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ツォツィ

 ストリート・チルドレン上がりの不良少年(ツォツィ)が、赤ん坊との出会いによって失っていた人間らしさを取り戻していく……というと非常に陳腐な話のようである。だがストレートな物語だからこそ、現代の南アフリカの状況が際立つ。という前提なのでネタばれ警告は無意味だが、以下一応ネタばれ。

 主人公のツォツィは当初、まったく表情がない。仲間の一人で、ブッチャーと呼ばれる少年は、すぐに人を殺す凶悪な奴で、表情もいかにも凶悪そうだが、ツォツィの顔には、怒りの感情すら浮かばない。別の仲間に侮辱され、相手を半殺しにする時でさえ無表情なままだ。
 豪雨の夜、ツォツィは一軒の豪邸の前に佇む。住んでいるのは、若い黒人の夫婦である。アパルトヘイトが終わって、平等が訪れたのではなく、黒人の間にも格差が生じたのだ。帰宅した妻に銃を突き付けて車を奪おうとするが、抵抗されて、思わず発砲してしまう。その時初めて、驚きの表情を浮かべるが、それはひどく子供っぽく頼りない。

 その車の中にいた赤ん坊を、置き去りにできず、家に連れ帰ってしまう。悪戦苦闘しておむつを替えてやり、赤ん坊に笑い掛けられると、彼の表情も和らぐ。意識的な微笑みではない。彼が微笑むようになるのは、まだ先のことだ。

 おむつを替えたり、食べ物(スキムミルクか何か)を与えたりと、彼なりに世話をするが、すぐに手に余ることになる。そこで、近所の子持ちの女性の家に押し入り、銃を突き付けて母乳を与えるよう強要する。最初は渋々従っていた彼女が、やがて甲斐甲斐しく赤ん坊の世話を始めると、ツォツィの表情は再び和らぐ。帰る時には、何かを言いたげにひどく逡巡する。だが、出てきた言葉は、感謝ではなく「誰かに喋ったら殺すぞ」である。

 ツォツィの行動は、年齢を考慮しても非常に短絡的で、先のことなどまったく考えていない。エイズで死に掛けた母親と飲んだくれの父親の許から逃げ出して以来、先のことなど考えていられない生活を送ってきたのだろう。何かしてほしければ、頼むよりも脅すほうが効果がある相手ばかりだっただろうし。だから、お礼を言うこともない。

 赤ん坊の存在によって少しずつ昔の自分を取り戻した彼は、半殺しにした仲間を家に運び込んで療養させ、教師になる夢を叶えるよう諭す。しかし、教員試験を受けるための金を稼いでやるために、また盗みをするのだから、短絡的なのは相変わらずである。
 しかも、ミルクやベビー用品も盗むという一石二鳥を狙って、赤ん坊の家に押し入るのだ。非道な行為だという感覚がないのだろう。おもちゃでいっぱいの子供部屋を見回し、ツォツィは幸せそうに微笑む。

 心など失くしたかのような無表情が、子供らしい柔らかさを取り戻していく過程。赤ん坊を返しにきたが警官に取り囲まれ、立ち竦むツォツィに、赤ん坊の父親は「兄弟」と呼び掛ける。妻も、赤ん坊を奪い、自分に障害を負わせた少年に対して、無闇に騒ぎ立てたりしない。成金などではなく、見事にプチブル化しているこの若い夫婦が、ツォツィに対してにわかに同情的になるのは、彼を目の当たりにしたことで、自分たちばかりが豊かさを享受してきたことへの罪悪感が呼び覚まされたからだ。
 陳腐ともいえる物語が、南アフリカに持ち込まれた時、驚くほどの深みと広がりを見せている。

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