴だね、と彼女は言ったものの、浮かぬ面持ちのままだった。それはそうだろう。民族衣装を着けたインディヘナの人たちが街中で大音量で演奏しているのと、自宅のCDラジカセで再生するのとでは、聴く側のテンションが違う。

 じゃあこれは、と私は曲を変えた。ああ、なんか聴いたことある、こういうのが聴きたかったの、と彼女はようやく笑顔になった。そうだろうね、すごく有名な曲だからね、と私は答えた。「コンドルは飛んでいく」であった。
 結局、彼女は「コンドルは飛んでいく」も最後まで聴きとおすことなく、停止ボタンを押した。その後、私は彼女とは会っていない。たぶん、彼女はあのCDを二度と聴いていないだろう。

 他者を指して、「素朴」と称する。その時、彼女が見ているのは、自分が見たいイメージである。
 だが誰しも他者(個人であれ集団であれ)に、自分が見たいイメージを投射することからは逃れられない、と私は思う。ただそのイメージの偏りや思い込みの強さの度合いに差があるだけなのだ(で、彼女は少々極端な例であろう)。
 イメージが「良い」ものであっても「悪い」ものであっても、見る側自身の内面の勝手な投射であることには変わりない。

 そして見る側の勝手な投射、すなわち主観だからといって、必ずしも「悪い」わけでも「間違っている」わけでもない。彼我が存在する限り、見る側と見られる側が生じるのは避けられず、また当然ながら各自のセルフ・イメージが正確なわけでもない。

 他者が「異文化」であった場合が、エキゾティシズムである。異文化が北米や西欧の文化である場合は、普通はエキゾティシズムとは呼ぶまいが、見る側の勝手な投射であることには変わりない。憧憬も侮蔑も、同じものの表裏だ。
 そしてもちろん、「見られる側」が自分たちの文化について「正しい」イメージを抱いているのでもない。

 外国人が制作した映画に於ける日本像と、日本人の反応がその好例であろう。「間違った日本像」を見ると嬉々として糾弾するのが日本の観客の常であるが、『ラストサムライ』の時に限っては、その間違い振りを指摘しつつも憤る声は少なかった。むしろ大いに満足し絶賛する声が過半を占めた。「失われた日本の魂」を描いている、というのだ。

 そうした人々にとって、実際の明治時代や侍がどうであったかというのはどうでもいいことであるらしい……いや、本当にどうでもいいのだ。彼らが『ラストサムライ』を気に入ったのは、それが史実に合致しているからではなく、彼らが日本について抱くイメージ――「こうあってほしい日本/かっこいい日本」像に合致しているからなのだ。
 そして、その他の「外国人による日本像」に憤っていたのは、それらがかっこよくなかったからにほかならない(鬼の首でも取ったように「間違い」をあげつらう人々の果たしてどれだけが、日本の歴史や文化を考証できるものなのか)。
 
 それでも私は、エキゾティックなイメージ群のうち「憧憬」の側面については、それらがどれだけ不正確だろうと、侮蔑と表裏なのだろうと、紛れもなく魅力であると思う(『ラストサムライ』に魅力は感じないが)。いかがわしくも魅力的なのである。

 私のオリジナルの三作は、いずれも外国、しかも日本人にはあまり馴染みのないとされる地域を舞台としている。SFであるお蔭か、「(馴染みのない)外国が舞台だから興味がない」とか、或いはその婉曲な言い換えである「日本人作家が外国を舞台にした小説を書くことにどんな意義があるのか」といった意見を聞いたことは一度もない。幸いなことである。
 そんなわけで誰からも尋ねられた(もしくは難癖を付けられた)ことはないのだが、私が私にとっての異文化を題材とする理由を述べるならば、異文化を「見る側」としてエキゾティシズムの「いかがわしい魅力」を描くことができるから、である。
 もちろん、できる限りの下調べはする(一応仮にも文化史専門である)。その上で、「いかがわしい魅力」を足掛かりに、作品世界を読者の前に展開していく。

 なお異文化といっても、「単一」の文化に興味はない。諸文化の混淆にこそ惹き付けられる。諸文化混淆の産物もまた、エキゾティシズムと同質の「いかがわしい魅力」を多かれ少なかれ発している。ゆえに排他的な文化、「純粋」であろうとする文化には魅力を感じない。

 言語は、エキゾティシズムを表現する最適の手段の一つだ。私は言語マニアではない。言語に対し、少々マニアックな興味を有してはいるが、それはあくまで文化の一形態としてであり、言語そのものへの興味は、たぶんそれほどでもない。複数の言語の相互影響は、諸文化混淆の一つの現象でもある。
 だから例えば、独自に発達し、他言語との関連が皆無の孤立した言語、というものが発見されたとしても、あまり興味を惹かれないだろう(SFでは時々、異星人等の言語として主題となることもあるが、少なくとも自分で扱おうとは思わない)。

 HISTORIAシリーズに於いて、言語はエキゾティシズム(および諸文化混淆)を表現する手段であり、また多元性を表現する手段でもある。複数の名を持つ一つの事物は、すなわち複数の相を持つ。
 私の作品に対し、「(馴染みのない)外国が舞台だから興味がない」「日本人作家が外国を舞台にした小説を書くことにどんな意義があるのか」という意見はないが、「馴染みのない言語が使われているから読みづらい」「一人のキャラクターが複数の名前で呼ばれているからややこしい」という意見は少数存在する(逆に、「それがいい」と言ってくださる人のほうが多いが)。

 しかしそれは、上述したように、必要な表現のための必要な手段である。手段であるから、なるべく煩雑にならない工夫も行っている。だからいちいち解説もしないし、カタカナ表記も、原音に忠実であるより邦訳の慣例と簡潔さを重視している(例:Сергейを「スィルギエイ」ではなく「セルゲイ」とする)。
 同じ名前の言語別ヴァージョンの定時にしても、頻出させるのは「ホアキン/ジョアキン」「アンヘル(アンヘリカ)/アンジェリカ」のように簡単なものだけで、「カロリーヌ/キャロライン」のように比較的複雑なものについては、言及する程度(もちろんそうする必要があった場合は)に留める。

 英語が「馴染みのある言語」で、それ以外の外国語がそうでないとしたら、「馴染んで」いるかいないかの差に過ぎない。英語が優れていて他がそうでない、というわけでは当然ない。英語以外の外国語の地名や人名が出てくる作品を読みづらく感じたとしたら、それは単に慣れの問題である。

「馴染みのない言語」が不適切なら、地名や人名まですべて馴染みのある言語、すなわち日本語(明治の翻訳ものか?)なり英語(近年のハリウッドでも、レオナルド・ディカプリオやヴィゴ・モーテンセンらは、「馴染みのない非英語圏の名ではなく、英語圏の名に変えてはどうか」という助言のかたちを取った圧力を掛けられてきたそうだ)なりに変換すればいいということになる。
 それでは、そもそも「馴染みのない外国」を舞台にすることすら不適切になってしまう。

 SFの読者ともあろう方々が、「馴染みのない場所」を舞台にした作品は読めない、などとは、よもや仰るまい。

参考記事: 「言語問題」 外国語のカタカナ音写について。

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