キャラクター
私の脳内には千の顔を持つ「役者さん」たちがいて、彼らに自由に演技させることで作品ができあがっていく、ということを先日書いたが、つまりそれは自作のキャラクターの自律性が高いことの比喩である。
創作の具体的な手順は、以下のとおり。
まず大まかなシチュエーションを設定をすると述べたが、『グアルディア』および『ラ・イストリア』の場合は生体甲冑というガジェットが先にあり、それが存在しうる世界設定を作っていった。
その次の段階として、『ラ・イストリア』では「精神(と肉体)を侵蝕されて行く少年ヒーロー」「子供だけの共同体(+役に立たない大人が1名)」といったシチュエーションが生まれ、次いでそれに沿ったキャラクターたちが生まれた。彼らがシチュエーションに沿って「エチュード」(即興)をしていくことで、物語ができあがっていった。
一方『グアルディア』では、基本的な世界設定ができたところで、早くもキャラクターたちが「出現」した。いったい何者なのか、私ですら知らないキャラクターたちが、断片的な映像や、スチールのような止め絵として脳裏に文字どおり出現したのだ。
例えば「赤銅色の肌と黒髪、切れ長の黒い眼を持つ青年と、彼の腕に抱かれた金髪碧眼白皙の幼い少女。二人ともポンチョを着ている」という絵が浮かび、次いで、彼らは「父娘に見えないが父娘」であることが「判り」、間を置かずその理由も「判った」。
それから、「超常の力を持つ」彼ら父娘が引き起こした事件の現場を訪れている一人の青年の短い映像が浮かんだ。色素が極端に薄い白い肌と淡い灰色の髪と瞳。その髪はごく短く刈り上げてある。低緯度地域であるにもかかわらず白いスーツを着込み、ステッキに頼って歩いている。
その何年も前に『ラ・イストリア』の基本プロットはできていたため、「彼」が女であることや巨大コンピュータの「知性機械」であることは、すぐに「判った」。なぜ男装しているのか、なぜ父娘を追っているのかを追求していく過程で、軸となるプロットができあがった。
この時点で突然、「赤褐色の髪の青年が白衣を着て、地中海地方風の白い部屋の中で、女声独唱を聴きながら深紅の薔薇を前にロシアン・ルーレットをしている」という映像がなんの脈絡もなく浮かんだ。彼は何者なのか、なぜこんなことをしているのかを追求することで、さらに世界と物語が広がった。
このように、断片的な映像やスチールを「受信」していく過程でシチュエーションができあがっていき、そのシチュエーションの中でキャラクターたちに「エチュード」をさせることによってさらに細部ができあがっていったのである。
『ミカイールの階梯』では、「ルイセンコ主義を信奉するロシア人政権」というアイディアがまずあり、そこから「天山大山系一帯(新疆)で対立する共和国と教団」や「旧時代の遺産を守る一族」といった設定を考えた。
次いで、そこにどのような物語を展開させるかを考えた結果、「女の子と男の子が出会って、しかしすぐに女の子はその特殊な力ゆえに悪党にかどわかされ、男の子は彼女を助け出そうとする」という類型的な物語を女の子同士に置き換えることに決めた。そしてそれに沿ったキャラクターを考えていった。
ここまで「考えた」「決めた」といった言葉を使ってきたとおり、『ミカイール』では『グアルディア』『ラ・イストリア』(特に前者)に比べ、頭で考えて作った部分が大きい。大まかなキャラクター設定を作ってからは、前2作と同様、浮かんだ断片的な映像や絵、キャラクターたちの「エチュード」に頼って細部を詰めていったのではあるが。
『ミカイール』は『ラ・イストリア』から2年も掛かっただけでなく、その前に2度も挫折している。そのため『グアルディア』からノベライズ第1巻まで11ヶ月、第3巻から『ラ・イストリア』まで1年半開いた(『ラ・イストリア』も相当に苦労した)。
どちらも原因は、「キャラ立ち」を抑えたことにある。
キャラクターが動いたり喋ったりしている映像や絵を思い浮かべやすい(「受信」しやすい)状態に自分を持っていき、キャラクターに自由に振る舞わせ、それに沿って物語や設定を作っていく。というスタイルの下では、放っておいてもキャラは立つ。
しかしそれではキャラクターが前面に出すぎて、SFとして何より重要な設定やガジェット、テーゼが霞んでしまう。『グアルディア』でもそれを避けるため、ある程度抑制はしたのだが、にもかかわらずキャラクターばかりが注目される結果になってしまった。
だから次の2作では、キャラ立ちの抑制をいっそう強化したのである。具体的にどうするかというと、キャラクターの容姿を具体的に思い浮かべないよう脳内にフィルターを設置する。映像を鮮明に「見ない」ようにするのだ。
そうすると、キャラクターたちから活き活きとした鮮明さが減じるので、自ずからキャラ立ちも減じる。しかし当然ながら、物語の自律性も減じる。
まあだから、キャラ立ちさせたほうが私も楽だし楽しいのである。それを敢えて抑制し、苦労して書き上げた結果どうなったかというと、読者はキャラクターに注目しなくなり、しかもだからといってそれ以外の要素に注目するようになるわけでもないので(注目してくれる読者もいるにはいるが)、いいことは全然ないのであった。
媒体が小説だろうと漫画だろうと映像だろうと、或いは舞台芸術だろうと、キャラクターとは文字どおり「記号」である。実在だろうと架空だろうと変わりはない。
それが「リアル」に思えるとしたら、リアルに見えるように性格や背景を作り込んでいるからである。デフォルメした作り込みをすれば、「マンガ的」「アニメ的」「ラノベ的」という、人によっては侮蔑の意を含ませた形容をされるキャラクターとなる。
キャラクターを立たせるには、リアルとデフォルメのバランスを取って作り込むことである。作り込みをされないキャラクター(すなわちただの記号)が薄っぺらなのは言うまでもないが、デフォルメだけしても、ごちゃごちゃしてるだけでやっぱり薄っぺらになる。いわゆる萌えは、デフォルメされた記号に対する半ば条件付けられた反応だろう。
リアルさとデフォルメのバランスは、絵に当て嵌めてみれば解り易いだろう。では、「写真のような絵」あるいは「写真」そのものに相当するキャラクター(キャラクターの絵ではない)は創出できるだろうか。否、と私は思う。キャラクターは記号である以上、「写真」にはならない。
『ラ・イストリア』では、語り手の役を担うアロンソとクラウディオには、デフォルメの比率を低くした作り込み(敢えて「リアル」とは言わん)を行った。お蔭で彼ら二人は、かなり自律的に動いてくれたが(その前に、どういった作り込みをするかで、ひどく紆余曲折してしまったのである)。
彼ら以外のキャラクターの大半は、作り込み自体を敢えて浅くしてある。クラウディオが生まれ育ったグロッタ(洞窟)の住人たちは、薄っぺらさを強調するため、表面的なデフォルメを過剰に施した。
『ミカイールの階梯』ではさらに、すべてのキャラクターに対して作り込みを浅めにしてある。一部のキャラクターは比較的作り込んだが、いずれにせよキャラ立ちは抑えている。
キャラ立ちの抑制は、先述のとおりキャラクターばかりを前面に出さないためであるが、作り込みをも抑えたのは、このHISTORIAシリーズが「いずれ語られる物語」ではなく、すでに「語られた物語」であることをより明確に示すために、キャラクター=記号であることを強調したのである。
とはいえこれは物語の中心にいるキャラクターたちについてであって、普通ならあまりキャラ立ちさせるべきでない位置にいるキャラクターを、その役割から外れない範囲内で立たせるのは、『グアルディア』に引き続きやりました(分量が少ない『ラ・イストリア』ではやらなかった)。ミルザ・ミカイリーとか、ユスフ・マナシーとかベルケル(ゼキの弟)とか。
キャラ立ちを抑制してもしなくても、「役者さん」たちに演技させるスタイルは変わらないので、仁木作品のキャラクターの台詞はすべて、演劇の台詞として書いています。リアリティよりリズムを重視。句読点は息継ぎです。小説で「リアル」な喋りを表現することに関心はないのです(どのみち、数百年後の世界で使用されている言語の「翻訳」である、という見方をすれば「リアル」な台詞回しは必要ない)。台詞だけでなく地の文も同様。『グアルディア』は特にその傾向を強く出しています。以降は比較的平易にしてますが。
以下、ネタばれ注意。
『ミカイールの階梯』のゼキは「英雄」である。英雄とは実在か架空かを問わず、伝説化するものである。「語られた物語」である『ミカイールの階梯』に於いて、ゼキは当然ながら伝説化した存在だ。だから彼一人で中央アジアを統一し(晩年までにはさらに広大な範囲に及ぶかもしれない)、彼一人(正確には弟たちもだが)の血によって人類の「新たな進化」がもたらされる。
だから彼は、キャラ立ちも作り込みもなされない、「英雄という記号」から一歩も踏み出さないキャラクターにするつもりだった。彼は己が「記号」であることを自覚しているが、特に不満は抱いていない。リューダを援助するのも、「英雄としての行動」の一環でしかない。
物語の終盤、彼は与えられた役割を放棄しようとし、リューダに共犯となることを持ち掛ける。リューダは、「英雄や聖者(ユスフのこと。彼も己に与えられた役割を承知しており、そこから逸脱しない程度に聖者らしからぬ言動を取り続ける)の助力を得て、囚われの姫君を救い出す少女戦士」であり、己が記号であるとは夢にも思わず、なんの自覚もないまま与えられた役割に従ってきた。
だがこの瞬間、ゼキの誘惑の真の意味を悟り、その重大さに慄く。しかし結局、「少女戦士」の役割を放棄せず、彼の誘いを断る。「また今度ね」とは付け加えるのであるが。
つまりゼキのことは、この場面以外はまったくの記号でしかない、「薄っぺらなキャラクター」にするつもりだったんだよな。だから出番の割りに容姿の描写を極端に少なくしてあるし。それが勝手にキャラ立ちしてもうたのであった。特にリューダ絡みの場面で。
まあ、お蔭で当初の予定より遥かに魅力的なキャラクターになったはずだし(私も楽しく書けたし)、フジワラヨウコウさんにかっこよく描いていただいたのもそのお蔭だろうから、良しとしておきます。
ノベライズでも、キャラ立ちは抑えていました。あまり立たせると、それは仁木の被造物になってしまって、アニメの制作者さんたちの被造物ではなくなってしまうので(水天宮の過去を作り込んだのは、キャラクターというよりむしろ作品世界の背景の作り込み)。
「役者さん」たちに「演技」させるスタイルは変わらず。そのために執筆に入る前に一度、アフレコを見学させていただき、非常に参考になりました。
キャラクターの作り込みは抑制したわけですが、ヒロインの神楽には、元斉藤圭さんの印象を重ねています。直接には挨拶を交わしただけですが、アフレコでも終わった後のビデオ撮影等でも、とても熱心に取り組んでいらっしゃった上に、控えめで折り目正しいお嬢さんでした。
関連記事: 「語り手、および文体」
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