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荒馬と女

 ツタヤでは西部劇の棚にあったんだが、1961年公開の現代劇だよ。まあ広義の西部劇にはなるのか? 邦題からすると、日本では西部劇として公開されたのかもな。原題はThe Misfits(適応できない人々)。
 ジョン・ヒューストン監督作品。主演のマリリン・モンローとクラーク・ゲーブルは、これが遺作となった。

 離婚したばかりのロズリンは、パースとゲイという二人の男と知り合う。パースは第二次大戦中は爆撃機のパイロットで、今は骨董品同然の複葉機を乗り回しつつ、その維持費のために車の修理工などの職を転々としている。ゲイは自称カウボーイで、郊外の一軒家に住んでいる。
 間もなくロズリンはゲイと同棲するようになる。彼は農場で働いているわけでもなく、時々山でマスタング(野生馬)狩りをするのが唯一の収入源らしい。ロズリンに出会う直前までは、商売女のヒモをやっていたようだ。

 二人はしばらく巧くやっていたが、ゲイが畑を荒らした兎を退治しようとしたのをロズリンが止めたことで、最初の諍いが起きる。そこへ偶々やってきたパースが、マスタング狩りに行こうと誘う。
 男たちはロズリンも狩りに誘う。殺すのではなく生け捕りにして業者に売るのだと聞いて、彼女は同行を承諾する。
 まずは助っ人を募るため、三人は偶々開催されていたロデオ大会に赴く。そこでゲイたちの知人で出場者のギドーが加わることになる。

 ギドーが大会で大怪我をし、ロズリンはひどく取り乱す。そんな彼女をゲイとパースは、やや持て余し始める。
 当のギドーがけろりとしているので、ロズリンも落ち着きを取り戻すが、その夜、痛み止めで朦朧としたギドーは会ったばかりの彼女に、父親が事故死してすぐに母親が再婚し、相続するはずだった農場を、義父となったその男に奪われたことを打ち明ける。
 ゲイは別居している子供たちに偶然会うが、ロズリンを紹介しようと思ってちょっと席を外した間に、彼らはさっさと帰ってしまう。そうと知った彼は、だらしなく泣き叫ぶ。
 パースはパースで、ロズリンが彼のことを気に掛けてくれないので不機嫌になり、帰りの車内で愚痴を零す。
 それぞれ醜態を晒した三人の男たちは酔いが醒めると、マスタング狩りがどれほど素晴らしく、「自由」で「男らしい」人生の象徴であるかをしきりと強調する。そして彼らとロズリンはマスタングの群がいるはずの山へと向かう。

 脚本は、撮影当時、マリリン・モンローの夫だったアーサー・ミラーである。たぶん、ロズリンは当て書きなのだろう。ロズリンという女は、少なくとも前半は「マリリン・モンローという幻想」そのものであるかに思える。
 スクリーンの上のモンローではなく、「本当のマリリン・モンロー」という幻想である。教養がなく、頭もあまりよくなく、隙だらけの女。しかし勘がよくて包容力のある男なら、「本当の彼女」は繊細で寂しがり屋だと見抜くことができる。そんな男になら、彼女はとことん尽くす。
 だが「本当は」その孤独は底なしで、あまりにも情緒不安定で、いずれは男の重荷になる。どんな男にも決して治すことのできない欠陥を、彼女は抱えている……。
 男たちは、自分こそは「本当の彼女」を見抜くことができるという自惚れと、彼女の面倒を最後まで見る必要がない(なぜなら彼女は欠陥を抱えているから)という無責任の両方を満たすことができる。それが、「本当のマリリン・モンロー」という幻想だ。

 教養がなく、頭もあまりよくなく、隙だらけで、だが自己主張が強くなく、男に尽くし、男を立てる女として登場するロズリンは、一方で孤独で情緒不安定な面も持っている。女の友達がおらず、母親にはネグレクトされていた。まさに「本当のマリリン・モンロー」そのものである。
 そして、次第に彼女の不安定さは、男たちが持て余すほどにまでなっていく。ロディオ会場に向かう車内で、彼女はひどく暗い顔をしている。まるで表面が罅割れて無辺の虚無が覗いているかのようで、こっちはこれが遺作だと知っているものだから、もはや演技もできなくなっている状態なのかと不安になる。それほどまでに痛々しい表情だ。

 後半、山中のキャンプで明らかになるのは、捕らえられ、業者に買い取られた野生馬は、ドッグフードの原料になるという事実である。乗馬用だと思っていた、と愕然とするロズリンに、昔はそうだった、と男たちは答える。
 残酷だ、とロズリンは詰る。パースとギドーは沈黙し、ゲイは懸命に書き口説いたり、逆に詰り返したりする。ドッグフードが何でできてると思ってたんだ、とか、皆が他を犠牲にしながら生きてるんだ、とか、きみは今までそれを見ないようにしてきたんだ、とか、馬を捕まえて売るという仕事は昔ながらのカウボーイと変わらない、ただその先が違っているだけだ、とか。野生馬は耕地や牧草地を荒らすから、これは害獣駆除だ、とも言う。

 結局、一人で帰るわけにもいかず、終わるまで籠っていられる場所もないので、ロズリンは否応なしに翌朝の狩りに参加することになる。パースの複葉機で開けた場所に追い込まれた五頭の馬たちは、トラックで追いまわされ、投げ縄でタイヤを括り付けられて動きが鈍ったところを、男三人がかりで捕らえられる。
 馬たちは死に物狂いで抵抗し、ものすごい迫力なんだが、どう見ても動物虐待である。そのように撮っている。馬を追い回し、縄を掛ける男たちの視点ではなく、竦み上がって見守るロズリンの視点だ。

 ロズリンの反応に若いギドーは冷や水を浴びせられ、野生馬狩りはこれで最後にして農場に戻って働く、と言い出す。そんな彼をゲイは「雇い人」と嘲り、カウボーイの「自由」を誇示する。その隙にパースはロズリンを口説き始める。

 男たちが分け前の計算を始めると、ついにロズリンは逆上し、何が自由よ、と金切り声で罵り始める。殺しを楽しんで金儲けをしてるだけじゃない、と。
 ここで初めて、ロズリンは、普段は「現実の厳しさ」から目を背けているくせに偶々目にしてしまうと「かわいそう」とか言い出す非合理的な女の感情論を垂れ流していたのではなく、残忍さや功利主義を「自由」や「男らしさ」で糊塗する態度を非難していることが明らかになる。

 ののしり続けるロズリンに、男たちは立ち竦む。真っ先にパースが我に返り、いかれてる、と言う。ああいう女は、こっちがどれだけ尽くしてやっても際限なく要求する、と。その口調には憎しみが籠っている。それは彼女にふられた恨みやゲイに対する後ろめたさのごまかし(そんな女に引っ掛かった俺は被害者)もあるが、何よりも「自由」や「男らしさ」が虚偽だと女に見抜かれた男の憎悪である。

 最後の最後に、マリリン・モンローは「マリリン・モンローという幻想」を自ら打ち砕き、カウボーイに代表される「(アメリカ的な)男らしさ」の虚構性を告発する役を全身全霊で演じたわけだ。幻想ではない、生身の彼女を知るアーサー・ミラーだから与えることのできた役だろう。もっとも、彼も最後まで彼女といることはできないのだが。
 マリリン・モンローは時々非常に老けて見える(特に、暗い表情をしている時)が、時々、はっとするほど美しくも見える。これまで彼女を美しいと思ったことはなかったことはなく、特に興味もなかったのだが、遺作に於けるこの美しさは切ない。

 そして、西部劇への挽歌という意味でなら、この作品を西部劇に含めることはできるだろう。1960年代初頭絶滅の危機に瀕していながら誰からも保護してもらえていなかったという点で、野生馬とカウボーイは同じ立場だったわけだな。
 クラーク・ゲーブル演じるゲイは幾度も「昔はよかった」と言う。かつてのカウボーイが本当に自由で男らしかったか、という問題にはこの作品は踏み込んでいないが、ことさら昔を理想化しなくても、ここで描かれるカウボーイが「自由」「男らしさ」には程遠いのは明らかだ。
 ロズリンがかなりめんどくさい女だということが明らかになりつつあっても、なお男たちが彼女を狩りに連れて行きたがったのは、要するに褒めてくれる相手が欲しかったのである。

 1963年から物語が始まる『ブロークバック・マウンテン』も、カウボーイが具現するとされるアメリカ的な男らしさの虚構性を描いた作品である……というか、そうなり得る作品だったんだけどね。アン・リー監督の好きな「禁断の愛」に比重が傾いた結果、ああいうのんになりました、と。いや、別にいいんだけどさ。

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