第十七捕虜収容所
ちと更新が滞っていたが復活。
1953年、ビリー・ワイルダー監督作。1944年のドイツ軍捕虜収容所が舞台だから、9年しか経ってないんだな。
米軍の軍曹ばかりが集められた収容棟で、入念な脱走計画があっさり露見したり、隠し持っていたラジオが没収されたりということが続き、スパイがいるに違いないと収容者たちは疑う。
全員で疑心暗鬼になるのではなく、セフトンという男ただ1人が疑われることになる。彼は収容所の商売人で、いろんなものを調達して流通させるだけでなく、競馬(鼠の)を開催したり、じゃがいもの皮でウィスキーを作ったり、ソ連女性兵捕虜たちが虱駆除の小屋に入るところを望遠鏡で覗かせたりといった創意に富んだ商売をしているのだった。
セフトンは、これによって非常に羽振りのいい暮らしをしている(ドイツ人看守たちですらなかなか手に入れられない高級葉巻や絹のストッキングなどを仕入れて、彼らと取り引きまでしている)。
捕虜たちの足許を見た商売だし、附けは一切認めていないが、あこぎと言えるほどのことはしていない。自家製ウィスキーは「ガソリンよりは遥かにマシ」だし、望遠鏡で見えるのは女性捕虜たちが小屋に入るところだけで服を脱ぎ着するところは一切見えないのだが皆は承知の上で列を作る。
必要悪どころか、その区画の捕虜たち数百人が充分恩恵を受けているのだが、要するに妬まれたのである。
疑わしい、というだけで同じ棟の収容者たち全員(3、40人)がセフトンを村八分にし、彼の商売用の備蓄を取り上げ、挙句に夜中にリンチにかける。
演出の遣り様によっては陰惨な話になりかねないが、心理描写に重点を置かず、「スパイは誰か」というサスペンスを軸にしながらも捕虜たちの日常の描写に専念していることで軽妙な仕上がりになっている。
私はサスペンスを含む「謎解き」全般に興味が薄いが、この作品では、スパイ疑惑という要素と収容所という環境に於ける悲喜劇とが互いに巧く噛み合って機能している。収容所生活を悲喜劇として描くだけでも充分に作品として成り立ちうるだろうけれど、やはり少々重苦しい。そこへスパイ疑惑がほどよく緊張感を継続させているわけだ。
作り手によっては、このサスペンス部分が取って付けたようになったりするんだろうけど。
ウィリアム・ホールデン演じるセフトンの造型も巧い。周囲からの陰険な攻撃に、やたらと苦悩してみせるのではなく寡黙に耐える。耐えてるように見えて実はなんにも感じてないだけの鈍感なヒーローではなく、表情や態度に追い詰められた焦燥を滲ませる。
それが、セフトンを排撃することで結束力の高まった捕虜たちの明るさとミスマッチになるのではなく、好対照を成している。
一方、ほかの捕虜たちは「群衆」であってキャラクターの描き分けがされていない。明確に描き分けられているのは、お笑い担当の凸凹コンビだけだが、彼らは非常に類型的なキャラクターである。あとは皆、類型ですらない没個性だ。
とはいえ、これでいいんだろう。1人ひとりを描き分けてたら重くなるし、それよりも捕虜収容所という特殊な環境を個性のないキャラクターたちに送らせることによって、浮かび上がってくるのは普遍性だ。
絶滅収容所ではないので、とりあえず彼らは生かされている。そうすると人生の、世間のわびしさ世知辛さがどこまでも追い掛けてきて、ローンの督促状が(もちろんアメリカから)何通も届いたりする。看守たちとの妙な馴れ合いも生まれる(「所長から通達。低空飛行中の我が軍の飛行機に石を投げるな」)。
ドイツ人看守たち、主任の1人と所長は、類型的ではあり、あまり尺も割かれていないが、それぞれの性格は明確に描き出されている。主任は捕虜たちに対して絶対的な優越感と一方的な親しみを並存させている下衆野郎だし、所長はナチ政権下で出世し損ねたのをどうにか挽回しようと頑張っている。
ワイルダーは、いわゆる艶笑コメディもおもしろいんだけど、これくらい緊張感を引っ張る作品のほうがいいな。『サンセット大通り』まで行くと怖すぎだが。
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