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売り切れ御礼

 連休で旅行に行ったり、その旅行で風邪を拾ってきてしばらく潰れてたりしたが復活。

『グアルディア』Jコレクション版と『スピードグラファー』ノベライズ(全3巻)が品切れになっていました。
 今年5月下旬に『ミカイールの階梯』が刊行されるのにあたって、このブログの「著作」カテゴリーを整理した際、早川書房さんのウェブページを確認したら、その時点ではまだ在庫が残っていたのですが、いつの間にか品切れになっていました。

 売れ(て)ない作家の身としては、「……(品切れになるまで)売れたんだ……」というのが、一番ストレートな感想です。御購入くださった皆様、ありがとうございました。

『グアルディア』は文庫化しているので、Jコレクションとして再版されることはないと思いますし、『スピードグラファー』も原作のアニメが4年前に放映終了してしまっているので、同じく再版の可能性は低いでしょう。まあ未読の方々には、図書館や古書店等でお目に掛かることもあるかと思います。

 それでは今後とも精進いたしますので、皆様よろしくお願いいたします。

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激しく、速やかな死

 佐藤亜紀・著、文藝春秋社。日本の文芸書(単行本)をエンターテイメント(ミステリ、SF、ホラーなど)と文学に分け、さらに文学の下部カテゴリーとして「男性作家」と「女性作家」を分けている書店では、佐藤氏の小説は大概エンターテイメントの棚なのに、この短編集だけは「女性作家」の棚に置かれていた。お蔭で見つけるのに少々手間取ったよ。

 収められている七つの短編は、書かれた(掲載された)時期は1998~2009年とばらばらであるが、巻末の著者による解題から明らかなように、いずれも下敷きとなる文献もしくは本歌を有している。また、フランス革命(或いはナポレオン)を中心点に同心円を成しているともいえる作品群でもある。以下、所感。

「弁明」
 私は『クイルズ』でしかサドを知らず、つまりあれが私にとってのサド像なのだが、佐藤亜紀氏によるとあれはよく出来た映画ではあるがサドではない、とのこと。
 そう言われても何しろサドの著作もまともなサド研究書も読んだことがないので(渋澤龍彦のエッセイは読んだことがあるが、渋澤の言うことは信用しないと決めたので記憶から締め出した)、この「弁明」のサドもジェフリー・ラッシュ演じるあの困ったおっさんでイメージされてしまうのであった。

 いずれこの時代について学ぶとともにサドに関しても学ぶつもりではあるが、今は西洋史は古典期のお勉強で手一杯で、それもそろそろ中断しなければならんので(そろそろ次作に取り掛からんと拙い)、この調子ではサドは数年先だろう。
 しかしどれほどイメージに隔たりがあろうと、「困ったおっさん」であるのは間違いない、と確信した次第である。

「激しく、速やかな死」
 書簡の形を取った「荒地」と「金の象眼のある白檀の小箱」、報告書の引用と解説の体裁を取った「フリードリヒ・Sのドナウへの旅」は、「過去の事実」という意味での歴史から、ざっくりと切り出してきたピースをほとんど加工することなく提示したもののように見える。

 言うまでもなく技巧によってそう見せているのである(サドの独白の形を取った「弁明」も同じ系列といえる)が、それらに比べてこの表題作は完結性の高い作品である。上記3(+1)作品が「過去の事実」とそのまま地続きであるかに思えるリアリティをもつのに対し、こちらは幻想的でさえある。
 もちろんここでいう、「リアリティ」と「幻想的」とは加工の仕方の違いであって、優劣の含みを持たせているのではない。「リアル」であるか「幻想」であるかに優劣はない。作品の優劣を決めるのは、すなわち技巧の優劣である。本書所収の作品の技巧については、論じるまでもない。

 それはさておき、「激しく、速やかな死」が他と異なる印象であるのは、単に「この世の外」を舞台としているからだけではなく、その舞台空間すなわち登場人物たちが入れられている奇妙な建築の閉鎖性に拠るところが大きい。
 解題によると歌劇へのオマージュだという。閉ざされた建物内部の様子は舞台装置のようでもあるし、ピラネージが描く建築空間のようでもある。そうした舞台装置もしくは絵画からインスピレーションを得て書かれた作品であるようにも思える。
 もっとも、この閉ざされた建築空間がどのような場所であるか具体的に意味づけられている(ある特定の死に方をした人々のための煉獄的な「場」)ことや、空間と人々の在りようの奇妙さではなく二人の人物の対話を主体とするところは、著者の特質であろう。

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 対話中で言及されるカローとは、エッチング集「戦争の悲惨」を描いたジャック・カロー(1592‐1635)だと思う。「戦争の悲惨」(左)が断頭台(および国民戦争)を経ると、ゴヤの「戦争の惨禍」(右)になるわけだ。

「荒地」
 初読は雑誌掲載時(2003年初夏)。当時は語り手(手紙の書き手)がタレイランだと判らなかったし、そうと判ったのは作中で語られる彼の若い頃のエピソード(司祭の叙階を受けた時のことなど)がタレイランのそれと一致すると気づいたからで、しかもそのエピソードでさえ明治大学での講義中に佐藤氏が語ったものである。
 しかしタレイランだと判らなくても、或いはそもそもタレイランが誰か知らなくても、「荒地」の語り手はタレイランとなる前のタレイランであり、フランス革命を逃れてアメリカへと亡命してきた貴族であるという情報は作中で明示されているので何も問題はない。

 ピューリタニズムと新大陸の荒々しい自然とが交わった結果、どれほど不毛な「文化」が生み出されたのかは、例えば『シザー・ハンズ』の郊外住宅のおぞましさだけでも一目瞭然なのだが、そのことに言及している日本人はほとんどいないような気がする。つまりそう思っている日本人はごく少数であり、大多数はあの郊外住宅を見ても怖気を振るったりしないというわけだ。

 2002年9月から1年間、私は1、2ヶ月毎に神戸から東京まで行って、佐藤亜紀先生に『グアルディア』を1、2章ずつ見てもらっていた。「荒地」が雑誌掲載された2003年初夏は、全11章中の第8章の執筆時に当たる。
『グアルディア』では最終的な敵(ラスボス)の前に、いわば中ボスとして北米のWASPの子孫である白人至上主義者たちを設定した。これは、日本に入ってくる海外作品ではジャンルを問わずカトリックを狂信的な「悪玉」としているものがあまりに多く(歴史物から現代ものまで。SFやファンタジーでは露骨にカトリックをモデルにした宗教)、またその影響で国内作品でもカトリックを「狂信的な」「悪玉」とする紋切り型が氾濫していることに気づいたからである。
 別にカトリックを擁護するつもりはまったくなく、ただ多数派には脊髄反射で逆らいたくなる習性なのである。

 しかしいざ執筆に取り掛かると、プロテスタントはカトリックに比べると実に「使えない」ことが直ちに判明した。文字どおりカトリックへの反発として生まれたから、その最も端的な特徴もアンチカトリック的、すなわち「清貧」と「小集団」だ。連綿と続いてきた巨大な共同体と、それらが育んできた文化とをことごとく否定する。その結果、諸派分立して横の繋がりがなく、伝統によって作り上げられるべき儀礼も芸術も持たない。あるのは清貧と称する殺風景と、個人または小集団(カルト)の狂信だけだ。

 カトリック=狂信、という図式は、プロテスタントや啓蒙主義的無神論者による捏造である。もちろんカトリックにも狂信はいくらでも見出せる。しかしプロテスタントにもいくらでも狂信は見出せる。
 最大の違いは、カトリックは非常に巨大な組織である上に多重構造であるため、その中枢部は良くも悪くも高度に政治的にならざる得ない。つまり狂信的、すなわち「純粋の追求」ではやっていけないのである。これに対して「純粋」を求めたのがプロテスタントであり、だから組織として規模が小さく、だから自浄作用が働かず狂信へと暴走しやすい。
 恐ろしいことに近年のアメリカでは、有効な抑制装置を欠いたまま巨大組織化しているようである。そして相変わらず、歴史も文化も不毛なままだ。

 White-Anglo-Saxon-Protestantは敵愾心からカトリックを「古き悪しきもの」とし、無神論者は宗教全般に対する無頓着な反感からプロテスタント的狂信と反科学(創造論がその代表)を、カトリック的狂信および反科学とまったく区別することなく一絡げに「古き悪しきもの」としてカトリックに押し付ける。
 そうした人々が多数を占める英米の作品が最も多く入ってくるため、日本人はそうした背景を理解もせずに、そうした考えに染められている。

 という事態に私は逆らいたくてむらむらしてくるのだが、だからといってプロテスタントが悪玉として愕然とするほど魅力がないのは如何ともしがたいのであった――言うまでもなく善玉としても。少なくとも私はカルト(メガチャーチは規模がでかくなったカルトだ)を魅力的に描くようなメンタリティは持っていない。
 ああ、カトリックって「悪の組織」としてなんて魅力的なんだろう。「狂信」の紋切り型を取り除いてやれば、なおのこと魅力的である。

 というわけで、「ネオピューリタン」と称する連中は中ボスとしてすら使えず、かませ犬に格下げとなったのであった。
 で、第8章ではこの連中の「文化」の不毛さを書き綴ろうとした。めくるめくメキシカンバロック(小野一郎氏が呼ぶところのウルトラバロック)の教会の内装を引っぺがして壁を剥き出しにした独善者たち、その直系が生み出した不毛だ。その直後に、『文學界』7月号が発売された。

 私が表現したかったこと、表現したかった以上のことがそこには書かれていた。だから佐藤先生に第8章を送る前に、その下りを必要最低限の記述(約3分の1)に切り詰めた。その旨を告げると、削らなくてもよかったんじゃない、と先生は仰ってくださったが。

「フリードリヒ・Sのドナウへの旅」
 初出は1998年。『1809』(1997年刊)のスピンオフともいうべき作品。

「陛下、戦争をおやめくださいと言って駆け寄った若者を取り押えてみたところ、両刃に研いだ包丁を持っていた、というのが正確なところだ。……世の中は実によく出来ている。一人の狂人の企んだことを、もう一人の狂人が邪魔をするとはね。……」
      (『1809』第九章より)

 この「もう一つのナポレオン暗殺未遂」(解題によれば、こちらは実際に起きた事件で調書も残っている)の顛末が語られている。ウストリツキ公爵も「フリードリヒ・S」も、まったく政治的でない動機によってナポレオンをを排除しようとした。その後どんな世界が訪れるかという予想(期待)は、まったく異なっていたわけだが。

 フリードリヒ・Sは十七歳で、「……背丈は、長身とは言えないベルティエより、つまりはナポレオン・ボナパルトより遥かに低かった。小柄だったと言うより、まだ子供だったのだ。」
 徴兵制によって当時の男性の身長が記録に残るようになったのだが、そこから判るのは、彼らが二十歳を過ぎてもまだ身長が伸びていたことである。つまり栄養状態が悪いので、現代の先進国と違って十代のうちに成長しきってしまわなかったのだ。
 ……ということも、明治大学の佐藤亜紀氏の講義で教わりました。

 私が知る限りでは、佐藤亜紀氏が長編のスピンオフとして書いた短編は、ほかに「モンナリイザ掠奪」(『日本SFの大逆襲』所収、1994)がある。『戦争の法』(1992)の序盤で語り手のご先祖「酒々井仁平」が紹介されるが、その仁平の「手記」にある「現在ルーヴル宮に飾られているモナリザの真贋に関する眉唾な話」をそのまま抜粋、という体裁で書かれた作品である。
 後述する「白鳥殺し」ともども、いつか出るであろう第二短編集に収められることを気長に期待している。

「金の象眼のある白檀の小箱」
 メッテルニヒ夫人からの夫への手紙の翻訳、という体裁を取った小説。解題によると出来事そのものは実際にあったそうである。

「何だってあんたたちは、あたしの人生に面倒ばっかり持ち込むのよ」
 ……しかし、何と言ってもこれ以上の真実はない。女の人生に面倒を持ち込むのは九分九厘、男なのだ。
 ……男のいない人生はなんとも穏やかで、平和で――退屈なものに違いない。
     (『ブーイングの作法』四谷ラウンド 1999より)

 佐藤亜紀作品の女は、原則として男によって人生に面倒を持ち込まれることを許している。優しさによって「赦して」やっているのではない。「許可」してやっているのである。
 一つには、上記のとおり面倒を完全に遮断してしまえば、穏やかで平和だが、退屈な人生になってしまうからだ。
 とはいえ佐藤亜紀の小説は、「女の強さと寛容」を無邪気に賛美するのでもなければ、賛美の振りをして面倒を押し付けようとする魂胆を持ったものでもない。なんといっても、男は「強き性」なのだ。

「金の象眼のある白檀の小箱」では、いかに男が強いかが描かれている。
 まず厳然たる生物学的性差によって、男は平均して女より筋力が強い。次いで、彼らはその生物学的優位をもって女を威嚇したり実際に暴力を振るうことを、さほど恥じていない(恥じるどころか、という者も多い)。さらに、女を屈服させるのに武器を使うことすら厭わず、しかも武器による力を自身の力と錯覚する。刀剣等、筋力で操作するものばかりか火器であってすら区別を付けない。
 物理的な暴力を除外しても、男は女の話を聞かない。聞いたとしても自分に都合のいいように曲解する。唖然とするほど想定外の精神構造を持ち、行動もそれに忠実だ。ガラスのように傷付きやすい上に、傷付けられたことを攻撃と解して過剰防衛に走る(尖ったガラスのように?)。そして「この世のものとは思えないほど」しつこい。

 語り手であるメッテルニヒ夫人をはじめとする女性登場人物たちは、かくも強き男たちを排除する気力がないので、人生に面倒を持ち込まれるのを諦めとともに許可してやっているのである。まあ多少はその面倒を楽しんでもいるだろうけれど。

 退屈よりは面倒のほうがマシだからなのか、或いは面倒を排除する気力がないから退屈よりはマシだと思うことにしているのか、ともあれ、原則として佐藤亜紀作品の女たちは男たちが面倒を持ち込むままにさせている。
 しかしもし、女が本気で「穏やかで平和な」人生を欲したらどうなるか。それが「白鳥殺し」(『ハンサムウーマン』所収、1998)である。
 まだ若い女である主人公は、自己完結した世界に生きており、その世界を乱す者は徹底して排除する。親から受け継いだ領地には白鳥が飛来するが、白鳥は優美なもの、という社会通念にはまったく頓着せず、鳴き声が醜い、という理由で撃ち殺す。同様に、彼女の静けさを乱す人間にも、血縁者であろうと容赦はしない。面倒を持ち込まれない人生が退屈だなどとは思わないし、面倒の排除を遣り遂げるだけの意志も持っている。

 この短い作品の最後で「面倒」の排除に成功し、自己完結を完璧なものにした彼女は、もはや漣一つ立たない、もしくは全面凍結した湖面のような存在だ。残る人生もそのままで生きていくに違いない。面倒を引き寄せない防御策は何重にも巡らせるはずだし、よしんばそれを乗り越えてくる男がいたとしても、石ころの如く手際よく排除するだろう。
 つまり、面倒の締め出しを完了した時点で物語も完了してしまい、これ以上どう発展しようもないのである。

『戦争の法』でも、主人公の母親は二人の仲間とともに「男っ気なしの女のユートピア」を手に入れる。これは運と要領の良さに拠るところが大きいが、いずれにせよそこでの生活は完璧に「穏やかで平和」で、いかなる物語も生まれようがない(主人公は、万が一の場合の「虫除け」として同居を許されているのであろう)。
 つまり佐藤亜紀作品の「物語」は、「男が人生に面倒を持ち込むのを許してやっている女たち」によって成立しているとも言えよう。

 ところで、ナポレオンは気に入った相手の耳を引っ張る、というのは『戦争と平和』にもあったなあ。

「アナトーリとぼく」
 トルストイの『戦争と平和』との比較検証(単なる読み比べ)は、以前ブログに上げました。下にリンクを張っておくので、よろしければお読みください。

 今春、『S‐Fマガジン』増刊号で「アナトーリとぼく」を読んだ時には、『戦争と平和』は未読だったが、映画版(ソ連製)は観ていた。映画ではナポレオン軍が撤退し、ピエールとナターシャがくっつくところで終わっている。ハリウッド版(未見)ではナターシャ役はオードリー・ヘプバーンだが、このソ連版のナターシャもヘプバーンに似た容姿の可愛らしい女優だ(原作からイメージされるのが、そういうタイプなのだろう)。
 映像によって初々しく可憐なイメージがことさら強く刷り込まれていたため、「アナトーリとぼく」を読んだ時点でなんとなく嫌な予感があったのだが、『戦争と平和』を読んでみて、映画では描かれていないエピローグでのナターシャの「変貌」には、トルストイの嗜好にげんなりしたのとはまた別の次元で愕然とさせられた。

 トルストイがああいうのんを理想とし、そういう小説を書くのは勝手である。どうせ実現できなかったんだから。
 しかし、『戦争と平和』が傑作として無数の人々に読まれてきたということは、結末でナターシャが「多産な雌」に「改造」されたのを気色悪いと思った読者はほとんどいなかったということだ。もしそう思ったとしても「トルストイは偉大な文豪だとされてるし、その彼の大傑作とされてる小説なのだから間違いはないはず」と、無理やりもしくは深く考えもせずに自分を納得させたり、或いは「そのとおりだ、こういうのが男にとっても女にとっても幸福なんだ」と感動したり、或いは何も感じずに読み流したり、ということが150年近くも続いてきたのだと思うと、じんわりと嫌な気分になる。

「漂着物」
 1800年前後の巨大な衝撃で生じた波が時を経て増幅しながら、1848年に達する。その波。
 生半可な知識の付け焼刃で読みたくはなかったので、敢えて何も調べていない。いずれ知識が増えた時に再読すれば、新たな楽しみが得られるだろう。

『戦争と法』と「アナトーリとぼく」の読み比べ

『ミノタウロス』感想

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キャラクター

 私の脳内には千の顔を持つ「役者さん」たちがいて、彼らに自由に演技させることで作品ができあがっていく、ということを先日書いたが、つまりそれは自作のキャラクターの自律性が高いことの比喩である。
 創作の具体的な手順は、以下のとおり。

 まず大まかなシチュエーションを設定をすると述べたが、『グアルディア』および『ラ・イストリア』の場合は生体甲冑というガジェットが先にあり、それが存在しうる世界設定を作っていった。
 その次の段階として、『ラ・イストリア』では「精神(と肉体)を侵蝕されて行く少年ヒーロー」「子供だけの共同体(+役に立たない大人が1名)」といったシチュエーションが生まれ、次いでそれに沿ったキャラクターたちが生まれた。彼らがシチュエーションに沿って「エチュード」(即興)をしていくことで、物語ができあがっていった。

 一方『グアルディア』では、基本的な世界設定ができたところで、早くもキャラクターたちが「出現」した。いったい何者なのか、私ですら知らないキャラクターたちが、断片的な映像や、スチールのような止め絵として脳裏に文字どおり出現したのだ。
 例えば「赤銅色の肌と黒髪、切れ長の黒い眼を持つ青年と、彼の腕に抱かれた金髪碧眼白皙の幼い少女。二人ともポンチョを着ている」という絵が浮かび、次いで、彼らは「父娘に見えないが父娘」であることが「判り」、間を置かずその理由も「判った」。

 それから、「超常の力を持つ」彼ら父娘が引き起こした事件の現場を訪れている一人の青年の短い映像が浮かんだ。色素が極端に薄い白い肌と淡い灰色の髪と瞳。その髪はごく短く刈り上げてある。低緯度地域であるにもかかわらず白いスーツを着込み、ステッキに頼って歩いている。
 その何年も前に『ラ・イストリア』の基本プロットはできていたため、「彼」が女であることや巨大コンピュータの「知性機械」であることは、すぐに「判った」。なぜ男装しているのか、なぜ父娘を追っているのかを追求していく過程で、軸となるプロットができあがった。

 この時点で突然、「赤褐色の髪の青年が白衣を着て、地中海地方風の白い部屋の中で、女声独唱を聴きながら深紅の薔薇を前にロシアン・ルーレットをしている」という映像がなんの脈絡もなく浮かんだ。彼は何者なのか、なぜこんなことをしているのかを追求することで、さらに世界と物語が広がった。
 このように、断片的な映像やスチールを「受信」していく過程でシチュエーションができあがっていき、そのシチュエーションの中でキャラクターたちに「エチュード」をさせることによってさらに細部ができあがっていったのである。

『ミカイールの階梯』では、「ルイセンコ主義を信奉するロシア人政権」というアイディアがまずあり、そこから「天山大山系一帯(新疆)で対立する共和国と教団」や「旧時代の遺産を守る一族」といった設定を考えた。
 次いで、そこにどのような物語を展開させるかを考えた結果、「女の子と男の子が出会って、しかしすぐに女の子はその特殊な力ゆえに悪党にかどわかされ、男の子は彼女を助け出そうとする」という類型的な物語を女の子同士に置き換えることに決めた。そしてそれに沿ったキャラクターを考えていった。

 ここまで「考えた」「決めた」といった言葉を使ってきたとおり、『ミカイール』では『グアルディア』『ラ・イストリア』(特に前者)に比べ、頭で考えて作った部分が大きい。大まかなキャラクター設定を作ってからは、前2作と同様、浮かんだ断片的な映像や絵、キャラクターたちの「エチュード」に頼って細部を詰めていったのではあるが。
『ミカイール』は『ラ・イストリア』から2年も掛かっただけでなく、その前に2度も挫折している。そのため『グアルディア』からノベライズ第1巻まで11ヶ月、第3巻から『ラ・イストリア』まで1年半開いた(『ラ・イストリア』も相当に苦労した)。

 どちらも原因は、「キャラ立ち」を抑えたことにある。
 キャラクターが動いたり喋ったりしている映像や絵を思い浮かべやすい(「受信」しやすい)状態に自分を持っていき、キャラクターに自由に振る舞わせ、それに沿って物語や設定を作っていく。というスタイルの下では、放っておいてもキャラは立つ。
 しかしそれではキャラクターが前面に出すぎて、SFとして何より重要な設定やガジェット、テーゼが霞んでしまう。『グアルディア』でもそれを避けるため、ある程度抑制はしたのだが、にもかかわらずキャラクターばかりが注目される結果になってしまった。

 だから次の2作では、キャラ立ちの抑制をいっそう強化したのである。具体的にどうするかというと、キャラクターの容姿を具体的に思い浮かべないよう脳内にフィルターを設置する。映像を鮮明に「見ない」ようにするのだ。
 そうすると、キャラクターたちから活き活きとした鮮明さが減じるので、自ずからキャラ立ちも減じる。しかし当然ながら、物語の自律性も減じる。

 まあだから、キャラ立ちさせたほうが私も楽だし楽しいのである。それを敢えて抑制し、苦労して書き上げた結果どうなったかというと、読者はキャラクターに注目しなくなり、しかもだからといってそれ以外の要素に注目するようになるわけでもないので(注目してくれる読者もいるにはいるが)、いいことは全然ないのであった。

 媒体が小説だろうと漫画だろうと映像だろうと、或いは舞台芸術だろうと、キャラクターとは文字どおり「記号」である。実在だろうと架空だろうと変わりはない。
 それが「リアル」に思えるとしたら、リアルに見えるように性格や背景を作り込んでいるからである。デフォルメした作り込みをすれば、「マンガ的」「アニメ的」「ラノベ的」という、人によっては侮蔑の意を含ませた形容をされるキャラクターとなる。

 キャラクターを立たせるには、リアルとデフォルメのバランスを取って作り込むことである。作り込みをされないキャラクター(すなわちただの記号)が薄っぺらなのは言うまでもないが、デフォルメだけしても、ごちゃごちゃしてるだけでやっぱり薄っぺらになる。いわゆる萌えは、デフォルメされた記号に対する半ば条件付けられた反応だろう。
 リアルさとデフォルメのバランスは、絵に当て嵌めてみれば解り易いだろう。では、「写真のような絵」あるいは「写真」そのものに相当するキャラクター(キャラクターの絵ではない)は創出できるだろうか。否、と私は思う。キャラクターは記号である以上、「写真」にはならない。

『ラ・イストリア』では、語り手の役を担うアロンソとクラウディオには、デフォルメの比率を低くした作り込み(敢えて「リアル」とは言わん)を行った。お蔭で彼ら二人は、かなり自律的に動いてくれたが(その前に、どういった作り込みをするかで、ひどく紆余曲折してしまったのである)。
 彼ら以外のキャラクターの大半は、作り込み自体を敢えて浅くしてある。クラウディオが生まれ育ったグロッタ(洞窟)の住人たちは、薄っぺらさを強調するため、表面的なデフォルメを過剰に施した。

『ミカイールの階梯』ではさらに、すべてのキャラクターに対して作り込みを浅めにしてある。一部のキャラクターは比較的作り込んだが、いずれにせよキャラ立ちは抑えている。
 キャラ立ちの抑制は、先述のとおりキャラクターばかりを前面に出さないためであるが、作り込みをも抑えたのは、このHISTORIAシリーズが「いずれ語られる物語」ではなく、すでに「語られた物語」であることをより明確に示すために、キャラクター=記号であることを強調したのである。

 とはいえこれは物語の中心にいるキャラクターたちについてであって、普通ならあまりキャラ立ちさせるべきでない位置にいるキャラクターを、その役割から外れない範囲内で立たせるのは、『グアルディア』に引き続きやりました(分量が少ない『ラ・イストリア』ではやらなかった)。ミルザ・ミカイリーとか、ユスフ・マナシーとかベルケル(ゼキの弟)とか。

 キャラ立ちを抑制してもしなくても、「役者さん」たちに演技させるスタイルは変わらないので、仁木作品のキャラクターの台詞はすべて、演劇の台詞として書いています。リアリティよりリズムを重視。句読点は息継ぎです。小説で「リアル」な喋りを表現することに関心はないのです(どのみち、数百年後の世界で使用されている言語の「翻訳」である、という見方をすれば「リアル」な台詞回しは必要ない)。台詞だけでなく地の文も同様。『グアルディア』は特にその傾向を強く出しています。以降は比較的平易にしてますが。

 以下、ネタばれ注意。

続きを読む "キャラクター"

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96時間

 リーアム・ニーソン主演、リュック・ベッソン制作、ピエール・モレル監督。
 コレクターの素質はまったくないのだが、映画パンフレットだけは大量に持っている。まあこれも資料として買ってるだけなんだが。

 で、パンフレットには通常、キャスト・スタッフのインタビューのほか、日本人によるエッセイや談話が2~4人分ついている。うち半数かそれ以上が、映画評論家を名乗る人によるものでさえ、当人に興味がある人以外にはどうでもいいことがダラダラ述べられているものだが、今回のパンフレットでは執筆者が全員、真正面から作品の分析を行っている。三名の執筆者とレビュータイトルは次のとおり(敬称略)。

  • 佐藤哲也「93分、全力疾走!」
  • 高橋諭治「“常識破り”の追跡アクション」
  • 清藤秀人「ヒットの裏の巧みな仕掛け」

 このうち、清藤氏が分析している「なぜこの映画がアメリカでヒットしたのか」は私の関心の対象外だが(アメリカの観客のことなんかどうでもいい)、佐藤氏と高橋氏のレビューにはまったく同感で、したがって私がわざわざ感想を書く必要もない。とはいえ観客すべてがパンフレットを買うわけではないし、そろそろロードショウも終わってしまうので、両氏の見解を踏まえて感想を書いてみる。

 上映時間は93分間と短めだが、一切の無駄がなく、みっちりとアクションが詰まっている。主人公の背景(家族との関係、元CIAという過去、そこで培われた能力は今なお健在であることなど)は序盤だけで実に手際よく説明されている。凡百のアクション映画では、そうした背景は小出しに明かされていくものだが、『96時間』ではいったん事件が始まって転がり出すと、背景への言及や回想による中断が一切ない。
 それどころか、捕らえられた娘がどんな状況に置かれているのか、アメリカに残った妻がどうしているのかといった、普通ならあるはずのシーンもない。悪役(個人であろうと組織であろうと)がどんな連中かといった描写もなければ、主人公が苦悩したり、次に打つ手が見つからなくなって迷ったりといったシーンすらない。ひたすら行動し続ける主人公をカメラは追う。

 普通のアクションもので、視点が主人公の過去とか内面とか、ほかのキャラクターとかに視点が移動するのは、サスペンスやドラマの要素を加えるためだ。『96時間』がそれらを必要としないのは、ひとえに主人公がリーアム・ニーソンであるお蔭である。彼以外のどの役者を持ってきても、B級以下になってしまっただろう。まあこれは、実際に観てください、としか言いようがない。
 監督の前作は『アルティメット』だが、今回のアクションはああいった超人的な身体能力を見せるものでも、或いはワイヤーワークでもなく、堅実なマーシャルアーツで、そのためリアリティがあるように見える。いや、冷静に考えれば充分超人的なんだが。

 ところで、ファムケ・ヤンセンはいつの間にか17歳の子を持つ母親の役をやるようになってしまったんだなあ。実際にはもっと年上の子供がいてもおかしくない年齢ではあるんだけど。髪型のせいかサンドラ・ブロックに見えた。

 最後に、清藤氏のレビューにちょっと関連して。
 アメリカの観客に向けた「おまえらが喜ぶのを作ってやったぜ」というフランス人スタッフの嫌味な態度が透けて見える作品である。一方で、自分の地元が余所者にとって如何に危険か、というのは充分に自慢の種になり得るものだ(中二的自慢だが)。『山猫』でも視察のためにシチリアに赴いた役人に、地元の貴族が寄ってたかって「原住民」がどんなに野蛮で危険かを、嬉しそうに話して聞かせるシーンがあったな。

 しかも『96時間』で描かれる「パリの危険」たるや、観光で来た若い外国人女性が「捕まって薬漬けにされて売り飛ばされ」、「処女はオークションに掛けられアラブの富豪に買われる」という良識ある人間なら到底本気にしないベタなネタだし、その恐るべき犯罪に関わる輩は「アラブの富豪」をはじめとする非フランス人が主で、フランス人では外人の女の子を引っ掛ける係の優男を除けば官憲とプチブルだけである。フランス人は官憲とプチブルが嫌いだ(優男も嫌いかもしれない)。外国人は……どうだろう。

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ストーリーやキャラクター作りに大切なことは、概ね劇団から学んだ

 大学時代、学生劇団に参加していたのであった。実質、活動したのは一年ほどであるが、その間だけでも非常に多くのことを学ばせてもらった。

 その劇団では、かつては既成の脚本(つかこうへいなど)を上演していたようだが、私が入る少し前から、演出を担当する団員が脚本も自作するのが普通になっていた。
 公演は年に四回もあり、しかも一度に二本以上が立った。作・演出希望の団員(学生)は、公演の三ヵ月ほど前に名乗りを上げ、脚本を皆に読んでもらうが、その脚本というのが完成どころかB5程度の用紙数枚分しか書けていない状態であった。そして参加者が集まれば練習に入り、公演と相成るのだ。上演時間は二時間が目安だった。

 話の進行どおりに書ける者はおらず、上がってくる脚本は順番がばらばら、しかも大概、断片的だった。何週間も練習してきた場面が没になるのはマシなほうで、執筆が進まないので同じ場面(せいぜい数分間)を繰り返し繰り返し練習させられることも少なくない。仕込み(舞台装置や照明の設置)は上演の二、三日前から始まるが、その一、二日前になって初めて通し稽古ができ、初めてキャスト・スタッフ一同、「ああ、この場面はこう繋がったのか」「ああ、こういう話だったのか」と知ることになる。
 初日数日前より早く脚本が完成した例を私は知らない。幸いにして、前日または当日に完成、という例は話に聞いただけであった。

 そんな有様でも、ちゃんと上演には漕ぎ付けられるのである。団員は全員素人の学生だ。指導者もいない。全員が、プロの劇団の上演やビデオを熱心に鑑賞しているわけでもない。
 脚本は、推敲がまったくできていないのを差し引いても、問題を挙げ始めたらきりがない。とりあえず、筋書きにも人物造型にも整合性がない。キャストも、そうした脚本の問題を差し引いても、入団まで演技は未経験だった者がほとんどだ。高校演劇部だった子も少数いた(ほとんどが女子だった)が、彼らにしてもさして差はない。

 そんな有様でも、出来上がる舞台は素晴らしいものだった。私はまず観客として、それに魅了された。荒削りな脚本と、荒削りな役者。それらが舞台という祝祭空間に於いて、化学変化を起こしたとしか思えない途轍もなく高揚した場面を生み出すのだ。
 全体を通してのテンションには非常に浮沈があるのだが、それでも約二時間の上演中に、幾度となくその高揚が訪れ、そして最終的には全体を通しても素晴らしい舞台となる。
 キャスト一人ひとりにも同じことが言えた。役者は素人、演じる役は多くの場合、整合性にも個性にも乏しい。にもかかわらず、ある瞬間では素晴らしく魅力的なキャラクターとなることがある。瞬発的にキャラ立ちするのだ。それは、それなりに経験を積んだ先輩団員が、主要キャラクターを演じる時に限ったことではなかった。

 公演は必ず全員参加だったが、どちらかというと意欲のある者がキャスト、ない者がスタッフを志望する傾向にあり、そして作・演出は来る者拒まずでなければならなかった。つまりキャスト志望者が多すぎた場合、学芸会のごとく「その他大勢」役を作ってやらねばならない。
 出演時間は合計数分間、台詞も碌にない「通りすがりA」、あるいは出番はそれなりにあるものの、いてもいなくてもいい「刑事B」(いなくてはいけないのは「刑事A」である)といった役は、当然ながら新入り団員に宛がっとけで捻り出される。そんな役を、ついこの間までまったくの未経験だった(演劇鑑賞の経験すらなかったことも)キャストが演じるにもかかわらず、驚くほど魅力的なキャラクターが生まれ得る。

 観客の一人として私は、そうした「驚くべき高揚」を幾度も目撃した。なぜこれがその場限りのものだけで終わってしまうのか、もっと活かすにはどうすべきなのか、ずっと考え続けた。それで、どのように芝居が作られているのか知るために入団してみたのだ。
 で、前述の過程で作られていることを知るわけですが。実際に体験すると、私のように低いテンションで生きている人間にとって、そうした状況は「阿鼻叫喚」に見えましたね。みんなテンション高いから。

 とにかく我の強い人間ばかりなのである。作・演出を務める団員の中には、無闇と高圧的に振る舞い、「演出家は神様だ」などと吼える者もいたのだが、所詮学生同士である。演出家が上級生ならともかく、同級生や下級生だった場合、キャスト・スタッフは舐めてかかる。「嫌だ、やりたくない」とはっきり言うし、脚本・演出に口を出す輩もいる。新入りはそこまではしないものの、「できません」くらいは平気で言う。
「演出家は神様だ」というのは、つまりは虚勢であり、「頼むから言うことを聞いてくれ」という心の叫びなのであった。

 キャスト・スタッフ同士の反目も相当だった。一回の公演に二本以上芝居が立った時は、それぞれの参加者同士の反目もある。必要な資材や作業スペースなどを相手に使わせまいとする者までいた。さすがにそこまでやると周囲が制止したし、衆人環視の中での罵り合いに発展するようなことは稀だったが、聞くに堪えない陰口、「話し合い」と称するいがみ合いは日常茶飯事だった。
 そんな状態でも、いよいよ上演ということになれば、全員が一致団結する。違う芝居の参加者も仕込みに協力する。そうして、作・演出もキャストもスタッフも不完全なはずなのに、幾度となく「驚くべき高揚」が訪れる舞台を作り上げるのだ。それはまさしく感動的な体験だった。
 まあそれで公演が終わると、溜まっていたものが一気に噴出して一人か二人辞めていくのも珍しくなかったんだけど。

 こうして振り返ってみると、私が劇団に入ったのは「どのように芝居が作られているかを知る」のが主目的で、芝居をやること自体は二の次だったともいえる。もちろん、「何か」を作りたかったからでもあったんだけど。
 ずっと小説家になりたかったけど、どうしても小説を書くことができなかったから、十代半ばから二十代半ばにかけては、「何か」を作ることを模索していた。演劇はその一つで、ほかにも漫画を描いたり映画(8mm)を撮ったり、大学院まで進んで(「入院」と言われていた)東洋史を研究したのもそうだし、編集の仕事に就こうとしたのもそうだし、とにかく「作る」のはなんでもよかったわけで、手芸や料理に凝ったこともあった。

 結局、それらの何一つとしてモノにならないと判明した時になって、突然小説が書けるようになった。突如、「書き方」を会得したのである。それは脚本形式――台詞とト書き――で「下書き」をしてから、それを小説の文章に清書する、というものだった。
 プロットに沿って順番に、最初は五つか六つの場面を下書きし、清書する。その間に文体を決め、設定を詰めていく。その後は一場面から多くても三場面ずつ、順番に下書きしては清書することを繰り返す。

「エチュード」と呼ばれる演劇の練習形式がある。おおまかなシチュエーション(例:喫茶店で別れ話をする男女)だけを決め、アドリブで数分間芝居をするのだ。私自身はこれがものすごく苦手だった。素でもアドリブ利かないからな。作・演出が脚本執筆に行き詰ると、これをやらされるから嫌だったなあ。
 しかし私の作品に於けるキャラクターが動いたり喋ったりする場面の執筆は、このエチュードに似ている。
 プロットが「大まかなシチュエーション」。細部がどうなるのかは、書き手たる私に決定権はなく、キャラクターたちのアドリブ任せだ。だから何が飛び出してくるかはわからない。書き始める前には知らなかった設定が出てきてしまうこともよくある。プロットそのものに変更が生じることはまずないが、細部はいくらでも変わる。何が起こるか本当にわからないので、重要な場面の執筆が近付いてくると、巧くキャラクターたちが「演じて」くれるかどうか心配で、非常に緊張する。

 キャラクターたちは、「演じる」のだ。私にとっての自作のキャラクターたちは、生身の人間(人間じゃない場合もあるが)として想定しているのでもないし、記号もしくは駒として意のままに動かせる存在でもなく、まして私自身の分身などではない。私の脳内に小人さんならぬ「千の仮面を持つ」役者さんたちがいて、各作品のキャラクターを演じる。私はそれを演出しているのである(ところで、このブログのタイトルは……)。

 キャラクターと私の間には、脳内「役者さん」というワンクッションが挟まれるので、私は自作のキャラクターに自己投影はしない。だから彼らはしばしば、私の思うとおりに動いてくれない。もちろん実際の演劇の作・演出家ほどは大変ではないが、それに似た苦労がある。そしてまた実際の演劇と同じく、「役者さん」に自律性があるから、作・演出家が予想もしていなかったものが生まれ得る。
 役者の自律性によって生まれる瞬発的な高揚を、その場限りのものにしないためにはどうしたらいいか。それを活かす設定、物語を作ればいい。そういうことを、演劇を通して学ばせてもらったのでした。

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ベンジャミン・バトン 数奇な人生

 特異な男の人生を通して移り行く時代を描く、というのは『海の上のピアニスト』に似ている。『海の上のピアニスト』は、『フォレスト・ガンプ』のように「激動の時代」という紋切り型を文字どおり駆け抜けるのではなく、船という乗り物の中で静止した時間を生きる男の周囲を人々が通り過ぎていく。『ベンジャミン・バトン』もまた、特異な時間(こちらは比喩ではないが)を生きる男の周囲を人々が通り過ぎていく。

 ネタバレが問題になるような作品ではないが、一応ネタバレ注意。

 老人として生まれ、若返っていくという特異性を負った主人公、などというものは下手に扱ったら「障害者もの」になってしまいかねないが、幼少期の主人公を老人ホームという「老いが当たり前」の環境に置くことで、周囲との摩擦とそこから生じる苦悩を最低限に抑えている。まあネット上のレビューを見ると、「障害者もの」を期待した観客もいるようだが。

 ティム・ロス演じる『海の上のピアニスト』の主人公は船から下りることを拒絶し、したがって必然的に彼にとっての他者は「通り過ぎていく」存在となる(船の乗組員もいずれは去っていく)。
 ベンジャミン・バトンは長じては躊躇いなく外の世界に出て行くが、人格形成期を老いと死が当たり前の環境で送ったため、やはり他者は「通り過ぎていく」存在である。まして彼は1918年生まれであり、若者にとってさえ死が当たり前の戦争を二十代前半に体験することになる。
 他者が「通り過ぎていく」存在であると割り切っている(悟っている)とはいえ、それなりに悲しみと苦悩を抱いているのだが、淡々とした描写に徹している。しかし『ピアニスト』のように周囲が本当にただ通り過ぎていくだけの話になっていないのは、唯一の幼馴染であるデイジー(ケイト・ブランシェット)との関係が軸になっているからである。

『ピアニスト』だと、主人公のバンド仲間だったトランペット奏者が語り手という構造になってるんだが、一緒にいた期間がそれほど長くない上に非常に親密だったというわけでもない(相対的には親密だったが)ので、どうにも焦点が定まっていない。
 ベンジャミン・バトンにとってデイジーは初めて接触した外部の人間であり、唯一無二の特別な存在だ。彼女に対してだけは、彼の感情は揺さ振られる。その描写もあくまで淡々としており、全体の色調から外れていない。

『ピアニスト』は、主人公の名が「1900」というところからして、「20世紀を主人公の人生に託そう」という意欲満々なのが窺えるが、実際には早くも1946年に船とともに1900の人生は終わることになるし、しかも語り手となるトランペット奏者は1933年に船を下りてしまい、第二次大戦が完全にすっ飛ばされている(第一次大戦の体験も、すっぱりと省略されている)。
 いろいろと不発で終わった跡が見られる(そして最後に場違いに派手な爆発のある)、なんだかよくわからない映画になっている。

『ベンジャミン・バトン』は、『海の上のピアニスト』のように主人公に象徴的な名前を付けたり、『フォレスト・ガンプのように時代との絡みを露骨に入れてはいない。しかし結果的には(それが制作者の意図だったかもしれないが)、先行の二作品よりも20世紀という時代と一人の男との関わりを描けている。
 まあ『ピアニスト』同様、最晩年に至るまでの十数年間の欠落があるんだけどね。三時間近くもの上映時間は長く感じなかったが、この欠落部分まで入れていたら、なんぼなんでも冗長すぎてしまっただろう。ほかのエピソードを短縮するとかして、少しくらい入れられなかったのかね。
 なぜ入れるべきだと思うのかといえば、デイジーの許を去ったのが70年代で、その頃ようやく30前後くらいまで若返ってた。「若い心を持つ老人~初老の男」は演出と演技によって巧みに描けていたが、それならば「老人の心を持つ青年~少年」も少しは描いてほしかったんだよな。この点だけが不満。

 ブラッド・ピットは、トム・ハンクスのようにわざわざ知的障害者として設定されなくても無垢な男を好演している(問題があるのは作品自体であってトム・ハンクスではないが)。ティム・ロスも同じく「無垢」として設定されてたが、彼だと無理があるんだよな、演技力以前の問題として。
 デヴィッド・フィンチャーの以前の作品は、まずテーマやアイディアがあって、ほかの要素はすべて後付け、しかも後付けの状態のまま放り出している杜撰さが嫌いだった。
 加えてあの閉塞感。『エイリアン3』や『セブン』の頃は狙ってやってるのかと思ったが、どうやらそういうものしか作れなかったらしい。それが前作『ゾディアック』から閉塞感を打破しようとする傾向が見られ、今作では、実は結構自己完結している男を主人公に据えているにもかかわらず、かつての独りよがりは完全に払拭されている。次作にも期待したい。

 ところで、老人ホームにいた「7回雷に打たれた男」ってこれがモデルか。

――稲妻が生物の身体を打つ時には、その大部分は「外面フラッシュオーバー」と呼ばれるプロセスで外部を通過する。合衆国の公園警備隊員ロイ・C・サリヴァンは、1942年から1983年までに7回の稲妻を生き延びた。

 最初は1942年で、雷が脚に落ち、親指の爪を吹き飛ばした。二度目の落雷は1969年で、眉毛を焼き、彼は倒れて意識を失い、その一年後、庭を歩いている時にまた雷に打たれた(3度目)。1972年、稲妻は彼の髪の毛に火をつけ、頭からバケツで水をかぶる羽目になった(4度目)。髪の毛がやっと育った頃、稲妻はもう一度火をつけ(5度目)、その3年後にまたしても打たれた(6度目)。最後の稲妻体験は1977年だった。
 これらの経験はどれ一つとして彼の意気を殺ぐことはなかったようで、1983年に不幸な恋愛の結果70代で自殺を遂げた時、やっと終わったのである。

 彼の身体は、「外面フラッシュオーバー」に奇妙に適応していたようである。そこまで適応していない我々にとっても、稲妻の危険は最小限である。稲妻に打たれた人間の約20%が死亡する過ぎず、通常その原因は電流の一部が心臓を通って流れるためである。
    (レン・フィッシャー『魂の重さの量り方』 新潮社より)

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アパルーサの決闘

 エド・ハリス、ヴィゴ・モーテンセン、レニー・ゼルヴィガー、ジェレミー・アイアンズと、主役級の役者を四人も揃えて、なんで日本未公開なんだ、と釈然としない思いを抱えていたわけですが、実際に観てみると………これは未公開でも仕方ないかな……? 
 そう私が思うのは、単にレニー・セルヴィガーが嫌いだから、余計に心証が悪いのかもしらんが。

 1882年、西部。アパルーサの町は、無法者ジェレミー・アイアンズによって支配されている。困り果てた住民たちは、腕利きガンマンのエド・ハリスと相棒のヴィゴ・モーテンセンを呼び寄せ、保安官として雇う。
 そこへやって来るのが、未亡人でピアノ弾きのレニー・ゼルヴィガーである。彼女は西部の女にしては美人で上品で教養があり、そういう女が身近にいたことのないエド・ハリスはすっかり惚れ込んでしまう。
 ところがゼルヴィガーは、とにかくその場で「一番強い男」に靡くという悪癖があり、エド・ハリスは翻弄されることになる。

 レニー・ゼルヴィガーは、そういう「いろいろとだらしない女」を演じるのが巧い。しかし巧く演じられるのと魅力があるのとはまた違う。
 そもそも、大前提である「西部の女にしては美人で上品で教養がある」ように見えないのが問題だ。「西部の女にしては」という限定付きだというのは演出から解るんだが、「美人で上品で教養がある」ようには見えないんだよね。「美人」は仕方ないにしても、「上品で教養がある」はもう少しなんとかならなかったのか。

 なんでゼルヴィガーが嫌いか言うたら、「あたし巧いでしょ?」な演技が鼻につくからだ。「こんなだらしない女も演じられるのよ。もちろんほんとはこんな女じゃないけどね」みたいな。滲み出る無神経さは、演技じゃなくて素だろう。
『ザ・エージェント』の時は可愛かったんだけどなあ。「冴えないけど一生懸命で、よく見ると可愛い女」を演じて、鼻につくところなどなかった。
 しかし『草の上の月』では、ロバート・E・ハワード(コナン・ザ・グレートの。演じたのはヴィンセント・ドノフリオ)の自殺の原因ではないにしろ後押しにはなってるんじゃないかってくらい、とにかく無神経な女で……あれは演技だったんだか素だったんだか。
 大袈裟な演技が要求される『シカゴ』では、「こんなバカ女を演じて、あたし巧いでしょ?」は相変わらず露骨だったものの鼻にはつかなかった。だけど『ブリジット・ジョーンズ』とかもう耐えられん。

 最後にセルヴィガーを見たのは『コールド・マウンテン』の予告で、「こんな粗野な女も演じられるのよ。もちろんほんとはこんな女じゃないけどね」に、もうどうしようもなくイラッとさせられてな。イライラするほどじゃないんだが、とにかくイラッとする。
 地衣類の研究者でもあったビアトリス・ポターをどう描いているのか興味はあるが、ゼルヴィガーだから『ミス・ポター』はよう観ん。

 そんなわけでゼルヴィガーは鬼門なわけだけど、男優三人に釣られて観た『アパルーサの決闘』で、久し振りに見たゼルヴィガーは「巧いでしょ?」な自意識はかなり抑えられていた。でもやっぱり魅力がない。女なら誰でもいい飢えた男どもならともかく、エド・ハリスがそこまで夢中になるような女には見えないんだよ。
 が、私の好き嫌いとは別に、キャラクターの造型が一番しっかりしていたのはゼルヴィガーだった。ほかの主要キャラクター三人は、どうにも不明瞭。キャラクター描写を行おうとしてる形跡はあるんだが、その場限り。

 例えばエド・ハリスは始終難しい言葉を使おうとしては言い間違えたり、よく理解できないのに教養本みたいなのを読もうとしたりしている。上流の世界に憧れていて、それでゼルヴィガーみたいな女に引っ掛かった、ということにしたいらしいんだが、そうした描写はどれもその場限りで、全体像に繋がってこない。
 或いは、エド・ハリスとゼルヴィガーが出会ったその夜、酒場で騒いでいる男を、エド・ハリスがいきなり切れてぶちのめす。まったく唐突で、そして翌日になるとゼルヴィガーがエド・ハリスに言い寄っている。
 どうも「突然切れる=強い→ゼルヴィガーは強い男に惚れる」という図式を描きたかったらしいんだが、短絡的すぎてわかんねーよ。

 ま、脚本も演出も拙いんだろうな。監督はエド・ハリス本人なわけだが。大まかなプロットとしてはそう拙くもないが、細部の問題。
 往年の西部劇っぽい音楽はいいとして、ゼルヴィガーの登場のたびに「ロマンティック」なメロディが流れるのは失笑ものだった(前半だけ。さすがに後半、彼女の本性が明らかになってからはこの演出はなかった)。エンドクレジットの音楽がださい。エド・ハリスの趣味?
 のろのろと坂を上る機関車はよかったです。

 粗野でふてぶてしいだけの悪党かと思いきや、実は結構教養もあって大統領へのコネまである、といういくらでもおもしろくなりそうな設定のキャラクターをジェレミー・アイアンズが演じてるのに、全然活かせてないのは余程の無能としか思えん。ヴィゴ・モーテンセンもとにかく地味でな。終盤近くになってようやくかっこよくなってくるが。やれやれ。
 モーテンセンと関係を持つ娼婦役の女優、見覚えがあると思ったら『アラトリステ』で彼の恋人を演じたアリアドナ・ヒルだった。ちょっと垢抜けたかな。スペイン語訛りがちょっといい。

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ヘロドトスを楽しく読む

 ヘロドトス『歴史』(松平千秋・訳 岩波文庫)および佐藤哲也『サラミス』(早川書房)の読み比べ。おまえ暇なんだろ、という声が聞こえてきそうですが、暇じゃないです忙しいです本当です。
 古代ギリシアについて(古代ギリシアだけじゃないが)知識が乏しいため、2005年に刊行された佐藤氏の著作を十二分には楽しむことができなかった。いや、知識がなくても充分楽しく読めるんだけど。さらにシルクロード史を専門としていた身として『歴史』は引用に散々お目に掛かってきており、いつかは読まなと思っていたのである。
 知識が乏しいのに両書を読み比べるというのは如何にも無謀で気が引けるのだが、そうやって先延ばしをしているうちに4年も経ってしまったので敢行することにする。自分のため以外のなにものでもないが、他人に見せることを前提としたほうが自ずときちんとした文章を心掛ける。

というわけでブログに上げる予定で書いたものの、かなりの量になってしまった。というわけでPDFにしました。『熱帯』を愛読している方、あるいは古代ギリシアに興味がある方は、是非読んでみてください。

 読み比べをしてみて驚いたのは、てっきり佐藤氏の創作だと思っていたエピソードの多くが、本当にそのまんま『歴史』に記されていたことである。例えば、サラミス海戦の勝利後、最大の殊勲者を決める投票で指揮官たち全員が自分自身に投票した、とか。
 いやまったく、佐藤哲也がヘロドトス的なのか、ヘロドトスが佐藤哲也的なのか。まあつまり、ヘロドトス的なるものを完全に自家薬籠中の物としてしまった佐藤氏がすごい、ということになるのだけど、こういうエピソードを言い伝えてきたギリシア人もすごいし、こういう形で書き残したヘロドトスもすごい。批判するでもなく呆れるでもなく、当たり前のこととして淡々と記しているのだ。

 この傾向は全体に及ぶが、とりわけサラミス海戦に於いて強い。ペルシアの侵攻という未曾有の危機に対して、一致団結どころか日和るは足を引っ張り合うは、それを腹黒い策士テミストクレスが奇策を用いて無理やりサラミス海峡での決戦に持ち込むのである。
 ヒロイズムとは程遠いスラップスティックな事件が、ヒロイズムの極みであるテルモピュライの全滅の直後に起こったのは、まことに示唆的である。
『歴史』全体を通しても、テルモピュライは突然変異的な特異な事件である。しかし少なくとも近代以降、戦争とはテルモピュライであるべき、歴史は偉大で崇高であるべき、と思われてきたわけで、そのような戦争観・歴史観の中で『歴史』はどのような位置付けだったんだろう、とにわかに気になるところである。

「salamis.pdf」をダウンロード

関連記事:

映画『300』と『歴史』に描かれたテルモピュライとの比較

その後のテミストクレス トゥキュディデス『戦史』より

『下りの船』感想

比較検証(単なる読み比べ)シリーズ:
 『イーリアス』と佐藤哲也氏『熱帯』

 マイケル・クライトン『北人伝説』とイブン・ファドラーン『ヴォルガ・ブルガール旅行記』

 『戦争と平和』と佐藤亜紀氏「アナトーリとぼく」

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バッファロー・ソルジャーズ

 ベルリンの壁崩壊間近の西ドイツ。駐留米軍が暇を持て余して腐敗の限りを尽くしている映画。
 実話に基づいているらしい。補給部隊だから物資の横流しが容易というのが、腐敗に拍車を掛けている。見事な腐敗ぶりです。

 自動車窃盗罪で半年の服役か三年の兵役、の二択で後者を選んだというが、つまり三年足らずで備品どころか兵器の横流し、ヘロインの精製にまで手を染めるようになったわけか。
 ホアキン・フェニックスは軽快な役だと少々重すぎてしまうのだが、今回は悪知恵ばかり回って後先考えない兄ちゃんを軽快に演じていた。

 エド・ハリスは気弱で無能で女房の尻に引かれている補給部隊隊長。気弱なエド・ハリスも無能なエド・ハリスも初めて観た。ちゃんと気弱で無能に見えるなあ。草地で三角座りしてるのが憐れを誘ってちょっと可愛い。
 2001年公開だから、『Xメン』(1作目)から1年しか経ってないんだよな。アンナ・パキン、ローグ役の時はまだ美少女の面影をわずかなりとも留めてたのに、なんだこの劣化は。すきっ歯になってるし、顔も四角くなってる。

『バルジ大作戦』で戦車がいっぱい破壊されるのを観たばかりだったので、89年の戦車がガソリンスタンド爆発の只中にいても乗員ともども傷一つ付かないのには感動すら覚えました。

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チェンジリング

『硫黄島』二部作、『グラン・トリノ』にはいたく感心したものの、それ以前のクリント・イーストウッド監督作はどうも合わない感があったので(それほど数を観ているわけではないが)、これもそれほど期待はしていなかったのである。あからさまに観客を感動させようとする映画なんて観たくもないし。
 それでも観たのは、まあ要するに、「何をやってもアンジェリーナ・ジョリー」にしかならない女優が、今回はちゃんと演技ができてるのか否か、という好奇心からだった。

「何をやっても」といっても、トム・クルーズのように(ほぼ)常に「自分自身」を演じ続けているのではなく、世間一般の「アンジェリーナ・ジョリーのイメージ」から離れた役を演じることができない、といったところだろう。
 本人の責任なのか、監督の責任なのか。繊細な演技ができるのは、『17歳のカルテ』で証明済みである。しかしその繊細さは、今にも周囲に殴り掛かりそうな(そして殴り倒しそうな)ケモノっぽい危うさであって、結局「アンジェリーナ・ジョリーのイメージ」から出ていない。

 結論から言うと、さすがイーストウッドだけあって、見事にアンジェリーナ・ジョリーを使いこなしていました。てゆうか、やっぱりイーストウッドくらいじゃないと彼女を使いこなせないのか。
 メイクや衣装の力も大きい(撮り方も)。帽子や髪型で顔の輪郭を隠し、常に顔に影が落ちるようにしている。そうすると目立つのは、濃く縁取った両目と真っ赤に塗った唇ばかりになる。
 彼女のトレードマークともいえるほど特徴的な唇だが、実は本人はコンプレックスがあるらしく、これまでの出演作でも普段のメイクでも、あんまり濃い色の口紅を塗っていない。なので、真っ赤に塗った唇は非常に目立つものの、却ってアンジェリーナ・ジョリーらしさを減じているのだ。

 衣装も、華奢に見せるデザインが選ばれ、本人もかなり体重を落としている(でも胸は大きいままなんだな……)。彼女に寄り添い力づける牧師に、ジョン・マルコヴィッチをキャスティングしたのも計算のうちだろうか。マルコヴィッチはかなり大柄だが、なぜかあまりそう見えない。で、ジョリーと並ぶと、マルコヴィッチが大柄なんじゃなくて彼女が小柄に見える。

 もちろん、ジョリー本人も充分に貢献している。衝撃を受けた時や悲しみをこらえる時の仕草として、「片手で口を覆う」とう仕草が何回かあって、やや単調な印象を受けたが、気になったのはそこだけで、後は「気丈だが、女は弱い存在であることが当たり前として生きてきた1920-30年代の女性」を演じて違和感はほぼない。
 発声や動作まで、まったく変えられていた。声は抑え目に柔らかく、叫ぶ時も金切り声を上げるのでも腹から声を出すのではなく、掠れさせる。
 身体の動きも小さく、警官や看護士たちに取り押さえられても、身をよじるのは振り解こうとするよりもむしろ、身を縮めようとする動きである。「強引に振り解く」ということをしたことがなく、咄嗟にそうすることもできない女の動作だ。
 ひたすら耐え続ける演技がほとんどを占めるが、精神病院に強制入院させられ、次第に神経が参っていくと、冷静さを保っていても両手を捻くり回したり、びくびくと身を竦めるといった仕草が多くなる。この辺は巧いね。

 彼女が自己主張をする場面をほとんど入れなかったのも、「強すぎ」に見せない演出だったかもしれない。法廷で証言する場面すらなかったもんな。
 観る前の危惧の一つが、うざいほどに「母性」を称揚しているんじゃないか、というものだったが、それは杞憂で終わった。むしろ、彼女を排除しようとする連中こそが、「母性」をその道具にしているのが際立った。取り乱せば「母親だから理性的になれない」。懸命に冷静さを保とうとすれば「母性が欠如した冷淡な母親」。

 誘拐された少年たちが殺された事件は、映画ではだいぶ控えめに描写されていたが、それでも陰惨で異常極まりない。さらに警察の腐敗ぶりも、唖然とするほどひどい。
 しかし個人の異常さに帰してしまうことのできる(それが妥当かどうかは別問題として)猟奇殺人や、組織の利益を守るという解り易い動機の警察よりも、ある意味ずっと恐ろしいのは、警察と直接利害を共有しているわけでもなく、おそらくは大して圧力も掛けられていないのに諾々と警察に従って弱者を迫害する医療関係者やマスコミである。

 こういう連中は、悪を為しているという自覚すらないだろう。「ロスに行けばハリウッド・スターに会えると思ったから」という理由で偽の息子になりすます少年と、大して変わりはない(ところであの子役は出番は少なかったものの、なかなかのクソガキぶりだった)。

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