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私はマシンになりたい

 引越しで少々更新停滞してましたが復活。

 現在、日本語で読める小説だけでも無数に存在するわけだが、それらの書き手である作者たちの中には、作品の語り手と自己を区別しない、或いは登場人物たちに自己投影し、読者にもそう読むことを望む人が少なからずいる。
 そして読者の中にも、語り手と作者を同一視し、登場人物たちは作者の自己投影であると見做す読み方をする人が少なからずいる。

 そういう読まれ方をされるように書く作者が多いから、そういう読み方をする読者が多いのか、或いはその逆なのか、そのあたりの因果関係はわからない。しかしどうやらそういう読者は、どんな小説に対しても、その読み方を適用するようである。

「自伝的小説」や、そう銘打っていなくても明らかに作者自身の体験を反映した小説というのは膨大にあるが、それらはしばしば「小説として優れているか」よりも、「どこまで事実に沿っているのか」を取り沙汰される。
 それはたとえ下世話な好奇心に基づくのではなく作者本人についての研究であったとしても、行き過ぎれば、小説として書いた作者の意思と努力に対する侮辱であり、小説という形態全般への侮辱である。
 たとえ基になる体験がどれだけ特殊なものであったとしても、特殊な体験をした人すべてが小説を書けるわけではない。「こんな体験をしたんだから、こんな小説が書けたんだ」といった短絡的な言説は、例えば非常な不幸に遭遇した人に向かって、「こんな体験をしたんだから、素晴らしい小説が書けますよ」と言うのと大して変わらないんじゃなかろうか。

 どれだけ作者自身の体験を反映していようと、仮にも一篇の小説としての体裁を整えようという作者の意思があれば、自ずから「語り手」と作者自身の間には乖離を生ずる(一人称であってもだ)。その乖離を作者が意識しているとは思えない小説は、読んでいて苦痛だ。私が小説を読むのは、作者について知りたいからではない。

 そして私自身もまた、自作の小説に対して無でありたい。言うなれば、どこか「この世の外」に作品世界が「実在」し、私はその世界を「受信」し、小説の形に書き起こすだけのライティング・マシンでありたいのだ。
 マシンの性能が、できあがる小説に反映されるのは止むを得ない。例えば、毎回ひいひい言いながら山ほど参考資料を読んだり外国語を勉強する必要がある。だが個人としての私は、作品の前にはあくまで無だ。

 だから筆名を決めた基準も、「男女どちらにも使える、普通の名前」だった(もちろん全国の「仁木」さんにも「稔」さんにも、含むところはありません)。
 常日頃、深く考えても大していい案が出てくるとも思えない場合、その場の思い付きを優先しているのだが、「男女どちらにも使える名前」として最初に浮かんだ名前がなぜか「ミノル」だった。女名前としてはあまり一般的ではないが、ともかく思い付きは大切なのでこれに決めた。字も適当。
「ニキ」にしたのは、本名がわりと画数が多いので、なんとなく画数の少ないシンプルな姓にしたかったから。最初は「二木」だったのだが、デビュー直前のある日、担当氏がメールで「仁木稔」と誤記し、こっちのほうが「二木稔」より見た目バランスが良かったのでそのまま変更したのであった。

 そういうわけで、私は男名前を使っているわけでも、性別を隠しているわけでもない。だいたい、幸か不幸かこれまでの人生でただの一度も男になりたいと思ったことがないしな。
 幸、というのは、そこまで女であることや女全般を嫌だと思ったことがないし、不幸、というのはそこまで男に憧れを持てるような経験がないからだ。女であることで嫌な思いをしたのはそれこそ無数にあるが、悪いのは相手であって自分が女であることじゃないと思える精神構造をしてるからな。
 敢えて性差に関連づけるなら、仁木稔が女だと知った時に感じること(意外だ、にせよ、ああやっぱりね、にせよ、特に何も、にせよ)、それはそのままあなたの性差意識を表している、ということだ。

 まあ読者の大半は、わざわざこんな断りを入れなくても、仁木稔の性別なんぞ気にせず、作品や登場人物が仁木の自己投影だと見做す読み方はしないだろう。そういう読み方しかできない、そういう読み方をするために小説を読んでいる、という方がいるなら、いやまあとやかく言うことじゃないが、そうでない方は、試みにでもそういう読み方はしないでいただきたい。いや、生体端末の設定を作者の性別と結び付けるとか、勘弁してくださいマジで。きもい。

 

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