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2009年度佐藤亜紀明治大学特別講義第3回

 作品の読解として一番お手軽な方法は、作品を作者のライフストーリーとくっつけて語ること、である。実際に佐藤氏はかつて、某女性誌からそのような切り口でエッセイを書くよう依頼されたことがあるという。取り上げる画家も指定されていて、エゴン・シーレ(1890-1918)。こういう絵を描いて28歳の若さで没した画家について女がらみで読み解いてくれ、という依頼だったそうな。

Embrace11Heilige_familie_3506f1f8349pxegon_schiele_073 左から「抱擁」、「聖家族」、「自慰」(なお、今回は画像の提示はなし。この記事で挙げた画像はいずれもタイトル等の言及があったもの)。

 写真で見ると非常に生々しくて、いかにも背後に生臭いエピソードがありそうな絵である。しかし、実物は非常にザラリとした質感で、生々しさなどまったくないという。むしろそこにあるのは、人間の価値のなさである。.

 伝記的な解説では、シーレの絵に対する「人間の価値のなさ」という観方は出てこず、「伝記の挿絵」と化してしまう。こでれは、作品は享受者にとってあくまで他者であるという「作品の他者性」をないことにしてしまう。
 ライフヒストリーでは語れないものが絵に表れなければ、誰も絵など描かない。

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 しかし前回は、敢えてライフヒストリーという視点からゴヤとオットー・ディクスを語った。「圧倒的な体験」の忠実な表現が、これらのような絵である。
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 何か予想外のことが起きれば、人は何か原因があると思う。例えば給料が振り込まれるべき日に振り込まれていなかったら、必ず理由があるはずだと思う。或いは通勤電車が来なかったら、必ず理由があるはずだと思う。

 我々は普通、道を歩いているだけでいきなり殺される、などとは考えないで生きている。外出する時は常にそんなことを考えて用心しながら歩いていたら、ただの危ない人である。しかし、そういうことは実際に起こりうるのである(通り魔殺人は日本に於いてさえ珍しくない)。

「水晶の夜」の「ユダヤ系ドイツ人」の体験は、まさにそのようなものだった。一般のドイツ市民と同じような環境で暮らし、同じような教育を受け、カトリック教徒ですらある彼らは、自分たちがユダヤ系の血を引いていることをほとんど意識していなかった。それが一夜にして「ユダヤ人」として迫害されるようになったのである。

 我々は、社会システムを信頼して生きている。その社会システムをさらに支えているのは、世界の安定性への信頼である。
 その信頼が崩れた時、人間が人間であることの信頼が崩れる。
 歩いているある瞬間、足下の地面が突然なくなるということを、普通は心配せずに生きている。それがひとたび「足下がなくなる」経験をしてしまうと、それまでの(安定した)表現が無効になってしまう。

「安定した世界」に於いては、きちんとものを見れば、見たものをそのまま言葉にできるだろう。安定した世界では、「なんの理由もなく」ということは起きないものだ。
 しかし、そういう前提で書かれた作品に、傑作はない。なぜなら、世界は安定などしていないからだ。
 世界は安定したものだと認識する者にとって、「世界は安定していない」と認識する者による作品は、だから理解の範疇を超えたものとなり、だから「今の作家はきちんとものを見ていない」という発言が出てくる。
 しかし古典作品でも、「世界は安定していないかもしれない」という前提で書かれたものはある。『カンディード』など。

 世界は不安定で信頼できない、つまり自分にとってまったくの他者であるということは、世界に対してどんな働き掛けをしても、まったく無効であるということかもしれない。「努力したから成功した」というような因果関係などないかもしれない、ということ。

 9.11の直後、シュトックハウゼンという作曲家が、あれは「とんでもないアート」であり、「自分にはあんなものはとても作曲できない」と発言して物議をかもした。確かに、パフォーマンスとして見た時、あれほど「世界の他者性」を的確に表現したものはない。
 そして、「世界の他者性」を表現した作品に対してしばしば向けられる、「グロテスク」「非現実的」という言葉は、9.11に対して多くの人が向けた言葉とまったく同じものである。

「世界の他者性の表現」とは、作品そのものを「他者」として作ることである。そうした作品を「グロテスク」「非現実的」として拒絶する人は、世界が他者であるということ自体を認めていない。
 知らないから認められないのか、実は意識の奥底では知っているからこそ認めようとしないのか。後者は、現状に目を瞑るという罪を犯している。

 以下、私見。
「世界は安定している」と信じる人にとって、異常なこと、悲惨なことが起きるのは絶対に受け入れられないことである。何か不幸に遭った人に対し、本人に原因があると見做す輩が多いのは、この「世界の安定」に対する信頼ゆえだろう。
 誰かが殺された、レイプされた、財産を奪われた、解雇された、などということが理由もなく行われたのでは、世界の安定性への信頼が崩壊してしまう。自分も、いつそんな目に遭うかわからないという恐怖を抱えて生きていかなければならなくなる。
 世界への信頼を取り戻すために、ともかくも原因を求める。犯人が悪い、制度が悪い、ということにするのが良識的だが、それだとそうした「悪」を根本から根絶しない限り、やはりいつ自分も被害者になってしまうかわからない。そして悪の根絶は大変な時間と労力を要する。

 それよりは被害者のほうに原因があった(恨みを買った、隙があった、まじめに働かなかった)としたほうが、遥かに心安らかでいられる。自分はそのような原因など持っていないのだから。かくて被害者は、多数の第三者から詰られ貶められることになる。
 世界の他者性を認識しないのは、こうした観点からもやはり罪深いことである。

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