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怒りの葡萄

 原作は未読。だいぶ切り詰めてるらしいが、そのためか映画だと「葡萄」関係ないやん、てなってもうてるな。
 1930年代。荒廃したオクラホマから、農民の一家が仕事を求めてカリフォルニアへ向かう。1940年のジョン・フォード監督作。ヘンリー・フォンダ主演。

 俳優たちの顔が、なんか凄いのである。ごつい顔ばっかし。特におっさんおばさん。今のハリウッドじゃ、ああいう顔はいないよな。
 彼らが演じる失業者たちは、貧しいとはいえ自分たちがアメリカの一般市民である(すなわち被差別階級ではない)ことを疑ったことはなかった。だから立ち退きを強制されれば驚愕し、憤る。しかし仕事も住む場所を失った彼らを、世間はまともな人間扱いしない。手ひどい暴力を受けるわけではないが(ただし、その可能性は常に間近にある)、侮辱的な扱いが続くことで、彼らの尊厳は次第にボロボロになっていく。特に説明などなくても、態度や表情で目に見えるのである。
 カリフォルニアにようやく辿り着き、なんとか仕事にありつけた頃には、威圧的な警官や警備員たちを前に、自分たちには尊厳があるのだということすら疑わしくなっている。そのさまが痛々しい。

 しかし、『リトル・ミス・サンシャイン』は現代版『怒りの葡萄』なのかな。失業した一家、ガタの来た車、途中で死ぬ老人(しかも埋葬費用がないのも一緒)、余所者が加わっているのも(『怒りの葡萄』では信仰を失った説教師、『リトル・ミス・サンシャイン』では自殺未遂のプルースト研究者。どっちも赤の他人ではなく、前者は昔からの隣人で、後者は叔父)。
 まあ現代のほうが周囲の侮蔑が露骨でない分、自分たちが底辺だという自覚が薄い。でも、底辺だよね。そして現代だから、「家族の絆」は最初から壊れてる。

『怒りの葡萄』に戻ると、最後に主人公や母親が、そのキャラクターが言わないような台詞を言うために、全体が損なわれている。作者の代弁者にするならするで、そのキャラクターなりの言葉で語らせないと、しらけるよ。作者の言葉を言わせてしまえば、それは「作品」じゃなくなってまう。

 スタインベック自身は別にソ連びいきではなかったようだが(生物学の人なので、『コルテスの海航海記』では、ルイセンコ学説に一言だけだが言及して批判してるし)、『怒りの葡萄』は、ソ連で一般上映された数少ないアメリカ映画の一つなのであった。しかし「アメリカの悲惨な現実」を伝えようという当局の意図とは裏腹に、ソ連人民は「アメリカでは失業者でも自家用車を持っている」ことに甚だ衝撃を受けたそうな。

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