わが教え子 ヒトラー
原題はMein Führer。言うまでもなく「わが総統」だが、ここでは「総統」ヒトラーの「指導者」のことである。
大衆操作の一環として、ヒトラーに「演説指導者」が付いていたのは史実である。もちろんドイツ人だったのだが、「実はユダヤ人だったら」というブラックコメディ。ヒトラーがユダヤ人の血を引いている、という伝説と同じレベルのネタだね。このヒトラー=ユダヤ人説も作中に取り入れられている。
笑いは極限の悲惨さからも生まれ得る。それは、あまりに受け入れ難い状況に対する自己防衛反応である。笑いは緊張が緩和された時に起こる生得的な反応であり、転じて、緊張を緩和するための反応でもあるからだ。3歳くらいまでの子供の笑いは、この緊張‐緩和の反応だ。
ユーモアというものも、本来は「意外なオチ」という緊張‐緩和だ。笑いが「喜び」や「幸福感」という感情と結び付いたのは、そうした感情による高揚という緊張を緩和するためであろう(笑いによって喜びや幸福感が増幅されたり、喜びや幸福感が笑いに先立つのではなく笑いからそれらの感情が生まれることすらあるが)。いずれにせよ、笑いは喜び・幸福感そのものではない。嘲笑は、攻撃行動の一種だろう。
そういった笑いの本質は通常、理解されていない。だから極限の緊張を緩和するための防衛反応としての笑いは、不謹慎と見做される。どのみち、極限の悲惨さから生まれる笑いを表現できるのは、もはや「まとも」ではなくなった者だけだ。ゴヤ、ディクスらのカリカチュアは、彼らの体験とそれを把握し表現する才能の双方が揃ったことで生み出された。
『わが教え子 ヒトラー』は、そこまでの「極限の笑い」を描こうとはしていない。平和な社会の普通の人間の感覚でついていける程度の笑いだ。最初からそこまでしか目指していないので、悲惨さの表現は抑えている。悲惨さにリアリティを出そうとしたら、笑いとのバランスが取れなくなっていただろう。リアリティは追求すればいいというものじゃないからね。
ヒトラーとその周辺の映画化は、自ずとそっくりさん大会というか物真似選手権の様相を呈する。当人たちが宣伝に力を入れていたので写真や映像が多く残っている上に、彼ら自身の風貌や服装が「描き分けしやすいキャラ」化しているのだ。
まじめな映画(『ヒトラー 最後の12日間』とか)でさえその有様だから、最初からカリカチュアを目指しているこの映画は、もはや仮装行列のレベルである。
で、そういう場で、ヒトラーが父との相克を語って「ファーター!」と叫び、それを覗き見てシュペーアが涙し、ゲッペルスとヒムラーは陰謀を企む。
ヒトラーの周辺を笑いのめすのは、まずまず成功といったところ。ヒトラーそのものについては……ヒトラーの指導のため収容所から連れ出されてきたユダヤ人俳優が、この機会を利用してヒトラーを虚仮にすることにし、フロイト派と化すところまでは笑える。
そこから「医者と患者」の間に共依存が生じてしまうというアイディアも悪くない。ただし、成功はしていない。役者は皆その線に沿って演技しているので、演出の問題だ。
セラピーを、そこで生じる感動やら葛藤まで含めて笑いものにする手法は英米の映画ではよく見掛けるし、成功しているものも多い。だが『わが教え子 ヒトラー』では、完全な失敗ではないものの湿っぽくなってしまい、あれでは観客はヒトラーに同情してしまいかねない上に、ユダヤ人俳優アドルフ・グリュンバウム教授の最後の行動を「裏切り」だと思いかねない。
ドイツの観客にとっては、ヒトラーは同情の余地がない存在だ。だからめそめそと弱音を吐くさまは可笑しいし、グリュンバウム教授の最後の行動は勇気ある「正義」である。
しかし観客がその前提を共有していない場合、上記の反応を引き起こしかねない。そういう観客は無知で鈍感だ、ということにもちろんなる。だが、ヒトラーの「セラピー」を徹底的に笑いものにするのが成功していれば、そうした反応を減らすことができたはずだ。
グリュンバウム教授を演じたのは、『善き人のためのソナタ』の国家保安省局員、ウルリッヒ・ミューエ。『善き人の』の時と比べるとえらい老けてるんだが、一年しか経ってないのね。で、この作品の後に54歳で亡くなっている。
ヒトラーとその周辺を演じた役者たちがスラップスティックな笑いに徹しているのに対し、ミューエは苦悩から生み出される笑いという複雑な演技を成功させている。これを監督が活かしきれていないのが惜しまれる。
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