ホスローとシーリーン
岡田恵美子・訳、平凡社東洋文庫、1977年刊。
イルアース・ビン・ユースフ・ニザーミー(1140頃~1209)は、現在のアゼルバイジャン生まれの詩人。邦訳ではほかに『ライラとマジュヌーン』『七王妃物語』(ともに東洋文庫)が出ている。
イスラム古典文学のうち、フィクションでこれまで読んだものは『王書』、『アラビアン・ナイト』(原典からの訳)、『ハーフィズ詩集』、『マナス』のみ(いや、『アラビアン・ナイト』は全18巻もあるんだが)。
『ハーフィズ詩集』以外の三点、『王書』はペルシアの王者や勇士たちの物語、『マナス』はキルギスの英雄叙事詩、『アラビアン・ナイト』は幾つかのタイプの話があるが、割合として一番多いのはやはり男たちの冒険物語である。これらすべてに共通しているのは、「男が女を助けるエピソードが一つもない」ことだ。
助けるどころか、守ろうとさえしていない。そして女たちの多くは男装して馬を駆り、男顔負けの武勇を誇る。主人公たる英雄たちは、そんな女たちに打ち負かされそうになったり、実際に打ち負かされたりしている。キルギスの英雄マナスは、ある姫君に夜這いを掛けたはいいが反撃され、動顚のあまり相手に肋骨骨折の重傷を負わせて逃げ帰るという醜態を晒している。
『アラビアン・ナイト』では、女の自立性はより明確だ。男は皆考えなしで、状況にただ流されていくだけか、あるいは好奇心に突き動かされて後先考えずに行動し、いずれにせよのっぴきならない状況に陥る。それを女たちが、ちょっとした親切、或いはより積極的に深い知恵や魔法、或いは武勇で助けてくれるのである。
まあいくらイスラムの権威が、女は弱くて劣っているから男がしっかりしろ、と説いたところで、男の本音としては苦労して女を御し続けるより、女に助けてもらって楽したい、ってことだよねえ。
つまり『アラビアン・ナイト』に見られる女の自立性は、男の身勝手の表れ以外の何ものでもないわけだ。男があちこちふらふらしてるうちに、そこかしこで女といい仲になり、この始末をどうつけるつもりだと思ってたら、「みんなで仲良く妻になりました」……そう来たか。
或いは、新婚夫婦が砂漠を旅していたら、夫のほうが珍しい鳥を見かけてふらふら後を付いていってそのまま行方不明になってしまう。妻は身を守るため男装し、いろいろ冒険をしているうちにある王女と結婚させられる。その王女に正体を打ち明けると、自分の夫がどんなに素晴らしい男かを説いて、「一緒に妻になりましょう」。
そのまま王女の婿として王位に就くと、ほっつき歩いていた夫を探し出して宮殿に連れて来る。そして自分が対面しているのが妻だとはまったく気づかず異国の王(男)だと思い込んでいる夫に向かって、夜伽をせねば処刑する、と迫る。殺されるよりは……と夫が泣く泣く寝所に赴くと、そこで正体を明かし、めでたく夫は王に、妻とその妻だった王女は王妃に、とか……
イスラム圏でも経済的事情で庶民のほとんどは実質一夫一妻を続けてきたというから、やっぱりハーレムって男の夢(妄想)なんだね、と呆れるのを通り越して感心させられたものだが、そんな妄想ばっかり見せ付けられてもなあ。
で、ようやく『ホスローとシーリーン』に戻る。ホスローは、ササン朝ペルシアのホスロー2世(在位590-628)で、シーリーンはアルメニア王家の架空の女性である。一説によると彼女は実在し、ササン朝最後の皇帝ヤスデギルド3世はこの二人の孫だそうだが(青木健『ゾロアスター教史』刀水書房、2008)、作中では子を残さず死んでいる。
フェルドゥスィーのとにかく長大な『王書』(邦訳はその一部)や説話集『アラビアン・ナイト』、口承文学の『マナス』に比べて、ホスローとシーリーンの恋愛だけにテーマを絞った本作品は読みやすい。岡田氏の訳文は、岩波文庫版の『王書』では特に読みやすくもなかったので、やはり原文の構成がしっかりしているのだろう。
読みやすさの一つとして、表現の多彩さが挙げられる。これまで読んだイスラム古典文学では、特に美女の描写が紋切り型、しかも頻出するので辟易させられたが、『ホスローとシーリーン』では紋切り型から離れていないとはいえ、毎回手を変え品を変えて表現にヴァリエーションを持たせているので、なかなかにおもしろい。
しかし本作品の魅力は、その大半を占めるホスローとシーリーンの駆け引きに尽きる。本文約340頁中、最初の数頁でホスローがシーリーンの存在を知ってから、実際に二人が結ばれるまで、実に300頁近く掛かっている。そこまで紆余曲折あったのは、ほとんどホスローが原因なんだが。
ペルシアの若き王子ホスローは、優れた絵師シャープールからアルメニアの女王の姪シーリーンの話を聞き、是非ものにしたいと思う。そこでシャープールはアルメニアに赴き、シーリーンにホスローの肖像を見せる。ホスローに恋した彼女は、男装して王宮を脱け出し、ペルシアへ向かう。ところがホスローはシーリーンを待ちきれずにアルメニアに向かうので二人は行き違いになる。
いろいろあってようやく二人は巡り合うのだが、その間にホスローの父ホルミズド4世はクーデターで殺され、王位はバフラームという男に奪われる(これは史実)。それにもかかわらず、ホスローはシーリーンにうつつを抜かし、「とにかくやらせろ」と迫るので、彼女は「王位を取り戻すのが先でしょう」と叱咤する。
ホスローは「そっちから誘ったくせに説教するとは何事か」と激昂してシーリーンの許を去り、その勢いで簒奪者バフラームを倒し、王位に就く。そしてビザンティン皇帝と同盟を結び、その皇女マルヤムを妃に迎える(これも史実)。しかし怒りが冷めると、シーリーンが恋しくなる。
シーリーンは伯母の跡を継いでアルメニアの女王になったが、ホスローへの想いを絶ち難く、やがて他人に王位を譲ってペルシアへ行く。しかし皇后マルヤムは愛人の存在を絶対許認めず、またシーリーンも自分を唯一の正式な妃にしない限り身を許す気はないので、ホスローは彼女を都から遠く離れた山城に住まわせる。
やがてマルヤムが死んだので障害がなくなったと思いきや、ホスローは今度はシャキャルという名の美女(シーリーンが「甘美」という意味なのに対し、「砂糖」の意)に心を移す。シーリーンは自分を正式な妃にし、自分だけを愛さない限り、絶対にホスローを許さない。ホスローはなんとか彼女を誤魔化そうとし、散々に甘言を弄するが、ついに折れて彼女を妃に迎える。
おもしろいのは、ホスローが女たちに不実でいることについて罪悪感を抱くことである。だったら最初から一人に絞っとけよ、とも思うが。また、ペルシア皇帝の地位を笠に着て女たちに対して強く出ることもない。マルヤムに対しては、簒奪者を倒せたのは彼女の父親の協力のお蔭という遠慮もあったんだろうけど、シーリーンに対しも、ひたすら弱腰である。手厳しく跳ね除けられては、側近に向かって、或いは独白で彼女の頑固さを罵るのだが、本人を前にしては下手にしか出られない。
さらに、マルヤムとシーリーンが正式な妃の座を要求し、ほかの女の存在を認めなかったのに対し、そうした要求をしなかったシャキャルは、すぐにホスローに飽きられてしまう。
ホスローは晩年、息子のシールゥエ(史実ではカワード)によって幽閉され、忠実に侍るのはシーリーンだけとなる。そしてついに就寝中、息子が差し向けた刺客によって暗殺されるのだが、目覚めて己が死に瀕していることに気づいた王は、傍らで眠るシーリーンを呼ぼうとするが、彼女に自分が苦しむ姿を見せてはいけないと思い直し、一人で死んでいく。
この場面は感動的ですらある。まあこれも男の身勝手といえばそうなんだけどね。
時代設定がイスラム以前とはいえ、イスラムに於ける男女観、恋愛観へのイメージが変わる作品である。
また、これより二百年ほど前に書かれた『王書』では、登場人物たちがムスリムでないことがぼかして書かれているのに対し、本作品ではその旨明記され、「拝火教徒でさえこれだけ立派な行いができるのだから、イスラム教徒と自称するだけで行動が伴わないくせに拝火教徒を蔑んでいる輩は恥じ入るがいい」といったことが述べられている。非アラブ圏に於ける復古主義の発展が見て取れておもしろい。
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