エージェント・ゾーハン
ある意味『ミュンヘン』のパロディみたいな話だな。
ゾーハンはモサドの凄腕エージェントだったが、真の夢はニューヨークでヘア・スタイリストになることだった。加えて、自分の仕事が非生産的であることに心底うんざりして(死と破壊しか生み出さない上に、せっかく作戦を成功させても取り引きの材料に使われるだけ)いたところに、両親にヘア・スタイリストの夢を笑われたのもあって、ついに姿をくらませることにする。パレスティナの凄腕テロリスト「ファントム」を捕らえる任務で、ファントムに殺されたと見せかけて中東を離れ、ニューヨークに行く。
パレスティナ‐イスラエル問題をパレスティナ側から捉えた『パラダイス・ナウ』やイスラエル人とエジプト人のぎこちない交流を描いた『迷子の警察音楽隊』ほど微妙な領域には踏み込んでおらず、視点は「アメリカに在住するパレスティナ人とイスラエル人」にほぼ固定されている。という限定はあるものの、随分と大胆に問題を扱っている。
故郷に於いては敵同士の彼らも、アメリカでは「中東人」ということで十把一絡げにされる。そして中東人に対するアメリカの白人の反応は、「テロリストかもしれない」である。テロリストどころか、彼らは爆弾の作り方も知らない。そしてゾーハンに爆弾を仕掛けようとしたのは、故郷で彼に山羊を奪われた恨みを晴らすとともに、「英雄」になって金持ちになりたい、というささやかな望みのためだ。
ネオリベとホワイト・トラッシュが手を組んで、マイノリティを追い出そうとしている(ネオリベのほうは、ホワイト・トラッシュなんぞの手を借りなければならないことが不本意そうではある)。そういう連中に対して団結すべきだ、というのが結論である。やー、イスラエル‐パレスティナ問題も、そういう「共通の敵」によって解決できればいいんだけどね。
件の問題自体も、まったくスルーしているわけではなくて、例えばイスラエル人であることを隠しているゾーハンが、美容院の同僚のパレスティナ女性が「民族間の憎しみに耐えられなくて故郷を離れた」という言葉に、ごくあっさりと「だって、悪いのはそっちだろ」と応じる。簡単に解決できることではないと、作り手たちはもちろん理解しているわけである。
全体としては、たいそう下品なコメディ。スパイもののパロディでもある。往年のスパイ映画では、敏腕スパイは絶倫で、どんな男がやっても(映画の中でも現実でも)セクハラにしかならないことも、彼がやれば女を喜ばす。
『オースティン・パワーズ』では、60年代にそういう存在だったスパイが90年代に蘇るとセクハラ野郎になってしまう、というジェネレーション/カルチャー・ギャップをネタにしていた。もっとも、このネタは一作目までしかもたなかったんだけど。
一方、21世紀に於いてもセクハラがセクハラにならない絶倫敏腕スパイなのが、エージェント・ゾーハンなのである。ただし、おばちゃん限定。そうすると、下品なだけのはずのネタが、中高年女性も「女」として扱うべきだ、という大層説得力のあるメッセージになってくるから不思議だ。
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