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ヒストリア

08年7月、初掲載。09年4月に加筆修正したものを再加筆修正。

 設定のまとめを作ろうかと思い立つ。同じシリーズの『ミカイールの階梯』を執筆中の現在、しばしば設定を忘れて前二作を読み返す体たらくである。設定一覧は作っているのだが、一覧表のどこに何を書いたかも忘れる。ブログの機能を使ったら便利なんじゃないかと思い付いたのであった。それを公開するのもどうかという気もするんだが、そもそもブログというのは興味を持った人だけが読んでくれるものなのだから、まあいいや。ということにする。

 シリーズ名は「HISTORIA」(09年3月決定)。『ラ・イストリア』と同じですね。こっちの読みは「ヒストリア」。ギリシャ語もラテン語も同じ発音。とりあえず表記はラテン文字。意味は『ラ・イストリア』の巻頭に載せたのを据え置で、

 1. 歴史、過去の事実
 2. (架空の)物語、作り話

「作り話」だということを、わざわざ強調しますよ。

 シリーズといっても一繋がりの物語ではなく、同一の世界を舞台にした連作を、書ける限り書いていきたいと思っています。各物語同士の繋がりは薄く、一応の方向性はあるけど、「大きな物語」はない。どの作品から読んでも大丈夫、みたいな。

 原則として、「裏設定」は作りません。作中で直接もしくは間接に言及しない設定は存在しない。『グアルディア』と『ラ・イストリア』のどちらにも、いずれ回収するつもりの伏線が張ってありますが、いつ回収できるかわからんので、それらにもできるだけ触れないことにします。
 ぼちぼちやっていきますので、よろしくお願いします。

 このシリーズのそもそもの発端は、「生体甲冑」というガジェットである。『グアルディア』と『ラ・イストリア』はある意味、「生体甲冑の物語」であった。
 しかし三作目の『ミカイールの階梯』(09年5月刊行)からは、いよいよ「生体甲冑の物語」を超えた大風呂敷が広げられる(というわけで、生体甲冑は登場しない)。どのくらい大風呂敷かというと、シリーズの主題は、

  「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」
   D'où venons-nous? Que Sommes-nous? Où allons-nous?

 となりますよ。あんまり真に受けないように。何しろゴーギャンですから。

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設定集コンテンツ

関連記事 「年表」 

参考記事 「女子大生とフォルクローレ」 エキゾティシズムについて。

       ゴーギャン展感想 ゴーギャンとタヒチと作品について。

 以下、ネタバレ注意。

 

「ミュトス」とは本来、言葉であり、語られたことすべてを指すと同時に、語り手の意図でもあった。
 文明化されるにつれて、ギリシア人は「真実」である言葉とそうでない言葉の区別を必要とするようになった。そこで「真実の言葉」は「ロゴス」とされ、ミュトスはそうでない言葉、そして語り手の作為を指すようになった。

 さらに、語り伝えられてきた物語が真実か否かを区別する必要も生じた。その結果、真偽を確かめるための探求すなわち「ヒストリア」が行われた。真実の物語と認められたものだけがヒストリア「歴史」であり、そうでない物語はミュトス「作り話」となった。神話もまたミュトスとされた。
 しかし人間の意図の入らない「真実」を表し、かつ「真実」そのものでもある「真実の言葉」など、観念上のものに過ぎない。言葉と、その言葉が語る対象はイコールではないのだ。「真実」とそれを語った言葉の間には齟齬が生じる。
 したがって、どれほど厳密にヒストリアすなわち探求/研究しようと、言葉にされた瞬間それは物語と化す。

 HISTORIAシリーズの作品はいずれも「すでに語られた」ものである。語り手は無論、仁木稔ではない(「仁木稔という作家」ではない「私」、でもない)。
 実のところ、語り手が誰かという謎は、このシリーズの大風呂敷の最外縁に当たる。まあ、このまま書き続けて、刊行し続けられるなら、いつかは解き明かすことができるでしょう。

 いかなる超越的な語り手であろうと、すべてを語り尽くすことはできない。したがって物語も登場人物も、ある程度は類型化・記号化を免れない。或いは、何者かによって「語られたHISTORIA」を、仁木稔がさらに種々の制約(ジャンルとかニーズとか執筆時点に於ける能力の限界とか)の下で小説の形に執筆したものが、読者諸氏が読むことになる作品である、という言い方もできるかもしれない。

 ともあれ、物語/キャラクターは多かれ少なかれ類型化・記号化されたものである。だから、多かれ少なかれ「ありがち」「予定調和」になるのは、むしろ当然のことだ。重要なのは、その「ありがち」「予定調和」が、どのようにして語られるか、である。
 深読みすることがヒト固有の能力であるならば、「ありがち」「予定調和」を作品の欠陥と見做し、それ以上を読み取ろうとしない読者は、持って生まれた能力を使用していないことになる。作者としては、使用していないだけであって欠如しているわけではないことを願いたい。

関連記事: 「それはヒト固有の能力である」 「語り手、および文体」 

       「レズヴァーン・ミカイリー」 「キャラクター」 「異形の守護者」 

Anima Solaris様によるインタビュー(2005年) ネタばれ注意!
 少々古い記事ですが、この頃から見事なまでに考えにぶれがありません。
それにしても、私 はSFに限らず小説の感想を述べるのがものすごく苦手なので、そちらへ話を振ろうとするインタビュアー氏との攻防が今見ても痛々しい……。何はともあれ、『グアルディア』に関する御質問や御意見はとても的確かつ鋭いので、非常によくまとまった内容になっています。

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