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階梯

『ミカイールの階梯』のタイトルロール。ペルシア語の読みは「メァラージュ」。ラテン文字表記はme’raj。
 ちなみに「ァ」「’」と表記された文字の発音は、日本語にも英語にもない(喉の奥で「ア」と発音)。

『ミカイールの階梯』各巻表紙には、ペルシア語タイトルがアラビア文字で表記されている(意味はそのまま「ミカイールの階梯」)。そして目次の前頁に記載されたラテン文字タイトルは、ペルシア語タイトルのラテン文字表記ME’RAJE MIKAIL(読みは「メァラージェ・ミカイール」。メァラージェ:~の階梯)とその英語訳MICHAEL’S LADDERが併記される。
 このことから判るように、「階梯」とは天使が天地を往復するのに用いるangel’s ladderのことである。創世記に登場するこのイメージは、イスラムにも受け継がれた。
 クルアーンにはムハンマドがある夜、天使ジブリール(アラビア語名。ペルシア語名は「ジェブリール」。ユダヤ/キリスト教のガブリエルに当たる)に導かれ、天上へと旅したという神秘体験が記されているが、この天上への旅はその手段である「梯子」(アラビア語の読みはミィラージュmi’raj)の名で呼ばれる。なお、日本語のイスラム研究文献などではこの天上への旅を「昇天」と訳すが、日本語が持つ「人の死」の意味はないので注意。

『ミカイールの階梯』に於ける「階梯」は、知性機械ミカイールに一度だけアクセスし操作することができる力を持つとされる異能者の名称。ミカイールとはユダヤ/キリスト教のミカエルに当たり、イスラムではジブリールに次ぐ偉大な天使。21-22世紀に於いては、「ファールス(ペルシア)湾からアルタイ山脈まで」の地域を管轄する知性機械の通称だった。
 ミカイリー(「ミカイールの眷属」の意)一族は、「ハーフェズ遺伝子」と呼ばれる改造遺伝子をX染色体上に持つ「ハーフェズ(守護者/保管者)」を擁する。ハーフェズ遺伝子を一つ持っていればハーフェズで、二つ持つ者は階梯(メァラージュ)となる。つまり階梯になるには、両親からハーフェズ遺伝子を受け継ぐXXである必要がある。

 ハーフェズの能力は、分身(影)であるジン(妖魔)を持ち、そのジンを介してミカイリー一族の「創造者たち」すなわち遺伝子管理局の「管理者たち」に地上の情報を送る、と伝えられる。これについては、裏付けとなる資料等は存在せず、またハーフェズ遺伝子の機能も発見されていないことから、単なる伝説と見做されてきた。
 一方、階梯の能力については半信半疑といったところだが、伝承はさらに言う――ミカイールに階梯が架けられれた時(すなわちミカイールにアクセスした時)、階梯も一族も滅びると。
 つまり、階梯の能力が真実であろうとなかろうと、その力は使ってはならないものなのである。

 かくてミカイリー一族は、ハーフェズと階梯を、一族の結束を固めるための象徴的存在として扱ってきた。
 象徴に過ぎないとはいえ、ハーフェズと階梯はミカイリー一族にとって崇敬の対象である。一族の当主は必ずハーフェズから選ばれる。しかしその立場を利用して専横を為したりしないよう、その権限はかなり抑制されている。また、より特別な存在である階梯が当主となるのは禁じられている。

 後継者として当主以外にも一定数以上のハーフェズがいることが必要だが、あまり多すぎても継承を巡って混乱が起きかねないので、ハーフェズの生殖は避妊と人工授精によってコントロールされている。
 階梯はより特別であるがゆえに、人数は常に一人に抑えられている。階梯の両親が権力を拡大したりしないよう、母親となる女性もまた当主となることを禁じられ、故人の冷凍保存精子の人工授精によって次代の階梯を産む。

 階梯が高齢になると、次代の階梯を産むべく定められたハーフェズの女児が生殖操作で生み出される。彼女は「マルヤムMaryam」、すなわちマリアと名付けられる。預言者イーサー(イエス)を処女生殖で産んだ母親の名である(アラビア語形はミリアム)。母(次代の階梯にとっては祖母)の胎内に宿った時から、「男を知ることなしに」子を産むことを定められている、という図式は、カトリックの無原罪懐胎(インマクラーダ・コンセプシオン)を想起させる(もちろんイスラムに無原罪懐胎の観念はないが)。

『ミカイールの階梯』に登場するマルヤムは「マルヤム」として生まれてきたが、階梯が予定よりも早く死亡する場合もある。次代の「マルヤム」がまだいない、もしくは充分な年齢に達していなければ、その時いるハーフェズの女性たちの中から一人が選ばれることになる。そして、その女性は「マルヤム」と改名されることになるであろう。
「マルヤム」を例外として、ハーフェズたちの名は、レズヴァーン、ソルーシュ、ティラーなど、天使の名から取られる(ミカイール、ジェブリールなど「大物」天使の名は使われないようだ)。「天使」そのものの意味を持つ「フェレシュテ」の名を与えられるのは、階梯だけである。

 なおフェレシュテはペルシア語で、ラテン文字表記はFereshte(ペルシア語の綴りに即せばFereshtehだが、語末のhは発音しない)。映画『クラッシュ』(バラードじゃないほう)の終盤でイラン人店主(演じるのはペルシア系英国人ラヒム・ハーン)が「天使だ……」と呟く場面、「フェレシュテ」とはっきり聞き取れる。ペルシア語は発音が日本語に近い(母音はほぼ「アイウエオ」、子音も日本語にない音は少ない)ので、日本人には聞き取りやすく、かつカタカナ表記も容易である。
「フェレシュテ」は女性名としてイランでは普通に使われてきた。アラビア語の「天使Malakマラク」もアラブ圏では人名に用いられ(男女両用)、トルコでは女性名「メレクMelek」となるが、イランではMalakに由来する名前は使われないようである。

 代々の階梯はすべて「フェレシュテ」と名付けられる。フェレシュテ(天使)はメァラージュ(天使の梯子)の別名とも言え、個人名というより称号に近い。「マルヤム」も同様。
 ミカイリー一族が遺伝子管理局、そして知性機械ミカイールと繋がりを持っていることは厳重に秘匿されてきたはずであるが、テングリ大山系一帯には「天使ミカイールに梯子を架ける金の瞳の異能者ミカイリーたち」の伝説は広く浸透していた。無神論の中央アジア共和国、そして神と宗祖マフディ以外の神性を認めないマフディ教団が政権を握ったことで、こうした伝説は語ることを禁じられ、作中の時点ではもはや忘れられかけている。

『ミカイールの階梯』の登場人物である「フェレシュテ」は、14歳の少女である。階梯ではない他のハーフェズたちと同様、虹彩の色を金色に変えられているほかは、外見にも能力にもなんら特別なものは持たない。
 本編の四年前に死亡している養父(マルヤムの夫)は、マルヤムとの間に設けた子供(男児二人と女児一人。いずれもハーフェズ)を次々と亡くしたこともあってか、マルヤムとフェレシュテから次第に距離を置くようになっていた。またマルヤムは、フェレシュテのことを娘であるよりまず「階梯」として見ていたことを、セルゲイに打ち明けている。

 フェレシュテは幼少時から 自分が階梯であることを知らされていた(養父とは血が繋がっていないことを知らされたのは7歳頃。一族のほかの子供たちに比べて特別扱いをされたわけではないが、「重責を負わされた気の毒な子」という目が向けられていることを、薄々察していた。
 こうした憐憫も含めて、一族の大半の者もマルヤムと同様にフェレシュテを何よりもまず「階梯」として見ていた。それは「十代前半の女の子は半年も経てば身体が成長して靴もきつくなる」という当たり前のことに、いろいろ気が回らない性格のミルザはまだしも、身近に仕える侍女たちでさえ思い至らなかったことからも窺える。

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 以下、ネタバレ注意。

 階梯の力は事実だった。ただし、ハーフェズ遺伝子を二つ持つ(階梯ではないハーフェズたちは、ハーフェズ遺伝子を一つしか持たない)ことと、「知性機械ミカイールにアクセスできる」能力とに直接関係があるわけではない。
「階梯が唱えたアクセスコードを受理し、一度だけコマンドの実行を許可する」というプログラムが組まれているのである。アクセスコードとなるのは、イスラム詩人ハーフェズ(ハーフィズ)の詩の一つである。

 なぜ管理者たちが、そのようなプログラムを残したのかは不明。おそらく、旧時代の遺産を守るという使命を帯びたミカイリー一族への、ある種の恩典なのだろう。
 管理者たちは他の知性機械の管轄地域にも、情報を収集して伝達するハーフェズ(と同じ役割を持った者たち)を残した可能性が高いが、知性機械へのアクセス権を有する階梯(と同じ役割を持った者たち)については現段階では不明(ラテンアメリカの生体端末は、ハーフェズと階梯の役割を兼ねるが、他地域の知性機械は生体端末を持たない)。

 階梯(もしいるとすれば他地域の該当者も)は、一度だけのアクセス権で知性機械を地上に呼び戻すことができる可能性がある。しかし『グアルディア』の時点(2643-44年)では、知性機械はすべて(2644年に「降臨」するサンティアゴは別として)所定の軌道に在ることが、生体端末によって確認されている(階梯同様、生体端末も他地域の知性機械にはアクセスできないが、それらを観測するくらいは容易にできる)。

 なお、HISTORIAは「語られた物語」であり、「過去の事実としての歴史」「過去の事実に基づいた伝説」「伝説を再構成したエンターティメント」の三つのレベル(さらに細かく分けることも可能)が入り混じっている。例えば「疫病の王」ゼキの事績(覇者として、また新たなる進化の推進者として)がどこまで彼一人のものであるか不明であるのと同様、階梯の存在とその力もどこまで「事実」かは不明である。
 25世紀にテングリ大山系一帯で中央アジア共和国とマフディ教団の二勢力が対立していたのは「事実」であろうし、それが西方のカザフ・ステップからの侵入者によって征服されたこともも「事実」であろう。
 文明崩壊以前の遺産を受け継いできた一族はテングリ大山系一帯に「実在」したであろうし、彼らが自らその遺産を破壊したこともまた「事実」である可能性が高い。しかしただ一人でそれだけのことをなし得る階梯のような存在が果たして「実在」したのかとなると、信憑性は俄然低くなる。それが14歳の少女(美少女)だった可能性はなおさらだ(そして彼女のために戦う赤毛の「戦闘美少女」の存在も)。

 予定調和的な大団円も、疑ってかかる必要がある。あらゆる記述に御用心いただきたい。HISTORIAもMYTHOSも、「作り話」という意味なのだから。

関連記事: 「ミカイリー一族」 「ハーフェズ(守護者)」 「管理者たち」 「知性機械」 

       「生体端末」 「ヒストリア」 「情報受容体」 

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参考記事: 詩人ハーフェズ(ハーフィズ)について

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