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ベンジャミン・バトン 数奇な人生

 特異な男の人生を通して移り行く時代を描く、というのは『海の上のピアニスト』に似ている。『海の上のピアニスト』は、『フォレスト・ガンプ』のように「激動の時代」という紋切り型を文字どおり駆け抜けるのではなく、船という乗り物の中で静止した時間を生きる男の周囲を人々が通り過ぎていく。『ベンジャミン・バトン』もまた、特異な時間(こちらは比喩ではないが)を生きる男の周囲を人々が通り過ぎていく。

 ネタバレが問題になるような作品ではないが、一応ネタバレ注意。

 老人として生まれ、若返っていくという特異性を負った主人公、などというものは下手に扱ったら「障害者もの」になってしまいかねないが、幼少期の主人公を老人ホームという「老いが当たり前」の環境に置くことで、周囲との摩擦とそこから生じる苦悩を最低限に抑えている。まあネット上のレビューを見ると、「障害者もの」を期待した観客もいるようだが。

 ティム・ロス演じる『海の上のピアニスト』の主人公は船から下りることを拒絶し、したがって必然的に彼にとっての他者は「通り過ぎていく」存在となる(船の乗組員もいずれは去っていく)。
 ベンジャミン・バトンは長じては躊躇いなく外の世界に出て行くが、人格形成期を老いと死が当たり前の環境で送ったため、やはり他者は「通り過ぎていく」存在である。まして彼は1918年生まれであり、若者にとってさえ死が当たり前の戦争を二十代前半に体験することになる。
 他者が「通り過ぎていく」存在であると割り切っている(悟っている)とはいえ、それなりに悲しみと苦悩を抱いているのだが、淡々とした描写に徹している。しかし『ピアニスト』のように周囲が本当にただ通り過ぎていくだけの話になっていないのは、唯一の幼馴染であるデイジー(ケイト・ブランシェット)との関係が軸になっているからである。

『ピアニスト』だと、主人公のバンド仲間だったトランペット奏者が語り手という構造になってるんだが、一緒にいた期間がそれほど長くない上に非常に親密だったというわけでもない(相対的には親密だったが)ので、どうにも焦点が定まっていない。
 ベンジャミン・バトンにとってデイジーは初めて接触した外部の人間であり、唯一無二の特別な存在だ。彼女に対してだけは、彼の感情は揺さ振られる。その描写もあくまで淡々としており、全体の色調から外れていない。

『ピアニスト』は、主人公の名が「1900」というところからして、「20世紀を主人公の人生に託そう」という意欲満々なのが窺えるが、実際には早くも1946年に船とともに1900の人生は終わることになるし、しかも語り手となるトランペット奏者は1933年に船を下りてしまい、第二次大戦が完全にすっ飛ばされている(第一次大戦の体験も、すっぱりと省略されている)。
 いろいろと不発で終わった跡が見られる(そして最後に場違いに派手な爆発のある)、なんだかよくわからない映画になっている。

『ベンジャミン・バトン』は、『海の上のピアニスト』のように主人公に象徴的な名前を付けたり、『フォレスト・ガンプのように時代との絡みを露骨に入れてはいない。しかし結果的には(それが制作者の意図だったかもしれないが)、先行の二作品よりも20世紀という時代と一人の男との関わりを描けている。
 まあ『ピアニスト』同様、最晩年に至るまでの十数年間の欠落があるんだけどね。三時間近くもの上映時間は長く感じなかったが、この欠落部分まで入れていたら、なんぼなんでも冗長すぎてしまっただろう。ほかのエピソードを短縮するとかして、少しくらい入れられなかったのかね。
 なぜ入れるべきだと思うのかといえば、デイジーの許を去ったのが70年代で、その頃ようやく30前後くらいまで若返ってた。「若い心を持つ老人~初老の男」は演出と演技によって巧みに描けていたが、それならば「老人の心を持つ青年~少年」も少しは描いてほしかったんだよな。この点だけが不満。

 ブラッド・ピットは、トム・ハンクスのようにわざわざ知的障害者として設定されなくても無垢な男を好演している(問題があるのは作品自体であってトム・ハンクスではないが)。ティム・ロスも同じく「無垢」として設定されてたが、彼だと無理があるんだよな、演技力以前の問題として。
 デヴィッド・フィンチャーの以前の作品は、まずテーマやアイディアがあって、ほかの要素はすべて後付け、しかも後付けの状態のまま放り出している杜撰さが嫌いだった。
 加えてあの閉塞感。『エイリアン3』や『セブン』の頃は狙ってやってるのかと思ったが、どうやらそういうものしか作れなかったらしい。それが前作『ゾディアック』から閉塞感を打破しようとする傾向が見られ、今作では、実は結構自己完結している男を主人公に据えているにもかかわらず、かつての独りよがりは完全に払拭されている。次作にも期待したい。

 ところで、老人ホームにいた「7回雷に打たれた男」ってこれがモデルか。

――稲妻が生物の身体を打つ時には、その大部分は「外面フラッシュオーバー」と呼ばれるプロセスで外部を通過する。合衆国の公園警備隊員ロイ・C・サリヴァンは、1942年から1983年までに7回の稲妻を生き延びた。

 最初は1942年で、雷が脚に落ち、親指の爪を吹き飛ばした。二度目の落雷は1969年で、眉毛を焼き、彼は倒れて意識を失い、その一年後、庭を歩いている時にまた雷に打たれた(3度目)。1972年、稲妻は彼の髪の毛に火をつけ、頭からバケツで水をかぶる羽目になった(4度目)。髪の毛がやっと育った頃、稲妻はもう一度火をつけ(5度目)、その3年後にまたしても打たれた(6度目)。最後の稲妻体験は1977年だった。
 これらの経験はどれ一つとして彼の意気を殺ぐことはなかったようで、1983年に不幸な恋愛の結果70代で自殺を遂げた時、やっと終わったのである。

 彼の身体は、「外面フラッシュオーバー」に奇妙に適応していたようである。そこまで適応していない我々にとっても、稲妻の危険は最小限である。稲妻に打たれた人間の約20%が死亡する過ぎず、通常その原因は電流の一部が心臓を通って流れるためである。
    (レン・フィッシャー『魂の重さの量り方』 新潮社より)

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