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レスラー

 小説のキャラクター≒作者という創作スタイルや、そういう読み方(作者の意図がどうであれ)は気持ち悪いから嫌いなんだが、映画(実写)のキャラクターというのは俳優という血肉を備えた「素材」から創られているわけだから、その俳優自身の経歴やイメージが重ねられることで、映画の上のキャラクターにより深みが出ることある(どんなキャラクターを演じてもその俳優自身にしかならないこともある)。

 若い頃のミッキー・ロークは『エンジェル・ハート』しか憶えとらん(『白いドレスの女』にも出てたそうだが、彼のことは思い出せん)。この二作品を観たのは90年代に入ってからだが、当時も今も、あの手の兄ちゃんには全然興味が向かず、今の崩れた顔のほうが味があっていいじゃないか、と思う。『ドミノ』の時なんか、かっこよかったし。

 で、この『レスラー』のミッキー・ロークは、かっこよくない。落ち目のプロレスラーである。この一見単純なキャラクターであるランディ“ザ・ラム”ロビンソンは、実は何重もの多義性を持つ。以下、一応ネタバレ注意。

 作中では、プロレスの「演出」の手法を徹底的に見せる。演出であっても、血と苦痛は本物だ。それを示すことによって、レスラーたちは通常のスポーツとは違って勝敗のために戦うのではなく、命懸けで観客に奉仕しているのだと明らかになる。そして観客はそんなレスラーたちを愛するのだ。
 ram(雄羊)をトレードマークとし、観客のために血を流すランディは、すなわち「犠牲の羊」である。犠牲の羊は、穢れたものとして蔑まれる一方で、人々の身代わりとなって死ぬ崇高な存在である。プロレスラーたちは、「八百長」(的外れな非難である)、「たかがプロレス」と時に蔑まれながらも、ひたすら観客に自らの苦痛を捧げる。そこには崇高さが生じる。
 そしてこの反転は、人々の罪を購うため、苦痛と汚辱の中で殺されたキリストに生じたものと同じである。

 まあ、このメタファー自体はともかく、ランディの背にキリストの刺青があり(彼の背中を追うカメラワークが多いので、必然的に観客は刺青を幾度も目にすることになる)、さらにストリッパーが『パッション』の台詞を引用するのは、少々くどい。後者だけで充分だ。

 冒頭、1980年代のランディの全盛期が雑誌やポスター、場内アナウンス等のコラージュで語られる。その中心となっていたのが、ムスリム(風)のヒールとの闘いである。これは単に自国出身レスラー=善玉vs外国出身レスラー=悪玉という図式なのではなく、パンフレット掲載の町山智浩氏の解説によると、80年代、反イラン感情(アメリカ大使館占拠事件が原因)を背景に、ハルク・ホーガンがイラン人レスラーを相手に行っていたショーがモデルだそうだ。

 冒頭の断片的なアナウンスの中で、ランディを紹介するフレーズの一つが、「アメリカ人の中のアメリカ人」とかそういうものだった。アヤトッラーというリング・ネームのムスリム(風)ヒールとの決戦から20周年ということで、すでに引退していたそのレスラーを引っ張り出してきて、再戦が企画される。
 その再試合で、観客はランディに「U.S.A、U.S.A」と声援を送る。現在のアメリカの反イスラム感情(アメリカ人の大多数はアラブとイランを区別していない。アメリカ人に限ったことじゃないが)にはまったく言及されてなかったが、実際のところどうなんだろな。

 それはともかく、引退したアヤトッラーは中古自動車店を経営する、ロバートという名の、どう見ても普通の黒人である。そしてランディ“ザ・ラム”ロビンソンはといえば、ロビン・ラムジンスキーという東欧系の本名を持つ(「ラム」も「ロビンソン」もここから取られているが、ランディ自身は本名を嫌っている)。金髪も染めたものだ。「ムスリム」も「アメリカ人」も虚構なら、その闘いもまた虚構である。

 ランディは当て書きであり、観客がミッキー・ローク自身を重ねることを前提としている。もっとも、いかに落ち目で老醜を晒し、無様だとはいえ、ランディは試合とその準備に関してはプロに徹しており、「猫パンチ」のロークとは大違いである。ファンにも愛されてるし。私生活の駄目っぷりは一緒か。
「俺には、外の現実のほうが痛い」と言い残し、ランディはリングへと帰っていく。絶望的な結末にもかかわらず、強烈なカタルシスが生み出されるのは、ランディと同じく駄目人間でありながら、ロークがこの壮絶な役を演じきったからだ。ロープの上からリングへと飛ぶランディは自らの死へとダイブしたのであるが、ロークは逆に飛翔しているのである。それは単なる復活という以上の、ほかの誰もなし得ないであろう高みへの到達である。

 多数の受賞やノミネート、ランキング等は副次的なものでしかない。この映画の観客一人ひとりが感動したこと自体が、ロークの「成功」である。ランディの物語は悲劇で終わるが、ロークの物語はハッピーエンドである。その二重性が、感動をより高めているといえる。

『ブラックスワン』感想

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