胡旋舞
『ミカイールの階梯』下巻では、白居易(白楽天。785-805)の「胡旋女」を引用している。書き下しは石田幹之助氏の「胡旋舞小考」(講談社学術文庫『長安の春』所収)に拠る。結構有名な詩なので、書き下しには幾つかのバージョンにお目に掛かったことがあるが、石田氏によるものが、胡旋という舞踏の軽妙かつ扇情的な魅力を最も的確に伝えることに成功していると思うからである。
――胡旋女、胡旋女、
心は絃に通じ、手は鼓に応ず。
絃鼓一声、双袖挙がり、
廻雪飄々、転蓬のごと舞う。
左旋、右転、疲るるを知らず、
千匝万周、已む時なし。
人間、物類の比すべきなく、
奔車も輪、緩にして旋風も遅し。
「胡旋女」とは要するに「胡旋舞」を舞う女性のことで、胡旋舞とは文字どおり西域(胡)起源の旋舞である。
西域の旋舞というと、舞うことで神との合一を果たそうとするメウレヴィー教団(現在ではトルコで観光客向けの伝統芸能としてのみ残っているが、起源はペルシア)が有名だし、現在見ることのできる中央アジアの伝統舞踊も旋回を基本とする。どちらも両足を地面に着けたまま比較的緩やかに舞うものである。
一方、胡旋舞は白氏が詠んでいるとおり、急旋回を基調としている。まあ中国だけに「白髪三千丈」の可能性はあるが、残されたわずかな図像(胡旋舞であるという確証はないが、そう推測されるもの)を見ても、片足を上げて、より高速で旋回していたようだ。
白居易の友人であった元稹(779-831)も、「胡旋女」と題する詩を詠んでおり、胡旋舞を以下のように表現している(この書き下しも石田氏のものを引用)。
――蓬、霜根を断ちて羊角のごと疾く、
竿、朱盤を戴いて火輪のごと炫く。
驪珠の迸珥、飛星を逐い、
虹暈の軽巾、流電を掣す。
潜鯨、暗に噏う笪海の波、
回風乱舞、空に当たって散ず。
万過それ誰れか終始を弁じ、
四座、いずくんぞよく背面を分かたん。
白居易の簡潔で鮮やかな表現に比べると、何がなんだかよく解らないが、ともかく「なんかすごそう」ということだけは伝わってくる。
胡旋舞をはじめとする西域起源の舞踏は、五胡十六国(304-439)以来、イラン系西域人から直接、あるいは北方民族(トルコ系など)を介して中国に伝来していた。大規模な流行を見るのは盛唐(713-770)、中唐(-835)の頃である。特に中唐に於いては、酒楼や演芸場で華やかな衣装を纏った妓女たちによる演し物として人気を博した。そのことは、西域舞踏を詠んだ詩が、中唐には格段に多いことから窺える。
中唐の西域舞踏の舞い手は必ずしも本場のイラン系民族とは限らず、漢族もいれば北方民族もいたし、女性だけではなく男性もいたが、やはり高鼻深目で白皙のイラン系女性が最も人気だったようだ。そういう女性たちが、金糸の縫い取りのある紗の衣装を纏い、舞うにつれて肌は紅潮し、汗が流れて衣装が張り付く、といったさまが、当時の中国人(男性)の心をがっちり捉えたわけである。
国際的で異文化混淆華やかな8世紀前半以前に比べて、安禄山、史思明という二人の異民族出身者による乱(755-763)を経た中唐の社会は著しく保守化し、民族主義も高まっていた。
その風潮に乗って、8世紀前半の胡俗(西域文化)流行は「国が乱れる前兆」であったとする見方が生じており、特に胡旋舞の流行は皇帝や下々の心を乱し、ひいては国を乱さんと欲する輩の陰謀だった、という主張までなされた。
元稹は上の「胡旋女」の冒頭で、「胡人が(唐帝国を)乱そうと欲し、胡旋舞の巧みな女を明王(玄宗)に献じた。明王は舞に心を奪われて失政し(『ミカイールの階梯』第十一章でフェレシュテが引用するのは、ここに相当する。書き下しは仁木による)、朝廷までもが胡人に蹂躙されるところとなった」といった旨を述べている。
また白居易も、やはり「胡旋女」の中で、安禄山および楊貴妃(すなわち国を乱した元凶二人)がこの舞に巧みだったとしている。
胡旋舞は亡国の元凶ではないにしろ少なくともその一因であるという見方を、中唐の士人がどの程度共有していたかは判らない(安禄山が胡旋の舞い手だったという説は、唐末に書かれた『安禄山事蹟』にも受け継がれている)。しかしこの舞が「華風」でない、よろしくないものである、という見方は共通認識だったといっていいだろう。
それにもかかわらず、彼らは胡旋舞(および胡舞全般)の魅力に抗えなかった。夷狄のもの、劣ったものとして蔑みながら、その蠱惑に抗えなかったのだ。それはもはや、単純なエキゾティシズムではない。
エキゾティシズムを「異国趣味/異国情緒」と訳すと無害そうに聞こえるが、異文化という他者に関心を向ける限り、そこには勝手な思い込みが必ず投影される。ひたすら侮蔑するだけの目的で関心を向ける者はやはり少ないであろうから、そこには少なからず憧憬が含まれている。それは無関心よりは遥かにマシであり、そして憧憬が生み出した幻想は、どれだけ不正確で身勝手であろうと、魅力的である。
そうした思い込みは、それ以上その他者/異文化について知るきっかけになる場合もあるが、むしろそれ以上知る妨げになる場合のほうが多いだろう。しかし、どれだけ知識を得ようと、人は主観から逃れることができない以上、思い込みは必ず生じる。
西洋の、中近東という「近いアジア」に対するエキゾティシズムは、それ以外の異文化に対するものとは明らかに異なり、侮蔑と憧憬、愛と憎しみが根深く絡み合っている。ごく単純に要約してしまうならば、それはかつて中近東に対して西洋が抱いていた恐怖と劣等感を克服する過程で生じたものである。
憧憬と侮蔑、どちらか一方だけでは成り立たず、侮蔑しながらも惹かれて已まない。それがオリエンタリズムである、と定義できる。
ロシアが克服しようとしたのは、中央アジアという「近いアジア」に対する恐怖と、西洋に対する劣等感だった。そのため、手っ取り早く自らの「内なるアジア」を切り離し、中央アジアに投影し、侮蔑し蹂躙するという手段を取った。
しかしそれでもロシアの劣等感は克服されず、したがってその手段はソ連、そして現代ロシアに至るまで受け継がれている。
西洋に学ぶ過程で、近代ロシア人は「オリエンタリズム」というものを知った。西洋化することで、独自の文化を失いつつあるという危機感が、中央アジア、特にカフカスへの新たな自己投影を生んだ。勇猛さ、自文化に対する誇りといったものを、カフカスの雄大な自然と結び付ける形で、その民族に投影したのだ。ロシアの「オリエンタリズム」の誕生である。
唐代の士人たちの中央アジア・西アジアへのエキゾティシズムは、(中央アジア・西アジアであるということも併せて)一種のオリエンタリズムだといえる。
『ミカイールの階梯』では、西洋に先駆けたオリエンタリズムであるところの胡旋舞を、ソ連の後継者を任ずる中央アジア共和国の精鋭部隊(グワルディア)たちに舞わせている。無論それは、ロシア人の「内なるアジア」への回帰、などという無邪気なものではない。
大学での私の専攻は東洋史学で、学士論文のテーマは唐代の西域文化流行について楽舞と服飾を中心に、だった。
つまり胡旋舞はど真ん中だったわけだが、『ミカイールの階梯』ではマニアックすぎて読者が付いて来られなくなったら困るので、説明は一切入れませんでした。ブログだったら、それで困ることはないので、心おきなくマニアックなネタを披露いたしたのでありましたよ。
関連記事: 「グワルディア」 「マフディ教団と中央アジア共和国」
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