フランス絵画の19世紀展
横浜美術館。
ライティングが悪い。絵がテカってもうてよう見えんがな。今回は比較的明るい色彩の絵が主だったからまだマシだったが、グロの「レフカス島のサッフォー」(1801)なんて何がなんだか。バロック絵画展だったら最悪だ。
実物の色彩はさらに暗い。
抱えてるのが竪琴だって、後で館内で流してたVTRを見てようやく確認できたほど。
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展示作品の選択は大変よかった(だからライティングの悪さには余計腹立つんだけどね)。感想を一言で言うと、すみませんアカデミズムをなめてました。
いや、自分がいかに無知だったかを知りました。もちろん無知なのは知ってたけど、「いかに」無知だったか、と。
ルネサンス~バロックの展覧会だと、知名度の低い画家の(もしくは工房制作で文字どおり無名の)作品は、たいがい技術が低くて表現もつまらない。「(巨匠名匠の傑作と同時に)こういうのんもあった」という史料的価値は認めるにしても、展示作品の9割9部がそういう凡作ばかりの展覧会に行ってもうて、げっそりさせられたこともある。
ダヴィッド、アングル、グロ、ドラクロワからコロー、ミレーを経て印象派、そして世紀末のモローやルドンへと至るんだが、正統的なアカデミズム絵画も、アカデミズムに属しつつ印象派の影響を受けた折衷的な絵も、知名度が低い(私が知らなかっただけでなく世間一般的に)画家のものでも大変よかったのである。
そりゃ「巧く見える描き方」の技術が指導法も含めて確立されてた(マニュアル化されてた)わけだから、そういう意味で巧いのは当然なんだけどね。ま、解り易い巧さ、俗受けする巧さだわな。
しかし印象派~抽象画家の作品が一生懸命個性的に描こうと努力した結果、並べると却って没個性になってどれも同じように見えてしまいかねないのに対し(いや、現代美術も好きです。展示の仕方の問題)、少なくともこの展覧会でのアカデミックな作品は、「どれも同じ」には見えなかった。
もちろんこれらは氷山の上の部分であって、海面下には無数の凡作駄作があったはずだけど。
「すみません知りませんでした」だった展示作品から数例:
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エミール‐ジャン‐オラース・ヴェルネ
「アブラハムに追放されるハガル」
(1837)
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レオポルド・ロベール
「夏の寓意」
(1827)
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もひとつ。絵自体は別にどうということもないんだが、変なオリエンタリズムが楽しいゲラン(ジェリコーの師匠)の「トロイアの陥落をディドに語るアエネアス」(1819)
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ミレイ(「オフェーリア」の)とかもそうなんだけど、19世紀の神話画・歴史画で「デッサンがきちんとした絵」って、どんどん漫画のキャラクターっぽくなってくんだよねー。顔も身体も比率が理想化(美化)されすぎてるし、色彩も鮮やかすぎるからなんだろうな。衣装や小道具なんか完全にコスプレ感覚だろうし。
そうしたことも含めて、アカデミズム絵画はどんどん俗っぽくなっていく。技術は高水準を保ってるのにもかかわらず安っぽい絵というか、技術が高いから却って安っぽいというか。
俗っぽさ・安っぽさも、そこまで行けば御立派だが、しかし当時は「安っぽい/俗っぽい」と見做してはいけなかったんだよね。そう見られてしまうと、もはや衰退するしかなかったわけだ。
でもこういう絵こそが素晴らしい(もちろん「キッチュ」だからという理由ではなく)と思う人はい続ける。ヒトラーとか。
下の二枚(カバネル「ヴィーナスの誕生」1864とボードリー「真珠と波」1862.展覧会でも並べて展示)のうち、「あざとさ」で勝ってるのはどっちでしょう?
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会場には子供の姿もちらほらあったが、一人、小学校高学年くらいの女の子が非常に熱心にノートを取っていた。絵の前ではなく、横に付いてる解説パネルの前に立って。
書き込んでる量からすると、丸写ししていたようだ。写し終わると、ちらりと絵を一瞥し、足早に次の解説パネルの前まで行って再び写し始めることを繰り返していた。
夏休み終了直前に、やっつけの一研究だろうか。彼女を見掛けたのは会場の入り口近くだったので、83点の展示作品すべてに対して解説丸写し(および作品一瞥)をやってたのかどうかはわからない。
いやあ微笑ましい光景ですね。
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