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激しく、速やかな死

 佐藤亜紀・著、文藝春秋社。日本の文芸書(単行本)をエンターテイメント(ミステリ、SF、ホラーなど)と文学に分け、さらに文学の下部カテゴリーとして「男性作家」と「女性作家」を分けている書店では、佐藤氏の小説は大概エンターテイメントの棚なのに、この短編集だけは「女性作家」の棚に置かれていた。お蔭で見つけるのに少々手間取ったよ。

 収められている七つの短編は、書かれた(掲載された)時期は1998~2009年とばらばらであるが、巻末の著者による解題から明らかなように、いずれも下敷きとなる文献もしくは本歌を有している。また、フランス革命(或いはナポレオン)を中心点に同心円を成しているともいえる作品群でもある。以下、所感。

「弁明」
 私は『クイルズ』でしかサドを知らず、つまりあれが私にとってのサド像なのだが、佐藤亜紀氏によるとあれはよく出来た映画ではあるがサドではない、とのこと。
 そう言われても何しろサドの著作もまともなサド研究書も読んだことがないので(渋澤龍彦のエッセイは読んだことがあるが、渋澤の言うことは信用しないと決めたので記憶から締め出した)、この「弁明」のサドもジェフリー・ラッシュ演じるあの困ったおっさんでイメージされてしまうのであった。

 いずれこの時代について学ぶとともにサドに関しても学ぶつもりではあるが、今は西洋史は古典期のお勉強で手一杯で、それもそろそろ中断しなければならんので(そろそろ次作に取り掛からんと拙い)、この調子ではサドは数年先だろう。
 しかしどれほどイメージに隔たりがあろうと、「困ったおっさん」であるのは間違いない、と確信した次第である。

「激しく、速やかな死」
 書簡の形を取った「荒地」と「金の象眼のある白檀の小箱」、報告書の引用と解説の体裁を取った「フリードリヒ・Sのドナウへの旅」は、「過去の事実」という意味での歴史から、ざっくりと切り出してきたピースをほとんど加工することなく提示したもののように見える。

 言うまでもなく技巧によってそう見せているのである(サドの独白の形を取った「弁明」も同じ系列といえる)が、それらに比べてこの表題作は完結性の高い作品である。上記3(+1)作品が「過去の事実」とそのまま地続きであるかに思えるリアリティをもつのに対し、こちらは幻想的でさえある。
 もちろんここでいう、「リアリティ」と「幻想的」とは加工の仕方の違いであって、優劣の含みを持たせているのではない。「リアル」であるか「幻想」であるかに優劣はない。作品の優劣を決めるのは、すなわち技巧の優劣である。本書所収の作品の技巧については、論じるまでもない。

 それはさておき、「激しく、速やかな死」が他と異なる印象であるのは、単に「この世の外」を舞台としているからだけではなく、その舞台空間すなわち登場人物たちが入れられている奇妙な建築の閉鎖性に拠るところが大きい。
 解題によると歌劇へのオマージュだという。閉ざされた建物内部の様子は舞台装置のようでもあるし、ピラネージが描く建築空間のようでもある。そうした舞台装置もしくは絵画からインスピレーションを得て書かれた作品であるようにも思える。
 もっとも、この閉ざされた建築空間がどのような場所であるか具体的に意味づけられている(ある特定の死に方をした人々のための煉獄的な「場」)ことや、空間と人々の在りようの奇妙さではなく二人の人物の対話を主体とするところは、著者の特質であろう。

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 対話中で言及されるカローとは、エッチング集「戦争の悲惨」を描いたジャック・カロー(1592‐1635)だと思う。「戦争の悲惨」(左)が断頭台(および国民戦争)を経ると、ゴヤの「戦争の惨禍」(右)になるわけだ。

「荒地」
 初読は雑誌掲載時(2003年初夏)。当時は語り手(手紙の書き手)がタレイランだと判らなかったし、そうと判ったのは作中で語られる彼の若い頃のエピソード(司祭の叙階を受けた時のことなど)がタレイランのそれと一致すると気づいたからで、しかもそのエピソードでさえ明治大学での講義中に佐藤氏が語ったものである。
 しかしタレイランだと判らなくても、或いはそもそもタレイランが誰か知らなくても、「荒地」の語り手はタレイランとなる前のタレイランであり、フランス革命を逃れてアメリカへと亡命してきた貴族であるという情報は作中で明示されているので何も問題はない。

 ピューリタニズムと新大陸の荒々しい自然とが交わった結果、どれほど不毛な「文化」が生み出されたのかは、例えば『シザー・ハンズ』の郊外住宅のおぞましさだけでも一目瞭然なのだが、そのことに言及している日本人はほとんどいないような気がする。つまりそう思っている日本人はごく少数であり、大多数はあの郊外住宅を見ても怖気を振るったりしないというわけだ。

 2002年9月から1年間、私は1、2ヶ月毎に神戸から東京まで行って、佐藤亜紀先生に『グアルディア』を1、2章ずつ見てもらっていた。「荒地」が雑誌掲載された2003年初夏は、全11章中の第8章の執筆時に当たる。
『グアルディア』では最終的な敵(ラスボス)の前に、いわば中ボスとして北米のWASPの子孫である白人至上主義者たちを設定した。これは、日本に入ってくる海外作品ではジャンルを問わずカトリックを狂信的な「悪玉」としているものがあまりに多く(歴史物から現代ものまで。SFやファンタジーでは露骨にカトリックをモデルにした宗教)、またその影響で国内作品でもカトリックを「狂信的な」「悪玉」とする紋切り型が氾濫していることに気づいたからである。
 別にカトリックを擁護するつもりはまったくなく、ただ多数派には脊髄反射で逆らいたくなる習性なのである。

 しかしいざ執筆に取り掛かると、プロテスタントはカトリックに比べると実に「使えない」ことが直ちに判明した。文字どおりカトリックへの反発として生まれたから、その最も端的な特徴もアンチカトリック的、すなわち「清貧」と「小集団」だ。連綿と続いてきた巨大な共同体と、それらが育んできた文化とをことごとく否定する。その結果、諸派分立して横の繋がりがなく、伝統によって作り上げられるべき儀礼も芸術も持たない。あるのは清貧と称する殺風景と、個人または小集団(カルト)の狂信だけだ。

 カトリック=狂信、という図式は、プロテスタントや啓蒙主義的無神論者による捏造である。もちろんカトリックにも狂信はいくらでも見出せる。しかしプロテスタントにもいくらでも狂信は見出せる。
 最大の違いは、カトリックは非常に巨大な組織である上に多重構造であるため、その中枢部は良くも悪くも高度に政治的にならざる得ない。つまり狂信的、すなわち「純粋の追求」ではやっていけないのである。これに対して「純粋」を求めたのがプロテスタントであり、だから組織として規模が小さく、だから自浄作用が働かず狂信へと暴走しやすい。
 恐ろしいことに近年のアメリカでは、有効な抑制装置を欠いたまま巨大組織化しているようである。そして相変わらず、歴史も文化も不毛なままだ。

 White-Anglo-Saxon-Protestantは敵愾心からカトリックを「古き悪しきもの」とし、無神論者は宗教全般に対する無頓着な反感からプロテスタント的狂信と反科学(創造論がその代表)を、カトリック的狂信および反科学とまったく区別することなく一絡げに「古き悪しきもの」としてカトリックに押し付ける。
 そうした人々が多数を占める英米の作品が最も多く入ってくるため、日本人はそうした背景を理解もせずに、そうした考えに染められている。

 という事態に私は逆らいたくてむらむらしてくるのだが、だからといってプロテスタントが悪玉として愕然とするほど魅力がないのは如何ともしがたいのであった――言うまでもなく善玉としても。少なくとも私はカルト(メガチャーチは規模がでかくなったカルトだ)を魅力的に描くようなメンタリティは持っていない。
 ああ、カトリックって「悪の組織」としてなんて魅力的なんだろう。「狂信」の紋切り型を取り除いてやれば、なおのこと魅力的である。

 というわけで、「ネオピューリタン」と称する連中は中ボスとしてすら使えず、かませ犬に格下げとなったのであった。
 で、第8章ではこの連中の「文化」の不毛さを書き綴ろうとした。めくるめくメキシカンバロック(小野一郎氏が呼ぶところのウルトラバロック)の教会の内装を引っぺがして壁を剥き出しにした独善者たち、その直系が生み出した不毛だ。その直後に、『文學界』7月号が発売された。

 私が表現したかったこと、表現したかった以上のことがそこには書かれていた。だから佐藤先生に第8章を送る前に、その下りを必要最低限の記述(約3分の1)に切り詰めた。その旨を告げると、削らなくてもよかったんじゃない、と先生は仰ってくださったが。

「フリードリヒ・Sのドナウへの旅」
 初出は1998年。『1809』(1997年刊)のスピンオフともいうべき作品。

「陛下、戦争をおやめくださいと言って駆け寄った若者を取り押えてみたところ、両刃に研いだ包丁を持っていた、というのが正確なところだ。……世の中は実によく出来ている。一人の狂人の企んだことを、もう一人の狂人が邪魔をするとはね。……」
      (『1809』第九章より)

 この「もう一つのナポレオン暗殺未遂」(解題によれば、こちらは実際に起きた事件で調書も残っている)の顛末が語られている。ウストリツキ公爵も「フリードリヒ・S」も、まったく政治的でない動機によってナポレオンをを排除しようとした。その後どんな世界が訪れるかという予想(期待)は、まったく異なっていたわけだが。

 フリードリヒ・Sは十七歳で、「……背丈は、長身とは言えないベルティエより、つまりはナポレオン・ボナパルトより遥かに低かった。小柄だったと言うより、まだ子供だったのだ。」
 徴兵制によって当時の男性の身長が記録に残るようになったのだが、そこから判るのは、彼らが二十歳を過ぎてもまだ身長が伸びていたことである。つまり栄養状態が悪いので、現代の先進国と違って十代のうちに成長しきってしまわなかったのだ。
 ……ということも、明治大学の佐藤亜紀氏の講義で教わりました。

 私が知る限りでは、佐藤亜紀氏が長編のスピンオフとして書いた短編は、ほかに「モンナリイザ掠奪」(『日本SFの大逆襲』所収、1994)がある。『戦争の法』(1992)の序盤で語り手のご先祖「酒々井仁平」が紹介されるが、その仁平の「手記」にある「現在ルーヴル宮に飾られているモナリザの真贋に関する眉唾な話」をそのまま抜粋、という体裁で書かれた作品である。
 後述する「白鳥殺し」ともども、いつか出るであろう第二短編集に収められることを気長に期待している。

「金の象眼のある白檀の小箱」
 メッテルニヒ夫人からの夫への手紙の翻訳、という体裁を取った小説。解題によると出来事そのものは実際にあったそうである。

「何だってあんたたちは、あたしの人生に面倒ばっかり持ち込むのよ」
 ……しかし、何と言ってもこれ以上の真実はない。女の人生に面倒を持ち込むのは九分九厘、男なのだ。
 ……男のいない人生はなんとも穏やかで、平和で――退屈なものに違いない。
     (『ブーイングの作法』四谷ラウンド 1999より)

 佐藤亜紀作品の女は、原則として男によって人生に面倒を持ち込まれることを許している。優しさによって「赦して」やっているのではない。「許可」してやっているのである。
 一つには、上記のとおり面倒を完全に遮断してしまえば、穏やかで平和だが、退屈な人生になってしまうからだ。
 とはいえ佐藤亜紀の小説は、「女の強さと寛容」を無邪気に賛美するのでもなければ、賛美の振りをして面倒を押し付けようとする魂胆を持ったものでもない。なんといっても、男は「強き性」なのだ。

「金の象眼のある白檀の小箱」では、いかに男が強いかが描かれている。
 まず厳然たる生物学的性差によって、男は平均して女より筋力が強い。次いで、彼らはその生物学的優位をもって女を威嚇したり実際に暴力を振るうことを、さほど恥じていない(恥じるどころか、という者も多い)。さらに、女を屈服させるのに武器を使うことすら厭わず、しかも武器による力を自身の力と錯覚する。刀剣等、筋力で操作するものばかりか火器であってすら区別を付けない。
 物理的な暴力を除外しても、男は女の話を聞かない。聞いたとしても自分に都合のいいように曲解する。唖然とするほど想定外の精神構造を持ち、行動もそれに忠実だ。ガラスのように傷付きやすい上に、傷付けられたことを攻撃と解して過剰防衛に走る(尖ったガラスのように?)。そして「この世のものとは思えないほど」しつこい。

 語り手であるメッテルニヒ夫人をはじめとする女性登場人物たちは、かくも強き男たちを排除する気力がないので、人生に面倒を持ち込まれるのを諦めとともに許可してやっているのである。まあ多少はその面倒を楽しんでもいるだろうけれど。

 退屈よりは面倒のほうがマシだからなのか、或いは面倒を排除する気力がないから退屈よりはマシだと思うことにしているのか、ともあれ、原則として佐藤亜紀作品の女たちは男たちが面倒を持ち込むままにさせている。
 しかしもし、女が本気で「穏やかで平和な」人生を欲したらどうなるか。それが「白鳥殺し」(『ハンサムウーマン』所収、1998)である。
 まだ若い女である主人公は、自己完結した世界に生きており、その世界を乱す者は徹底して排除する。親から受け継いだ領地には白鳥が飛来するが、白鳥は優美なもの、という社会通念にはまったく頓着せず、鳴き声が醜い、という理由で撃ち殺す。同様に、彼女の静けさを乱す人間にも、血縁者であろうと容赦はしない。面倒を持ち込まれない人生が退屈だなどとは思わないし、面倒の排除を遣り遂げるだけの意志も持っている。

 この短い作品の最後で「面倒」の排除に成功し、自己完結を完璧なものにした彼女は、もはや漣一つ立たない、もしくは全面凍結した湖面のような存在だ。残る人生もそのままで生きていくに違いない。面倒を引き寄せない防御策は何重にも巡らせるはずだし、よしんばそれを乗り越えてくる男がいたとしても、石ころの如く手際よく排除するだろう。
 つまり、面倒の締め出しを完了した時点で物語も完了してしまい、これ以上どう発展しようもないのである。

『戦争の法』でも、主人公の母親は二人の仲間とともに「男っ気なしの女のユートピア」を手に入れる。これは運と要領の良さに拠るところが大きいが、いずれにせよそこでの生活は完璧に「穏やかで平和」で、いかなる物語も生まれようがない(主人公は、万が一の場合の「虫除け」として同居を許されているのであろう)。
 つまり佐藤亜紀作品の「物語」は、「男が人生に面倒を持ち込むのを許してやっている女たち」によって成立しているとも言えよう。

 ところで、ナポレオンは気に入った相手の耳を引っ張る、というのは『戦争と平和』にもあったなあ。

「アナトーリとぼく」
 トルストイの『戦争と平和』との比較検証(単なる読み比べ)は、以前ブログに上げました。下にリンクを張っておくので、よろしければお読みください。

 今春、『S‐Fマガジン』増刊号で「アナトーリとぼく」を読んだ時には、『戦争と平和』は未読だったが、映画版(ソ連製)は観ていた。映画ではナポレオン軍が撤退し、ピエールとナターシャがくっつくところで終わっている。ハリウッド版(未見)ではナターシャ役はオードリー・ヘプバーンだが、このソ連版のナターシャもヘプバーンに似た容姿の可愛らしい女優だ(原作からイメージされるのが、そういうタイプなのだろう)。
 映像によって初々しく可憐なイメージがことさら強く刷り込まれていたため、「アナトーリとぼく」を読んだ時点でなんとなく嫌な予感があったのだが、『戦争と平和』を読んでみて、映画では描かれていないエピローグでのナターシャの「変貌」には、トルストイの嗜好にげんなりしたのとはまた別の次元で愕然とさせられた。

 トルストイがああいうのんを理想とし、そういう小説を書くのは勝手である。どうせ実現できなかったんだから。
 しかし、『戦争と平和』が傑作として無数の人々に読まれてきたということは、結末でナターシャが「多産な雌」に「改造」されたのを気色悪いと思った読者はほとんどいなかったということだ。もしそう思ったとしても「トルストイは偉大な文豪だとされてるし、その彼の大傑作とされてる小説なのだから間違いはないはず」と、無理やりもしくは深く考えもせずに自分を納得させたり、或いは「そのとおりだ、こういうのが男にとっても女にとっても幸福なんだ」と感動したり、或いは何も感じずに読み流したり、ということが150年近くも続いてきたのだと思うと、じんわりと嫌な気分になる。

「漂着物」
 1800年前後の巨大な衝撃で生じた波が時を経て増幅しながら、1848年に達する。その波。
 生半可な知識の付け焼刃で読みたくはなかったので、敢えて何も調べていない。いずれ知識が増えた時に再読すれば、新たな楽しみが得られるだろう。

『戦争と法』と「アナトーリとぼく」の読み比べ

『ミノタウロス』感想

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