その後のテミストクレス
『戦史』トゥーキュディデース 久保正彰・訳 岩波書店 1966
全3巻。『サラミス』の登場人物たちのその後が気に掛かったので読むことにした。以下、長音はめんどくさいので省略。
前480年のサラミス、479年のプラタイア、ミュカレの戦いで勝利後直ちに、アテナイはペルシア軍に破壊された城壁の再建に取り掛かった。他市の防御力を少しでも弱めたいスパルタは、「再びペルシアが侵入して、征服した都市の城壁を根拠地にするといけないから」という口実でアテナイに城壁再建を取りやめるよう要求した。
これに対しテミストクレスは、「私がスパルタに直接赴いて話し合おう」と提案し、スパルタの使節を体よく追い払った。そして実際にスパルタに赴いたものの、一向に協議の席に就かず、スパルタ人たちに追及されると、「後から到着するはずの同僚たちを待っている。なぜ彼らが遅れているのか私も怪しんでいる」と答えて時間稼ぎをし、その間にアテナイでは女子供まで動員して突貫工事で城壁の再建を行っていた。
スパルタ人は(何しろ単純なので)テミストクレスの弁解を信じていたが、アテナイ経由でスパルタにやってくる一般の旅人たちが、城壁再建が進んでいると口々に告げるので、さすがに疑いを持った。
これに気づいたテミストクレスは、スパルタ人たちに「風評に惑わされてはならない。それより信頼できるスパルタ市民を派遣し、確かめさせるべきだろう」と提案した。
スパルタ人たちはこの提案をもっともだと思い、使節を派遣した。しかし実は、この時すでにアテナイの「遅れていた同僚使節たち」が到着し、城壁が充分な高さまで再建できたとテミストクレスに告げていたのである。
テミストクレスはアテナイに密かに急使を送り、「これからスパルタの偵察者が行くから、我々が戻るまで巧いこと引き留めておけ」と命じた。そしておもむろにスパルタの代表たちの許に赴き、今度ばかりは正直に、城壁再建が完了したことを告げた。
スパルタは、表向きの理由をあくまで「対ペルシアの備え」としていたのもあって、露骨な抗議こそしなかったものの、アテナイの遣り口に内心では憤懣を抱いた。
トゥキュティデスはペロポネソス戦争(前431-404)の原因を、アテナイが強大になりすぎたため、スパルタが恐怖を覚えて開戦に踏み切った、としている。そしてアテナイの勢力拡大の発端として上の城壁再建と、アテナイ海軍の強大化を挙げる。
スパルタおよび諸都市がアテナイ海軍がギリシアでは空前の規模であることに気づいたのはペルシア戦争に於いてだが、そもそもペルシアが本格的に侵略を始める以前に、逸早くそれに備えて艦隊増強と港の防御強化を行ったのもテミストクレスである。
城壁再建にしたって、テミストクレスの小細工のせいで余計な怨みを買ったと言えるし、要するにトゥキュディデスの説に従えば、ペロポネソス戦争の根本原因はテミストクレスにある、ということになる。
なお、「遅れていた同僚使節」として、城壁再建完了の報をテミストクレスにもたらしたのは、かつて彼に陥れられ陶片追放されたアリステイデス。サラミス海戦に引き続き(『歴史』)、アテナイのために恨みを措いてテミストクレスに協力したのである。
『サラミス』でアリステイデス自身が語る、「陶片追放の際、文盲の百姓に頼まれて自分の名を書いた」エピソードは、『戦史』訳注によるとプルタルコス「アリステイデス伝」にある。そんなことをしたのは、誠実だからじゃなくてよっぽど怒ってたからだろうな、という気がするんだが。
テミストクレス自身が陶片追放の憂き目に遭ったのは470年頃。註によるとアテナイの遺跡からテミストクレスの名を書いた陶片が大量に発掘され、中には未使用のものも多数あったことから、政敵が予め用意して市民にばら撒いたと見られる。
同じ頃、スパルタのレオニダス王(『300』の)の甥パウサニアスが、ペルシア王クセルクセスと内通していた。クセルクセスから色よい返答を貰えたパウサニアスは、何しろ単細胞のスパルタ人であるので、すっかり陰謀が成功したように錯覚し、ペルシア風の衣装を着てペルシア兵を侍らせ、ペルシア風の宴席を設け、さらには専制君主然として振る舞い始めた。当然ながら内通の噂が広がり始め、スパルタ人たちもパウサニアスの身辺を調査し始めた。その過程で、テミストクレスがこの件に一枚噛んでいることが明らかになった(具体的に何をしたのかは言及なし)。
スパルタ人たちはその習いとして、同胞であるパウサニアス本人を追及するより先に、アテナイに対し、テミストクレスを処罰せよ、と要求した。アテナイはこれを承諾し、スパルタと共同でテミストクレス逮捕に乗り出した。
この動きを逸早く察したテミストクレスは、さっさとギリシア本土から逃げ出し、各地を転々として最終的にペルシア王(代替わりしてアルタクセルクセス)の許に身を寄せた。その際に主張したのが、「あなたの父上がペルシアへ敗退した時、ギリシア軍は追撃しようとしたが、それを止めたのは自分だ」というものであった。
この主張が嘘だということで『戦史』と『歴史』は一致している。『歴史』によれば、追撃を主張したのはテミストクレスとアテナイ勢だけで、他のギリシア将兵は一日も早く帰国したがっていた。分が悪いと見て取ったテミストクレスは、素早く主張を引っ込め、代わりにクセルクセスに使者を送って、「私は追撃を主張するギリシア将兵を、あなたのために止めました」と述べさせた。
これはもし将来アテナイを追放されるようなことになったら、ペルシアに亡命できるよう恩を売っておこうという考えからだったという。
テミストクレスはペルシアで領地を与えられ、それなりの地位と栄誉に浴したらしい。彼が「牛の血を飲んで自殺した」という妙な説は、トゥキュディデスと同時代のアリストパネスもその喜劇で言及しているほどだから、当時通説となっていたようだが、トゥキュディデスはこれを否定し、病没としている。また、「牛の血」には言及せず、単に「毒を飲んで」としている。彼の性格からすると、牛の血で自殺、という説は馬鹿馬鹿しくて書くに耐えなかったのだろう。
『戦史』は巻頭で宣言されているとおり、物語的要素が極力排除されているのだが、テミストクレスにまつわるエピソードは、例外的に物語的に細部まで書き込まれている(それでも『歴史』に比べれば少ないわけだが)。そして、締め括りとして十行ほどにもわたってテミストクレスを手放しで賞賛している。これもまた『戦史』に於いては例外的である。
物語要素の排除と合理的な論証は『戦史』の大きな特徴だが、これと並ぶもう一つの特徴が、歴史上の人物たちに意見表明を行わせていることで、それらはほとんどが非常に長大な演説(文庫本数頁分にわたる)で、明らかに実際の記録等に拠ったものではなく、トゥキュディデスの創作である。
その人物自身や彼が代表する勢力の立ち位置を説明する、わかりやすい手段として直接話法を用いているわけで、もう一つの特徴である合理性・客観性と相容れないように思えるのは現代人の感覚だが、しかしトゥキュディデス自身も一応は強引さを認識していたようである。
スパルタ人が寡黙を好むというのは当時の常識で(『歴史』でも描写されている)、トゥキュディデスもその常識をまったく無視することはできなかった。スパルタ人に長々と「演説」させる際には、「かれはラケダイモーン人(スパルタ人)にしては珍しく弁論の術にも長けていた」と註釈を付けたり、当の演説者自身に「われらの口上はやや長きにわたるが、これはあながちわれらの習慣をあざむくものではなく、われらの習いは短きをもって足りるとき長きを用いないが大事に及んで説明が望ましいときには言葉をつくしてのち、なすべき行動を起こす。」と言い訳させたりしている。
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