96時間
リーアム・ニーソン主演、リュック・ベッソン制作、ピエール・モレル監督。
コレクターの素質はまったくないのだが、映画パンフレットだけは大量に持っている。まあこれも資料として買ってるだけなんだが。
で、パンフレットには通常、キャスト・スタッフのインタビューのほか、日本人によるエッセイや談話が2~4人分ついている。うち半数かそれ以上が、映画評論家を名乗る人によるものでさえ、当人に興味がある人以外にはどうでもいいことがダラダラ述べられているものだが、今回のパンフレットでは執筆者が全員、真正面から作品の分析を行っている。三名の執筆者とレビュータイトルは次のとおり(敬称略)。
- 佐藤哲也「93分、全力疾走!」
- 高橋諭治「“常識破り”の追跡アクション」
- 清藤秀人「ヒットの裏の巧みな仕掛け」
このうち、清藤氏が分析している「なぜこの映画がアメリカでヒットしたのか」は私の関心の対象外だが(アメリカの観客のことなんかどうでもいい)、佐藤氏と高橋氏のレビューにはまったく同感で、したがって私がわざわざ感想を書く必要もない。とはいえ観客すべてがパンフレットを買うわけではないし、そろそろロードショウも終わってしまうので、両氏の見解を踏まえて感想を書いてみる。
上映時間は93分間と短めだが、一切の無駄がなく、みっちりとアクションが詰まっている。主人公の背景(家族との関係、元CIAという過去、そこで培われた能力は今なお健在であることなど)は序盤だけで実に手際よく説明されている。凡百のアクション映画では、そうした背景は小出しに明かされていくものだが、『96時間』ではいったん事件が始まって転がり出すと、背景への言及や回想による中断が一切ない。
それどころか、捕らえられた娘がどんな状況に置かれているのか、アメリカに残った妻がどうしているのかといった、普通ならあるはずのシーンもない。悪役(個人であろうと組織であろうと)がどんな連中かといった描写もなければ、主人公が苦悩したり、次に打つ手が見つからなくなって迷ったりといったシーンすらない。ひたすら行動し続ける主人公をカメラは追う。
普通のアクションもので、視点が主人公の過去とか内面とか、ほかのキャラクターとかに視点が移動するのは、サスペンスやドラマの要素を加えるためだ。『96時間』がそれらを必要としないのは、ひとえに主人公がリーアム・ニーソンであるお蔭である。彼以外のどの役者を持ってきても、B級以下になってしまっただろう。まあこれは、実際に観てください、としか言いようがない。
監督の前作は『アルティメット』だが、今回のアクションはああいった超人的な身体能力を見せるものでも、或いはワイヤーワークでもなく、堅実なマーシャルアーツで、そのためリアリティがあるように見える。いや、冷静に考えれば充分超人的なんだが。
ところで、ファムケ・ヤンセンはいつの間にか17歳の子を持つ母親の役をやるようになってしまったんだなあ。実際にはもっと年上の子供がいてもおかしくない年齢ではあるんだけど。髪型のせいかサンドラ・ブロックに見えた。
最後に、清藤氏のレビューにちょっと関連して。
アメリカの観客に向けた「おまえらが喜ぶのを作ってやったぜ」というフランス人スタッフの嫌味な態度が透けて見える作品である。一方で、自分の地元が余所者にとって如何に危険か、というのは充分に自慢の種になり得るものだ(中二的自慢だが)。『山猫』でも視察のためにシチリアに赴いた役人に、地元の貴族が寄ってたかって「原住民」がどんなに野蛮で危険かを、嬉しそうに話して聞かせるシーンがあったな。
しかも『96時間』で描かれる「パリの危険」たるや、観光で来た若い外国人女性が「捕まって薬漬けにされて売り飛ばされ」、「処女はオークションに掛けられアラブの富豪に買われる」という良識ある人間なら到底本気にしないベタなネタだし、その恐るべき犯罪に関わる輩は「アラブの富豪」をはじめとする非フランス人が主で、フランス人では外人の女の子を引っ掛ける係の優男を除けば官憲とプチブルだけである。フランス人は官憲とプチブルが嫌いだ(優男も嫌いかもしれない)。外国人は……どうだろう。
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