プラネット・テラーinグラインドハウス
『デス・プルーフ』のほうは映画館で観たが、こっちはTVで。「内臓ぐちゃぐちゃ」は嫌いなもんで躊躇ってるうちに上映期間を逃したのである。
が、どっちがおもしろかったか言うたら、こっちのほうがおもしろかったよ普通に。ロバート・ロドリゲスは映画狂なのは確かだが、オタクではない。ロドリゲスの『プラネット・テラー』とタランティーノの『デス・プルーフ』と比較すると、だからオタクは駄目なんだよいろんな意味で、と言いたい。
まあ『デス・プルーフ』は、「しょうがねえなあタランティーノは」と笑うための映画ではあるんだが、それでもタランティーノ監督作、というのを措いてみれば、やっぱりどうかと思うよ。
血と内臓ぐちゃぐちゃが嫌いなので、スプラッタ映画は嫌い。ホラー映画は、観客を怖がらそうとする手段が稚拙だから嫌い(「ああ怖がらそうとしてるぞ」と解っているのに律儀に怖がってしまう自分にも腹が立つから嫌い)。だから、この系統の映画は、自分から進んで観ることはほぼない。
ついでに言うと、血が嫌いなのはそれが気持ち悪いものだからなので、血を美しく描こうとしている耽美ものには失笑するしかない。
そういうわけで、ゾンビ映画は『バイオハザード』(1作目。ゾンビ描写が少ないと聞いたので)と、『ザ“蛍光ゾンビ”コンヴェント』(友人たちに連れて行かれた)しか観たことがない。『プラネット・テラー』が目指したのは『コンヴェント』の系列だというのは解る。才能の乏しい監督が、乏しい予算と残念なキャスト・スタッフとで頑張って作ったのが『コンヴェント』で、才能豊かな(偏りのある才能とはいえ)監督が潤沢な資金と人材で『コンヴェント』のようなものを作ろうとしたのが『プラネット・テラー』なわけだ。
才能の違いというのはどうしようもないもので、『プラネット・テラー』から故意にB級C級に作ってある要素を取り除くと、普通によくできた映画なんだよな。まあロドリゲスの作品には思い付きのネタを脚本と巧く噛み合わせきれていない傾向があって、今回の「片脚マシンガン」もそうなんだが(そういうところが、B級志向と相性がいいとも言えるかもしれない)。
『デス・プルーフ』も、故意のB級C級要素、および「しょうがねえなあタランティーノは」要素を取り除くと、随分よくできた映画である。
心配していた血と内臓は、それほど大量ではなかった。後で知ったことだが、怪しい生物兵器の感染によって生み出されたクリーチャーたちはゾンビではなく、実在の化学兵器の犠牲者をイメージしたものだという。
まあ確かにそう言われてみれば、皮膚の糜爛とか、それっぽくなくもない。ジョシュ・ブローリン演じる医者が感染初期の犠牲者を診察する場面の傷口や膿疱の描写なんか、ちょっといい。この時、隣ではもう一人の医師がネットで化学兵器の犠牲者の画像を見て喜んでいる(生物化学兵器廃絶のメッセージなど籠められている、わけがない)。
ちょっといいが、この「ゾンビではない」という設定が、例えば斃し方とかに反映されてるとかそういうことは全然ない。まあロドリゲスだしグラインドハウスだから、しょうがないんだけどさ。
以前から、どうして自分では血とか内臓とかのぐちゃぐちゃを描くのが結構好きなのに、他人の描いたそれら(映像でも小説でも漫画でも)は嫌いなんだろう、と不思議だったんだが、『スターシップ・トゥルーパーズ』のぐちゃぐちゃは例外的に好きだし、上記の「ちょっといい」とこなどからも考えると、どうも好きだからこそ、多少でも方向性のずれたものには耐えられないらしい。
嘘予告が入る、という話は公開前から聞いていたんだが、『デス・プルーフ』の劇場上映ではカットされていた。今回の『プラネット・テラー』の放映では、チーチ・マリン主演『マシェーテ』(スペイン語のマチェーテ=山刀。英語の発音だと「マシェティ」と聞こえた)の予告が入っていた。
これが実は、本編よりもおもしろかった。特にチーチ・マリンが大勢のメキシコ人不法就労者と共にマチェーテを振り上げ、「メキシコ人をなめるな」と気炎を上げる場面と、彼を陥れた悪いアメリカ白人の「メキシコ人不法就労者のくせに連邦主義者だと!?」という謎台詞には、変な笑いが込み上げた。今さらながら、『デス・プルーフ』上映でのカットがむかつく。
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