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語り手、および文体

08年7月の記事に加筆修正。

 HISTORIAシリーズは、「語られた歴史」である。語り手はもちろん、仁木ではない。「語り手」(単独とは限らない)による物語historiaを仁木が「受信」し、その時の能力(知識、筆力等)やその他諸々の制約の下で書き記したものが個々の作品、といえる。いや、もちろん喩えであって本気でそう信じてるわけじゃないですよ。

「語り」は、重層を成している。それはまず、語り手の視点によって見分けることができる。

グアルディア
 一見最も単純で、場面ごとに一人のキャラクターに視点を固定(三人称)。あくまでそのキャラクターの視点から語られるので、間違った知識や偏った意見が語られることもある。「事実」とは限りません。例えば第三章二節目冒頭、歴史事項が羅列されるが、これはこの節の視点の主であるダニエルの知識というだけである。
 第五章、六章には白人至上主義者ポール・ロバーツを視点の主とした場面があるが、彼の視点が悪意と偏見に満ちたものであると理解できない読者、彼の主観を鵜呑みにする読者はいないだろう。
 しかしこれは、他のキャラクターでも変わりはない。どのキャラクターも、彼らなりの偏りがある。「絶対に正しい」視点は、HISTORIAシリーズには存在しない。

 当然のことだが、各キャラクターは自分の心が完全に解っているわけではない。そればかりか、自分で自分を誤魔化している可能性もある。
 さらに、視点の主=語り手と思うのは素直すぎる。そんな約束事はどこにも示されていない。「語り手(たち)」が視点の主を装っているのかもしれない。

ラ・イストリア
①  一人称(アロンソとクラウディオ)
② 三人称(普通の)
③  三人称(いわゆる「神」の視点)

 の三種の視点がある。①は物語の中心となる時間軸(2256年)、②は①からやや離れた時間軸(近過去と未来)、③は「どこか」から語られるこの世界の歴史、となっている。視点というか語りの変化は、物語の主軸からの距離である。

 この物語は、本来はフアニートを主人公としたヒーローものだが、その周辺の人物(アロンソとクラウディオ)を語り手としている。なお一人称のパートには、ごくわずかだが三人称的な視点が混入している。これはアロンソもクラウディオもインテリであって、インテリというのはとかく自分を客観視したがる、というのも理由だが、さらには何者かがアロンソもしくはクラウディオを装って語っている、という可能性を示す。

「物語の主軸」からの距離とは、つまり語り手の偽装の程度である。最も距離が近い①のキャラクター一人称が最も偽装の程度が大きい(そのキャラクターになりすましている)。②はキャラクターの視点に付かず離れずの三人称による普通の小説の語りに偽装し、そして③はあたかもすべてが見えているかのごとき「神の視点」であり、おそらくこれがHISTORIAの世界の最も外側に在るはずの「語り手」の視点に最も近いはずである。

「最も外側の語り手」の存在を、シリーズ2作目にして早々に明かしたのは、前作『グアルディア』で、「視点の主=語り手」であり「語り手の主観=事実」であると疑ってもみない読者があまりに多いことに(しかしもちろん白人至上主義者ポール・ロバーツの主観=「事実」とは誰も思わないのである)、ちょっとというかかなり驚き、困惑したからである。

 まあそれでなんとかなったかいうたら、なんとかなってたら今ここでこういう文章を書いてませんわな。

 もう一つ、『グアルディア』からの変化は、キャラクターの心理の直接描写を極力避けたことである。『グアルディア』でそれを比較的丁寧に行ったのは、個人の意思や感情が外部に及ぼし得る影響の限界を示すためであり、それは全キャラクター中、最も強烈な個性であるアンヘルが、実は××××(×の数は適当)に過ぎないことで明白である。
 しかし「語り手の主観=事実」であると疑わない素直な読者諸氏というのは「個人の意思や感情が外部に及ぼす影響」ではなく「個人の意思や感情」にのみ注目する傾向にあり(以下略)

 一人称小説は、読むのも書くのもそのキャラクターにどっぷり付き合わんといかんので疲れるから苦手なんだけど、書く側だけに立てば、他のキャラクターの心理の直接描写をせんでいい、というのがこの時の発見。
 メキシコ北部という乾いた場所柄と、精一杯大人ぶっている17歳というキャラクターから、アロンソの一人称は心情を吐露しないハードボイルド調。ただし所詮は坊ちゃん育ちでインテリなので、時々うだうだ言うこともある。
 クラウディオはとても壊れたキャラクターですが、目標に向かって突っ走ってる壊れなので、自分の内面など顧みない。
 という二人だったので、心理の直接描写はだいぶ回避できました。

ミカイールの階梯
 引き続き、心理の直接描写は回避。『ラ・イストリア』の②の視点と同じく、キャラクターに付かず離れずの視点で、心理の直接描写はごく表面的なものに留める。
 それだけでは不十分な気がしたので、レズヴァーン・ミカイリーというキャラクターに、「己の言葉が信じられない」「己の意識に実感を持てない」と語らせる。

 さらにもう一人、用意したのが「疫病(えやみ)の王」と呼ばれるゼキである。中央アジア共和国イリ軍管区司令官ユスフ・マナシーは、ゼキを「英雄」と定義する。英雄とは、「非凡な才能の擬人化された表現」であり、歴史上ではある集団の事績が一人の人物(実在もしくは架空)に集約されたものである。
 英雄たるゼキは、「人格すら必要ない型押しされた記号(キャラクター)」であり、しかも彼自身それを自覚している。

 ゼキとレズヴァーンは、仮に『ミカイールの階梯』がゼキを主人公とした英雄譚だったすれば、英雄と彼に斃されるべき「悪」である。この二人を端的な例として突出させているが、残りのキャラクターすべても同様だ。彼らの台詞も、地の文に表れる彼らの主観(に見えるもの)も、無条件に信頼すべきではない。

 三作品すべてに共通するのは、語りの手法とレベルを三段階に設定していることだ。『ラ・イストリア』の①~③とは似て非なるこの三段階は、

A 歴史
B 神話・伝説
C エンターテイメント

 である。文体も相応に変えてある。A「歴史」は、HISTORIAの世界に於ける「事実」を「探求historia」して得た「歴史historia」であり、「事実」そのものが述べられているのではない。とはいえ、HISTORIAの世界全体を俯瞰した時に、最も中立的な見解であるといっていいだろう。文体も「硬い」傾向がある。
『ラ・イストリア』に於ける③のような「神」のごとき視点で語られることもあれば、各作品に於ける比較的中立的な見解の持ち主の視点として述べられていることもある。後者の場合、多かれ少なかれそのキャラクターの主観が混じっているのは言うまでもない。
 また、「神のごとき視点」は「語り手」そのもの視点であるとも言えるが、当然ながら完全に中立などではなく、読者の読みを誘導する意図があるのは明らかだ。

 HISTORIAは19世紀後半にダーウィニズムとメンデリズムが融合していた、とするオルタナティヴ・ヒストリーだが、20世紀末までは、我々の歴史とそれほど大きく変わるところはない。
 したがって20世紀末以前の歴史については我々のそれとほぼ同じものが語られることになるが、これもまた探求historiaによって得られた歴史historiaであり、「事実」そのものではない(無論、この意見は歴史学者たちの探求を軽んじたものではない。探求抜きに過去を語っても歴史にはならない)。また作中で語られる限り、完全な中立的見解ではありえず、なんらかの意図が入り込んでいるのも同様だ。
 言葉mythos=意図mythosである(くどいようだが、仁木の意図ではない)。

B「神話・伝説」: AがHISTORIAの世界に於ける「事実」に基づいて語られる「歴史historia」であるのに対し、同じ事実が神話・伝説mythosとなったもの。我々の世界に於ける神話・伝説が語られることもあれば、作中に於ける現在進行形の出来事が、すでに神話・伝説化したものとして語られることもある。
 神話・伝説も歴史と同じく、語り手・書き手の意図が入り込んでいる。「探求」がなされない分、より作為的である(もちろん、歴史は中立公正であるという前提によって意図・作為が隠蔽されることもある)。特に、編纂された神話・伝説は編纂者の作為が全篇を貫いているといってもいい。

 Bのレベルでの語りはその性質上、高揚し錯綜した文体で行われる傾向がある。『グアルディア』の場合、特にそれが顕著で、一部の読者には「わかりにくい」「下手」と大変不評であった。

C「エンターテイメント」: キャラクターたちを中心とした「物語」。最も表層のレベル。生体甲冑、殺戮機械、生体端末、知性機械といった「ありがち」なガジェットも、この表層レベルに集中して機能している。

 ここでいう「エンターテイメント」とは狭義に於いて、である。つまり、キャラクター(という言い方に語弊があるなら登場人物)たちが行動したり会話したり、あるいは動きも喋りもしないで思い悩んだりするのが作品の大分を成す、キャラクター小説とかノベルズとかライトノベルとかジャンル小説とか呼び分けられたりすることもある小説群の総称。
 そういう区別とかどうでもいいし、それぞれの名称が呼ぶ人によって肯定的な意味や否定的な意味を持たされたりするのもどうでもいいが、Cのレベルの語りの中でも比較的「硬い」ものから「ラノベ」風までさまざまなレベルが混在している。文体もそれ相応。

 私はすべての小説は読者を楽しませるためのものであり、そういう意味ではエンターテイメントだと思っている(読んで「勉強になった」り、深刻な気分になったりするのも、楽しみ方の一種である)。
 だからもちろんHISTORIAはA~Cのすべてのレベルに於いてエンターテイメントであるが、狭義に於いて最も解り易くエンターテイメントしているのがCのレベルである。 
 なおA~Cの区別は、文体も含めて必ずしも厳密ではない。

 以下、ネタばれ注意。

 各作品について、「説明が多い」という意見と「少ない」という意見が聞かれる。前者は否定的、後者は肯定的なニュアンスである。
 この「説明」とは、上のA「歴史」およびB「神話・伝説」に該当する記述であろう。小説=キャラクターたちが行動したり会話したり思い悩んだりする「物語」(すなわちC)、である読者にとっては、A、Bはその流れを妨げる余計な説明以外の何ものでもない、ということだ。

 Cを最も目に付く表層に置くのは、まあそのほうが「書き手」たる私も楽しいから、というのもあるが、最大の目的は読者のミスリードである。
 私はさまざまな仕掛けを何層にもわたって作品内に仕掛けておくが、それを見つけることができるか、解くことができるかは読者次第である。なんの仕掛けもない小説、あるいはすべての仕掛けにマーカーを付けた上で解き方も教えてくれる小説を要求する読者とそれに応じる作者もいるだろうが、人間の脳は「隠されたもの」を見つけ、解き明かすことで大きな快感を得られるようにできている。読者がその機能/能力を活用できるような小説を、私は書いている。そのためには敢えてミスリードも仕掛ける。

 それなりの時間を使って小説を読んで、楽しむのも楽しまないのも読者の自由だ。が、もちろん作者としては、せっかくだから最大限楽しんでもらいたいと願っている。

『グアルディア』では、ことさらにキャラ立ちさせた主要キャラクターたちの物語Cとは別に、特に前半で多くの頁を割いて、知性機械サンティアゴの降臨が「サンティアゴ参詣団」によってA「歴史」と混淆しながらB「神話・伝説」化していく過程が現在進行形で語られる。
 後半ではこの神話・伝説はいったん後退し、そして特異な能力を持った主役四人が退場した後、サンティアゴの神話・伝説に引き寄せられる人々に再び焦点が当てられ、物語は終わる。半神半人たる英雄たちの時代が終わり、人間の時代が始まるのである。

『ラ・イストリア』では、A~Cは同心円を成している。一番内側にC「キャラクターたちの物語」があり、その外側にA「歴史」、一番外側がB「神話・伝説」である。
 ラテンアメリカ(メキシコ)という舞台を反映して、AとBの区分は曖昧だ。最後に、キャラクターたち自身が語ることによって彼らの物語は神話・伝説となっていく。

『ミカイールの階梯』では、A~Cの区別はさらに曖昧である。何しろキャラクターの一部は自分たちが神話・伝説の一部であり、さらには「記号化されたキャラクター」であることすら自覚しているのだ。

 一般に、小説に於いて地の文で語られたことは「事実」であるのがお約束である。お約束だから、わざわざ「信頼できない語り手」という呼び方が必要となる。
 しかし括弧内の台詞(小説以外だったら、モノローグでない台詞)が「事実」でなければいけない、などというお約束は存在しない。実際、あらゆるフィクションに於いてキャラクターたちは嘘の吐き放題である。

 ところが多くのフィクションでは、あるキャラクターがいきなり身の上話(大概とても重い)を延々とし、そうすると相手は信じてくれて、しかもそれは嘘八百ではなく「事実」なのである。もちろん例外はいくらでもあるが、身の上話が「事実」で、さらに聞かされた相手が鵜呑みにする率は相当に高い。
『グアルディア』の第九章では、モニーク・マルタンというサブキャラクターがいきなり重たい身の上話を延々とする。それが「事実」だという証拠はどこにもない。そこで嘘八百を並べる必然性はまったくないが、鵜呑みにするのもどうよ?という内容である。

 繰り返すが、HISTORIAに於いては「信頼できる語り手」は存在しない。無論、語られることすべてがこれっぽっちも信頼できないということになったら、作品自体が成立しなくなってしまうから、そんなことはない。「唯一不変」の事実が存在し、それがさまざまな角度から重層的に語られているのである。

『ミカイールの階梯』では、二つの大きな「歴史の転換点」が語られている。一つは中央アジア(最終的にはさらに広大な範囲)の統一であり、もう一つは種の壁を越えた新たな共生/共進化の始まりである。この二つは、ゼキという一人の「英雄」によって成されることになっている。
 しかし前述のとおり英雄とは、ある集団による長期間の事績をただ一人に凝集した存在、でもある。『ミカイールの階梯』が、これから語られる歴史ではなく、すでに語られた歴史である以上、ゼキがそのような存在でないとは限らない。

 A「歴史」、B「神話・伝説」、C「エンターテイメント」の区分は、ある過去の出来事、例えばトロイア戦争という何世代にもわたってだらだらと続けられた抗争について探求/研究によって明らかにされた事柄=A「歴史」、何世代にもわたるだらだらした抗争を英雄たちの9年間の戦いに凝縮した叙事詩=B「神話・伝説」、それをさらに俳優たちが演じるキャラクター同士のせいぜい数ヶ月間の戦いに凝縮した『トロイ』(および数多の作品)=C「エンターテイメント」、だといえる。

 ゼキ一人によって、「新たなる進化」が開始された、とするのも同様である。そもそも、彼(と弟たち)の「能力」を裏付けるのは状況証拠しかない。少しでも科学的な推測をしているのはミルザ・ミカイリー一人で、このミルザがまた、いろいろとズレてるところがある、という意味で極めて「信頼できない語り手」なのである。
 ミルザの推測(憶測)に対するレズヴァーンの反駁は、至極もっともなものばかりである。ただし、レズヴァーンのこの見解はミルザに対する悪感情が根底にあるため、それを差し引く必要がある。

 また「極めて疑わしい」からといって、「事実ではない」とは限らない。ヒトその他の生物が病原体と共存するようになり、それは遺伝子の変化すなわち「進化」による、というのが「事実」であるのは、『ミカイール』から二百年後の『グアルディア』ですでに明らかだ。
 その変化/進化がゼキ一人によって推し進められたというのは極めて疑わしい。とはいえ、あり得ないことではない。また、共生の仲立ちをするのが「コンセプシオン」が持っていたのと同じ細胞内共生微生物による、というミルザの主張については、シリーズが進むにつれて明らかになっていくはずだ。「コンセプシオン」の重要性は、『グアルディア』以来、強調されてきた伏線である。

 というわけで、今後もシリーズを続けていけるよう頑張ります。

関連記事: 「ヒストリア」 「アンヘル」 「レズヴァーン・ミカイリー」 

        「それはヒト固有の能力である」 「年表」 「コンセプシオン」

        「キャラクター」  

参考記事: 「魂の所在」 「親密なお付き合いは遠慮させていただきます」

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