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その後のテミストクレス

『戦史』トゥーキュディデース 久保正彰・訳 岩波書店 1966

 全3巻。『サラミス』の登場人物たちのその後が気に掛かったので読むことにした。以下、長音はめんどくさいので省略。

 前480年のサラミス、479年のプラタイア、ミュカレの戦いで勝利後直ちに、アテナイはペルシア軍に破壊された城壁の再建に取り掛かった。他市の防御力を少しでも弱めたいスパルタは、「再びペルシアが侵入して、征服した都市の城壁を根拠地にするといけないから」という口実でアテナイに城壁再建を取りやめるよう要求した。
 これに対しテミストクレスは、「私がスパルタに直接赴いて話し合おう」と提案し、スパルタの使節を体よく追い払った。そして実際にスパルタに赴いたものの、一向に協議の席に就かず、スパルタ人たちに追及されると、「後から到着するはずの同僚たちを待っている。なぜ彼らが遅れているのか私も怪しんでいる」と答えて時間稼ぎをし、その間にアテナイでは女子供まで動員して突貫工事で城壁の再建を行っていた。

 スパルタ人は(何しろ単純なので)テミストクレスの弁解を信じていたが、アテナイ経由でスパルタにやってくる一般の旅人たちが、城壁再建が進んでいると口々に告げるので、さすがに疑いを持った。
 これに気づいたテミストクレスは、スパルタ人たちに「風評に惑わされてはならない。それより信頼できるスパルタ市民を派遣し、確かめさせるべきだろう」と提案した。
スパルタ人たちはこの提案をもっともだと思い、使節を派遣した。しかし実は、この時すでにアテナイの「遅れていた同僚使節たち」が到着し、城壁が充分な高さまで再建できたとテミストクレスに告げていたのである。

 テミストクレスはアテナイに密かに急使を送り、「これからスパルタの偵察者が行くから、我々が戻るまで巧いこと引き留めておけ」と命じた。そしておもむろにスパルタの代表たちの許に赴き、今度ばかりは正直に、城壁再建が完了したことを告げた。
 スパルタは、表向きの理由をあくまで「対ペルシアの備え」としていたのもあって、露骨な抗議こそしなかったものの、アテナイの遣り口に内心では憤懣を抱いた。

 トゥキュティデスはペロポネソス戦争(前431-404)の原因を、アテナイが強大になりすぎたため、スパルタが恐怖を覚えて開戦に踏み切った、としている。そしてアテナイの勢力拡大の発端として上の城壁再建と、アテナイ海軍の強大化を挙げる。
 スパルタおよび諸都市がアテナイ海軍がギリシアでは空前の規模であることに気づいたのはペルシア戦争に於いてだが、そもそもペルシアが本格的に侵略を始める以前に、逸早くそれに備えて艦隊増強と港の防御強化を行ったのもテミストクレスである。
 城壁再建にしたって、テミストクレスの小細工のせいで余計な怨みを買ったと言えるし、要するにトゥキュディデスの説に従えば、ペロポネソス戦争の根本原因はテミストクレスにある、ということになる。

 なお、「遅れていた同僚使節」として、城壁再建完了の報をテミストクレスにもたらしたのは、かつて彼に陥れられ陶片追放されたアリステイデス。サラミス海戦に引き続き(『歴史』)、アテナイのために恨みを措いてテミストクレスに協力したのである。
『サラミス』でアリステイデス自身が語る、「陶片追放の際、文盲の百姓に頼まれて自分の名を書いた」エピソードは、『戦史』訳注によるとプルタルコス「アリステイデス伝」にある。そんなことをしたのは、誠実だからじゃなくてよっぽど怒ってたからだろうな、という気がするんだが。

 テミストクレス自身が陶片追放の憂き目に遭ったのは470年頃。註によるとアテナイの遺跡からテミストクレスの名を書いた陶片が大量に発掘され、中には未使用のものも多数あったことから、政敵が予め用意して市民にばら撒いたと見られる。
 同じ頃、スパルタのレオニダス王(『300』の)の甥パウサニアスが、ペルシア王クセルクセスと内通していた。クセルクセスから色よい返答を貰えたパウサニアスは、何しろ単細胞のスパルタ人であるので、すっかり陰謀が成功したように錯覚し、ペルシア風の衣装を着てペルシア兵を侍らせ、ペルシア風の宴席を設け、さらには専制君主然として振る舞い始めた。当然ながら内通の噂が広がり始め、スパルタ人たちもパウサニアスの身辺を調査し始めた。その過程で、テミストクレスがこの件に一枚噛んでいることが明らかになった(具体的に何をしたのかは言及なし)。

 スパルタ人たちはその習いとして、同胞であるパウサニアス本人を追及するより先に、アテナイに対し、テミストクレスを処罰せよ、と要求した。アテナイはこれを承諾し、スパルタと共同でテミストクレス逮捕に乗り出した。
 この動きを逸早く察したテミストクレスは、さっさとギリシア本土から逃げ出し、各地を転々として最終的にペルシア王(代替わりしてアルタクセルクセス)の許に身を寄せた。その際に主張したのが、「あなたの父上がペルシアへ敗退した時、ギリシア軍は追撃しようとしたが、それを止めたのは自分だ」というものであった。

 この主張が嘘だということで『戦史』と『歴史』は一致している。『歴史』によれば、追撃を主張したのはテミストクレスとアテナイ勢だけで、他のギリシア将兵は一日も早く帰国したがっていた。分が悪いと見て取ったテミストクレスは、素早く主張を引っ込め、代わりにクセルクセスに使者を送って、「私は追撃を主張するギリシア将兵を、あなたのために止めました」と述べさせた。
 これはもし将来アテナイを追放されるようなことになったら、ペルシアに亡命できるよう恩を売っておこうという考えからだったという。

 テミストクレスはペルシアで領地を与えられ、それなりの地位と栄誉に浴したらしい。彼が「牛の血を飲んで自殺した」という妙な説は、トゥキュディデスと同時代のアリストパネスもその喜劇で言及しているほどだから、当時通説となっていたようだが、トゥキュディデスはこれを否定し、病没としている。また、「牛の血」には言及せず、単に「毒を飲んで」としている。彼の性格からすると、牛の血で自殺、という説は馬鹿馬鹿しくて書くに耐えなかったのだろう。

『戦史』は巻頭で宣言されているとおり、物語的要素が極力排除されているのだが、テミストクレスにまつわるエピソードは、例外的に物語的に細部まで書き込まれている(それでも『歴史』に比べれば少ないわけだが)。そして、締め括りとして十行ほどにもわたってテミストクレスを手放しで賞賛している。これもまた『戦史』に於いては例外的である。

 物語要素の排除と合理的な論証は『戦史』の大きな特徴だが、これと並ぶもう一つの特徴が、歴史上の人物たちに意見表明を行わせていることで、それらはほとんどが非常に長大な演説(文庫本数頁分にわたる)で、明らかに実際の記録等に拠ったものではなく、トゥキュディデスの創作である。
 その人物自身や彼が代表する勢力の立ち位置を説明する、わかりやすい手段として直接話法を用いているわけで、もう一つの特徴である合理性・客観性と相容れないように思えるのは現代人の感覚だが、しかしトゥキュディデス自身も一応は強引さを認識していたようである。
 スパルタ人が寡黙を好むというのは当時の常識で(『歴史』でも描写されている)、トゥキュディデスもその常識をまったく無視することはできなかった。スパルタ人に長々と「演説」させる際には、「かれはラケダイモーン人(スパルタ人)にしては珍しく弁論の術にも長けていた」と註釈を付けたり、当の演説者自身に「われらの口上はやや長きにわたるが、これはあながちわれらの習慣をあざむくものではなく、われらの習いは短きをもって足りるとき長きを用いないが大事に及んで説明が望ましいときには言葉をつくしてのち、なすべき行動を起こす。」と言い訳させたりしている。

ヘロドトス『歴史』と佐藤哲也『サラミス』読み比べ

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管理者たち

 基本設定の一つ。21~22世紀に世界を支配した巨大組織「遺伝子管理局」の頂点に立つ一握りの選良、と伝えられる。

 2244年の時点(『ラ・イストリア』)で、彼らが本当に存在したかどうかはすでに検証不可能となっている。22世紀以前のデータを大量に有する者(「グロッタ」の住人たち)によれば、遺伝子管理局はピラミッド型組織ではなく、したがってその頂点に立つごく少数の支配者、なとというものの実在は極めて疑わしい。

 2239年、「管理者たち」は災厄の原因としてキルケー・ウイルスのデータ提示、および人類絶滅を防ぐための「封じ込めプログラム」始動の宣言を行った。封じ込めプログラムはその翌日から実際に始動し、人類はこれを停止させようとして管理者たちを血眼で捜したが、彼らは痕跡一つ残さず、姿を消していた。
 管理者たちは存在しなかったとする立場からすれば、封じ込めプログラムを始動させたのは遺伝子管理局の上部組織のいずれかで、「管理者たち」の名は騙られたもの、ということになる。
 しかし封じ込めプログラムを実行し、十二の知性機械のアクセスコードとともに姿を消した者たちが、「管理者たち」の名で呼ばれる少数(数人~せいぜい十数人)の選良にせよ、上層部の一組織(これも多くても100人は超えまい)にせよ、その者たちもアクセスコードも、ついに発見されなかった。

『ラ・イストリア』の「グロッタ」の住人(『グアルディア』にも登場する「生体端末」を開発・製作した)、そして『ミカイールの階梯』のミカイリー一族などは、大災厄初期(22世紀末~23世紀前半)に「人類文明の遺産を守り保管する」使命を管理者たちから与えられた、と伝える。
 大災厄の以前も以後も、地球上および衛星軌道上のコンピュータはすべて、十二の地域それぞれの知性機械の支配下にあった。知性機械のアクセスコードが失われたことで、この上位ネットワークを利用できる者もいなくなったはずだった。
 しかし「遺産の守護者」と称する者たちは、それぞれの地域のすべてのコンピュータ(知性機械は除く)を自由に操作することができた。このことから、彼らに「使命」を与えたのが、アクセスコードを持ち逃げした者たちであるのは明らかだ。
 ただしそれでも、管理者たちが実在した証拠にはならないのである。

設定集コンテンツ

 以下、ネタばれ注意。

続きを読む "管理者たち"

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HISTORIAシリーズ設定集コンテンツ

HISTORIAシリーズとは……

 早川書房から刊行されている、仁木稔の『グアルディア』に始まる、未来史/歴史改変シリーズ。各作品は「文明崩壊後の世界」を共通の舞台とするが、それぞれ独立した物語である。
 HISTORIA(ヒストリア)は歴史、過去の事実、物語、作り話といった意味。

 仁木のための覚書を兼ねて、設定集を当ブログで公開。

*記事数が増えてきたので、作品別に整理しました(『グアルディア』と『ラ・イストリア』は設定に共通事項が多いのでまとめました)。

全作品共通

「ヒストリア」 「語り手、および文体」 「年表」 「大災厄」 「遺伝子管理局」 

「知性機械」 「亜人」 「絶対平和 Ⅰ」 「絶対平和 Ⅱ」 

「コンセプシオン」 「キルケー・ウイルス」 

「コンセプシオン、疫病の王、生体甲冑、そしてキルケー・ウイルス」 

「封じ込めプログラム」 「各作品に於ける軍事事情」 「変異体」  

「異形の守護者」 「管理者たち」 「HISTORIAにおける歴史改変」  

「キャラクター」 「暴力表現について」 

「それはヒト固有の能力である」(SFセミナー2009 仁木稔パネルより)

「疑似科学」 (SF乱学講座2010年11月より)

「BGM」 (作中に登場させた楽曲について)

「岡和田晃氏への応答-SFセミナー2014を経て」 (評論家の岡和田晃氏による批評に応えて)

 

『グアルディア』『ラ・イストリア』

「生体甲冑 Ⅰ」 「生体甲冑 Ⅱ」 (Ⅲは連作〈The Show Must Go Onの項へ)

「生体端末」 

「アンヘル」 「ホアキン」 「メトセラ種」 

「カルラ」 「カロリーヌ・ティシエ」 「JD(2540~)」 「グロッタ」 

「ラテンアメリカの人とか文学とか」 

 

『ミカイールの階梯』

「テングリ大山系一帯」 「ルイセンコ主義」 「ミカイリー一族」 

「マフディ教団と中央アジア共和国」 「グワルディア」 「殺戮機械」 「胡旋舞」 

「レズヴァーン・ミカイリー」 「ハーフェズ(守護者)」 「階梯」 

「25世紀中央アジアの食糧事情」 

 

連作〈The Show Must Go On〉 (『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』)

「連作〈The Show Must Go On〉」 

「ミーチェ・ベリャーエフの子狐たち Ⅰ」 「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち Ⅱ」 

「はじまりと終わりの世界樹 Ⅰ」 「はじまりと終わりの世界樹 Ⅱ」 

「The Show Must Go on!」 

「絶対平和の社会」 「絶対平和の戦争」 

「等級制‐‐概念」 「等級性‐‐システム」 

「JD(2190~)」  「生体甲冑 Ⅲ」 (Ⅰ、Ⅱは『グアルディア』『ラ・イストリア』の項へ)

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中篇「にんげんのくに」(『伊藤計劃トリビュート』収録)

「にんげんのくに」 「情報受容体」 

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プラネット・テラーinグラインドハウス

『デス・プルーフ』のほうは映画館で観たが、こっちはTVで。「内臓ぐちゃぐちゃ」は嫌いなもんで躊躇ってるうちに上映期間を逃したのである。

 が、どっちがおもしろかったか言うたら、こっちのほうがおもしろかったよ普通に。ロバート・ロドリゲスは映画狂なのは確かだが、オタクではない。ロドリゲスの『プラネット・テラー』とタランティーノの『デス・プルーフ』と比較すると、だからオタクは駄目なんだよいろんな意味で、と言いたい。
 まあ『デス・プルーフ』は、「しょうがねえなあタランティーノは」と笑うための映画ではあるんだが、それでもタランティーノ監督作、というのを措いてみれば、やっぱりどうかと思うよ。

 血と内臓ぐちゃぐちゃが嫌いなので、スプラッタ映画は嫌い。ホラー映画は、観客を怖がらそうとする手段が稚拙だから嫌い(「ああ怖がらそうとしてるぞ」と解っているのに律儀に怖がってしまう自分にも腹が立つから嫌い)。だから、この系統の映画は、自分から進んで観ることはほぼない。
 ついでに言うと、血が嫌いなのはそれが気持ち悪いものだからなので、血を美しく描こうとしている耽美ものには失笑するしかない。

 そういうわけで、ゾンビ映画は『バイオハザード』(1作目。ゾンビ描写が少ないと聞いたので)と、『ザ“蛍光ゾンビ”コンヴェント』(友人たちに連れて行かれた)しか観たことがない。『プラネット・テラー』が目指したのは『コンヴェント』の系列だというのは解る。才能の乏しい監督が、乏しい予算と残念なキャスト・スタッフとで頑張って作ったのが『コンヴェント』で、才能豊かな(偏りのある才能とはいえ)監督が潤沢な資金と人材で『コンヴェント』のようなものを作ろうとしたのが『プラネット・テラー』なわけだ。

 才能の違いというのはどうしようもないもので、『プラネット・テラー』から故意にB級C級に作ってある要素を取り除くと、普通によくできた映画なんだよな。まあロドリゲスの作品には思い付きのネタを脚本と巧く噛み合わせきれていない傾向があって、今回の「片脚マシンガン」もそうなんだが(そういうところが、B級志向と相性がいいとも言えるかもしれない)。
『デス・プルーフ』も、故意のB級C級要素、および「しょうがねえなあタランティーノは」要素を取り除くと、随分よくできた映画である。

 心配していた血と内臓は、それほど大量ではなかった。後で知ったことだが、怪しい生物兵器の感染によって生み出されたクリーチャーたちはゾンビではなく、実在の化学兵器の犠牲者をイメージしたものだという。
 まあ確かにそう言われてみれば、皮膚の糜爛とか、それっぽくなくもない。ジョシュ・ブローリン演じる医者が感染初期の犠牲者を診察する場面の傷口や膿疱の描写なんか、ちょっといい。この時、隣ではもう一人の医師がネットで化学兵器の犠牲者の画像を見て喜んでいる(生物化学兵器廃絶のメッセージなど籠められている、わけがない)。
 ちょっといいが、この「ゾンビではない」という設定が、例えば斃し方とかに反映されてるとかそういうことは全然ない。まあロドリゲスだしグラインドハウスだから、しょうがないんだけどさ。

 以前から、どうして自分では血とか内臓とかのぐちゃぐちゃを描くのが結構好きなのに、他人の描いたそれら(映像でも小説でも漫画でも)は嫌いなんだろう、と不思議だったんだが、『スターシップ・トゥルーパーズ』のぐちゃぐちゃは例外的に好きだし、上記の「ちょっといい」とこなどからも考えると、どうも好きだからこそ、多少でも方向性のずれたものには耐えられないらしい。

 嘘予告が入る、という話は公開前から聞いていたんだが、『デス・プルーフ』の劇場上映ではカットされていた。今回の『プラネット・テラー』の放映では、チーチ・マリン主演『マシェーテ』(スペイン語のマチェーテ=山刀。英語の発音だと「マシェティ」と聞こえた)の予告が入っていた。
 これが実は、本編よりもおもしろかった。特にチーチ・マリンが大勢のメキシコ人不法就労者と共にマチェーテを振り上げ、「メキシコ人をなめるな」と気炎を上げる場面と、彼を陥れた悪いアメリカ白人の「メキシコ人不法就労者のくせに連邦主義者だと!?」という謎台詞には、変な笑いが込み上げた。今さらながら、『デス・プルーフ』上映でのカットがむかつく。

『デス・プルーフinグラインドハウス』感想

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2009年度佐藤亜紀明治大学特別講義第3回

 作品の読解として一番お手軽な方法は、作品を作者のライフストーリーとくっつけて語ること、である。実際に佐藤氏はかつて、某女性誌からそのような切り口でエッセイを書くよう依頼されたことがあるという。取り上げる画家も指定されていて、エゴン・シーレ(1890-1918)。こういう絵を描いて28歳の若さで没した画家について女がらみで読み解いてくれ、という依頼だったそうな。

Embrace11Heilige_familie_3506f1f8349pxegon_schiele_073 左から「抱擁」、「聖家族」、「自慰」(なお、今回は画像の提示はなし。この記事で挙げた画像はいずれもタイトル等の言及があったもの)。

 写真で見ると非常に生々しくて、いかにも背後に生臭いエピソードがありそうな絵である。しかし、実物は非常にザラリとした質感で、生々しさなどまったくないという。むしろそこにあるのは、人間の価値のなさである。.

 伝記的な解説では、シーレの絵に対する「人間の価値のなさ」という観方は出てこず、「伝記の挿絵」と化してしまう。こでれは、作品は享受者にとってあくまで他者であるという「作品の他者性」をないことにしてしまう。
 ライフヒストリーでは語れないものが絵に表れなければ、誰も絵など描かない。

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 しかし前回は、敢えてライフヒストリーという視点からゴヤとオットー・ディクスを語った。「圧倒的な体験」の忠実な表現が、これらのような絵である。
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 何か予想外のことが起きれば、人は何か原因があると思う。例えば給料が振り込まれるべき日に振り込まれていなかったら、必ず理由があるはずだと思う。或いは通勤電車が来なかったら、必ず理由があるはずだと思う。

 我々は普通、道を歩いているだけでいきなり殺される、などとは考えないで生きている。外出する時は常にそんなことを考えて用心しながら歩いていたら、ただの危ない人である。しかし、そういうことは実際に起こりうるのである(通り魔殺人は日本に於いてさえ珍しくない)。

「水晶の夜」の「ユダヤ系ドイツ人」の体験は、まさにそのようなものだった。一般のドイツ市民と同じような環境で暮らし、同じような教育を受け、カトリック教徒ですらある彼らは、自分たちがユダヤ系の血を引いていることをほとんど意識していなかった。それが一夜にして「ユダヤ人」として迫害されるようになったのである。

 我々は、社会システムを信頼して生きている。その社会システムをさらに支えているのは、世界の安定性への信頼である。
 その信頼が崩れた時、人間が人間であることの信頼が崩れる。
 歩いているある瞬間、足下の地面が突然なくなるということを、普通は心配せずに生きている。それがひとたび「足下がなくなる」経験をしてしまうと、それまでの(安定した)表現が無効になってしまう。

「安定した世界」に於いては、きちんとものを見れば、見たものをそのまま言葉にできるだろう。安定した世界では、「なんの理由もなく」ということは起きないものだ。
 しかし、そういう前提で書かれた作品に、傑作はない。なぜなら、世界は安定などしていないからだ。
 世界は安定したものだと認識する者にとって、「世界は安定していない」と認識する者による作品は、だから理解の範疇を超えたものとなり、だから「今の作家はきちんとものを見ていない」という発言が出てくる。
 しかし古典作品でも、「世界は安定していないかもしれない」という前提で書かれたものはある。『カンディード』など。

 世界は不安定で信頼できない、つまり自分にとってまったくの他者であるということは、世界に対してどんな働き掛けをしても、まったく無効であるということかもしれない。「努力したから成功した」というような因果関係などないかもしれない、ということ。

 9.11の直後、シュトックハウゼンという作曲家が、あれは「とんでもないアート」であり、「自分にはあんなものはとても作曲できない」と発言して物議をかもした。確かに、パフォーマンスとして見た時、あれほど「世界の他者性」を的確に表現したものはない。
 そして、「世界の他者性」を表現した作品に対してしばしば向けられる、「グロテスク」「非現実的」という言葉は、9.11に対して多くの人が向けた言葉とまったく同じものである。

「世界の他者性の表現」とは、作品そのものを「他者」として作ることである。そうした作品を「グロテスク」「非現実的」として拒絶する人は、世界が他者であるということ自体を認めていない。
 知らないから認められないのか、実は意識の奥底では知っているからこそ認めようとしないのか。後者は、現状に目を瞑るという罪を犯している。

 以下、私見。
「世界は安定している」と信じる人にとって、異常なこと、悲惨なことが起きるのは絶対に受け入れられないことである。何か不幸に遭った人に対し、本人に原因があると見做す輩が多いのは、この「世界の安定」に対する信頼ゆえだろう。
 誰かが殺された、レイプされた、財産を奪われた、解雇された、などということが理由もなく行われたのでは、世界の安定性への信頼が崩壊してしまう。自分も、いつそんな目に遭うかわからないという恐怖を抱えて生きていかなければならなくなる。
 世界への信頼を取り戻すために、ともかくも原因を求める。犯人が悪い、制度が悪い、ということにするのが良識的だが、それだとそうした「悪」を根本から根絶しない限り、やはりいつ自分も被害者になってしまうかわからない。そして悪の根絶は大変な時間と労力を要する。

 それよりは被害者のほうに原因があった(恨みを買った、隙があった、まじめに働かなかった)としたほうが、遥かに心安らかでいられる。自分はそのような原因など持っていないのだから。かくて被害者は、多数の第三者から詰られ貶められることになる。
 世界の他者性を認識しないのは、こうした観点からもやはり罪深いことである。

第2回講義

第4回講義

特別講義INDEX

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スピード・レーサー

 ちょっと久し振りの映画鑑賞記。

『マッハGO! GO! GO!』は未見なので、どうアレンジしてあるのかは判らないんだが、昔のタツノコのアメコミテイストは、ハリウッド映画化に向いているかもしれない。もちろんアメコミの映画化と同じく、監督が有能かつ原作をよく理解してなきゃ駄目なんだけど。

 ウォシャウスキー兄弟監督作は『バウンド』と『マトリックス』1作目しか観てない。レズビアンのカップルがマフィアの金を奪うサスペンス『バウンド』は佳作だが、『マトリックス』は特殊効果の使い方が大変巧いという点だけでしか評価できない。
 そしてこの『スピード・レーサー』は、おそらく原作を大変愛している上によく理解していると思われ、かつ特殊効果の使い方も技術の進歩に合わせて進歩している。脚本・設定には多少矛盾があるが(なぜ大企業の御曹司がライバル企業の手先として八百長レースをやらされてるのかとか、謎の覆面レーサーXがあそこまでして正体を隠し通す必要があったのかとか、真田広之が出てくる必要があったのかとか)、まあ手堅くまとめられている。(昔の)アニメ的な演出とゼリービーンズのような極彩色との融合も素晴らしい。
 ただ難を言えば、私のように動体視力の悪い人間には、レースはスピードが速すぎて何がどうなっているのかよくわからないことがしばしばだった。この作品に限らず、最近のアクションものにはよくある。

 主要な女性キャラクターが、有能なのに男をサポートする位置に徹してるのが微妙(テジョの妹もその位置だと言える)。
 車の設計とか整備とかだってサポートだけど、それは各自の「仕事」でもある。だけど「パートナーの成功が私の成功」みたいな彼我の区別のついてない夫唱婦随ってさあ。原作に忠実だからだとしたら、まあ下手に改変しなくて正解だとは思うけど。エミール・ハーシュに尽くすクリスティーナ・リッチという配役が、余計にこの構図の歪さを浮き上がらせてるな。

 一番演技が巧かったのは、チンパンジーでした。

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神林長平トリビュート

 11月10日、早川書房より刊行。
 デビュー30周年を迎えられた神林長平氏の作品を基に、八人の作家が競作するアンソロジーに参加させていただきました。

  • 仁木が担当したのは『完璧な涙』です。
  • 400字詰換算で50枚強書きました。
  • 魔姫が宥現を探すお話です。
  • 時間SFです。
  • 『完璧な涙』を未読の方もどうぞ。
  • 他の参加者の方々と担当作品等の詳細情報は、追ってお知らせします。
  • よろしくお願いします。

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私はマシンになりたい

 引越しで少々更新停滞してましたが復活。

 現在、日本語で読める小説だけでも無数に存在するわけだが、それらの書き手である作者たちの中には、作品の語り手と自己を区別しない、或いは登場人物たちに自己投影し、読者にもそう読むことを望む人が少なからずいる。
 そして読者の中にも、語り手と作者を同一視し、登場人物たちは作者の自己投影であると見做す読み方をする人が少なからずいる。

 そういう読まれ方をされるように書く作者が多いから、そういう読み方をする読者が多いのか、或いはその逆なのか、そのあたりの因果関係はわからない。しかしどうやらそういう読者は、どんな小説に対しても、その読み方を適用するようである。

「自伝的小説」や、そう銘打っていなくても明らかに作者自身の体験を反映した小説というのは膨大にあるが、それらはしばしば「小説として優れているか」よりも、「どこまで事実に沿っているのか」を取り沙汰される。
 それはたとえ下世話な好奇心に基づくのではなく作者本人についての研究であったとしても、行き過ぎれば、小説として書いた作者の意思と努力に対する侮辱であり、小説という形態全般への侮辱である。
 たとえ基になる体験がどれだけ特殊なものであったとしても、特殊な体験をした人すべてが小説を書けるわけではない。「こんな体験をしたんだから、こんな小説が書けたんだ」といった短絡的な言説は、例えば非常な不幸に遭遇した人に向かって、「こんな体験をしたんだから、素晴らしい小説が書けますよ」と言うのと大して変わらないんじゃなかろうか。

 どれだけ作者自身の体験を反映していようと、仮にも一篇の小説としての体裁を整えようという作者の意思があれば、自ずから「語り手」と作者自身の間には乖離を生ずる(一人称であってもだ)。その乖離を作者が意識しているとは思えない小説は、読んでいて苦痛だ。私が小説を読むのは、作者について知りたいからではない。

 そして私自身もまた、自作の小説に対して無でありたい。言うなれば、どこか「この世の外」に作品世界が「実在」し、私はその世界を「受信」し、小説の形に書き起こすだけのライティング・マシンでありたいのだ。
 マシンの性能が、できあがる小説に反映されるのは止むを得ない。例えば、毎回ひいひい言いながら山ほど参考資料を読んだり外国語を勉強する必要がある。だが個人としての私は、作品の前にはあくまで無だ。

 だから筆名を決めた基準も、「男女どちらにも使える、普通の名前」だった(もちろん全国の「仁木」さんにも「稔」さんにも、含むところはありません)。
 常日頃、深く考えても大していい案が出てくるとも思えない場合、その場の思い付きを優先しているのだが、「男女どちらにも使える名前」として最初に浮かんだ名前がなぜか「ミノル」だった。女名前としてはあまり一般的ではないが、ともかく思い付きは大切なのでこれに決めた。字も適当。
「ニキ」にしたのは、本名がわりと画数が多いので、なんとなく画数の少ないシンプルな姓にしたかったから。最初は「二木」だったのだが、デビュー直前のある日、担当氏がメールで「仁木稔」と誤記し、こっちのほうが「二木稔」より見た目バランスが良かったのでそのまま変更したのであった。

 そういうわけで、私は男名前を使っているわけでも、性別を隠しているわけでもない。だいたい、幸か不幸かこれまでの人生でただの一度も男になりたいと思ったことがないしな。
 幸、というのは、そこまで女であることや女全般を嫌だと思ったことがないし、不幸、というのはそこまで男に憧れを持てるような経験がないからだ。女であることで嫌な思いをしたのはそれこそ無数にあるが、悪いのは相手であって自分が女であることじゃないと思える精神構造をしてるからな。
 敢えて性差に関連づけるなら、仁木稔が女だと知った時に感じること(意外だ、にせよ、ああやっぱりね、にせよ、特に何も、にせよ)、それはそのままあなたの性差意識を表している、ということだ。

 まあ読者の大半は、わざわざこんな断りを入れなくても、仁木稔の性別なんぞ気にせず、作品や登場人物が仁木の自己投影だと見做す読み方はしないだろう。そういう読み方しかできない、そういう読み方をするために小説を読んでいる、という方がいるなら、いやまあとやかく言うことじゃないが、そうでない方は、試みにでもそういう読み方はしないでいただきたい。いや、生体端末の設定を作者の性別と結び付けるとか、勘弁してくださいマジで。きもい。

 

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ハーフェズ(守護者)

『ミカイールの階梯』に登場。旧時代の遺産を守ることを使命とするミカイリー一族が、「一族の象徴」として擁する。
 ラテン文字表記はhafez。「守護者」の意であるが、同じく「守護者」でもグアルディアguardia(guardian, gardian)が語義的には「監視者」watcherであるのに対し、こちらは「保管者」keeper。作中でも時折「保管者」とされる。

 イスラム圏では、「コーランの暗唱者」に与えられる称号でもある。14世紀のペルシア詩人シャムス・ウッディーン・ムハンマドは、本名よりもこの称号で広く知られている(日本では従来、「ハーフィズ」と表記されてきた)。長大なコーラン(邦訳だと文庫3巻分)を丸暗記したくらいだから、非常に敬虔なムスリムであるはずだが、酒と恋、そして神秘主義的な思想を詠った。『ミカイールの階梯』では、彼の詩の幾つかを引用している。

 ミカイリー一族のハーフェズは、X染色体上に「ハーフェズ遺伝子」と呼ばれる特定の遺伝子を持つ者たちである。この遺伝子は、一見いかなる形質も発現させないため、DNA検査をしない限り、ハーフェズでない者(非ハーフェズ)とまったく区別がつかない。
 にもかかわらず、ミカイリー一族はハーフェズの存在を必要とする。彼らはその理由を、一族の結束を固める象徴として必要、と説明している。そして一族の当主は必ずハーフェズから選ばれるが、権限が大きくなりすぎないよう、非ハーフェズの年長者たちからコントロールを受けている。

 したがって、ハーフェズの人数は常に一定(数人)に保たれているのが望ましい。ハーフェズの男性はX染色体をそのまま娘に受け渡すが、ハーフェズの女性の場合はハーフェズ遺伝子を持つX染色体と持たないX染色体とで交叉が起きるので、生まれてくる子供は男女を問わず、必ずしもハーフェズではない。
 そのため、ハーフェズは生殖操作によって生み出される。つまり、ハーフェズは男も女も自然生殖で子を為すことが許されない。

「象徴」であるため、ハーフェズは一目で非ハーフェズと見分けられる外見上の特徴を必要とされる。そのため、彼らは「黄玉の瞳」を与えられる。遺伝子組み換えによって、虹彩を明るい黄色に変えられるのである。
 この操作は胎児期、おそらくは体外受精させた卵子を母親の胎内に戻すのに先立って行われる。こうしたハーフェズに関わる諸々の操作は、ミカイリー一族が受け継ぐ旧時代の科学技術を一定水準に保つ役割も担っている。
 しかし技術の衰退は食い止めようがなく、レズヴァーン・ミカイリーの「黄玉の瞳」の発現が不完全で、黄色というよりは褐色になってしまったことなどはその一例であろう。一族の多くは技術の衰退を認めず、発現が不完全なのは遺伝子組み換えの時期が遅かった(生後数ヵ月以後)からだと見做す。レズヴァーンに悪意を持たないフェレシュテも、大人たちのこの見解を鵜呑みにしている。

 ミカイリー一族は200年以上にわたって内婚を続けてきたため、近年は幼児の死亡率が高くなっており、本編開始の2447年の時点で、ハーフェズは三人(レズヴァーン、マルヤム、フェレシュテ)だけに減っている。
 これについても、一族が有する医療技術の水準の低下も原因の一部だと考えられる。障害をもたらす変異を、発見・治療しきれなくなりつつあるのだ。また、ハーフェズを生み出すのに必要な生殖操作技術も低下しつつあるのかもしれない。

 ミカイリーと血縁がまったく確認できない人々のX染色体上に、ハーフェズ遺伝子とよく似た塩基配列が発見されることがある。これは自然の変異であり、ハーフェズ遺伝子はこの配列に多少手を加えて造られた、とミカイリーたちは解している。この「原型」も、ハーフェズ遺伝子同様、なんら特定の機能は見出せない。

 ミカイリー一族が密かに伝えてきたところでは、ハーフェズたちはやはり特別な能力を持つ。ハーフェズの誕生と同時に、彼または彼女の「影」となる一匹の妖魔(ジン)が作られ、そのハーフェズが見聞きしたことを逐一「創造者たち」に報告する、すなわちハーフェズは「創造者たち」の「目と耳」である、というのだ。
「創造者たち」とは、かつて世界を支配した「遺伝子管理局」の頂点に立つ「管理者たち」のことだとされる。彼ら管理者たちがミカイリー一族に「旧時代の遺産を守る」という使命を与え、「ハーフェズ遺伝子」を与えたという。
「創造者たち」が「管理者たち」だということについては、特に疑義を差し挟むミカイリーはいないが、「影」の妖魔云々、のくだりについては、馬鹿馬鹿しいお伽話だと見做されてきた。にもかかわらず、この「お伽話」もまた連綿と伝えられてきたのである。

「お伽話」には、ある儀式が付随している。ハーフェズの男性は娘(すなわちハーフェズ)が生まれると直ちにその臍帯血を舐める、というものである。それによって彼の「影」は新たなハーフェズの誕生を創造者たちに告げ、その情報によって新たなハーフェズの「影」もまた生み出されるという。
 母親がハーフェズの場合は、その胎内で臍の緒を通じて息子または娘がハーフェズか否かの情報を得ることができるので、「儀式」は必要ないとされる。

 この儀式は強制ではなく、行われたか否かの確認もされない。しかしハーフェズの一人であるソルーシュ(レズヴァーンの父親)は、一族の許から出奔して貧しい女性との間に一子をもうけたが、その男児がハーフェズである可能性などまったく念頭になかったにもかかわらず、その臍帯血を衝動的に舐め取っていたという。
 その時には自分の行為の意味を深く考えず、息子(すなわちレズヴァーン)がXXYでありハーフェズである可能性にも思い及ばなかったが、後に振り返って次のような仮説を立てた。

 ハーフェズ同士の脳は、なんらかの共鳴を起こしている。それは意識には上らないほど微弱だが、同じゲノムを持つ者同士では共鳴が強まるかもしれない。古来より観察されてきた一卵性双生児同士の共時現象は、前述のハーフェズ遺伝子の原型を偶々有していた例なのではないだろうか。
 ハーフェズの「影」とは、「この世のどこか」で造られる、クローンなのかもしれない。ハーフェズの経験はクローンの脳に伝えられ、さらに「管理者たち」へと伝えられる。ハーフェズの男は、我が子がハーフェズだった場合、閾下知覚でそれを感知、次いで自らの分身を介して送られた指令に従い、我が子の血を摂取してそのゲノム情報を送る。そして新たなハーフェズのクローンが造られる……

 ソルーシュがこの仮説を立てたのがいつ頃だったのかは不明だが、いずれにせよ一族からは完全に黙殺された。第一の理由はソルーシュの人望のなさだが、第二の理由は、レズヴァーンが推測するとおり、ミカイリーたちは「ハーフェズの能力と役目」や「管理者たちの実在」の証明など、まったく必要していなかったからであろう。
 ミカイリーたちは、ただ信じているのだ。いつまで続くとも知れぬ「無知の闇」の中で、自分たちの生きた証が、情報という形でハーフェズの脳を介して「この世のどこか」にいる創造者たちに送られ、永遠に保存されることを。その信念に、証拠など必要ないのである。
 まあつまりソルーシュは、ミカイリーたちのその悲痛な想いを、ハーフェズでありながらまるで理解できていなかった、ということ。

 レズヴァーン、ティラー、ソルーシュといったハーフェズたちの名は、いずれも特定の天使の名(固有名詞)とされる。「天使」そのもの意である「フェレシュテ」の名を持つのは、両親ともハーフェズの娘(すなわちハーフェズ遺伝子を二つ持つ)だけに与えられる名である。「フェレシュテ」が同時代に二人以上いることはなく、フェレシュテの母となることを予め定められたハーフェズの女性は、「マルヤム(Maryam:マリアMariaのペルシア語形)」の名を与えられる。

 以下、ネタバレ注意。

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ハーフィズ詩集

 読んだ直後に書いたメモを基に思い出し。

『ハーフィズ詩集』 黒柳恒男・訳 平凡社東洋文庫 1986
 シャムス・ウッディーン・ムハンマド(1320?-1390)、シーラーズ生まれ。ルーミー(1207~1273)の時代はモンゴル侵攻の最中だったが、ハーフィズが生きたのはイル汗国が崩壊し、イランが分裂した時代。

 ハーフィズ(現代ペルシア語ではハーフェズと発音)は、守護者とか保管者という意味で、コーランを丸暗記した者に与えられる称号。その作品は神秘主義的傾向が顕著な叙情詩、と見做される。アラビア語の「抒情詩」の原義は「恋愛詩」だそうで、彼の作品の大半も恋と酒を主題としたものである。
 現代に至るまで戒律に厳しいイスラム国家でもハーフィズの詩が許容されてきたのは、酒と恋の讃歌が神の讃歌とも解釈できるからである。まあ実際、そういうつもりで書いてるんだろうけど、同時に酒と恋を讃えているのも明らかで、だから庶民は彼の詩を愛好してきたわけである。
 単に酒と恋を賞賛の対象にするだけじゃなくて、禁欲を偽善と言い切り、そういう偽善者が集う場所ではなく異教徒が経営する酒場で私は神の栄光を見る、といったような結構過激な表現が多い。その辺、現代イランなんかではどう解釈されてんだろうなあ。

 もう一つ気になったんが、彼の詩で謳われる「恋人」は男女どっちとも解釈できるものが多い。ライラとかシーリーンのような伝説の美女に喩えられてる場合もあるが、イスラムでは美男の代名詞であるヨセフに喩えられてる「恋人」も多い。現代ペルシア語では品詞に性がないし、彼・彼女の区別もないけど、中世ペルシア語ではどうだったんだろうとか、「美女」と訳されてる語は、果たして女だけを指すのかとか。
 少なくとも『アラビアン・ナイト』では美女と美少年の形容はほぼ一緒で、ただ美少年特有の形容としては「顔の産毛(生え始めの柔らかい髭)」がある。ハーフィズの詩にも、顔の産毛の賞賛は幾つかあるんだよね。女だって顔に産毛は生えるけど、脱毛する習慣だったろうしなあ。

『アラビアン・ナイト』(東洋文庫版)には「美女と美少年、どちらが具合がいいか」を巡って美女が稚児趣味の法学者(だったか、とにかく宗教的に権威のある人)と論争する、という実にしょうもない話が収められている。あんまりしょうもないんで、どんな結論だったかは忘れた。飲酒も自由恋愛も同性愛も刑罰対象の現代イスラム諸国と違って、昔のイスラムはいろいろと寛容でしたね。

映画『ハーフェズ ペルシャの詩』感想

オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』感想

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下りの船

 ――つまるところ、おこなわれていることはすべてが人間の営みであり、いかに時が流れても何一つ変わってはいなかった。

 佐藤哲也著、早川書房刊。再読。
 東南アジアを思わせる環境の惑星に、強制移住させられた人々を描いた作品である。多数のエピソードの断片が交錯する。「断片的なエピソード」ではなく、「エピソードの断片」である。提示されるのは、何年にも何十年にもわたるであろう人々の営みから、ただ切り出してきた欠片のように見え、一応それなりにまとまりを持っているものもあれば、まったくそうでないものもあり、読者はそれ以上のことを何一つ知らされることなく放り出される。
 それらの多数の断片をくぐっていく一本の糸のように、唯一一貫して辿られるのが、アヴという少年の生涯である。その糸が断ち切られた時、この小説も幕を閉じる。

 語られるのは、徹底して人間の卑小さだ。交錯するエピソードの断片の中には、「心温まる」とか「しみじみとした」といった形容を当て嵌めることのできそうなものもある。そうしたささやかな善良さは、圧倒的な非情さによって叩き潰されるために提示されているのではない。善良も非情も等しく「人間の営み」であり、等しく卑小なのだ。
 その徹底した卑小さに、何を見出すかは人それぞれだろう。なべて作品とは、そういうものだ。見出したものを好むのも拒絶するのもまた人それぞれだ。

 私が見出したのは、徹底した卑小さ、それだけである。意味も教訓も、カタルシスも何もない。だが、その卑小さを表現する技巧は、信じがたいほど美しい。「人間は卑小だ。しかし美しい」ということを表現しているのではない。美文だというのでもない。
 彫刻に喩えたら、解りやすいだろうか。二人の人間が支え合ってようやく立っている像だ。性別や年齢も判然としないほど痩せこけ、四肢は苦痛に捻じ曲がり、顔を歪め、襤褸を纏い、おそらく全身泥に塗れている。激しい風雨か、ひょっとしたら殴打の雨から、身を縮めて逃れようとしているようだ。そこには人間の尊厳などなく、或いはそうした悲惨に対する作者の声高な抗議も見て取れない(いや、そういうものを見て取りたい人は見て取ったっていいんだが)。表現されているのは、ただ「卑小」だ。
 にもかかわらず、それを表現する技巧は美しい。全体のバランスから鑿の一彫り一彫りに至るまでのすべてが。
「下りの船」には、そんな美しさがある。

 ただもしかしたら、もっと美しくすることもできたのではないか、とも思う。研ぎ澄まされた刃のような、触れただけで皮膚が裂け、血が迸るような美しさだ。そんな美しさを、著者ならば現出させることが可能だったのではないか、と想像する。
 まあ実際にそういう作品を書けたとしても、刊行は難しいかもしれないが。

『熱帯』と『イーリアス』読み比べ

『サラミス』と『歴史』読み比べ

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異形の守護者

08年8月の記事に加筆修正。
『ラ・イストリア』の元のタイトル。刊行の際、担当氏に却下される(理由:地味)。

 何はともあれ、「異形」と「守護者」は、HISTORIAシリーズに於ける重要なキーワードである。なぜなら本シリーズは、災厄により変異した世界の変異した人々の物語であり、1870年代に於けるダーウィニズムとメンデリズムの出会いを起点とする改変された歴史――すなわち異形のHISTORIAだからだ。そしてまた、物語を織り成す人々は、「守る/守られる」関係を軸とする。

GUARDIA グアルディア
スペイン語、イタリア語で「守護者」。英語のguard(名詞)、guardian。原義は「見張り」。警備員、衛兵、近衛兵(親衛隊員)も指す。
『グアルディア』では伝説の英雄の名として登場。旧時代の大量破壊兵器である生体甲冑の記憶が伝説化したと推測される。
 その伝説に因み、レコンキスタ軍総統アンヘルの護衛ホアキン・ドメニコの通称として用いられてもいる(正式な役職名ではない)。またアンヘル自身も、時に「守護天使」Ángel de la guardaと呼ばれる。

『ラ・イストリア』では、グロッタ(洞窟)で生体端末と旧時代の知識を守る人々は、時としてグアルディア(番人)と自称した。

GARDIEN ガルディアン
 フランス語。意味はスペイン語、イタリア語のguardiaと同じ。 
『ラ・イストリア』に於いて、フランス系北米人のカロリーヌは、生体甲冑に変身したフアニートをLe gardien monstrueuxと呼ぶ。スペイン語ではEl guardia monstruoso(エル・グアルディア・モンストルオーソ)。monstruosoは「異形の、怪物じみた」で、すなわち「異形の守護者」となる。また作中、生体甲冑はしばしば「モンストルオmonstruo」(怪物/化け物/異形)と呼ばれる。

ГВАРДИЯ グワルディア
 帝政ロシアの親衛隊。guardiaを語源とすると思われる。転じて「精鋭部隊」も指すようになる。革命後もБелая гардия「白衛軍」、Красная гардия「赤衛軍」といった形で使われる。

『ミカイールの階梯』では、ソ連(および帝政ロシア)の模倣国家である中央アジア共和国で、身体能力が優れた者を輩出する一族が、「獲得形質遺伝による進化」のモデルとして担ぎ上げられ、グワルディア(精鋭部隊)の名称を与えられた。無論、帝政ロシア・ソ連のグワルディアに因んでである。
 また、第一章でユスフ・マナシーが彼らを「若き精鋭部隊」と呼ぶが、Молодая гардияすなわち『若き親衛隊』は、ナチス占領下のウクライナに於ける少年少女パルチザン組織の実話を元にした小説。短期間でほぼ全員が逮捕され、拷問ののち処刑、という悲惨な末路が美化されている。この小説はおそらく19世紀ロシア文学やゴーリキーなどの作品とともに、「古典」として中央アジア共和国で復刻されていたであろう。

 グワルディアは後に「疫病(えやみ)の王」の親衛隊となる。また、その赤い髪から「クズル・バシュ(赤い頭)」とも呼ばれるようになるが、これはサファヴィー朝ペルシア(1501-1736)のイスマイル1世(1487-1524)の親衛隊の名称である(赤い飾りの付いたターバンを被っていたことから)。イスマイル1世自身もクズル・バシュも非常に狂信的であり、当時隆盛を誇っていたイスラム神秘主義を徹底弾圧した。
 また中央アジア共和国のキタイ系住民は、グワルディアをやはり赤毛に因んで「紅衛軍」と呼ぶようになる。言うまでもなく、文化大革命期の悪名高いガキどもの組織である。共産党に煽り立てられ、その威を借りて非道の限りを尽くしたが、文革が終わって用済みになると、内モンゴルなどの辺境に追放されるという、これもなかなかに過酷な境遇に落とされた。

 旧時代の歴史に通じたユスフ・マナシーは、これらの名称の由来を承知の上で、持ち前の悪趣味から、大いに宣伝して広める。しかし作中でこれらを最初に口にした者たちは、そんな由来など知らないのである。
 こうした「過去の記憶」を、それを知らないはずの者たちが「思い出す」という現象は『グアルディア』でも描かれている。これはこのシリーズが「いずれ語られる物語」ではなく、「語られた物語」であることと関連している。

 グワルディアの各成員(精鋭/親衛隊員)を指す語はгвардеец グワルデイツ(男性形)、гвардейца グワルデイツァ(女性形)。リュドミラ・グワルデイツァは序盤、ハーフェズであるフェレシュテ・ミカイリーの護衛を務め、後半ではフェレシュテのために戦う。

HAFEZ ハーフェズ
 ペルシア語で「守護者」、「保管者」。guardia(guardian, gardian)が「見張り」すなわちwatcherであるのに対し、keeper。イスラムに於いては「コーランの暗唱者」の称号でもある。

『ミカイールの階梯』に登場するミカイリー一族は、「旧時代の遺産の守護者」が使命であると称する。その使命の象徴として彼らが戴くのが、ハーフェズと呼ばれる者たちである。「ハーフェズ遺伝子」と呼ばれる特殊な遺伝子(一見、なんの形質も発言させない)を受け継ぐよう、生殖操作によって生み出される。
「ミカイーリ Mikaili」とは「ミカイールMikailに属するもの(ミカイールの眷属)」の意味であり、ミカイールはミカエルのアラビア語/ペルシア語形であり、イスラムに於いてもユダヤ・キリスト教徒同様、ジブリール(ガブリエルのアラビア語形、ペルシア語形はジェブリール)と並んで重要な天使である。
 またフェレシュテ(ペルシア語で「天使」)、レズヴァーン(天国の門衛を務める天使の名)など、ハーフェズたちは原則として天使に関連した名を与えられる。

「守る/守られる」というモチーフは、『グアルディア』で最も執拗に繰り返され、かつ重複している。
 伝説の守護者(グアルディア)すなわち生体甲冑の力を持つ青年JDとその「娘」カルラ。守護天使(アンヘル・デ・ラ・グアルダ)たるアンヘルとその護衛(グアルディア)。あるいはアンヘルの幼馴染であり護衛でもあったユベール。ラウルと彼が守れなかったジェンマ……

 これに対し、『ラ・イストリア』では生体端末/ブランカ(すなわちアンヘルの祖)を守るクラウディオ、ブランカを守るフアニート(彼がグアルディア伝説の原型となる)、家族を守るアロンソ、アロンソを守らなかった父親、とよりシンプルな形で表される。
『ミカイールの階梯』では、前述のようにモチーフの繰り返しは見られるが、前二作ほど前面に押し出されてはいない。

「守る/守られる」モチーフに付随して、『グアルディア』と『ミカイール』にはさらに幾つかのモチーフの反復が見られる。性の境界上にある人物。機械として造られた人物。天使の名を持つ、あるいは天使を思わせる容姿の人物。金髪碧眼白皙の少女。血の絆。『ラ・イストリア』には、これら付随モチーフは明確ではない。また、『グアルディア』と『ミカイール』の間にも、かなりの変奏が認められる。
 モチーフの反復は、今後も見られるであろう。大風呂敷の外縁部に位置する(「語り手問題」よりは内側)「謎」へと繋がる伏線だが、収拾できるかどうかわからない伏線なので、現時点では「単なる偶然」ということにしておいてください(なお、先祖‐子孫だとか生まれ変わりだとか、そういうオチではありません)。

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        「グワルディア」 「ミカイリー一族」 「ハーフェズ(守護者)」

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