告発のとき
ポール・ハギス監督作品。
2004年、イラク帰りの若い兵士が休暇中に行方不明になり、やがてバラバラ死体で発見される。殺人現場と隣接した死体遺棄現場は市警と軍警察の境界に跨り、市警は軍に面倒を押し付ける形で捜査を放棄し、軍は軍で何かを隠蔽しようとする動きがある。軍警察の軍曹だった父親は、市警で事実上村八分に遭っている女性刑事の協力を得て、息子の死の真相を探ろうとする。
父親がトミー・リー・ジョーンズ。女刑事が地味なのに美人で、誰だろうと思ってたらシャーリーズ・セロンだった。気づかなかったのは、美人なのにあんまり地味なのと、『モンスター』以来の顔の弛み(『ハンコック』の時でさえ、まだ弛んでいた)が直っていたのと、何より演技が巧かったからだな。いや、これまで彼女の演技が巧いと思ったことがなかったんで。母親役のスーザン・サランドンは、あまり活かされていない。
『荒馬と女』で、第二次大戦中、多数の都市を爆撃し、「何も感じなくなった」と語る男を、女は「世界を破壊しても、そうやって自分を憐れむのね」と断じる。
実際に、非道な行為をせざるを得ない状況に置かれて「壊れた」人に、少なくとも面と向かってそんなことを言うのは冷酷すぎる。ただし、だからといって、非道な行為が正当化されることも罷免されることも、あってはならない。非道なことをされた側の苦しみが、それで減ることもあり得ない。
上の台詞は、そうやって非道な行為を正当化する「男の論理」によってずっと傷付けられてきたマリリン・モンローだからこそ、言うことができるのだ。
イラクで壊れてしまったアメリカの若者たちを、責めることはできない。それができるのは、彼らの被害者とその家族・友人だけだ。責められるべきなのは軍や国家という「巨悪」だ、という単純な結論でお茶を濁すことも、この作品はしていない。
原題はin the valley of Elah。
「エラの谷」はダヴィデがゴリアテを斃した場所である。シングル・マザーであるシャーリーズ・セロンの幼い息子デイヴィッドに、トミー・リー・ジョーンズはこの物語を聞かせる。その中で、ダヴィデは「きみと同じくらいの小さな男の子」と語られる。
この物語を気に入ったデイヴィッドは、暗闇の恐怖(寝室のドアを開けていないと眠れない)を克服しようとする。それだけなら、心温まるエピソードである。後日、同じ物語を母親にしてもらったデイヴィッドは、「どうしてそんなに小さな男の子を、王様は止めなかったの」と尋ねる。どうしてかしらね、と母親は答える。
後に殺されることになる若い兵士は、まだ壊れていない、すなわち自らの非道な行為に無感覚になっていない時、父親に電話で助けを求める。だが父親は、じきに慣れる、とかなんとか益体もない慰めを与え、さらには「そこにいるのは、おまえ一人か」と尋ねることで、「そんな他人に聞かれたら恥ずかしいことを言うな」と圧力を掛ける。
「良い息子」だった若者を、壊れるような場所に、エラの谷に送り出したのは、銃後の家族である。告発されるべきは、良き市民である彼らなのだ。そのことを踏まえると、なかなか適切な邦題である。きっと、そこまで考えて付けてはいないだろうけどね。
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