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下りの船

 ――つまるところ、おこなわれていることはすべてが人間の営みであり、いかに時が流れても何一つ変わってはいなかった。

 佐藤哲也著、早川書房刊。再読。
 東南アジアを思わせる環境の惑星に、強制移住させられた人々を描いた作品である。多数のエピソードの断片が交錯する。「断片的なエピソード」ではなく、「エピソードの断片」である。提示されるのは、何年にも何十年にもわたるであろう人々の営みから、ただ切り出してきた欠片のように見え、一応それなりにまとまりを持っているものもあれば、まったくそうでないものもあり、読者はそれ以上のことを何一つ知らされることなく放り出される。
 それらの多数の断片をくぐっていく一本の糸のように、唯一一貫して辿られるのが、アヴという少年の生涯である。その糸が断ち切られた時、この小説も幕を閉じる。

 語られるのは、徹底して人間の卑小さだ。交錯するエピソードの断片の中には、「心温まる」とか「しみじみとした」といった形容を当て嵌めることのできそうなものもある。そうしたささやかな善良さは、圧倒的な非情さによって叩き潰されるために提示されているのではない。善良も非情も等しく「人間の営み」であり、等しく卑小なのだ。
 その徹底した卑小さに、何を見出すかは人それぞれだろう。なべて作品とは、そういうものだ。見出したものを好むのも拒絶するのもまた人それぞれだ。

 私が見出したのは、徹底した卑小さ、それだけである。意味も教訓も、カタルシスも何もない。だが、その卑小さを表現する技巧は、信じがたいほど美しい。「人間は卑小だ。しかし美しい」ということを表現しているのではない。美文だというのでもない。
 彫刻に喩えたら、解りやすいだろうか。二人の人間が支え合ってようやく立っている像だ。性別や年齢も判然としないほど痩せこけ、四肢は苦痛に捻じ曲がり、顔を歪め、襤褸を纏い、おそらく全身泥に塗れている。激しい風雨か、ひょっとしたら殴打の雨から、身を縮めて逃れようとしているようだ。そこには人間の尊厳などなく、或いはそうした悲惨に対する作者の声高な抗議も見て取れない(いや、そういうものを見て取りたい人は見て取ったっていいんだが)。表現されているのは、ただ「卑小」だ。
 にもかかわらず、それを表現する技巧は美しい。全体のバランスから鑿の一彫り一彫りに至るまでのすべてが。
「下りの船」には、そんな美しさがある。

 ただもしかしたら、もっと美しくすることもできたのではないか、とも思う。研ぎ澄まされた刃のような、触れただけで皮膚が裂け、血が迸るような美しさだ。そんな美しさを、著者ならば現出させることが可能だったのではないか、と想像する。
 まあ実際にそういう作品を書けたとしても、刊行は難しいかもしれないが。

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