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バルジ大作戦

 1944年12月、アルデンヌに於けるドイツ最後の大攻勢(失敗)。

 1965年のヘンリー・フォンダ主演作なんだが、主演といっても群像劇なのでそれほど目立たない。そして群像劇としても成功していない。チャールズ・ブロンソンでさえ、顔がごついという以外に全然目立っていないのだ。『パットン大戦車軍団』のわずか5年前に作られたとは思えないほど古めかしい凡庸な大作。
 しかしこれは、戦車が主役の映画なのであった。

 いやあ、画面上でこんなにいっぱいの戦車が動いてるのは初めて見ました。もちろん本物のティーガーではなく、本物のパットン戦車。それが大軍で森や荒野や川を乗り越え、木々を薙ぎ倒し、米軍歩兵も薙ぎ倒し、家屋を粉砕し、シャーマン戦車も粉砕する。
 ティーガーⅡ重戦車とシャーマン中戦車の戦場での性能差がどれくらいなのか実は知らないんだけど、明らかに同時代の旧型vs新型というよりは、1965年からタイムスリップしてきた戦車が1944年の戦車と歩兵をボコってるようにしか見えませんでした。しかも圧倒的多数で。弱いもの苛め。

 なんでもいいから、とにかく戦車が破壊の限りを尽くしているところを観たい、という人にはお勧めです。

「フューリー」感想

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語り手、および文体

08年7月の記事に加筆修正。

 HISTORIAシリーズは、「語られた歴史」である。語り手はもちろん、仁木ではない。「語り手」(単独とは限らない)による物語historiaを仁木が「受信」し、その時の能力(知識、筆力等)やその他諸々の制約の下で書き記したものが個々の作品、といえる。いや、もちろん喩えであって本気でそう信じてるわけじゃないですよ。

「語り」は、重層を成している。それはまず、語り手の視点によって見分けることができる。

グアルディア
 一見最も単純で、場面ごとに一人のキャラクターに視点を固定(三人称)。あくまでそのキャラクターの視点から語られるので、間違った知識や偏った意見が語られることもある。「事実」とは限りません。例えば第三章二節目冒頭、歴史事項が羅列されるが、これはこの節の視点の主であるダニエルの知識というだけである。
 第五章、六章には白人至上主義者ポール・ロバーツを視点の主とした場面があるが、彼の視点が悪意と偏見に満ちたものであると理解できない読者、彼の主観を鵜呑みにする読者はいないだろう。
 しかしこれは、他のキャラクターでも変わりはない。どのキャラクターも、彼らなりの偏りがある。「絶対に正しい」視点は、HISTORIAシリーズには存在しない。

 当然のことだが、各キャラクターは自分の心が完全に解っているわけではない。そればかりか、自分で自分を誤魔化している可能性もある。
 さらに、視点の主=語り手と思うのは素直すぎる。そんな約束事はどこにも示されていない。「語り手(たち)」が視点の主を装っているのかもしれない。

ラ・イストリア
①  一人称(アロンソとクラウディオ)
② 三人称(普通の)
③  三人称(いわゆる「神」の視点)

 の三種の視点がある。①は物語の中心となる時間軸(2256年)、②は①からやや離れた時間軸(近過去と未来)、③は「どこか」から語られるこの世界の歴史、となっている。視点というか語りの変化は、物語の主軸からの距離である。

 この物語は、本来はフアニートを主人公としたヒーローものだが、その周辺の人物(アロンソとクラウディオ)を語り手としている。なお一人称のパートには、ごくわずかだが三人称的な視点が混入している。これはアロンソもクラウディオもインテリであって、インテリというのはとかく自分を客観視したがる、というのも理由だが、さらには何者かがアロンソもしくはクラウディオを装って語っている、という可能性を示す。

「物語の主軸」からの距離とは、つまり語り手の偽装の程度である。最も距離が近い①のキャラクター一人称が最も偽装の程度が大きい(そのキャラクターになりすましている)。②はキャラクターの視点に付かず離れずの三人称による普通の小説の語りに偽装し、そして③はあたかもすべてが見えているかのごとき「神の視点」であり、おそらくこれがHISTORIAの世界の最も外側に在るはずの「語り手」の視点に最も近いはずである。

「最も外側の語り手」の存在を、シリーズ2作目にして早々に明かしたのは、前作『グアルディア』で、「視点の主=語り手」であり「語り手の主観=事実」であると疑ってもみない読者があまりに多いことに(しかしもちろん白人至上主義者ポール・ロバーツの主観=「事実」とは誰も思わないのである)、ちょっとというかかなり驚き、困惑したからである。

 まあそれでなんとかなったかいうたら、なんとかなってたら今ここでこういう文章を書いてませんわな。

 もう一つ、『グアルディア』からの変化は、キャラクターの心理の直接描写を極力避けたことである。『グアルディア』でそれを比較的丁寧に行ったのは、個人の意思や感情が外部に及ぼし得る影響の限界を示すためであり、それは全キャラクター中、最も強烈な個性であるアンヘルが、実は××××(×の数は適当)に過ぎないことで明白である。
 しかし「語り手の主観=事実」であると疑わない素直な読者諸氏というのは「個人の意思や感情が外部に及ぼす影響」ではなく「個人の意思や感情」にのみ注目する傾向にあり(以下略)

 一人称小説は、読むのも書くのもそのキャラクターにどっぷり付き合わんといかんので疲れるから苦手なんだけど、書く側だけに立てば、他のキャラクターの心理の直接描写をせんでいい、というのがこの時の発見。
 メキシコ北部という乾いた場所柄と、精一杯大人ぶっている17歳というキャラクターから、アロンソの一人称は心情を吐露しないハードボイルド調。ただし所詮は坊ちゃん育ちでインテリなので、時々うだうだ言うこともある。
 クラウディオはとても壊れたキャラクターですが、目標に向かって突っ走ってる壊れなので、自分の内面など顧みない。
 という二人だったので、心理の直接描写はだいぶ回避できました。

ミカイールの階梯
 引き続き、心理の直接描写は回避。『ラ・イストリア』の②の視点と同じく、キャラクターに付かず離れずの視点で、心理の直接描写はごく表面的なものに留める。
 それだけでは不十分な気がしたので、レズヴァーン・ミカイリーというキャラクターに、「己の言葉が信じられない」「己の意識に実感を持てない」と語らせる。

 さらにもう一人、用意したのが「疫病(えやみ)の王」と呼ばれるゼキである。中央アジア共和国イリ軍管区司令官ユスフ・マナシーは、ゼキを「英雄」と定義する。英雄とは、「非凡な才能の擬人化された表現」であり、歴史上ではある集団の事績が一人の人物(実在もしくは架空)に集約されたものである。
 英雄たるゼキは、「人格すら必要ない型押しされた記号(キャラクター)」であり、しかも彼自身それを自覚している。

 ゼキとレズヴァーンは、仮に『ミカイールの階梯』がゼキを主人公とした英雄譚だったすれば、英雄と彼に斃されるべき「悪」である。この二人を端的な例として突出させているが、残りのキャラクターすべても同様だ。彼らの台詞も、地の文に表れる彼らの主観(に見えるもの)も、無条件に信頼すべきではない。

 三作品すべてに共通するのは、語りの手法とレベルを三段階に設定していることだ。『ラ・イストリア』の①~③とは似て非なるこの三段階は、

A 歴史
B 神話・伝説
C エンターテイメント

 である。文体も相応に変えてある。A「歴史」は、HISTORIAの世界に於ける「事実」を「探求historia」して得た「歴史historia」であり、「事実」そのものが述べられているのではない。とはいえ、HISTORIAの世界全体を俯瞰した時に、最も中立的な見解であるといっていいだろう。文体も「硬い」傾向がある。
『ラ・イストリア』に於ける③のような「神」のごとき視点で語られることもあれば、各作品に於ける比較的中立的な見解の持ち主の視点として述べられていることもある。後者の場合、多かれ少なかれそのキャラクターの主観が混じっているのは言うまでもない。
 また、「神のごとき視点」は「語り手」そのもの視点であるとも言えるが、当然ながら完全に中立などではなく、読者の読みを誘導する意図があるのは明らかだ。

 HISTORIAは19世紀後半にダーウィニズムとメンデリズムが融合していた、とするオルタナティヴ・ヒストリーだが、20世紀末までは、我々の歴史とそれほど大きく変わるところはない。
 したがって20世紀末以前の歴史については我々のそれとほぼ同じものが語られることになるが、これもまた探求historiaによって得られた歴史historiaであり、「事実」そのものではない(無論、この意見は歴史学者たちの探求を軽んじたものではない。探求抜きに過去を語っても歴史にはならない)。また作中で語られる限り、完全な中立的見解ではありえず、なんらかの意図が入り込んでいるのも同様だ。
 言葉mythos=意図mythosである(くどいようだが、仁木の意図ではない)。

B「神話・伝説」: AがHISTORIAの世界に於ける「事実」に基づいて語られる「歴史historia」であるのに対し、同じ事実が神話・伝説mythosとなったもの。我々の世界に於ける神話・伝説が語られることもあれば、作中に於ける現在進行形の出来事が、すでに神話・伝説化したものとして語られることもある。
 神話・伝説も歴史と同じく、語り手・書き手の意図が入り込んでいる。「探求」がなされない分、より作為的である(もちろん、歴史は中立公正であるという前提によって意図・作為が隠蔽されることもある)。特に、編纂された神話・伝説は編纂者の作為が全篇を貫いているといってもいい。

 Bのレベルでの語りはその性質上、高揚し錯綜した文体で行われる傾向がある。『グアルディア』の場合、特にそれが顕著で、一部の読者には「わかりにくい」「下手」と大変不評であった。

C「エンターテイメント」: キャラクターたちを中心とした「物語」。最も表層のレベル。生体甲冑、殺戮機械、生体端末、知性機械といった「ありがち」なガジェットも、この表層レベルに集中して機能している。

 ここでいう「エンターテイメント」とは狭義に於いて、である。つまり、キャラクター(という言い方に語弊があるなら登場人物)たちが行動したり会話したり、あるいは動きも喋りもしないで思い悩んだりするのが作品の大分を成す、キャラクター小説とかノベルズとかライトノベルとかジャンル小説とか呼び分けられたりすることもある小説群の総称。
 そういう区別とかどうでもいいし、それぞれの名称が呼ぶ人によって肯定的な意味や否定的な意味を持たされたりするのもどうでもいいが、Cのレベルの語りの中でも比較的「硬い」ものから「ラノベ」風までさまざまなレベルが混在している。文体もそれ相応。

 私はすべての小説は読者を楽しませるためのものであり、そういう意味ではエンターテイメントだと思っている(読んで「勉強になった」り、深刻な気分になったりするのも、楽しみ方の一種である)。
 だからもちろんHISTORIAはA~Cのすべてのレベルに於いてエンターテイメントであるが、狭義に於いて最も解り易くエンターテイメントしているのがCのレベルである。 
 なおA~Cの区別は、文体も含めて必ずしも厳密ではない。

 以下、ネタばれ注意。

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フランス絵画の19世紀展

 横浜美術館。

 ライティングが悪い。絵がテカってもうてよう見えんがな。今回は比較的明るい色彩の絵が主だったからまだマシだったが、グロの「レフカス島のサッフォー」(1801)なんて何がなんだか。バロック絵画展だったら最悪だ。

Gros01111   実物の色彩はさらに暗い。
  抱えてるのが竪琴だって、後で館内で流してたVTRを見てようやく確認できたほど。
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 展示作品の選択は大変よかった(だからライティングの悪さには余計腹立つんだけどね)。感想を一言で言うと、すみませんアカデミズムをなめてました。

 いや、自分がいかに無知だったかを知りました。もちろん無知なのは知ってたけど、「いかに」無知だったか、と。
 ルネサンス~バロックの展覧会だと、知名度の低い画家の(もしくは工房制作で文字どおり無名の)作品は、たいがい技術が低くて表現もつまらない。「(巨匠名匠の傑作と同時に)こういうのんもあった」という史料的価値は認めるにしても、展示作品の9割9部がそういう凡作ばかりの展覧会に行ってもうて、げっそりさせられたこともある。

 ダヴィッド、アングル、グロ、ドラクロワからコロー、ミレーを経て印象派、そして世紀末のモローやルドンへと至るんだが、正統的なアカデミズム絵画も、アカデミズムに属しつつ印象派の影響を受けた折衷的な絵も、知名度が低い(私が知らなかっただけでなく世間一般的に)画家のものでも大変よかったのである。

 そりゃ「巧く見える描き方」の技術が指導法も含めて確立されてた(マニュアル化されてた)わけだから、そういう意味で巧いのは当然なんだけどね。ま、解り易い巧さ、俗受けする巧さだわな。
 しかし印象派~抽象画家の作品が一生懸命個性的に描こうと努力した結果、並べると却って没個性になってどれも同じように見えてしまいかねないのに対し(いや、現代美術も好きです。展示の仕方の問題)、少なくともこの展覧会でのアカデミックな作品は、「どれも同じ」には見えなかった。
 もちろんこれらは氷山の上の部分であって、海面下には無数の凡作駄作があったはずだけど。

「すみません知りませんでした」だった展示作品から数例:

Scenefromadeluge_lジロデ‐トリオゾン   
「洪水の情景」
(1802)

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Vernet02

エミール‐ジャン‐オラース・ヴェルネ
「アブラハムに追放されるハガル」
(1837)

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O0800053610208118397

レオポルド・ロベール
「夏の寓意」
(1827)
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02_b_photoアンリ・レーマン
「預言者エレミヤ」
(1842)

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O0550039610208118715 もひとつ。絵自体は別にどうということもないんだが、変なオリエンタリズムが楽しいゲラン(ジェリコーの師匠)の「トロイアの陥落をディドに語るアエネアス」(1819)

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 ミレイ(「オフェーリア」の)とかもそうなんだけど、19世紀の神話画・歴史画で「デッサンがきちんとした絵」って、どんどん漫画のキャラクターっぽくなってくんだよねー。顔も身体も比率が理想化(美化)されすぎてるし、色彩も鮮やかすぎるからなんだろうな。衣装や小道具なんか完全にコスプレ感覚だろうし。

 そうしたことも含めて、アカデミズム絵画はどんどん俗っぽくなっていく。技術は高水準を保ってるのにもかかわらず安っぽい絵というか、技術が高いから却って安っぽいというか。
 俗っぽさ・安っぽさも、そこまで行けば御立派だが、しかし当時は「安っぽい/俗っぽい」と見做してはいけなかったんだよね。そう見られてしまうと、もはや衰退するしかなかったわけだ。
 でもこういう絵こそが素晴らしい(もちろん「キッチュ」だからという理由ではなく)と思う人はい続ける。ヒトラーとか。

 下の二枚(カバネル「ヴィーナスの誕生」1864とボードリー「真珠と波」1862.展覧会でも並べて展示)のうち、「あざとさ」で勝ってるのはどっちでしょう?

800px1863_alexandre_cabanel__the_bi Baudry2

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 会場には子供の姿もちらほらあったが、一人、小学校高学年くらいの女の子が非常に熱心にノートを取っていた。絵の前ではなく、横に付いてる解説パネルの前に立って。
 書き込んでる量からすると、丸写ししていたようだ。写し終わると、ちらりと絵を一瞥し、足早に次の解説パネルの前まで行って再び写し始めることを繰り返していた。
 夏休み終了直前に、やっつけの一研究だろうか。彼女を見掛けたのは会場の入り口近くだったので、83点の展示作品すべてに対して解説丸写し(および作品一瞥)をやってたのかどうかはわからない。

 いやあ微笑ましい光景ですね。

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300

 すりーはんどれっど。ヘロドトスの『歴史』(松平千秋・訳、岩波文庫)を読んだので、比較しつつ思い出し鑑賞記。

 前4808月。前492年から前449年にわたったペルシア戦争の中で、マラトンの戦い(前490年)、サラミス海戦(前4809月)と並んで著名なテルモピュライの戦いを描く。
『歴史』での該当記事は全9巻(文庫では3分冊)中、巻7、201239節。

 マラトンの戦いではギリシアが勝利し、ペルシア王ダレイオスはこの敗北の心痛が原因だったのか直後に死亡するが、後継者のクセルクセスは周到に準備を行い、陸海ともギリシア勢を遥かに凌ぐ大軍を率いてヨーロッパに攻め込む。
 アナトリア以東、エーゲ海からギリシア本土に至るまでギリシア系、非ギリシア系を問わず多くの国や町がほとんど抵抗することなくペルシアに降り、残るはアテナイとスパルタを盟主とするわずかな諸国同盟だけになっていた

 エーゲ海沿いに、ぐるっと回って南下してきたペルシア陸海両軍を、ギリシア勢は本土とエウボイア島との間の狭い海峡アルテミシオンと、テルモピュライの狭隘な山道で同時に迎え撃つことにした。アルテミシオンの主戦力はアテナイ勢、テルモピュライはスパルタ勢である。
 この二箇所の地勢については『歴史』巻7175177、アルテミシオンの海戦は巻8、1~22で述べられている。
 テルモピュライとアルテミシオンは近接しており、映画の中でも山上からペルシア海軍が嵐で難破しているのを俯瞰する場面がある。この嵐のお蔭でペルシア海軍は弱体化し、劣勢だったギリシア海軍とはっきり勝負がつかないまま終わるのだが、テルモピュライのほうは、言うまでもなくレオニダス王以下スパルタの重装歩兵300人の全滅である。アメリカ人も玉砕や特攻が大好きなんだよねー。

スパルタではこの時期、アポロン・カルネイオス祭が重なっていた。この期間(9日間)の出征は禁じられているんだが、どんな理由であろうとスパルタが参戦しないとなると、すでに浮き足立っている同盟勢力が一斉に寝返る可能性が大いにあった。そこで士気の鼓舞のため、先遣隊として王自らと精鋭中の精鋭である親衛隊が赴くことになったのである (『歴史』巻7、206)

こういう特例を認めるんだったら、総兵力を出してもええやん、と思うんだが、つまりそれくらい神事と禁忌は重要だった、ということである。それに、祭が終わって直ちに駆け付ければ充分間に合う、と誰もが思っていたのであろう。
 映画じゃ、こうした経緯は全部すっ飛ばされてたね。出征が決まるまでにウダウダ揉めてた理由はなんだっけか。

 ヘロドトスによれば、テルモピュライ直前のペルシア軍(戦闘部隊)は陸海併せて264万(ペルシアに付いたギリシア勢力も含む)、うち陸軍の、さらにペルシア領内から動員された兵だけでも180万である(巻7、185)
 言うまでもなく誇張であり、映画では100万に減らされてるが誇張なのは変わりない。80万も減らしたのはなんでかね。語呂の問題?

 侵攻に先立って、クセルクセスはギリシア諸国に「土と水」を要求する。この言い回しは映画でも使われており、ジェラルド・バトラー演じるレオニダスは使者を殺すという暴挙に出る。これは現代だけでなく当時の感覚でも暴挙だ。ヘロドトスもそう述べている。
『歴史』では服属を要求するペルシアの使者をスパルタ人が殺したのは前491年か490年で、両国の王とも先代の時である。こういうことをやったものだから、スパルタでは以後、占卜で不吉な卦ばかりが出て、使者を殺した呪いだということになり、ペルシアへ償いのための使者を派遣するのである。
 父の跡を継いでいたクセルクセスは、「外国の使節を殺害するという暴挙によって国際間の慣習を踏みにじった」スパルタ人を寛容にも許したのであるが、ともかくこの先例があったために、遠征開始時、スパルタには使者は派遣されなかったのであった(巻7、133136)

 ペルシア側に間道の存在を教えたエピアルテスについてヘロドトスは、地元の出身者で莫大な報奨金目当てだった、とするのみである(巻7、213)。ところが映画では、わざわざ彼をスパルタ人で身体障害者であるとしている。
 スパルタの風習である身障児殺しを逃れて生き延び、なおスパルタ人として誇り高く戦うことを夢見るエピアルテスを、レオニダスは重装歩兵として戦うのは無理だから、という理由で戦闘に参加すること自体を憐れみ深く拒絶する。絶望したエピアルテスはペルシア側に走り、そうするとヘロドトスが偉大で寛容で、しかも容姿端麗にして堂々たる体躯の王者として描いたクセルクスはドラッグ・クイーンで、彼の随員は身障者ばかりでなのある。

 公開当時、ペルシア=悪=イスラムとしている、としていくらか批判が起きていたが、それ以前の問題だろう。

 私は過剰な筋肉が嫌いだ。教師の体罰と子供同士の殴り合いが日常茶飯事という小学校時代を送ったために、筋肉自体に対して条件反射的な警戒があるが(いや小学校卒業以来、殴り合いはしてないですが)、それはそれとして何か別の目的のための努力の副産物としての筋肉は美しく思うこともある。
 が、実用性のない過剰な筋肉それ自体を誇示する目的で造り上げられた過剰な筋肉には、それ自体への警戒と不信を抱く。それを賛美する精神にもだ。そんな人工的な筋肉は、身体改造以外の何ものでもない。是非や好みの判断は別として、ボディピアスや刺青、整形とどう違うというのか(いずれも相応の苦痛と危険を伴う)
 筋肉が増大しすぎるのを抑える遺伝子があることや、ステロイドで増大させすぎた筋肉が心臓や骨に負担を掛けることを持ち出すまでもなく、過剰な筋肉は人工物であり一種の異常である。グロテスクだ。無論、グロテスクなものも鑑賞の対象にはなりうるが。

 この時代、死後の救済を保証する宗教ではなく、国家の自由といった理念のために「全滅するまで戦う」のはギリシア人、それもごく一部だけである。国家が国民をそういう精神状態にまで追い込むことに再び成功するには、19世紀まで待たなくてはならない。
『300』のスパルタ人たちが纏う過剰で人工的な筋肉は、「全滅するまで戦う」ために障害児を殺すことをも厭わない精神の歪みが肉体に現れたかのようだ。もちろん当時のスパルタ人の歪みではなく、彼らを賛美する現代人の歪みである。つまりこの映画で描かれるのは、ヨーロッパのフリークスvsアジアのフリークスなのである。
 で、フリークスであるという自覚を持つアジアのフリークスと、自分たちが「健全なる肉体に健全なる精神を宿した自由の戦士」だと信じて疑わないヨーロッパのフリークスでは、どっちがたちが悪いのかは言うまでもない。

 なんてことを作り手も観客の大半も思わずに、「健全なる肉体に健全なる精神を宿した自由のヨーロッパ戦士vs悪のアジアのフリークス」だと思ってるんだろうなあ。

 なんでガチムチが嫌いなのに鑑賞する気になったかというと、偶々観たい映画がなかったのと、戦闘シーンに多少の期待があったのと、『シン・シティ』があまりにひどかったんで少しはマシになってるだろうかという好奇心があったから。
 映像としては『シン・シティ』より遥かに進歩してたし、戦闘シーンも見応えがありました。
 あと、ペルシア軍が間道を通ってギリシア軍の背後を突こうとしているのを、ギリシア勢は直前に投降者からの情報によって知っていたんだが、それで大半のギリシア兵が戦意を喪失したため、レオニダスは彼らに帰還を命じる。それでもスパルタ兵たち以外にも残って戦い、共に最期を遂げた部隊もいた(巻7、219222)。彼らを省略しなかった(あんまり目立たせなかったが)点も評価できる。
 それ以外については、あまりに呆れて却って感心してしまったっつーか、2007年にもなってこんな露骨な差別映画を作れて上映できて、しかも大した物議も醸さずに大ヒットしたのは特筆すべき現象だったんじゃないかと。

 レオニダスは先王の末弟で、妃はこの先王の一人娘である。彼女を妻としていたことが、レオニダスが継承争いに勝てた理由の一つだそうな。
 ヘロドトスはどうやら、有能で高貴な女性というのが好きで、そういう女性たちのためにしばしば紙幅を割いている。ゴルゴという素敵な名前のスパルタ王妃もその一人で、紹介されたエピソードは二つ。

 一つは彼女がまだ8、9歳だった頃(幼女ゴルゴ……)、アリストゴラスという陰謀家のイオニア人が彼女の父王を訪れ、ペルシアへの反乱に協力を要請し、渋る王に金額を提示し、値を吊り上げていった。それを傍らで聞いていたゴルゴが、お父様は買収されかかっている、と忠告したため、父王は娘の賢さを喜び、アリストゴラスを追い返した、という(巻5、4951)
 ちなみにこれはテルモピュライの十数年前の出来事である。

 もう一つはペルシア軍の遠征開始直前の出来事で、当時スパルタからペルシアに亡命していたデマラトスという人物が、さすがに祖国の危機を見過ごせなかったのか、密かに手紙でスパルタに知らせるのだが、これは通常の方法では読むことができなかった。スパルタの男たちが揃って首を傾げる(何しろ脳味噌まで筋肉だから)中、王妃ゴルゴが見事に読み方を解き明かしてみせたのであった(巻7、239)

 しかしだからって、映画で緊迫した戦争場面を何度も中断して、スパルタ本国での王妃様大活躍のエピソードを入れたのは、まったくの蛇足。

 戦争とは勇壮、悲壮、悲惨の連続ではなく、間抜けなことがしばしば起こる。この間抜けさをどう捉えるかによって、各人の性格が端的に示されるであろう。
 サラミス海戦で敗北したクセルクセスがペルシアに引き揚げている最中、デルポイの巫女に「スパルタ人はレオニダス殺害の補償を要求し、彼の差し出すものを受けよ」という託宣が下り、スパルタに届けられた。そこでスパルタ人は撤収中のクセルクセスのところまで、のこのこ出掛けていってこう言った。
「メディア人の王よ、スパルタ人ならびにヘラクレス家一族(レオニダスの一族はヘラクレスの末裔を称する)は、あなたがギリシア防衛に当ったスパルタの王を殺害なされたかどにより、その殺害の補償を要求します」

 図々しいんだか間抜けなんだかよくわからないこの要求に、クセルクセスは大いに笑ったという。
 クセルクセスの撤退後も、なおも多くの(ヘロドトスによれば30)の部隊がギリシア北部に残留し、翌春に再度侵攻することがすでに決定していた。残留部隊の指揮官はマルドニオスといい、これはギリシア遠征に乗り気でなかったクセルクセスを焚き付けた張本人である。
 スパルタ人の使者に対し、クセルクセスは笑いを納めた後、このマルドニオスを指して言った。
「いかにも、ここにいるマルドニオスが、相応の償いを与えるであろう」(巻8、114)
 この言葉を受けて使者はスパルタへ戻り、翌年(479)のプラタイアの戦いで、マルドニオスはスパルタ人によって討たれるのである(巻9、6364)

『歴史』と佐藤哲也氏『サラミス』の読み比べ 
 サラミス海戦について。テルモピュライとは非常に対照的。

『300 帝国の進撃』感想

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S‐Fマガジン10月号

 本日(09年8月25日)発売のS‐Fマガジン10月号に、エッセイを掲載していただきました。珍しく依頼されたお仕事です(HISTORIAシリーズは、頼まれもしないのに書いたのを刊行していただいております。大変ありがたいことです。その感謝を忘れたことはありません)。

 今号は神林長平氏、谷甲州氏、野阿梓氏のデビュー30周年記念特集という豪華さで、私は神林氏の特集に1頁書かせていただきました。一番好きな、というか一番思い出のある作品ということで、「完璧な涙」についてです。同特集ではほかに出渕裕氏、海猫沢めろん氏、虚淵玄氏、榎戸洋司氏、円城塔氏、大倉雅彦氏、桜坂洋氏、佐藤大氏、辻村深月氏、元長柾木氏がエッセイを書いておられます。

 ほかの方々のエッセイに比べて、個人的なことをあんまり書いてないんで、これでよかったんだろうか、という気がします。
 いや、『完璧な涙』でどこがどんなふうに印象的だったか、という内容だから個人的なのは個人的なんですが、作品との出会いとかそういう思い出については触れてないんで。

 というわけで、ここではエッセイで書かなかったもっと個人的なことを補足させていただきます。

『完璧な涙』は四つの短編からなる連作集で、その第一作であり表題作である「完璧な涙」と出会ったのは86年か87年、『S‐Fマガジン・セレクション1985』に於いてでした。中学2年か3年ですね。神林氏の作品自体との最初の出会いでもあったはずです。

 当時の私にとって、早川のSFはちょっと~かなり難しくて、でもその難しさがどうしようもなくかっこよかったのでした。でした、というか、今でもそう思っているフシがあります。

 その後、私はSFから離れ、さらには小説そのものもほとんど読まなくなってしまうのですが、大学時代の後半、偶々東城和実氏のコミック(タイトルは失念してしまいました)のあとがきで、『完璧な涙』が紹介されていたのが、再会(もしくは第二の出会い)となるわけです。
 懐かしかったのと、「あれ? もしかしてあれで完結じゃなくて連作だった?」という疑問から、すでに一冊にまとまって刊行されていたことをようやく知り、読んでみて、後はエッセイに書いたとおり、「感情がないキャラクター」というある意味ありふれた設定の、斬新な描き方にいたく感心したのでした。

 その後、しばらく神林作品を中心に日本SFをひとしきり読み続けたのですが、何しろ当時はSFが厳冬の状況にあったためか、しばらくすると再びSFから離れてしまったのでした。3、4年してまた戻ってきて、現在に至る。

 しかしそうやってSFとよりを戻したりまた別れたりを繰り返している間も、感情と意思と身体の関係性はずっと印象強く残っていて、それが認知科学への関心に繋がっているわけです。

720910 S‐Fマガジン 2009年 10月号

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3時10分、決断のとき

 57年の『決断の3時10分』のリメイク。57年版もエルモア・レナードの原作も未鑑賞だが、このリメイク版はどちらのファンからも評価が高いようである。

 アメリカ公開は2007年。ラッセル・クロウとクリスチャン・ベールが主演で、ピーター・フォンダまで出ていて、大ヒットこそしなかったものの高い評価を得て、作曲賞と音響賞でアカデミーにノミネートされたのに日本で未公開だったのは、「西部劇は売れない」と判断されたためだ。
 今頃公開されたのは、『ターミネーター4』の余禄。T4よりずっとクオリティが高くておもしろかったのにな(当のクリスチャン・ベールもずっといいし)。
 まあ公開されただけ良しとすべきなんだろう。神奈川では川崎の1館で夕方の回だけの上映だけだったが。何しろ、エド・ハリスとヴィゴ・モーテンセンの西部劇『アパルーサの決闘』さえDVDスルーになるくらいだ。

 クリスチャン・ベール演じるダンは南北戦争で片足を失った傷痍軍人で、今は家族とともにアリゾナで小さな牧場を営んでいる。しかし牧場が鉄道建設予定地になり、地主は彼らを立ち退かせようと、借金返済を理由に暴力に訴える。
 大物強盗一味のボス、ウェイド(ラッセル・クロウ)が逮捕され、護送されることになる。監獄のあるユマ行きの列車が出る駅までは三日行程。途中は砂漠や岩山といった厳しい環境で、そのうえ一味がボスを奪還しようと襲ってくる。
 200ドルという報酬に惹かれ、ウェイドは護衛役を引き受ける。

 近年、「巧いのになぜか埋没している」クリスチャン・ベールだが、今回はなかなか存在感があった。14歳の息子にはもはや軽蔑され、妻にも尊敬ではなく同情されつつあることをひしひしと感じながら、どうすることもできない無力感に苛まれる男を静かに演じている。
「この傷がもっとひどかったら、もっと金を貰えたのにな」と、そんなことを妻に零したら自分も彼女もますます惨めになるだけだと解っていながら、言わずにはいられない。そしてやっぱり惨めな気分に落ち込む。まあ、今回も地味は地味なんだけどね。

 ラッセル・クロウはこれまで観たうち、『L・A・コンフィデンシャル』以外のほとんどの役はどうにも暑苦しかったんだが(『クイック・アンド・デッド』と『グラディエーター』は可もなく不可もなく)、今回は暑苦しくなく抑えた演技でバランスが取れていた。
 いや、暑苦しいこと自体はそれほど問題じゃないんだ(長髪と体重増加が組み合わさると、暑苦しさは耐え難いものがあるが)。その暑苦しさで、共演者とバランスが取れていない、演技過剰というんではないが、共演者や作品そのものから浮いてるから嫌なんだ。

 ラッセル・クロウとクリスチャン・ベールは、役者として正反対のタイプということなのかな。クロウは協調性がなくて悪目立ちし、ベールは協調性がありすぎて埋没する、ということか。今回は二人ともバランスが取れていました。相互作用の結果かどうかは知らん。

 主役二人が際立つ一方、脇役陣は全体に地味。よく造り込まれているので、もう少し目立たせてもよかっただろうと思う。
 長男役のローガン・ラーマンは撮影当時、実際に14、5歳。『バタフライ・エフェクト』でアシュトン・カッチャーの子供時代を演じた子か。ずいぶん似た顔の子を選んだな、と思ったものだが、あのまま系統的には似た顔に成長したんだね。
 妻のグレッチェン・モルは地味だし出番もそれほど多くないが印象的だった。

 ピーター・フォンダは『イージー・ライダー』しか憶えてないんだが(『団塊ボーイズ』出てたのか。気が付かなかった)、かっこいい爺さんになったんだな。とはいえ、そのわりには退場の仕方が少々微妙……
 護送隊の1人で小悪党のケヴィン・デュランドは、見覚えがあると思ったら『バタフライ・エフェクト』『スモーキン・エース』『団塊ボーイズ』と出てるのね。たぶんどれも小さな役だったんだろうけど、印象に残ってたんだろうな。顔というか表情に特徴がある。今回はその表情が大変巧く活かされた役でした。またどっかで見かけたら、注目することにしよう。

 アリゾナの荒涼とした光景が美しい。砂漠と岩山ばかりで陽射しがすごくきついのに、みんな厚着してるなあと思ってたら途中で雪が降る。これだけ厚着なのは、西部劇ではちょっと珍しいかもしれない。強盗団の1人、ベン・フォスターの白い革のジャケットとか。
 作曲賞、音響賞にノミネートされるだけあって、サウンド全体も非常によかった。

 敢えて難を言うなら、まあ仕方ないことではあるんだけど、みんな顔がきれいすぎるんだよね。美しい、という意味ではなく、肌が滑らかすぎるし歯並びもいいし骨格も左右対称だ。傷跡もないし。要するに、出生前からの栄養状態の良さを如実に示して小奇麗にまとまりすぎてる。
 昔の西部劇だと、女優はともかく男優はごつい顔ばかりだったからな。今はそういう役者を探すほうが難しいんだろう。土埃等で汚して不潔に見せるという点では、今のほうが徹底してるけど。

 役者をやたらと汚すのは、『ロード・オブ・ザ・リング』のヴィゴ・モーテンセンからじゃないかと思うが(あれは自主的にやったそうだが)、少し後の『パイレーツ・オブ・カリビアン』で決定的になったという気がする。
『パイレーツ』は何が徹底的だったかって、役者たちの歯まで弄ったことだ。『3時10分』は、衣装や顔はそこそこ汚してたが、歯はきれいなままだった。やっぱ変だよ。

 所詮映画は絵空事なんだから、黄ばんだり黒ずんだ乱杭歯の不潔な男たちなんか観たくないという人もいるかもしれないが、私は観たい(観たいだけだよ、実物に近寄りたくはない)。少なくとも『パイレーツ・オブ・カリビアン』一作目は、海賊たちの不潔振りがおもしろさの二割くらいを占めてたわけだし。

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ぜんぶ、フィデルのせい

 1970年。お母さんは『マリ・クレール』の編集者で実家はシャトー、お父さんは弁護士(後でわかるが、スペインの伯爵家の出身)という9歳の女の子アンナが、オレンジをナイフとフォークで食べるような生活を送っていると、お父さんとお母さんが社会運動に「目覚めて」しまう。

 具体的には、お父さんの妹(字幕では妹となっていたけど、後でアンナが見ることになる古い写真が父親の子供時代のものだとしたら、姉ではないだろうか)が、夫をフランコ政権に殺されてフランスに逃げてきたのをきっかけに、なぜか何千キロも離れたチリの民主化運動への協力を始めたのである。
 思想の変化は生活の変化として如実に現れ、家には変な服を着てやたらと喫煙する他人が始終出入りするようになり、父親の服装も似たようなものになり、じきに家計が苦しくなって一家は庭付きの広い家から狭いアパートに引っ越さざるを得なくなる。
 アンナは、カトリック系のお嬢様学校から転校させられそうになる。どうしても嫌だと言い張って、どうにか残ることはできたが、宗教の時間には1人で自習室で過ごさなければいけない。
 引越しと同時に、カストロ政権から亡命してきたキューバ人の家政婦も辞めさせられる。彼女はアンナに、「ぜんぶ、フィデルのせいよ」と告げる。

 原題はLa faute a Fidelで、「フィデルの責任/フィデルのせい」。「ぜんぶ、フィデルのせい」としたのは巧いと思う。

 子供は保守的である。そうでないと思う人は、記憶力または観察力が足りない。少ない知識で常識を形成していて、そこから外れたものはすべて「変」だと思うし、習慣を変えられるのを非常に嫌がる。
 もっとも、その点は上の子より下の子のほうが柔軟だろう。2、3歳下と思われる弟のフランソワは、アンナより遥かに簡単に新しい生活に馴染んでしまう。

 勉強もスポーツも優秀で、できれば祖父母とシャトーに同居したいと思っているアンナは、新しい生活の何もかもが気に入らない。不規則でとっちらかっているし、「目覚めた」両親と新しい仲間たちの独善性も到底受け入れられない。
 それでも、新しい家政婦(投獄中のギリシア人活動家の妻)ともやがて仲良くなり、ギリシア料理にも慣れる。母親の実家で、叔母(母親の弟の妻)が「居場所がない」と嘆くのを見ると、表面ばかりを取り繕う古い生活に対して疑問も起きてくる。
 この叔母は、アンナの母の協力で密かに中絶している。理由はよく解らなかったのだが、跡継ぎを生むことだけを期待する周囲への反発だろうか。これをきっかけに、母は人工中絶合法化運動に傾倒していく。

 夫が釈放されたのでギリシア人家政婦は帰国する。事前に知らされていなかった(両親とも忙しくて忘れていたのである)アンナは悲しみ、怒るが、新しく来たベトナム人家政婦には、より速やかに馴染む。
 その頃には、遊びに来た友達が異様なものを見る目でアンナの生活を眺め回し、ベトナム料理に顔をしかめるのに対し、反感を覚えるようになっている。その子が、少し前までのアンナの行動をそっくりなぞっていることには気づいていない。

 選挙でアジェンテが勝利し、アンナは両親と仲間たちの喜びに共感し、連帯感を味わう。そして気が付くと、カトリック・スクールの気風からはもはや逸脱してしまっている。
 しかし母は中絶合法化運動にのめり込んでいくことで父と衝突し、二人は互いの欺瞞を罵り合う。そして家庭は崩壊してしまう。

 子供は親を選べないし、親は子供を導けない。理想に燃えた活動家の親なんてものは、子供にとっては迷惑なだけってことだな。70年代にはごまんといただろう。
 それにしても、この時代のフランスが舞台の映画って、たぶん初めて観たが、英米と違ってファッションがいかにもな70年代じゃないんだな。「髭の活動家」たちでさえそうだ(髭があって年齢がよく判らないのだが、たぶん皆かなり若いだろう)。『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』のパリの下町は、いかにもな60年代テイストだったが。70年代ファッションは、フランス人の趣味に会わなかったとか。

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第十七捕虜収容所

 ちと更新が滞っていたが復活。

 1953年、ビリー・ワイルダー監督作。1944年のドイツ軍捕虜収容所が舞台だから、9年しか経ってないんだな。
 米軍の軍曹ばかりが集められた収容棟で、入念な脱走計画があっさり露見したり、隠し持っていたラジオが没収されたりということが続き、スパイがいるに違いないと収容者たちは疑う。

 全員で疑心暗鬼になるのではなく、セフトンという男ただ1人が疑われることになる。彼は収容所の商売人で、いろんなものを調達して流通させるだけでなく、競馬(鼠の)を開催したり、じゃがいもの皮でウィスキーを作ったり、ソ連女性兵捕虜たちが虱駆除の小屋に入るところを望遠鏡で覗かせたりといった創意に富んだ商売をしているのだった。
 セフトンは、これによって非常に羽振りのいい暮らしをしている(ドイツ人看守たちですらなかなか手に入れられない高級葉巻や絹のストッキングなどを仕入れて、彼らと取り引きまでしている)。

 捕虜たちの足許を見た商売だし、附けは一切認めていないが、あこぎと言えるほどのことはしていない。自家製ウィスキーは「ガソリンよりは遥かにマシ」だし、望遠鏡で見えるのは女性捕虜たちが小屋に入るところだけで服を脱ぎ着するところは一切見えないのだが皆は承知の上で列を作る。
 必要悪どころか、その区画の捕虜たち数百人が充分恩恵を受けているのだが、要するに妬まれたのである。

 疑わしい、というだけで同じ棟の収容者たち全員(3、40人)がセフトンを村八分にし、彼の商売用の備蓄を取り上げ、挙句に夜中にリンチにかける。
 演出の遣り様によっては陰惨な話になりかねないが、心理描写に重点を置かず、「スパイは誰か」というサスペンスを軸にしながらも捕虜たちの日常の描写に専念していることで軽妙な仕上がりになっている。

 私はサスペンスを含む「謎解き」全般に興味が薄いが、この作品では、スパイ疑惑という要素と収容所という環境に於ける悲喜劇とが互いに巧く噛み合って機能している。収容所生活を悲喜劇として描くだけでも充分に作品として成り立ちうるだろうけれど、やはり少々重苦しい。そこへスパイ疑惑がほどよく緊張感を継続させているわけだ。
 作り手によっては、このサスペンス部分が取って付けたようになったりするんだろうけど。

 ウィリアム・ホールデン演じるセフトンの造型も巧い。周囲からの陰険な攻撃に、やたらと苦悩してみせるのではなく寡黙に耐える。耐えてるように見えて実はなんにも感じてないだけの鈍感なヒーローではなく、表情や態度に追い詰められた焦燥を滲ませる。
 それが、セフトンを排撃することで結束力の高まった捕虜たちの明るさとミスマッチになるのではなく、好対照を成している。

 一方、ほかの捕虜たちは「群衆」であってキャラクターの描き分けがされていない。明確に描き分けられているのは、お笑い担当の凸凹コンビだけだが、彼らは非常に類型的なキャラクターである。あとは皆、類型ですらない没個性だ。
 とはいえ、これでいいんだろう。1人ひとりを描き分けてたら重くなるし、それよりも捕虜収容所という特殊な環境を個性のないキャラクターたちに送らせることによって、浮かび上がってくるのは普遍性だ。

 絶滅収容所ではないので、とりあえず彼らは生かされている。そうすると人生の、世間のわびしさ世知辛さがどこまでも追い掛けてきて、ローンの督促状が(もちろんアメリカから)何通も届いたりする。看守たちとの妙な馴れ合いも生まれる(「所長から通達。低空飛行中の我が軍の飛行機に石を投げるな」)。
 ドイツ人看守たち、主任の1人と所長は、類型的ではあり、あまり尺も割かれていないが、それぞれの性格は明確に描き出されている。主任は捕虜たちに対して絶対的な優越感と一方的な親しみを並存させている下衆野郎だし、所長はナチ政権下で出世し損ねたのをどうにか挽回しようと頑張っている。

 ワイルダーは、いわゆる艶笑コメディもおもしろいんだけど、これくらい緊張感を引っ張る作品のほうがいいな。『サンセット大通り』まで行くと怖すぎだが。

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わが教え子 ヒトラー

 原題はMein Führer。言うまでもなく「わが総統」だが、ここでは「総統」ヒトラーの「指導者」のことである。
 大衆操作の一環として、ヒトラーに「演説指導者」が付いていたのは史実である。もちろんドイツ人だったのだが、「実はユダヤ人だったら」というブラックコメディ。ヒトラーがユダヤ人の血を引いている、という伝説と同じレベルのネタだね。このヒトラー=ユダヤ人説も作中に取り入れられている。

 笑いは極限の悲惨さからも生まれ得る。それは、あまりに受け入れ難い状況に対する自己防衛反応である。笑いは緊張が緩和された時に起こる生得的な反応であり、転じて、緊張を緩和するための反応でもあるからだ。3歳くらいまでの子供の笑いは、この緊張‐緩和の反応だ。
 ユーモアというものも、本来は「意外なオチ」という緊張‐緩和だ。笑いが「喜び」や「幸福感」という感情と結び付いたのは、そうした感情による高揚という緊張を緩和するためであろう(笑いによって喜びや幸福感が増幅されたり、喜びや幸福感が笑いに先立つのではなく笑いからそれらの感情が生まれることすらあるが)。いずれにせよ、笑いは喜び・幸福感そのものではない。嘲笑は、攻撃行動の一種だろう。

 そういった笑いの本質は通常、理解されていない。だから極限の緊張を緩和するための防衛反応としての笑いは、不謹慎と見做される。どのみち、極限の悲惨さから生まれる笑いを表現できるのは、もはや「まとも」ではなくなった者だけだ。ゴヤ、ディクスらのカリカチュアは、彼らの体験とそれを把握し表現する才能の双方が揃ったことで生み出された。

『わが教え子 ヒトラー』は、そこまでの「極限の笑い」を描こうとはしていない。平和な社会の普通の人間の感覚でついていける程度の笑いだ。最初からそこまでしか目指していないので、悲惨さの表現は抑えている。悲惨さにリアリティを出そうとしたら、笑いとのバランスが取れなくなっていただろう。リアリティは追求すればいいというものじゃないからね。

 ヒトラーとその周辺の映画化は、自ずとそっくりさん大会というか物真似選手権の様相を呈する。当人たちが宣伝に力を入れていたので写真や映像が多く残っている上に、彼ら自身の風貌や服装が「描き分けしやすいキャラ」化しているのだ。
 まじめな映画(『ヒトラー 最後の12日間』とか)でさえその有様だから、最初からカリカチュアを目指しているこの映画は、もはや仮装行列のレベルである。
 で、そういう場で、ヒトラーが父との相克を語って「ファーター!」と叫び、それを覗き見てシュペーアが涙し、ゲッペルスとヒムラーは陰謀を企む。

 ヒトラーの周辺を笑いのめすのは、まずまず成功といったところ。ヒトラーそのものについては……ヒトラーの指導のため収容所から連れ出されてきたユダヤ人俳優が、この機会を利用してヒトラーを虚仮にすることにし、フロイト派と化すところまでは笑える。
 そこから「医者と患者」の間に共依存が生じてしまうというアイディアも悪くない。ただし、成功はしていない。役者は皆その線に沿って演技しているので、演出の問題だ。

 セラピーを、そこで生じる感動やら葛藤まで含めて笑いものにする手法は英米の映画ではよく見掛けるし、成功しているものも多い。だが『わが教え子 ヒトラー』では、完全な失敗ではないものの湿っぽくなってしまい、あれでは観客はヒトラーに同情してしまいかねない上に、ユダヤ人俳優アドルフ・グリュンバウム教授の最後の行動を「裏切り」だと思いかねない。
 ドイツの観客にとっては、ヒトラーは同情の余地がない存在だ。だからめそめそと弱音を吐くさまは可笑しいし、グリュンバウム教授の最後の行動は勇気ある「正義」である。
 しかし観客がその前提を共有していない場合、上記の反応を引き起こしかねない。そういう観客は無知で鈍感だ、ということにもちろんなる。だが、ヒトラーの「セラピー」を徹底的に笑いものにするのが成功していれば、そうした反応を減らすことができたはずだ。

 グリュンバウム教授を演じたのは、『善き人のためのソナタ』の国家保安省局員、ウルリッヒ・ミューエ。『善き人の』の時と比べるとえらい老けてるんだが、一年しか経ってないのね。で、この作品の後に54歳で亡くなっている。
 ヒトラーとその周辺を演じた役者たちがスラップスティックな笑いに徹しているのに対し、ミューエは苦悩から生み出される笑いという複雑な演技を成功させている。これを監督が活かしきれていないのが惜しまれる。

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レズヴァーン・ミカイリー

『ミカイールの階梯』に登場。テングリ大山系山中(タリム盆地側)に住む「ミカイリー一族」の一員であり、旧時代の遺産を守護するという彼らの「使命」の象徴とされる「守護者」(ハーフェズ、ラテン文字表記はhafez)である。

 性染色体XXYの男性であり、余分なX染色体の影響を除くための遺伝子治療が少年期の数年間にわたって行われた。しかし技術が衰退した上に遺伝子の安定性も失われたこの時代に於いて、遺伝子治療は非常に困難であり、充分な効果が得られなかった。それゆえ彼の肉体には、女性化、長身、造精能力の障害などXXY特有の症状が(比較的軽微とはいえ)見られる。

 年齢は明記していないが、20代半ばを想定。痩身で筋肉も脂肪も少なく、女性的というよりは中性的な体形である(単に背が高いだけでなく、女にしては全体に柄が大きすぎる)。体毛は薄く(むしろ平均的な女性よりも薄い)、乳房は膨らんでいるが着衣であればほとんど目に付かない程度。声も、男女どちらとも区別し難い。
 ミカイリー一族は近親交配の率が高いため、互いによく似通った容貌を持つ。欧亜混血の造作、黒髪、やや吊り上がった杏仁形の目などが特徴であり、レズヴァーンもそれらを受け継いでいる。

 なお、作中では説明を省いたが、X染色体を二つ以上持つ個体(通常は女性)では、各細胞内のXは一方(父親由来と母親由来のどちらか)が休眠状態になる。どちらが休眠するかは同一個体の体内でもランダムで、だから例えば片目は色盲だがもう一方の目は正常、という個体(女性)もいる。色盲の変異遺伝子を持つX染色体を一方の親から、正常な遺伝子を持つX染色体をもう一方の親から受け継ぎ、片目では変異遺伝子のXが、反対の目では正常遺伝子のXがそれぞれ発現した結果である。

 しかし休眠状態になったX染色体中でも発現する遺伝子は複数存在し、それはXが通常より多い個体(XXYやXXXなど)に遺伝子の重複によるさまざまな症状が現れることからも明らかである。
 例えば男のほうが女より平均して長身なのは、身長を伸ばす遺伝子がY上にあるからだが、それとは別に、骨の成長に関わるSHOX遺伝子はXとYの両方に存在する。性染色体をX一つしか持たない個体(Xを1個欠いた女性とも、Yを欠いた男性ともいえる)は、すなわちSHOX遺伝子を一つしか持たないため、著しく低身長になる。そしてXXYが長身なのは、SHOX遺伝子を三つ持ち、かつそのすべてが発現しているためである。
 レズヴァーンが施された遺伝子治療は、休眠中のX染色体上でなお発現している遺伝子を不活性化するものだったと思われる。

 ハーフェズ(守護者)はなんら特殊な形質を持たないとされ、能力や外見になんら変わったところはない。しかしハーフェズとなるのは、「ハーフェズ遺伝子」と呼ばれる特定の遺伝子を持つ者だけである。この遺伝子はX染色体上にあり、休眠中のX染色体上に在っても発現する。
 父親がハーフェズであった場合、娘は必ずハーフェズとなる。母親がハーフェズの場合は、卵子の減数分裂の際、X染色体同士で交叉が起こるため、ハーフェズ遺伝子の乗ったX染色体を受け継いだ娘もしくは息子だけがハーフェズとなる。
 レズヴァーンは、父親からハーフェズ遺伝子を受け継いでいる。父親の精子が、XとY、両方の性染色体を持っていたのである。

 ハーフェズの誕生は、生殖操作技術によって厳重に管理されている(男女を問わず、ハーフェズは体外受精でのみ子供をもうけることが許される)。したがって、本来ならXXYのハーフェズが生まれることはない。異常のある配偶子は体外受精に使用されないからである。
 レズヴァーンは、父親であるソルーシュが一族を出奔し、貧しいマフディ教団信徒の女性との間にもうけた子供である。レズヴァーンが生まれて数ヵ月後、窮乏に耐え切れなくなったソルーシュは家族を連れて、一族の許に戻り、その後、レズヴァーンがハーフェズであると判明した。

 ソルーシュの出奔は、ミカイリー一族の在り方に対する抗議だった。しかし他のミカイリーたちにしてみれば、彼の行動はハーフェズでありながら一族の要としての役割はもちろん、一族の義務(知識や技術を保全するための努力、テングリ大山系一帯の勢力均衡の維持など)を放棄した身勝手でしかなかった。
 しかも過酷な生活にわずか数年で音を上げ、妻子まで連れて戻ってきた後も、相変わらず義務を果たそうとはせず、安楽な生活を送りながら批判はやめないという有様だった。もっとも、その数年間の窮乏生活で身体を壊してしまい、それが原因で十数年後、比較的若くして死んでいるので、根性なしと断じてしまうのは少々酷だともいえるが、そこまで考慮してやるミカイリーはいないようである。

 このように父親がたいへん評判の悪い人物だったため、レズヴァーンの一族に於ける立場も微妙である。さらに、レズヴァーンの誕生を「不名誉な事故」と見る傾向もある。そういう者たちにとって、彼がXXYであるのが問題というより、一族のコントロールを離れて誕生した者であることが単に気に食わないのである。
 ミカイリー一族の当主はハーフェズから選ばれるのだが、5年前(2442年)の選出の際、すでにソルーシュの死亡から2年余り経っていたにもかかわらず、レズヴァーンを推す者は少なかった。多数の支持によって新たな当主となったのは、前当主の娘で、レズヴァーンより若いティラーだった(『ミカイールの階梯』本編開始の3ヶ月前に暗殺される)。
 ティラーの兄、ミルザは、レズヴァーンを推した一人だった。

 レズヴァーンの母親は、旧時代の知識を授けられた上で正式にソルーシュの妻として受け入れられたが、ミカイリー一族に馴染むことができないまま孤独のうちに、ソルーシュより一年ほど早く没した。彼女の兄の息子であるアリアンも幼年期に一族に引き取られたが、叔母に深く同情し、ミカイリーたちを恨んでいた。
 レズヴァーン自身は、母について何も語っていない。

 ハーフェズか否かは、遺伝子を調べない限り判別できない。しかし一族の「象徴」としての役割のため、一目で見分けられるよう遺伝子操作で虹彩を黄色く変えられている。明るい黄色(金色)の瞳は、「黄玉の瞳」と呼ばれる。
 組み換えは体外受精の際、初期胚の段階で行われる。比較的簡単な操作のようだが、それでも組み換えた遺伝子がうまく発現しないこともある。レズヴァーンはハーフェズであると判明したのが生後数ヵ月で、虹彩の遺伝子組み換えはその後行われた。遺伝子の発現が不充分で、黄色というよりは明るい茶色の瞳になってしまったのは単なる偶然かもしれないが、一族の多くは、組み換えの時期が遅かったためだと見做した。

 特別な例外を除き、ハーフェズは天使に関係した名(「天使」を意味する語や、特定の天使の名)を与えられる。「レズヴァーン」はイスラム伝承で天国の門衛を務める天使の名であり、また「天国」そのものの名称でもある。アラビア語では「リドワーン」または「リズワーン」で、レズヴァーンはそのペルシア語形。アラビア語形で「ド」または「ズ」とカタカナ表記される子音は、アラビア語にしかないもので、敢えてラテン文字表記するなら「dz」。「リド/ズワーン」はRidzwanとなる。
 ペルシア語では、同じ文字を使ってはいるが「dz」の音はなく、普通に「z」(日本語のザ行)と発音する。「レズヴァーン」はRezvan(ペルシア語にはw音がなく、アラビア語にはv音がない。アラビア語のwはペルシア語ではvに変わる)。まあどのみち、作中で使われるイラン系言語(「タジク語」)は、現代ペルシア語とは相当隔たっているんだろうけど。

 リドワーンもレズヴァーンも、現在のイスラム圏で普通に人名として使われている。ところが、アラビア語圏ではリドワーンは男性名なのだが、イランではレズヴァーンは女性名である。なお、アフガニスタンでもペルシア語と同系の言語が使われているが、アフガン戦争を取材した日本人による著書では、この名が男性に使われている一例があった。
 上記のとおりハーフェズだと判明したのが生後数ヵ月後だったレズヴァーンは、それ以前は別の名があった。この本来の名は不明。女性に使われるのが一般的な名前が与えられたのは、彼の父に悪感情を持つ者たちの大人げない嫌がらせだったのかもしれない。

 余談(いや、そもそもこの設定集そのものが余談の集積なんだが): ペルシア語をはじめとするイラン語群は名詞、目的語/補語、述語のSOV型である。品詞の性(英語のhe, sheなど)は、言語によっては残っているものの、大方の言語では消滅している。
『ミカイールの階梯』の「タジク語」は、チュルク諸語の影響を多大に受けているのは確実である。つまり、品詞の性はほぼ消滅し、語順はもちろんSOVのまま、ということになる。
 というわけで、作中でも言及されているとおり三人称に性の区別はなく(したがって「彼」「彼女」という表現は、日本語で記述する上での便宜的なもの、ということになる)、レズヴァーンの「あの男たちを――殺せ」という台詞は、「実際に」彼が言った言葉と同じ語順なのである。余談終わり。

『グアルディア』のアンヘルが「男装の麗人」のパロディ(男装しても男に見えないにもかかわらず、女の格好をするとむしろ女装の男に見える)であるのに対し、レズヴァーンは「女装の美形」のパロディである。女装は似合うが女に見えない、という。

 紀元前30年以降、エジプトの新たな支配者となったローマ人たちは、ミイラ作りの風習を取り入れたが、防腐処理技術は巧みではなく、代わりに亜麻布が美しい幾何学模様になるよう死体を丁寧に包んだ。包みは人体の形に整えられ、顔の部分には目鼻も描かれた。
 これらローマ期のミイラの一体が、それよりずっと古い時代の女性の棺から発見された。一見したところ、ミイラというよりは布製の女性の人形(等身大)のようである。布の巻き方は非常に丁寧で、手足の指は一本一本別々に布を巻かれ、乳房や腰、太腿などは詰め物をして形を補正されている。鼻の形も作られ、目や唇も描かれている。
 ところが1960年代にX線写真を撮ったところ、中身は男性であることが判明した。彼が何者だったかは、まったく不明である。ただ、両膝に描かれた模様は当時のダンサー(資料では性別の記載なし)がしていた刺青と似ているという。また、布で形作られた「裸体」の上から紐状の衣装を着け、宝石を嵌めこんだサンダルを履いた服装も、「彼」がダンサーだった、あるいはダンサーに擬せられたという推測の裏付けとなる。

「彼」は何者で、どんな理由で「女」にさせられたのか。宗教的(呪術的)な理由だったのはほぼ間違いないだろうし、可能性は非常に低いが今後このような事例について記された文献が発見されるかもしれない。
 だが、生前の彼が、自分の死後の運命を知っていたのか、知ったとしたらどう受け止めたのか、あるいは、「死後」の彼がこの運命をどう受け止めているのか、我々は決して知ることができない。彼の心には、決して触れることができないのだ。「女装」させられたミイラはグロテスクだが、死者自身は静謐だ。

 レズヴァーン・ミカイリーというキャラクターは、この「彼」にインスパイアされて生まれた。厚い化粧と、ごてごてした衣装の下の彼の心には、誰も触れることができない。己の言葉が信じられないと語る彼の言葉から、彼の心を推し量るのは無意味だ。

How I learned to stop worrying and love the bomb.

『博士の異常な愛情』の副題である。「なぜこんなことをするのか」とフェレシュテに問われたレズヴァーンは、認知論の知見を延々と語った挙句、「以上が、“如何にして私は思い悩むを止めて爆弾を愛するようになったか”です」と答える。なお、映画の邦題としての公式の訳は、「如何にして私は心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」である。

 ストレンジラブ博士の「内面」を描くのも、彼の言葉が「真実」なのかどうかを判断するのも無意味である。そしてそれは、レズヴァーンにも、仁木作品も含めたすべてのフィクションに登場するキャラクター、さらには現実の人間についても言えることである。
 誰も他人の心には触れることができない。「私は苦しい」と誰かが言った時、それが本当なのかは、誰にもわからない。
 或いは、「私は苦しい」という言葉が表す苦しみが、発言者と、それを聞いた相手が思い浮かべたものと一致することは決してない。それどころか、発言者自身の内部の苦しみとすら一致していないだろう。語られた瞬間、その言葉は語られた対象から乖離する。フィクションに於ける「心理描写」なんぞは無意味、ということになる。
 ちなみに、私の作品に於ける暴力や悲惨な場面の描写が、スラップスティックになるか淡々とするかどちらかに傾きがちなのは、間違いなくキューブリックの影響である。

「内面描写」を拒絶するキャラクターであるレズヴァーンと、「内面」が外部に表れることのない殺戮機械パリーサは、だから対をなす存在なのである。

関連記事: 「殺戮機械」 

 以下、ネタばれ注意。

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ヒストリア

08年7月、初掲載。09年4月に加筆修正したものを再加筆修正。

 設定のまとめを作ろうかと思い立つ。同じシリーズの『ミカイールの階梯』を執筆中の現在、しばしば設定を忘れて前二作を読み返す体たらくである。設定一覧は作っているのだが、一覧表のどこに何を書いたかも忘れる。ブログの機能を使ったら便利なんじゃないかと思い付いたのであった。それを公開するのもどうかという気もするんだが、そもそもブログというのは興味を持った人だけが読んでくれるものなのだから、まあいいや。ということにする。

 シリーズ名は「HISTORIA」(09年3月決定)。『ラ・イストリア』と同じですね。こっちの読みは「ヒストリア」。ギリシャ語もラテン語も同じ発音。とりあえず表記はラテン文字。意味は『ラ・イストリア』の巻頭に載せたのを据え置で、

 1. 歴史、過去の事実
 2. (架空の)物語、作り話

「作り話」だということを、わざわざ強調しますよ。

 シリーズといっても一繋がりの物語ではなく、同一の世界を舞台にした連作を、書ける限り書いていきたいと思っています。各物語同士の繋がりは薄く、一応の方向性はあるけど、「大きな物語」はない。どの作品から読んでも大丈夫、みたいな。

 原則として、「裏設定」は作りません。作中で直接もしくは間接に言及しない設定は存在しない。『グアルディア』と『ラ・イストリア』のどちらにも、いずれ回収するつもりの伏線が張ってありますが、いつ回収できるかわからんので、それらにもできるだけ触れないことにします。
 ぼちぼちやっていきますので、よろしくお願いします。

 このシリーズのそもそもの発端は、「生体甲冑」というガジェットである。『グアルディア』と『ラ・イストリア』はある意味、「生体甲冑の物語」であった。
 しかし三作目の『ミカイールの階梯』(09年5月刊行)からは、いよいよ「生体甲冑の物語」を超えた大風呂敷が広げられる(というわけで、生体甲冑は登場しない)。どのくらい大風呂敷かというと、シリーズの主題は、

  「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」
   D'où venons-nous? Que Sommes-nous? Où allons-nous?

 となりますよ。あんまり真に受けないように。何しろゴーギャンですから。

Gauguin_nous00

設定集コンテンツ

関連記事 「年表」 

参考記事 「女子大生とフォルクローレ」 エキゾティシズムについて。

       ゴーギャン展感想 ゴーギャンとタヒチと作品について。

 以下、ネタバレ注意。

 

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