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参考文献録

『ハリウッド100年のアラブ――魔法のランプからテロリストまで』 村上由美子 朝日新聞社 2007 (「オリエンタリズム」)

 再読。『オリエンタリズム』を再読する前に、軽いこっちも読み返しとこう思って。第1章「聖書世界とアラブ/イスラム」から、サロメとヘロデについてちょびっとメモ。

 各章、テーマ別に「広義のハリウッド映画」(アメリカ制作でない作品含む)を取り上げ、論じている。

  1. 「聖書もの」:『十戒』(23、56)、『プリンス・オブ・エジプト』(98)『サロメ』(23)など
  2. 「アラビアン・ナイトもの」:『バグダッドの盗賊』(24、40、78)、『アラジン』(92)など
  3. 「十字軍もの」:『十字軍』(35)、『エル・シド』(61)、『ロビン・フッド』(91)など
  4. 『アラビアのロレンス』(62)と『ロレンス1918』(90)
  5. 「シークもの」:『シーク』(21)、『風とライオン』(75)、『シェルダリング・スカイ』(90)など
  6. 植民地のアラブ人~イスラエル建国:『カーツーム』(66)、『栄光への脱出』(60)など
  7. 「テロリスト・陰謀もの」:『ミュンヘン』(05)、『ブラック・サンデー』(75)など
  8. 湾岸戦争~9.11:『スリー・キングス』(99)、『シリアナ』(05)、『ユナイテッド93』(06)など

「オリエンタリズム」は、西南アジア(アラブ、ペルシア、トルコ、北アフリカ)だけに絞っても、遡ろうと思えばそれこそヘロドトスやアイスキュロスまで遡っちゃえるから、どっかで区切らなきゃならんわけだけだ。その区切り(どこまで遡るか)の付け方が不徹底なんだよねー。
「聖書もの」のルーツはフローベールの『聖アントワーヌの誘惑』やワイルドの『サロメ』まで、「アラビアン・ナイトもの」のルーツはガラン~バートンに至る『アラビアン・ナイト』翻訳まで遡ってるのに、『シーク』に始まる「虜囚もの」のルーツはアメリカ開拓時代の「野蛮なインディアン」に誘拐された女性の体験記にまでしか遡ってない。半端だなあ。

「広義のハリウッド映画」のオリエンタリズム、というだけでもそれこそ無数だろうから、全部を取り上げられないのは当然だ。しかし、論旨からいって、「これは取り上げるべきだろう」というのんが幾つも落ちている。『バベル』(06年10月公開)は間に合わなかったかもしらんが(同年8月公開の『ワールド・トレード・センター』は取り上げられてたが)。

 せっかくなので、西南アジア(地域、人)を扱っているアメリカおよびヨーロッパ映画で、本書で取り上げられていなかったものを思いつく限り列挙してみる(時間的余裕がなかったんとちゃうんか)。
「アラブ人/イスラム教徒テロリスト」が登場するだけ、というのは除く。思い出しきれないから。
 一応ネタバレ注意。

『ジーザス・クライスト・スーパースター』 (73)
 イスラエルロケ、衣装もそれっぽい。それでいてキリストが金髪白皙(碧眼だったかどうかは憶えてない)、ユダが黒人、マグダラのマリアが東洋人、という配役は音楽と同じくミスマッチを狙ったのだろうが、ユダヤ/中東的な風貌の俳優がすっぱりと除外されている点は、逆説的にオリエンタリズムかもしれない。

『クルセイダー』 (01)
 TVドラマ。十字軍によるユダヤ人虐殺(本書でも言及されている)や、エルサレムでのキリスト教徒・ムスリム・ユダヤ教徒の共存を描いているし、戦闘シーンもずいぶん頑張っている。でも、全体としてはあんまりおもしろくない。

『オーシャン・オブ・ファイヤー』 (05)
 これは取り上げるべきだっただろう。ヴィゴ・モーテンセンが当時、イラク戦争反対の筆頭の一人だったこともあって、「リベラルな配慮」に腐心した作品、という面がかなり話題になった作品である。アメリカ人にとっては「アラブ排除」と地続きである「インディアン排除」も扱っているし。
 そういう努力と、ディズニー側の「アドベンチャーものにしたい」努力がせめぎ合った結果、出来上がったのはなんとも中途半端な代物であった。アラブ人の描き方も、結局ステレオタイプだしね。
「自由に憧れるイスラム教徒女性」のヒロインが白人の主人公の導きで……というのんも、いかにも「ハリウッド的」だ。とはいえ、ヒロインと主人公は恋に落ちるわけではないし、最終的に彼女が到達するのも「以前よりは自分の意思を通すために努力する」という、ごく控えめな境地だというのは、評価すべきである。
 ステレオタイプといえば、流砂に沈みかけたアラブ人が、救出しようとする主人公に対し「自分はこういう運命だったのだから構うな」と言うんだが(そして主人公に叱咤され、救出されるんだが)、この「不幸に遭うと、すべては神の意志だと諦め、努力を放棄する」ムスリム像というのは、ガートルード・ベル(アラビアのロレンスと同時代の情報員)の『ペルシアの情景』でも語られていた。予定説はイスラム神学の主流だけど、一般民衆にはどれくらい浸透してたものなんだろうなあ。
 マスタングとオマー・シャリフが大層可愛いので、一見の価値はあり。

『レジョネア』 (98)
 ジャン・クロード・ヴァン・ダム主演。1925年、モロッコの外人部隊が砂漠の砦で反乱軍に囲まれて孤立し、全滅するまでの死闘。ヴァン・ダムは元ボクサーという設定ながら、素手でも銃でも超人的なアクションは封印し、また制作・脚本にも関わっていることから、新境地を拓きたかったのではないかと思う。そうだとしたら、失敗で終わってるんだが(そして、『その男、ヴァン・ダム』へと続く……)。
 脚本や演出、映像はそれほど悪くないと思うんだ。黒人兵が、「おまえなら現地人に見える」と送り出されるが、あっさりバレて殺されるところなど、「白人が現地民に成りすます」お約束に対する皮肉だろう。場合によったらかなりの佳作になってたかもしれん。
 最大の問題は、こういう救いのない重い話を引っ張っていけるだけの力量がヴァン・ダムになかったこと、そしてその代わりとなるような見所が何もなかったこと、だな。
 反乱軍は、どちらかというと「見えない敵」という描き方で、ことさら「アラブ/イスラム」を強調してはいなかったと記憶している。

『ロード・オブ・ザ・リング』 (01~03)
 特に二作目以降、「邪悪な異民族」の人種・文化がオリエント風にされてるのもあって、「正義vs悪」の戦いは「テロとの戦い」の解り易すぎるアナロジーなのではないか、という批判がかなり出た。
 制作側にどういう意図があったにせよ、ファンタジーやSFでは「正義vs悪」という構図や、「異文化」に欧米人にとっての現実の異文化を当て嵌めるのは、非常にありきたりである(いや、ファンタジーやSFにもいろいろあるんだが、ここは一般論で)。だから、上記の批判は単なる絡みと言えないこともないが、だからこそ、「正義vs悪」や「異文化」の取り扱いには慎重さが必要、ということだろう。  それに、「正義vs悪」の構図に「テロとの戦い」を当て嵌めて、無邪気に感動してたアメリカの観客は実際にいたしね。少なくともサム役のショーン・アスティンはそうだった。

『ビッグ・リボウスキ』 (98)
 いや、「サダム・フセインそっくりさん」が登場する映画として『ホット・ショット』(91)が取り上げられてたから。せやったら、これにも登場しとったで、というだけ。

『ブラヴォー・ツー・ゼロ』 (98)
 湾岸戦争中、イラクに潜入したSAS(英国陸軍特殊空挺部隊)隊員が、イラク兵に捕らえられ、数ヶ月にわたって監禁、拷問を受ける。元SAS隊員アンディ・マクナブの体験記の映画化。
 約1時間半のうち3分の2くらいが、主人公のショーン・ビーンの拷問シーンが占めるのであった。現在の彼で想像してはいけません。まだ30代です。しかもウェイトをかなり落としているので、『カラヴァッジオ』の頃に近い感じである。
 なんだか、SM映画を延々と見せられているような、妙にいたたまれない気分になってしまったのであった。
 いや、金髪で面長というショーン・ビーンの風貌も相俟って、『アラビアのロレンス』の「カラチの鞭打ち」シーンの拡大版みたいなのである。
 実際に制作側が『アラビアのロレンス』を意識していたか否かはともかく、原作でアンディ・マクナブはレイプの可能性に怯えていたことを言明しているし、映画でもその可能性は明確に示されている。
 男だろうとレイプされる危険というのは国や民族を問わず軍隊に偏在する、或いは少なくともマクナブ個人はそう考えているのかもしれないが、「アラブ/イスラム教徒は白人と見ると性別を問わずレイプしたがる」という性的幻想(妄想)はオリエンタリズムの一部である。原作を読む限り、マクナブはムスリムが割礼をすることも知らない無知な人物だが、だからこそ最も卑俗な形のオリエンタリズムに染まっていることはあり得る。
「カラチの鞭打ち」がロレンス自身によっても、デヴィッド・リーンによっても、「アラブ/イスラム教徒は白人と見ると性別を問わず……」の性的幻想に立脚しているのは確かだし、映画版『ブラヴォー・ツー・ゼロ』の制作者たちも、確実に同じ性的幻想を前提としている。
 マクナブ本人は黒髪で丸顔のむさいおっさん(原作表紙に肖像写真あり)なのに、映画では監獄の暗がりにショーン・ビーンの金髪や白い肌が浮き上がるような撮影の仕方をしてるし、何ヶ月も監禁されて、髪は伸びるし体重も落ちてるのに、髭は伸びてないんだもんなあ。
 ちなみにショーン・ビーンの地毛はダーク・ブロンドなので、あれは多少脱色しているのかもしれない。ピーター・オトゥールもロレンスを演じるに当たって明るい茶色の髪を脱色しているし、そもそもロレンス当人も「髪の色は明るいが金髪ではない」そうである。

「アラビアン・ナイト」や「千夜一夜」でググると、上位にヒットするのは風俗店に加えてBLの小説や漫画のタイトルである。これもまたオリエンタリズム。

『ドミノ』 (05)
 実在の女性バウンディ・ハンターをモデルにしているが、ほとんどトニー・スコットによる嘘八百、もとい創作。
 仲間の一人として、アフガン人が登場。『ハリウッド100年のアラブ』では、非アラブ・イスラム圏は一応除外していたが、アフガン・ゲリラとアラブ・ゲリラの区別が付く観客がどれくらいいるのであろうか。
 稼いだ金を故郷のゲリラに送金しているらしい。本人がゲリラ活動を行っているわけではないからか狂信的なキャラクターでこそないが、寡黙で仲間とも打ち解けない。しかも彼が、より積極的にゲリラに協力しようという気を起こしたことで、仲間たちはとてつもない災厄に巻き込まれる。まあ最後には彼も仲間に思い遣りを示すわけだが。
 演じたのはグラスコー出身の役者で、西南アジア系なのは名前から明らかだが、アフガン系なのかは不明。

 アフガン戦争時には、アフガン人をソ連(悪)に対する正義として『ランボー 怒りのアフガン』(88)や『レッド・アフガン』(88)が作られたが、どちらも未見。なのでアフガン人の描き方も、「対等な味方」だったのか「白人が教え導いてやらねばならない原住民」だったのかは不明。

『クラッシュ』 (04)
 バラードのんじゃないほう。群像劇の中で、移住してきてから日の浅いイラン人一家が登場する。地元の連中から嫌がらせを受け、「わたしたちはアラブ人じゃないのに」と困惑する。もちろん、そんな区別がアメリカ人にできるわけがないのである。

『インサイド・マン』 (06)
 銀行が強盗団に占拠されると、最初の反応は「テロの可能性」で、ターバンを巻いたシーク教徒が「アラブ人だ!」と殴る蹴るの目に遭わされるのを、ややスラップスティックに描く場面がある。現実にはシーク教徒が「アラブ人」として殺されてしまった事件も起きているので、あんまり笑い事ではないんだけど。

『憎しみ』 (95)
 マチュー・カソヴィッツの最高にして唯一の傑作。この人は役者としてのほうが遥かにいい仕事をするので、監督なんかやめてまえと思うが、当人は監督のほうが本業のつもりらしい。まあともかく、これは傑作である。
 フランスでも移民や人種差別は大きな問題だが、少なくとも移民を扱った映画を観る限り、そこに「我々(制作者と観客)」と「彼ら(移民)」という二項対立は明確ではない。

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 以下、ブログに感想を挙げたものへのリンク(アメリカおよびヨーロッパ映画。07年以降公開作も含む)。特記のないものは『ハリウッド100年のアラブ』で取り上げられていないもの。

『風とライオン』 (75) 取り上げられていた作品。

『キングダム・オブ・ヘブン』 (05)
 取り上げられてはいたが、ほとんど言及されていなかった。いろいろとリベラルな配慮の跡が見られる。同様の努力を払った他の作品に比べれば、努力は実を結んでいる。特に「お色気担当」を現地人(ムスリム)女性にさせなかったのは、賞賛に値すると言える。
 ただし、その代わりのように、お色気担当エヴァ・グリーン(エルサレム国の王女)は中東風の衣装を着て、手や爪をヘンナで染めている(濃いアイラインも中東風メイクかと思ったが、どうやら本人の好みらしい)。ベッドシーンで「官能的な中東風音楽」が流れ出した時には、映画館内だったにも関わらず失笑しかけた。
 あと、オーランド・ブルームが領地の灌漑工事をやって、領民(現地民)がその成功を喜ぶ場面が、彼の現代的な容貌も手伝って、「井戸掘りをしたボランティアの青年と現地の人たち」に見えてしまったのがなんとも。

『13ウォーリアーズ』 (99)  取り上げられていた作品。
 11世紀のアラブ人を「我々(観客)が感情移入すべき文明人」、ヴァイキングを「野蛮で不潔な異民族」として配置しているのが斬新(てゆうか、ほかに例を見ない)。
 映画への言及もちょびっとあるけど、主にマイケル・クライトンの原作(『北人伝説』)とその元ネタ(『イブン・ファドラーンのヴォルガ・ブルガール旅行記』)の読み比べ。

『バベル』 (06)
「メキシコ篇」「日本篇」「モロッコ篇」が同時進行する。
 公開当時、松本人志が日本篇とモロッコ篇について、「なぜいちいちセックスと絡めるのか」と指摘していたと記憶するが、異民族という「他者」に幻想を投影するのは、オリエンタリズムやジャポニズムといった個別のものではなく、エキゾティシズム全般の現象である。で、そこには性的幻想も多分に含まれている。
 また、エキゾチックな場所を背景に白人の男女が結ばれる、というのんも欧米映画ではよく見られるが、「モロッコ篇」の、白人夫婦のわだかまりが妻の放尿をきっかけに溶解し、キスに至る、という場面は、その変奏だろう。
 ただし、監督も脚本家もメキシコ人で、「メキシコ篇」に性的幻想が一切見られないことからすると、彼らにとっては白人(金髪女性)もまた(性的幻想を投影すべき)「他者」なのかもしれない。

『300』 (07)
 これも公開当時、「ギリシャ(ヨーロッパ)vsペルシア(アジア)」は「テロとの戦い」の解り易すぎるアナロジーではないか、という批判が出ていた(ただし、『ロード・オブ・ザ・リング』に比べれば遥かに少なかったように思う)。それ以前に、いろいろと問題のありすぎる作品。
 まあヘロドトスが『歴史』でペルシア戦争を記すに当たって、これを「ヨーロッパvsアジアの戦争」としているのは事実である。

 ヘロドトスが「ヨーロッパvsアジア」の始まりとして挙げているのが、トロイア戦争である。少なくとも『トロイ』(04)ではヨーロッパvsアジアの構図はまったく見られず、トロイアの文化や人種も特に「アジア・中東風」には設定されていなかった。
 オリバー・ストーン(『ワールド・トレード・センター』監督)の『アレキサンダー』(04)も、大王の東征に「テロとの戦い」の大義を見出す見方もあるようだが、未見なんでなんとも言えん。評判の悪さ以上に、コリン・ファレルの顔が嫌いなんだもん。

『ジャーヘッド』 (05)
 取り上げなかった理由は、イラク人が登場しないから(少なくとも生きたイラク人は)かもしれないが、「イラクという地はあってもイラク人が不在」というのは、「パレスチナという地はあってもパレスチナ人は不在」というパレスチナ問題と地続きなのではないだろうか。

『告発のとき』 (07)  『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』 (07)
 前者はイラク戦争、後者はアフガン戦争で、どちらについても「我々(アメリカ人)」の罪を反省してはいるのだが、その反省の内容はあくまで「我々の選択の誤り」であって、「彼ら」に甚大な被害を与えたこと自体には及んでいない。ベトナム戦争の時と一緒である。
『ジャーヘッド』もそうだが、「被害者=他者の不在」というのが、アメリカ人の心性に於ける最大の問題点なのかもしれない。

『ワールド・オブ・ライズ』 (07)
 イギリス人監督(リドリー・スコット)による、アメリカ人をバカにした映画、かもしれない。
 大して成果の上がらない作戦のために、現地民(情報提供者や、まったく無関係な人)を大量に犠牲にするアメリカ情報局。良心の呵責をまったく感じない上司と、いちいち苦悩する現場工作員では、後者のほうがより悪質だろう。
 苦悩するだけなんだもん。しかも良心の呵責というよりは、ゲームでミスをした程度の感覚だし。巻き添えになったのが現地民じゃなくて現地の建造物とかだったとしても、同じくらいの「苦悩」しかしないんじゃないかと。

『君のためなら千回でも』 (07)
 主人公(観客の感情移入の対象)をアフガン人少年にして、しかも英語ではなくダリー語を話させているのに、後半は「文明圏からやってきた主人公がイスラムの狂信者から現地民の子供を救い出す」話になってしまう。
 原作では悪役はタリバンでその上、ドイツ人とのハーフになっていた。『ハリウッド100年のアラブ』によると、「ナチと結託するイスラムの狂信者」は格好の組み合わせとして重宝されたという。
 アフガン難民である原作者は、どういうつもりでこの組み合わせを選択したのだろうか。  

『エージェント・ゾーハン』 (08)
 あくまで「アメリカ人から見たパレスチナ問題」という限界を超えられてはいないが、少なくともイスラエル人もパレスチナ人も「他者」扱いではない。

『ブラック・ブック』 (06)
 ナチ占領下のオランダに於けるレジスタンスが主題だが、苦難を脱したユダヤ人のヒロインに待ち受けているのは中東戦争である、という結末。

『グアンタナモ』 (06)
 イギリス映画。誤認逮捕でグアンタナモ刑務所へ送られ、辛酸を舐めるのは、パキスタン系「イギリス人」青年たちである。

『デイズ・オブ・グローリー』 (07)
“有色人種はいつも死んで初めて「全面的信頼」を勝ち取り、「同等」の人間に格上げしてもらえた。”(『ハリウッド100年のアラブ』225頁)
 この構図をまったく無批判に美談として描いたのが、ハリウッド映画の『グローリー』(南北戦争中の北軍の黒人部隊)。批判的に描いたのが、フランス映画『デイズ・オブ・グローリー』(第二次大戦中のフランス植民地現地人部隊)。

『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』 (03)
 60年代パリに於ける、トルコ人の老店主と孤独なユダヤ人少年の交流。老店主を「東方の賢人」、トルコを「夢のように美しい場所」的に描いているきらいはあるが、その割には結構地に足がついてたりもする。

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 ついでに、中東出身の監督による中東を舞台にした映画の感想にもリンク。

『パラダイス・ナウ』 (05)、 『迷子の警察音楽隊』 (07)、 『カンダハール』 (01)
『ペルセポリス』 (07)
 以上4作品は、多かれ少なかれ「彼ら(欧米人)」の描く「我々(西南アジアのムスリム)」の像を意識した上での、「自画像」と言える。

『ハーフェズ ペルシャの詩』 (08)
 一方、この『ハーフェズ』では、「我々」は「現代的な教育を受けたイランの都会人」で、「彼ら(他者)」は「イランで最も因習的な辺境の現地民」である。
 ヒロインは麻生久美子だが、日本人ではなく「チベット人とイラン人のハーフ」で「イスラム教徒だがイスラムにはあまり詳しくない」という設定。ここで彼女は、異邦人だが悪しき欧米文化には染まっておらず、しかもイスラムに対して無知であるゆえに、イスラムの悪しき部分とも無縁な「無垢なる存在」である。

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参考文献録

『イスラム教史』 世界宗教史叢書5 嶋田襄平 山川出版社 1978 (「イスラム思想」「シーア派」)
 11世紀頃までのイスラム思想(政治・宗教)が4分の3以上を占める。そのうち8世紀以前の、シーア派とアッバース朝革命に関係ある部分から「シーア派」、それ以外から「イスラム思想」としてノートを作る。シーア派とは明確に無関係な思想でも、とりあえずアッバース朝革命に繋がるのんは「シーア派」に入れておく。こういう線引きは厄介だが、分類せんことには収拾がつかないしな。

 8世紀の情勢に関する情報が非常に豊富なのでありがたい。依拠する史料の提示はほとんどないが、まあ概説書だからね。
 今回、私が必要としているのは、「史実」よりもむしろ、「どんなことが語られ、伝えられ、記されてきたのか」ということだ。だから典拠の信憑性は問わないんだけど、そうした「物語」がどういった背景で成立したのかは知りたいから、どういった性質の史料なのかは、最低限でいいから情報が欲しい。

 アラビア文字は、同じ形の字に点を付けて、その位置(上下)や数で区別するんだけど、その点(読み分け点)ができたのは早くとも7世紀末、というのにはちょっとびっくりした。読み分け点がないと、fとq、rとzみたいに2つの字の区別がつかないくらいならまだしも、場合によってはb、t、th、n、yの5つの字の区別がつかなくなるから、文の意味がまったく違ってしまうこともあるわけだ。

 ところで文中、「セクト」とか「自己批判」といった語が出てくるのは、執筆された時代を反映してるのだろうか(1924年生まれの人だが)。

『イランを知るための65章』 岡田恵美子/北原圭一/鈴木珠里・編著 明石書店 2004 (「ペルシア」「イスラム思想」)
 意外にマニアックな情報が載っていて重宝する『○○○を知るための○章』のシリーズ(「使える」情報がない場合もあるが)。一応全部目を通したが、ノートを取ったのは以下の4つの章のみ。

 10章「ダレイオスのことばとシャープールのことば」(吉枝聡子)、30章「古代イランの元祖魔術師?」(岡田明憲)、32章「イヌ派かネコ派か?」(上岡弘二)は「ペルシア」に分類。
 ササン朝以前のペルシア史もゾロアスター教もマニ教も、全部まとめて「ペルシア」に放り込んでおく。
 28章「神に対する愛」(竹下政孝)は「イスラム思想」へ。

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参考文献録

『七王妃物語』 ニザーミー 岡田恵美子・訳 平凡社東洋文庫 1971

 ニザーミーの現存する五作の長編叙事詩のうち、第四作。「結び」で著者が述べるところによると、1197年の作だそうである。
 一般には「ハフト・パイカル(七つの肖像画)」という名で知られるそうで、登場する七人の王妃の肖像画を指す。邦題はこのタイトルの意訳。

 ニザーミーの作品のうち、ほかに邦訳されているのは『ホスローとシーリーン』(第二作)、『ライラとマジュヌーン』(第三作)。この二作は一貫したストーリーが主軸となっているのに対し、本作は枠物語である。『千夜一夜』みたいに、登場人物(たち)が物語を語っていくというあれ。

 本作はペルシア文学史に於いては、ニザーミーの最高傑作ということになってるそうな。どういう基準でそう評価されてんのか知らんが、私の感想では、前二作はおもしろかったが、これはおもんない。
 なんでおもんなかったのか、と数日かけて考える。

『ホスローとシーリーン』は、以前ブログに書いたが、シーリーンをものにしたいが、あくまで「愛妾の一人」として、というホスローと、彼の正式な王妃として、唯一の女として愛されたいシーリーンの延々と続く駆け引きがおもしろさの要であった。
『ライラとマジュヌーン』は、単なる若い男女の悲恋ものではなく神秘主義文学、すなわち「愛する者」の自己意識が「愛される者」と完全に同化し消滅してしまうという「究極の愛」の物語として読むと、なかなかおもしろい(悲恋ものとしては、正直どうでもいい)。

 この二作で共通してるのは、恋愛の駆け引きとか風景の美しさの描写は素晴らしいんだが、戦争とか政治に関する叙事の部分が、むっちゃおざなりという点である。苦手だったのか、或いはフェルドゥスィーという偉大すぎる先達にその分野で張り合おうという気がなかったのか、たぶんその両方だろう。
 そして『七王妃物語』でニザーミーは、そのフェルドゥスィーがすでに『王書』で相当な分量を割いているというササン朝のバハラーム・グール(バハラーム5世、在位420-438。『王書』のササン朝のパートは未訳)を敢えて取り上げて、「彼(フェルドゥスィー)は同から純銀を作ったが、わたしは銀から純金を作り出す」と豪語している。

「銀から純金を作り出す」というのんは具体的には、偉大な英雄王バハラーム・グールを「外枠」にして、メインは彼が寵愛する七人の王妃たちが語る物語、という手法なのであった。

 ストーリーが一貫した長編に比べて、枠物語が単純素朴に思えてしまうのは、私が現代の人間だからだろう。もちろん緻密な構成の枠物語というのんもあり得るし、ものによっては一貫したストーリーの長編よりも高度な技巧を要するだろう。「単純素朴」な枠物語でも、ぐだぐだだらだら続いてるだけの長編よりはおもしろかろう。つまんなかったとしても、読むのに忍耐は少なくて済むな。

 七人の王妃が語った七つの物語は、ニザーミーのオリジナルではなく、既存の説話をアレンジしたものだと思われる。そのせいか、前作にはなかった要素が幾つも見られる。荒唐無稽な展開、人物造型の個性の乏しさ、露骨な性描写、イスラム以前の時代設定であるのにムスリムが登場したりするような時代錯誤、それに黒人とユダヤ人に対する蔑視等である。
 いずれも、いかにも説話的な(『千夜一夜』のような)要素である。荒唐無稽は説話に於いてはプラス要素だから、『七王妃物語』でも変に整合性を付けようとしてないのはいいんだが、問題はニザーミーがそれを意図的にやってるかどうかだ。

 七つの物語と、語り手となるそれぞれの王妃との間には、王妃の居城や衣装などの色(黒、黄、緑、赤、青、白檀色、白)と、物語の登場人物の衣装の色が同じ、という点しか関連がない。内枠となる七つの物語の内容は、外枠となるバハラーム・グールの生涯とはなんの関連もない。そして、内枠の登場人物たちだけでなく、外枠の登場人物たちも、人物造型に個性も一貫性もない。
『ホスローとシーリーン』も『ライラとマジュヌーン』も、少なくとも主要キャラクターたちは個性がある。緻密な構成だけでなく、登場人物のキャラクター性も重視しがちなのは、私が現代の日本人だからなんだろうけど、とにもかくにも、ニザーミーは一貫性のあるストーリーや個性のあるキャラクターを作り上げることができるのは確かである。
『七王妃物語』ではそれらを行っていないのだが、何か意図があってのこととは思えない。つまり、ニザーミーは「一貫性のあるストーリー」や「個性のあるキャラクター」といったものを自分が作ったことを意識していない、少なくとも重視していないのかもしれない。

 また、イスラム以前なのにムスリムが登場する、といったアナクロニズムも、意図してそうしたようには思えないので、やっぱり頓着してないのかもしれない。

 黒人と異教徒(ユダヤ人に限らない)に対する侮蔑と嫌悪は、イスラム古典文芸に通底するもので、遭遇するとかなり不快な気分にさせられる。特に、イスラムの黒人差別はヨーロッパの黒人差別のルーツになってるだけにね。
『七王妃物語』七つの内枠物語は、頑なな姫君の婿探しとか、何度も悪魔に騙される若者とか、たぶん元になった説話はかなりおもしろかったんじゃないかと思われる。説話文学全般で、露骨な蔑視に遭遇しても、不快になり呆れはするが、むかつくほどではない。まあむかついたって仕方ないものだし。『七王妃物語』の原型となった説話が現存してるとしたら、たぶん読んでもむかつきはしないだろう。なのに、『七王妃物語』でむかつくのはなぜだろう。
 
 ま、要するに、ニザーミーによって教訓物語に仕立て上げられて、偉そうな説教をかまされてるのがむかつくんだよな。黒人や異教徒に対する差別はイスラムの歴史に於いて普遍的な価値観だったけど、そうではない価値観も、少数ながら確実に存在していた(『千夜一夜』にすら散見される)。その時代の最も凡庸な価値観から一歩も出ていないくせに何を偉そうに、とむかつくわけだ。

『ホスローとシーリーン』感想

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参考文献録

 ブログを更新してる余裕がなくなってきました。まあ以前から、このブログに書くことといったら、映画の感想と著作の設定集くらいしかなかったわけですが、

  映画: 観てる時間がなくなってきた
  設定集: 書くことはあるけど書いてる時間がなくなってきた

 それ以外のカテゴリーでも、

  お知らせ: しばらくなんの予定もない
  日常: 毎日、調べ物と勉強(英語とアラビア語)しかしてないので、書くことがない

 という有様です。しかし『ミカイールの階梯』の時みたいに、また脱稿まで何ヶ月も更新が滞るのも何か侘しいので、読んだ資料の記録を掲載することにしました。
 去年から、mixiで読書録を公開しています。何を読んだか忘れないために記録する必要があるのですが、生来不精なため、人に見せる前提(実際、どれだけの人が見てくれるかは別問題として)でないと、まともに記録もつけられないからです。
 今後しばらく、読了本のうち資料として読んだものはこちらで公開することにします。マニアックな上にマニアックな内容になるかと思いますが、枯れ木も山の賑わいということで。

 読んだだけでは内容を憶えられないので、必要な情報はノートしています。一冊あたり、メモ程度のこともあれば、数十枚分にもなることも。(「」)内は、ノートの分類名です。ちなみに、次作はSFではありません。

「裏切るクーファ市民――ウマイヤ朝アリー家反乱者のリーダーシップと民衆の政治意識」 清水和裕(『軍事奴隷・官僚・民衆 アッバース朝解体期のイラク社会』  山川出版社 2005) (「シーア派」)
 アッバース朝解体期についての資料は全然必要ないので(必要なのはアッバース朝創立以前)、20頁しかないこの附論のみノートを取る。

「ウマイヤ朝アリー家反乱者」つっても、ウマイヤ朝期に山ほど起きたシーア派の叛乱の中で主に取り上げているのはザイドの乱のみ。どの資料も「蜂起した。失敗した」と言及するだけでスルーしているザイドの乱そのものと、当時のシーア派の動向についての詳しい論述は貴重だし、論旨もわかりやすい。
 しかし、論拠とする史料がどういう性質のものか明確にしていない。でもって、どうやらそのほとんどは伝承らしいんだが、その伝承がどういった背景で成立したのかもあんまり考慮していない気がする。ほかの研究者については、「依拠した史料がアッバース朝寄りのものだから、あまり信用できない」というようなことを述べているのに、自分が依拠する史料の性質については評価基準がいまいち曖昧。

『雷鳴の夜』 ロバート・ファン・ヒューリック 和邇桃子・訳 早川書房 2003(1961)
the haunted monastery
 ディー判事シリーズ。なんでか知らんが、原書と翻訳の刊行順番が違うようである。

 7世紀後半に実在した狄仁傑を主人公にした明代以降の一種の探偵ものを下敷きにした推理小説。オリジナルの古典小説は、唐代の考証などせずに当時(明代以降)にとっての漠然とした「昔」という設定になっているに違いない思われる。で、ファン・ヒューリックもそれを踏まえて舞台設定を行っているようで、そこに描かれた社会はまったく唐代ではない。
 そういう近世中国にとっての漠然とした「昔の中国」としては、かなりそれらしいのではないだろうか。
 いや、「唐代を舞台にした」ミステリ、とか「古代中国」とか紹介されてるのを、どうこう言うつもりはないんだけどね。

 原題のmonasteryは修道院。道観て修道院か。儒教の徒であるディー判事の、道教や仏教に対する嫌悪は、なかなか巧く描けてるんじゃないかと思うが、蝙蝠が「おぞましい生き物」扱いされてるのには首を傾げた。中国では蝙蝠は縁起物なんだが。
 このシリーズを読むのは、あくまで「欧米人の描く過去の中国」に興味があるからだし、そもそも謎解きに興味ないんで、ミステリ全般を読んでる最中も犯人とかトリックとかほとんど気に掛けてないんだが、そんな私にすら早々に犯人が判ってしまうのは、いかがなものかと。あと、ディー判事に風邪を引かせて判断力を低下させ、それによって謎解きを遅らせたり、或いは道に迷ったことで解決の糸口の一つに辿り着けてしまうというのんは、少しくらいならともかく、頼りすぎるのは問題だろう。

 

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副王家の一族

 原作(1894)が1958年の『山猫』の原作(とヴィスコンティの63年の映画)に影響を多大に与えた、という宣伝文句に釣られて観に行く。
 イタリア近代史についてはまったくといっていいほど知識がなく、ガリバルディのことを一応知ってたのも歴史の本を読んだからとかじゃなくて『魔の山』で言及されてたから、という体たらくだが、数ヶ月前に偶々『山猫』を観ていたのである。

『山猫』はたいへんおもしろかったのだが、ブログに感想を書かなかったのは、あそこで描かれていたシチリア貴族が、どれくらい「らしい」のかよくわからなかった、という弱腰な理由からであった。だってバート・ランカスターとアラン・ドロンだし。役者としては非常に見応えがあったが、それと「らしさ」とはまた別かもしらんし。

 で、この『副王家の一族』の感想を一言で言うと、「『山猫』のほうがおもしろかった」。

 時代も場所も同じ(19世紀後半のシチリア)、時代の激変に翻弄されながらも強かに生きる名門貴族の群像劇というのもまったく同じなんだが、最大の違いは、監督の作家性の違いはさておき(原作者同士にも違いがあるかもしらんが未読なので)、どっぷり濃いい愛憎を前面に出すか出さないか、に尽きる。

 バート・ランカスター演じるサリーナ公爵の傲岸さとか、アラン・ドロン演じるタンクレディの節操のなさとか、やろうと思えばいくらでも愛憎ドロドロにできるんだろうけど、数歩引いて淡々と、且つ重厚に描いたのが『山猫』。
 ドロドロというか、ギトギトコテコテな愛憎劇をやりきったのが『副王家の一族』。

 この違いは原作の違いでもあるだろう。20世紀半ば、シチリア貴族が死の直前に書き上げた『山猫』に対し、同時代の野心的なジャーナリスト(当時33歳)による『副王家の一族』。 
 同時代に取材してるということで(しかも作者自身、母親がシチリアの貴族出身)、ほな『副王家の人々』のギトギトコテコテは「リアル」なのかというと、あれは当時の様式がああいうんだったんだと思う。やたら劇的という。

 いや、この原作だけでなく当時のイタリア文学は1個も読んだことないんだが、極端さがいかにも19世紀末の小説っぽいというか、ドストエフスキーのイタリア版というか。悪魔のように傲岸不遜なウゼダ公爵が、息子に反抗されて「奴には悪魔が憑いている」と悪魔祓いに血道を上げるという展開が、どうも唐突で脈絡がないんだが、ドストエフスキー式だと思えば納得できる。てゆうか『イル・トロヴァトーレ』みたいだよなー。
『副王家の人々』はヴェリズモ(現実主義)文学に属するそうだけど、リアリズムというもの、つまり何をもって「リアル」とするかというのも、様式の問題に過ぎないからな。

 まあとにかく『副王家の一族』の邦訳が出てないんでこれ以上は比較のしようがないんだが、『山猫』は自身も貴族出身であるヴィスコンティがおそらく原作者と同じ視点に立って、つまり回想という視点で映画化しているのに対し、『副王家の一族』はロベルト・ファエンツァ監督(1943年生まれ)をはじめとするスタッフたちが、ギトギトコテコテの原作を、一切の解釈を加えることなく真正面からギトギトコテコテに映画化したのだろう、と思う。
 で、このギトギトコテコテというのは、イタリアに於いては時代を越えた普遍性のあるものなんだろう。

 つまり同じ材料を扱っていながら、二つの映画はまったく質が異なるのである。どっちが「格」が上とか下とか、そういうことは言わんでおく。もちろん、『副王家の一族』は思いっきり通俗的なわけだけど、通俗的=格が低い、というわけでは無論ない。
 とりあえず映画『副王家の一族』の、最初から最後まで臆面もなく終始一貫したギトギトコテコテは、それだけで御立派です。後は好みの問題だな。私は食傷してしまいました。それと、あれだけ全力で作っていながら、死んだ人(人はたくさん死ぬ)の目や頚動脈や胸が動いていることをまったく気にしていないところはお国柄なのか。

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『Sync Future』発売

113747_3 『Sync Future』

 早川書房

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 ゆえあって告知が少々遅れましたが、『S‐Fマガジン』創刊50周年記念アートブック『Sync Future』が発売されております。「日本を代表するSF小説25作」を25人のクリエーターがそれぞれ描き下ろしたイラストのほか、各界著名人10名によるインタビューなどもあります。

『Sync Future』紹介ページはこちら

 仁木はデビュー作『グアルディア』を、『アフロサムライ』の岡崎能士氏に描いていただきました。キャラクターは生体甲冑(キャラクターか?)とカルラです。

 また現在、渋谷パルコPART1に於いて、『Sync Future』展を開催、掲載イラストのリトグラフなどの展示を行っています(12月27日日曜まで)。

 詳細はこちら

 会場では展示のほかに限定グッズの販売も行っているそうです。『Sync Future』特装版やTシャツ、リトグラフ、携帯ストラップなどこれらのグッズは、パルコミュージアムショップで通信販売もしているようですね。グッズ一覧
 岡崎氏の『グアルディア』イラストは、Tシャツになっています。

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 アートブック掲載イラストの全体ではなく、部分です。生体甲冑(甲殻型)。どうだ、かっこよかろうフフフフフ。

「体長約二メートル、四肢は人間のそれより遥かに長く、腕は膝のあたりまでくる」「手足には巨大な鉤爪」
「目も鼻も口も存在せず、大きく裂けた口は攻撃と咀嚼のみに使用され、頸部と腰部を吸排気孔の太い管が何本も取り巻く」
「漆黒の装甲は刺状のものがあちこち突き出し、中世の騎士か巨大な甲殻類に見える」
「その姿は畏怖と、ある種の美しさを感じさせる」
 ――等々といった、仁木による甲殻型(ほかには「軟体型」があるのです)生体甲冑の描写に驚くほど忠実で(「畏怖と、ある種の美しさを感じさせる」ところまで!)、且つ岡崎氏以外の何者にも描けないデザインです。

 掲載イラストはカラーなので、より細部まで鮮明です。しかも上の画像は、あくまで全体の部分に過ぎませんからね。

 ところで、甲殻型生体甲冑は『グアルディア』に続く第二作『ラ・イストリア』にも登場するのですが、そこでは上記に加え、「甲虫のよう」「昆虫じみている」、「装甲様の重なりが見て取れる」といった描写も行っています。Tシャツの画像では判りませんが、岡崎氏の描く生体甲冑は明らかに甲殻類っぽいだけでなく昆虫(甲虫)っぽく、「装甲様の重なり」も見て取れます。
 ……『グアルディア』だけじゃなくて『ラ・イストリア』まで読んでいただいた?

 わー、そうだったらどうしよう。わーわーわー。

 という個人的な狼狽はさておき、次にこれほどの大型企画が行われるのは50年後(創刊100周年)?の『Sync Future』です(「原作提供者」の一人に過ぎないので「よろしくお願いします」などとは、おこがましくてよう言いませんが、じゃあほかにどう言うべきなのかわからない……)。

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ラテンアメリカの人とか文学とか1

『グアルディア』『ラ・イストリア』の背景となる史実について。07年6月の記事を加筆修正の上、カテゴリー変更(「諸々」から「HISTORIA」へ)。

 南米独立の英雄シモン・ボリーバルに関する日本語文献で、一番メジャーなのって言ったらガルシア・マルケスの『迷宮の将軍』(新潮社、今年10月に復刊予定)だろうなあ。しかしボリーバルを知る目的でこの作品を読むというのはお薦めできない。
 もちろん、小説だからというのではない。むしろガルシア・マルケス自身が述べているように、史実に囚われすぎて飛躍が一切ない。その一方で、ガルシア・マルケスが抱く「シモン・ボリーバル像」に囚われすぎている。ガルシア・マルケスが自ら創造したキャラクター、『百年の孤独』で32回の反乱を起こすアウレリャーノ大佐をシモン・ボリーバルに(或いは、シモン・ボリーバルをアウレリャーノ大佐に)投影しているのは明らかだ。愛も情熱もなく、ただ惰性で戦い続け、孤独に虚しく死んでいく男。

 それは違うよ、と私は思うのである。確かにボリーバルの晩年は、「私の人生は海を耕すようなものだった」と述懐する、孤独と虚無感に満ちたものだった。だが彼の全人生を眺めれば、決して陰鬱なだけではない。といって、栄光に包まれていたのかというとそうでもなく(何しろ負け戦が多い)、栄光と挫折、希望と絶望、歓喜と悲嘆が表裏一体となった、いわばラテンアメリカを体現したかのような人生だったのだ。
 いや、なんというか、ざっと眺めただけでもツッコミどころ満載な人なのである。熱愛した妻を新婚早々亡くし、その痛手から「二度と結婚しない」という誓いを立て、守り通した……のはいいけど、そこらじゅうの女と浮名を流して、結婚を迫られれば誓いを理由に断り続けたとか、自宅に泊めた友人に自分のハンモックを貸してあげたら、スペイン政府によって買収された召使が間違えてその友人を殺してしまったとか(その間ボリーバルはどこへ行っていたかというと、愛人の家)。或いは、一番関係が長く続いた愛人マヌエラ・サエンスはボリーバルの死後、三匹の犬を飼い、彼の政敵だった三人の名を付けていた、とか。その理由が「そいつらを呼び捨てできるから」。

 ベネスエラで行われているという「シモン・ボリーバル教」については、リサーチ不足で詳しい現状を知ることはできなかったのだが、ともかくベネスエラにおいては現在でもボリーバルは英雄である。チャベス大統領は自らをボリーバルの後継者と見做している。
『グアルディア』の世界では、シモン・ボリーバルは神話上の人物、シンボリックな英雄像である。民衆にとっては信仰の対象であり、多少なりとも旧時代の知識を持つ人々にとってはイデオロギー的な拠り所である。つまり、あらゆる階層の人々にとって、「理想的な支配者」とは「ボリーバルの後継者」にほかならない。

 アンヘルはボリーバルの称号である「解放者」を自称し、後半、コンポステーラに跳梁する匪賊の首領は「ボリーバルの再来」を自称し、ユベールは望まずして「将軍」と呼ばれる。「将軍」とは言うまでもなくボリーバルを指す。「ボリーバルの再来」は、前半でコンポステーラ参詣団の槍騎兵を指揮するアルフォンソ・デ・ヒホン「リャノスの虎」である。
 ボリーバルの第一次共和制を崩壊させたのはカラカスを襲った大地震だが、第二次共和制を崩壊させたのは、リャノスの牧童たちを率いたスペイン人の元密輸商人ホセ・トマス・ボーベスだった。ボーベス(アストゥリアスのヒホン出身)は自らを「リャノスの虎」、短槍で武装した彼の騎兵たちを「地獄連隊」と称した。
『グアルディア』の世界、というか「大災厄」以降の世界では、失われたはずの古い記憶(名前やモチーフ)が、あたかも伏流水が再び地上に現れるように蘇ることがある。

『ラ・イストリア』で二度繰り返される「めくるめく世界el mundo alucinante」というフレーズは、レイナルド・アレナスの長篇小説のタイトルである。
 実在の修道士セルバンド・デ・ミエルの生涯を「マジック・リアリズム的に」描いた作品なんだが、これもまた実人生そのまんまを描いたほうがおもしろかったんじゃないかと思える。巻末のミエルの年譜が、アレナス本人によるものなのか、それとも訳者か誰かが付けたものなのか判らないんだが、これを見るだけでも小説本編以上に波乱万丈な人生である。いったい何回逮捕されて、何回脱獄してるんだ、この人は。

『めくるめく世界』ではほとんど言及されていないが、逮捕の原因となったミエル師の1794年の論文というのが、「アステカの守護神ウィツィロポチトリは母親(処女ではなかったが)が不思議な玉に触れて身籠ったと伝えられる」→「聖トマスはインドへ布教したと伝えられる」→「インドとはアジアのインドではなく、西インドすなわちアメリカ大陸である」→「聖トマスはアメリカ先住民に布教し、ウィツィロポチトリの神話はキリスト生誕の変形である」。
 さらに「ウィツィロポチトリの母は聖母マリアであり、彼女が聖トマスにアメリカへの布教を命じた」→「スペイン人によって再度の布教が行われると、彼女は褐色の聖母グアダルーペとしてメキシコに顕現した」。
 また「神人ケツァルコアトルは白人だったと伝えられる」→「ケツァルコアトルは聖トマスである」

 というわけで「アメリカはスペインによる征服よりずっと前に聖別されていたのだから、スペインから独立すべき」という、よくわからない論理である。ミエル師は辺境の無学な聖職者などではなく、メキシコの支配階級の生まれで、ヨーロッパ式の教育を受けたまっとうな知識人である。この主張にしても、おそらくは本気で信じていたわけではなく、独立の思想的拠り所として捻り出してきたのだろうとは思われる。が、だとしたも何もこんなトンデモ思想を持ち出してくることはないじゃないか、とも思う。
 そしてミエル師の狙いどおり、グアダルーペの聖母はメキシコ独立の象徴となり、1810年、ドロレス村の司祭イダルゴは「メヒコ万歳! グアダルーペの聖母万歳!」と叫び、農民たちを率いてメキシコ独立戦争を開始するのである。

 アルフォンソ・フンコの伝記によると「ミエル師は洗礼の時は赤ん坊に、結婚式では新郎に、葬式では死体になりたがる人物である」。要するに、常に自分が物事の中心にならないと気が済まない人だったらしい。この伝記のタイトルからしてが『とてつもないミエル師』と来た。

『めくるめく世界』には、19世紀初頭、ボリーバルが妻を失った傷心からヨーロッパで遊蕩三昧をしていた(だから、どうしてそうなるんだ……)時に、脱獄して逃亡生活を送っていたミエルと出会い、感化されたというエピソードがある。そのような記録は存在しないんだが、でも二人がヨーロッパにいた時期は重なっているので、もしかしたらニアミスくらいしたんじゃないかと想像するのは楽しい。

「ラテンアメリカの人とか文学とか」2

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ラテンアメリカの人とか文学とか2

『グアルディア』『ラ・イストリア』の背景となる史実について。07年6月の記事を加筆修正の上、カテゴリー変更(「諸々」から「HISTORIA」へ)。

『グアルディア』では「コンポステーラ参詣団」がベネスエラのリャノス地方を遠征するが、これを書く上で参考にしたのは、1817~1820年のリャノスに於けるボリーバルの戦い。1814年にボーベスに率いられて第二次共和制を崩壊させたリャノスの槍騎兵たちが、この時はボリーバルの忠実な配下となってスペイン軍と戦った。

 もう一つ参考にしたのが、バルガス・リョサの『世界終末戦争』――ではなくて、その題材となった19世紀末のカヌードスの反乱。
 当時の優生学には大別して二つの潮流があった。一つは断種法に代表される悲観的・排他的傾向を持つもので、人種や階級別に優劣をつけ、自らを優秀なグループだと見做す者たちが劣ったグループからの「汚染」を懸命に防ぐ、というものでである。
 もう一つは楽観的傾向を持ち、生活環境の改善などで人間の形質も改善可能、とする。

 優生学に於いて中南米、特にブラジルはヨーロッパからは「人種混淆」と「熱帯風土」がもたらす「人間の生物学的退化」の絶好の見本として扱われていた。19世紀末にブラジル辺境で起きたカヌードスの反乱は、まさにブラジルの知識人たちにとってヨーロッパの優生学者たちの正しさを証明するものだった。
 そこで国民の形質改造に取り組むことになるのだが、その方法というのが「優生学の実践とは、公衆衛生の実践にほかならない」。つまり、国民の生活環境を改善するにしても、経済政策など基盤の部分からではなく、清掃やスポーツの奨励、といった小手先の「改善」に留まった。
 また白人移民の大量受け入れも、国民形質の「底上げ」として推し進められた。

『世界終末戦争』には、スコットランド人の自由主義者が登場する。ブラジルの共和制に対するフォーク・カトリシズムの反乱を、自由主義の革命だとこの男が勘違いすることで、実に奇怪で珍妙な捻れが現出するわけだが、加えて彼はガル骨相学に傾倒している。
 バルガス・リョサがわざわざそんな設定をこしらえたのは、理論に基づき人の性格や運命を「判定」する彼をブラジルの農民たちが予言者だと見做す、というけったいな状況を作り出すためではなく、「反乱」がブラジルの社会に与えた影響(当然、優生学思想を含む)を知っていたからだろう。骨相学は、優生学の父親とは言えないまでも伯父くらいの関係にある。

「コンポステーラ参詣団」を率いる伝道師ホセ・ルイス・バスコンセロスは、20世紀前半のメキシコの思想家ホセ・バスコンセロスを元ネタにしている。
 ホセ・バスコンセロスについて最初に知ったのは、メキシコ壁画運動との関連でだ。メキシコの初代文部大臣(1921~24)で運動の創始者である彼は実は新古典主義の人で、つまり構想していたのも「そういうもの」だったと知って(そして、実際に制作された壁画は「ああいうもの」である)、「変な人だなあ」と思ったのが第一印象。で、そこから伝道師ホセ・ルイス・バスコンセロスというキャラクターが、ほとんど一瞬にして生まれた(だから「モデル」ではなく「元ネタ」)。

「宇宙的人種」を知ったのはその後である。
 19世紀末から20世紀初頭の中南米各国の人種観および優生学は、上述のブラジルと概ね同じ状況で、「人種混淆」と「熱帯風土」によって劣悪な状態にある国民の形質を、生活環境(公衆衛生)の改善と白人移民の大量受け入れによって「改善」しようと努力していた。白人の血を引いたムラート(混血)同士が交配を続けていけば、そのうち「純粋な白人」も生み出されるはず、という説を唱える学者もいた。

 そんな中メキシコでは、1882年生まれのホセ・バスコンセロスが、混血を肯定しようと否定しようと、あくまで人種的にも文化的にも白人=ヨーロッパが至上、とされるドグマに強い不満を抱いていた。そして西欧中心主義への批判として、「混血こそ至上」とする論を展開する。それが1925年発表の論文「ラサ・コスミカ La raza cósmica」である。razaはrace人種で、cósmicaはcosmic。「宇宙」のほかに「永遠」「調和」といった意味もあるから、「普遍的人種」とでも訳しておくのが穏当だろう。が、内容のトンデモ振りには「宇宙的人種」のほうが相応しい。
 抄訳だが高橋均氏の「宇宙的人種」(『現代思想臨時増刊 総特集 ラテンアメリカ 増殖するモニュメント』1988)から引用すると、「人類史は今日にいたるまで、四つの支配的な人種の交代を経てきた。最初に黒人種が南方にレムリアと呼ばれる文明を築き、次いで、今日アメリカ原住民と呼ばれる赤い膚の人々がアトランティス文明を築き、次いで黄色人種が中華帝国を築き、そして今日、ヨーロッパから拡大した白人種が世界を牛耳っている。」
「北米人は……白人種の純粋なカーストを保持することを大原則としている。これに比較して、ラテン人は異人種と共感する能力に富み、原住民や黒人と大規模な混血を遂げてきた。この特性を自覚してさらに推進するなら、新大陸において、ラテン人の手によって、地上のすべての人種の血が混ざり合い、第五の人種、宇宙的人種が産み出されることになろう。」

 アングロ人種・文化よりラテン人種・文化を上位に、ヨーロッパよりアングロアメリカよりラテンアメリカを上位に、純血より混血を上位に置くこの主張は、メキシコの国是となり、やがて中南米全土に広がり、中南米は「混血の大陸」となっていく。しかし実際には中南米のどの国でも、白人以外の人種および混血の人々が置かれていた貧困や不平等はほとんど改善されなかった。
 そもそもバスコンセロス自身からしてが、「宇宙的人種」は反ヨーロッパ・反北米の方便でしかなく、自国や他国の混血層の状況や文化に目を向ける気はまったくなかったのである。

 ただ奇妙なことに、方便に過ぎないと自覚していたにもかかわらず、同時に「宇宙的人種」の夢物語を本気で信じていたように思われる。夢物語を信じていたから、現実に目を向けようとしなかったのであろう。
 そしてその夢物語が、中南米全土(植民地時代から有色人種がほとんどいなかったウルグアイとアルゼンチンまでも)を覆い、「混血の大陸」という神話が生まれるのである。

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 前述のように、バスコンセロスはメキシコ壁画運動を立ち上げたが、その際想定していたのはギリシャ・ローマやルネサンスの芸術だった。ところがリベラ、シケイロス、オロスコらが実際に描いたのは「こういう絵」である。

 さぞや不本意だったと思いきや、どうやらバスコンセロスには、これらの絵が自分の望みどおりの古典的な西洋絵画に見えていたらしいのである。まったくもって、どうかしている。

 バスコンセロスのみならず、ボリーバルといいセルバンド・デ・ミエルといい、この「どうかしてる」加減が「ラテンアメリカらしさ」の真髄であろう、と思う。

ラテンアメリカを描く上で参考になった作品(の一部):

カルロス・フエンテス諸作品

サム・ペキンバー諸作品

「エル・マリアッチ」他2作

「フリーダ」 澤井健「LA CALACA」

「サンタ・サングレ」

「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」

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06年2月のメヒコ旅行の記録

「ラテンアメリカの人とか文学とか1」

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メヒコ旅行記0.5

(06年1月末のメキシコ旅行の記録。07年5月の記事を整理)

 物事が順調に運んでいれば、たぶん05年中には『ミカイールの階梯(仮)』は完成していただろう。そうならなかったのには、次のような経緯がある。

  1. Jコレ版『グアルディア』刊行の少し前から、『ミカイール』の準備に取り掛かる。
  2. プロットの段階で行き詰る。
  3. 行き詰ってグルグルしていた05年3月、塩澤編集長からノベライズの仕事を依頼される。しばらくインターバルを置くのもいいかもしれないと思い、引き受ける。
  4. 05年11月いっぱいでノベライズ終了。『ミカイール』のプロットに戻る。
  5. 06年1月下旬、プロット完成。今度はうまくいきそうな感じ。直後、メキシコに行く。
  6. 2月上旬帰国。『ラ・イストリア』に取り掛かる。

 1~4まではともかく5~6の流れが、なんでそうなったのか自分でも理解できません。5でメキシコに行ったのは、『ミカイール』の次に書くつもりだった『ラ・イストリア』の取材および単なる物見遊山である。
 しかしなぜこの時期だったのかというと、8ヶ月余りの重労働から解放されたのと、まとまった金銭が入ったのとで、つまりは判断力が低下していたのだろう。それでも「今から『ミカイール』執筆に入ってしまったら、また半年~1年間はノンストップだから、その前に行っておこう」とか一応は考えていた(と記憶している)。
 それがどうして、そのまま『ラ・イストリア』を書き始めちゃったんだろ。しかもものすごく苦戦した。途中で投げ出してしまったら次(『ミカイール』)には進めないような気がして、キーボードに噛り付くようにして書き続け、11月にいったん脱稿。出来に納得できず、構成から文体から変えて全編書き直し。今年2月に今度こそ完成。

 私はおよそ行動的でも積極的でもない性格だが(むしろその逆だ)、かと言って慎重でもなく、時折、後先考えずに突発的な行動を取ることがある。一応その時はそれなりに考えて行動しているつもりなのだが、後から振り返ると「勢い」でやっているようにしか思えない。
 たぶんメキシコに行ったのも、『ラ・イストリア』を書き始めたのも、「勢い」だったんだろうなあ。ノベライズを引き受けたのだって、いろいろ考えてはいたけど突き詰めて言えば「勢い」だし、遡れば進路を史学科東洋史専攻に決めたのも、8mmで映画を撮ったのも劇団に入ったのも、大学院進学も、某大学の創作講座にもぐったのも、全部そうだ。

 そういうわけで塩澤さんには二度も、発表の当てがなかった作品を拾っていただいたことになる。本当にありがとうございました。もっと予定どおりに順調に行動できる人間になれるよう努力します。

 以上、前置き終わり。『ラ・イストリア』刊行ということで、そのきっかけとなったメキシコ旅行記を書いてみようかと思います。
 旅行プランを立てるに当たり、取材(北部の高原)と観光(バロック教会)のどちらに重点を置くか悩んだが、砂漠の一人旅は安全云々以前に自分の体力が信用できないので、後者に重点を置くことにする。飛行機、ホテル、都市間移動のバスだけ旅行社が手配し、後はフリーというプランを選択。往復に掛かる時間を除いて7日間、行き先は首都のメヒコ市と世界遺産のグアナファト市。まあとりあえず高原だし(だいぶ南だが)、カルラの故郷であるサン・ヘロニモ村はグアナファトから数十キロという設定だ。

 ヒューストンで乗り換え、メヒコ市へ。ベニート・フアレス空港は新しくてきれいである。入国審査で、女性係官が英語で質問する。「日本人か?」「一人旅か?」
 どちらの問いも肯定すると、いきなり警備室へ連れて行かれる。なんの説明もなし。質問もさせてくれない。パスポートを取り上げられ、ここで待つよう言われる。警備室では女性警備員たち(guardia、だよな)がお喋りし、隅のベンチでは小太りのおっさんが鞄を枕に眠っている。女性警備員にExcuse meと声を掛けたが、にべもなくNo ingles(「英語、できない」)と返される。まあいざとなったら旅行社に連絡すればいいやと思い、15分ほど待つ。
 ようやく先ほどの係官が呼びに来る。彼女も女性警備員たちも、隅で微動だにせず眠り続けるおっさんには目もくれない。連れて行かれたのは、事務室と思しき広い部屋だった。制服姿のメキシカンたちが大勢、立ったまま煙草を吸っている。その奥のデスクに、いかつい顔の審査官が座っていた。

 ……と、緊迫してまいりましたところで、続きはまた明日。

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メヒコ旅行記1

前回のあらすじ: 06年1月、仁木稔はメキシコの大地を踏んで15分と経たないうちに、入国審査官に拘束された(飛行機を降りてから入国審査のゲートまで10分以上も掛かったのは、空港内で道に迷ったからである)。一体なんの容疑なのか。仁木の運命や如何に。

 まず、書類を書かされた。一枚の紙に、ローマ字表記で日本語の質問が書いてあり、そこにローマ字で回答を書く、というものである。質問は日本語の挨拶とか住所、生年月日、旅の目的といったもので、日本人かどうかを確認するためらしい。
 しかし、どうやら日本語をまったく知らない人物がフレーズブックか何かを丸写ししたようである。ローマ字表記といってもスペイン語式で、OJAYOGOZAIMASU(おはようございます)とか、OTANYOBIWAITUDESUKA(お誕生日はいつですか)とか。疑問符はスペイン語式に前後ではなく、文末だけに付いていたように思う。
 書き終わって用紙を渡すと、審査官と助手はもう一枚の紙と照らし合わせた。たぶん、答えのマニュアルが書いてあるんだろう。助手はエバ・メンデスをややふっくらさせたような、きつい感じの美人だった。

 続いて、所持金の額を訊かれた。審査官はかなり流暢な英語を話したが、こちらから質問しようとしても、「いいからこちらの質問に答えろ」とぶっきらぼうに言うだけである。現金で幾らTCで幾ら、と答えると、彼は次のように述べた。You bring enough cash.Do you have a credit card?  Noと答えると、Why?と訊く。「失くすと困るから多く持ってきてるんだ」と答えるが、納得してもらえない。
 現金とTCを提出するよう言われる。エバ・メンデス似の助手がそれらを数え、次いで私も数えさせられる。住所、生年月日、旅の目的等を口頭で質問される。私の答えを、審査官は先ほどの用紙と照らし合わせている。

 10畳ほどの広さの部屋は新しく小奇麗だったが、審査官と同じ制服を着た連中が10人前後もたむろしている。審査官と助手を除いて私に注意を払う者はなく、喫煙しながら談笑している。仕事はどうした。
 ふと見ると、審査官は煙草の吸いさしをデスクの端に置いている。あれ?と思って広いデスクを確認したが、灰皿はない。メヒカーノたち(少数だが女性もいた)は助手のお姉ちゃんも含めて全員煙草を吸っているが、やはり室内に灰皿は見当たらない。最後に視線を下げると、真新しいリノリウムの床は案の定、焦げ跡だらけであった。ただし掃除はまめにやっているようで、吸殻や灰はほとんど落ちていない。たぶん建前は禁煙ってことになってるんだろうなあ。

 そうやって周囲を観察する余裕はあったが、緊張はしているのでただでさえ下手な英語がますますぎこちなくなる。審査官が尋ねた。Are you nervous? Yeahと答えると、Why?ときた。ああ、この人絶対に心配してくれてるんじゃないよ、疑ってるんだよ。何を疑ってるんだか知らないけど。
「なぜこんなことになっているのか解らないからだ」と答える。またしても、「おまえは質問に答えればいんだ」と返される。再度、現金とTCを数えさせられる。そして再び、審査官は先刻の言葉を繰り返した。You bring enough cash.Do you have a credit card?
  ここでようやく、私は彼が何を言わんとしているかに気づき、次のように述べた。「私はライターである。日本では大概のライターはクレジットカードを作れない。だから私はenough cashを持ち運んでいるのだ」

 審査官と助手の顔に、納得の表情が同時に浮かんだ。審査官はぞんざいに手を振って言った。OK,go.

 えええええ? そんなんで納得するの? そもそも、なんの容疑だったんだ。助手が現金とTC、パスポートを返してくれる。審査官はすでに私に関心を失っている。長居は無用と、私もさっさとその場から立ち去った。

 この旅行には、オプションで二日めにテオティワカン遺跡とグアダルーペ寺院の日本人ガイド付きコースを付けていたのだが、その日本人ガイドのSさん(メヒコ市在住)にこの件を話すと、「そんなケースは聞いたことがない。なんの容疑か、僕にも解らない」と言っていた。本当に一体なんだったのか、最後まで解らず仕舞いである。
 とりあえず、大して面倒な目に遭ったわけではないので、おもしろい体験ができたと思いつつも、一方では「クレジットカードを作れる身分だったら、こんなことにはならなかったんだろうなあ」とも思うのであった。

 メヒコ旅行記、もう4、5回続く予定です。

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メヒコ旅行記2

 旅行記続き。
 メキシコ到着の翌日、グアダルーペ寺院とテオティワカン遺跡に行った。案内してくれたのは、メヒコ市在住の日本人ガイドのSさん。元バックパッカーだそうで、非常によく日焼けしていて年齢がよく判らないが、まだ三十代だろう。
 職業と旅の目的を訊かれ、珍しく正直に「小説家」「取材兼観光」と答える。そう名乗ったほうが、メキシコについて何かいろいろおもしろい話を聞かせてくれるのではないかと期待したのである。ライターと答えようかとも思ったのだが、「小説家」のほうが広く浅く話を聞けるであろう。「どんな小説を書くんですか」と、当然ながらSさんは社交辞令で尋ねる。

 私は、仁木稔の小説を読んだことのない人に仁木稔の小説の説明をするのが、非常に苦手で嫌いだ。できることなら一生せずに済ませたい。
「SFです」 「はあ」Sさんの反応は鈍い。SFに無関心なのが明らかだ。ますます説明しづらくなる。「……二十三世紀のメキシコの話です」これが限界である。当然ながらSさんの反応は「はあ……?」というものであった。それきり、この話題はお終い。しかしこれ以上、詳しく説明したところで事態が好転するとも思えない。やっぱりライターって言っときゃよかったか、と後悔する。

 『ラ・イストリア』でネタにしているが、グアダルーペ寺院には、聖母マリア自身が奇跡の御技で描いたという「褐色の聖母」の絵が奉られている。「グアダルーペの聖母」だ。西洋画の画法で描かれていて、一説によると16世紀の先住民出身の無名画家の手になるものだそうである。
 実物を前にしながら、Sさんが説明してくれる。「使用されている顔料をNASAが分析したところ、地球上には存在しない物質が見つかったそうです。また、聖母の瞳を顕微鏡で覗くと、奇跡に立ち会った農夫と司祭の姿が映っているそうです」 今度は私が、「はあ……?」と言う番だ。

 続いてテオティワカン遺跡に行ったが、これについては次回。どちらもメヒコ市郊外にあり、車で移動した時間は計2時間ほど。郊外の平野や丘陵地には、同じ規格の小さな家が並ぶ住宅区が幾つもあった。
 Sさんによると、低所得層のために建てた公団なのだそうだ。地方から都市部への人口流入が激しく、政府はそういう人たちに格安で家を提供している。アパートではなく、小さいながらも庭付き一戸建てである。そうすると、住人となった人々は故郷から親戚一同を呼び寄せてしまう。しかもメキシコの法律では増改築中の家には税金が掛からないので、多くの人が常に自宅のどこかを改築中にしておくのだそうである。確かにそういう公団では、ほとんどの家がブロックを積んで新しい部屋や階を増築しつつあった。

 そういった興味深い話題の合間に、Sさんは妙な話を挟むのである。例のマヤの石棺の横向きにすると「宇宙船の操縦者」に見える浮き彫りだとか、メヒコのピラミッド周辺はUFO目撃スポットだとか、あとマヤ・カレンダーの2012年世界終末説にも触れてたな。
 すべて「はあ、そうですか」と流しつつ、私は内心「変な人だなあ」と引いていた。

 それから半年以上経ったある日、私はハタと思い当たった。「もしやあれは、『SF作家に対する気遣い』だったのではあるまいか」 
 早速、最も身近な非SFファンの代表である妹たちに電話し、この件を話してみる。すると奴らは申し合わせたようにこう言った。「うん、気を遣ったんだと思うよ。私も、もしSF作家だっていう人に会ったら、そういう話をするよ」

 頼むからやめてくれ。でも、やっぱりそうなのか。そうだったんだろうな。ああ、それにしても、なんという好意の空回り。
「そういうのが好きなんですか」とか不用意なことを言わなくて本当によかったとは思うが、その場で気づいていたら残りのスケジュールに支障を来すくらい脱力していたと思うので、やはり気づかなくてよかったとも思うのである。……違う、違うんだよ。SFってのはそういうのじゃないんだよ。確かに私はSさんが出したネタを大概知ってたし(グアダルーペのネタは、さすがに初耳だった)、そういうのんがSFに使われることもある。でも、それは「敢えて」使うんであってね……。やっぱり小説家だって名乗るんじゃなかった。

 次からは、もう少し旅行記らしいことを書きますよ。

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メヒコ旅行記3

 テオティワカン遺跡に行く。「死者の道」に沿って太陽と月のピラミッドのほか、小型のピラミッドもたくさん並んでいる。いずれも半ば崩れていたのを、1960年代に復元したものである。テオティワカンの文化では「四」が聖なる数とされていた。それに基づき、ピラミッドも四段構造で復元された。ところが、太陽のピラミッドだけは、微妙に五段になっている。「間違えた」んだそうである。間違えるなよ、そんな重要なこと。しかも間違えたままにしておくなよ。

 付属の博物館にも行く。生贄の人骨が、出土したままの状態で展示されている。これだけ多いと、さすがに薄気味悪い。子供の骨もある。一番引いたのが、人骨で作られた「オブジェ」。地面の上に置かれた頭蓋骨を半円状に数個の下顎骨が取り巻いて並べられている。そういうオブジェが何組もある。下顎骨で「首飾り」を模しているという説明を聞いて、一層気分が悪くなる。
 死とユーモアを結び付けるのはメスティソ(混血)の文化であって、先スペイン文化にそういう感性はなかったそうだが、大真面目でこんなオブジェを作ったのかと思うと、却って怖い。

 先史時代からアステカに至るまで、メキシコ先住民は赤を好んだ。これはもちろん血の色だが、それ以前にメキシコには赤い色の火成岩が多い。まず身近に赤が多くあり、そこから流血を好む文化が生まれたのかもしれない。この火成岩は鮮やかな赤ではないが、くすんだピンクから臙脂色、赤褐色までさまざまな色合いがある(赤褐色が一番多い)。先スペインから近代に至るまで建築物に多用された。
 そして現代のメキシコ人も赤が好きである。飛行機から見下ろしたメヒコ市の建物の大半は、屋根が赤褐色に塗られていた。ビルの屋上まで赤く塗ってある。先住民は征服によって人口が激減したし、その文化も決して連綿と伝えられてきたわけではないのに、その嗜好が現代のメキシコ人にこうして受け継がれているのを目の当たりにして、奇妙な感慨を覚える。

 目当てのバロック教会だが、メヒコ市でもグアナファトでも、残念ながら小野一郎氏が紹介していたような途轍もないバロック(まさしく「ウルトラバロック」)は見ることができなかった。そういうものは、もっと地方へ行かないとないようだ。もちろん私が見たものだけでも、ヨーロッパの教会の基準からすれば途轍もないのだろうけれど、小野氏の著作を繰り返し繰り返し眺め、目に焼き付けていた者としては、少々肩透かしを食った感である。所詮、観光客の身勝手な言い分ではあるが。

 そうした中、最も期待どおりにウルトラバロックだったのは、メヒコ市のソカロ(中央広場)に近いサン・フランシスコ寺院。ガイドブックには載っておらず、偶然見付けた。どの教会にも、像というよりは人形みたいなけばけばしい聖像がたくさん安置してあるわけだが、この教会が一番数が多く、色やポーズが派手だった。メキシコの伝統的な聖像はトウモロコシを芯にした塑像に着色してニスを塗ったものだが、私が見たものはどれもそういう素朴なものではなくて、もっと怪しい素材で作られているように思える。

 グアナファトでは、もう1月も末だというのにどの教会も未だにクリスマスの飾り付けだった。普段はキリストや聖母子といった御本尊が祀られているであろう祭壇は、飼い葉桶に立つ嬰児キリスト、聖母、東方の三博士というクリスマスセットになっている。じきにカルナバルだってのに。グアナファトの教会ではほかに、木製の門扉の浮き彫りに先住民の顔を見付ける。

 メヒコ旅行記、とりあえず後もう2回の予定です。

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メヒコ旅行記4

 今頃気が付いたんだが、ハヤカワ文庫の背表紙(の下の部分)の色って、仁木稔はチョコレート色なんですね。うむ、なかなかいい色だ。でも誰がどの色って、どうやって決めてるんだろか。

 旅行記続き。メキシコ人は英語を話せない。そのことは一応知ってたけど、ものの本には同時に北米文化の影響が非常に強いとも書いてあるから、最低限、単語くらいは通じるだろうと高をくくっていた。甘かった。単語すら通じない。唯一、スムーズに通じる単語は「OK」だけ(これはメキシコ人同士でも普通に会話で使っている)。ガイドブックで「英語が通じる店」と紹介されているレストランでも、従業員はマニュアル英語しか知らないので、ちょっとでもマニュアルから外れた質問には、もうお手上げである。私のスペイン語は片言レベルでしかも実践は初めて、フレーズブックと西和‐和西辞書が頼りという状態だったが、それでも英語よりよっぽど役に立った。それくらい、一般のメキシコ人は英語ができないのである。

 メキシコ人は愛想がいいが、商売熱心ではない。観光スポットを歩いていると、土産物の屋台から声を掛けてくるが、ノ・グラシアスと言えば、嫌な顔もせずに引き下がる。もう一言ペルドンと付け加えれば、「いいよ、気にしなくても」とばかりに笑顔で手を振ってくれる。概してメキシコ人は、こちらが片言でもスペイン語を話すと好感を持ってくれるようだ。グラシアスとペルドンと言えるだけでも、だいぶ違うと思う。と少しは役に立ちそうなことも書いてみました。
 一週間の滞在で、観光客を含め東洋人はまったく見かけなかった。だから私の存在は街中では結構浮いてたと思うんだが、じろじろ見られたりということはなく、非常に気が楽だった。上述のようにしつこい物売りもいない。道が判らなくなって路上で地図を広げていると、英語のできる人が道を教えてくれるということが二度ほどあったが、本当に道を教えてくれるだけで、何も要求してこない。

 それでも道中、二人のメキシコ人男性からbonitaと言われましたよ。一人はメヒコ市のチャプルテペック公園で片言の日本語で話し掛けてきたおっさん。いくらも話さないうちに警備員に追い払われてしまいましたが、たぶんナンパではなくて本当に日本語の練習がしたかったんでしょう。もう一人はグアナファトのホテルの売店で店番をしていた英語が話せるおじいさん。ラテン系の男は本当に挨拶代わりにそういうことを言うんだなあ、と感心しました。

 中米系の美人と言えば、ジェシカ・アルバとかサルマ・ハエックとかエバ・メンデスとか、要するに褐色の肌をした混血タイプを思い浮かべると思うが、メキシコ人にとっては、必ずしもそれが「理想」ではないようだ。メキシコでTVを見たのは夜間だけだったんだが、どのCMにも白人しか登場しない。それも南欧系とも北欧系ともつかない顔立ちに白い肌と明るい色の髪の美男美女ばかりである。番組(ドラマやバラエティ)には、街で見かけるような混血の人たちが出演してたけど。
 だからあれは、ほんとに挨拶で、これまでの人生で容姿を誉められたことはただの一度もない私だが、幼少時に言われた「可愛い」と同様、あれもカウントには入んねーだろうなあと思うのであった。

 という話を後日、英会話教室の教師(アメリカ人男性。メキシコ旅行の経験あり)にしたところ、彼は次のように言った。「いや、彼らは本当にそう思ったんだろう。メキシコの女性は太っているが、あなたは痩せてるから」 わかりやすい解説をありがとう。
 確かにメキシコには太り気味の人が多い。アメリカのように病的に肥満した人は見なかったが。そういう人たちに比べれば、そりゃ私は痩せてるよ。肥満は、明らかに食生活が原因だ。メキシコ人は甘いものが好きである。しかも夜に食べる。夕方以降になると、路上にはケーキや菓子パンの屋台がたくさん出る。夜の9時近くまで外を歩き回っていた日もあったが、そんな時間帯でも菓子の屋台は開いていた。ケーキ屋も開いている。早朝移動の前日、朝食を買おうと思ってコンビニに入ったら、見事に菓子類しか置いていなかった。甘いものが苦手なので、少々難儀しました。
 普通の食事は非常においしかった。メキシコ料理というと辛いイメージがあるかもしれないが、アジア系の辛い料理全般に比べればずっとソフトだったし。

 メキシコのコーヒーは大変おいしい。しかしメキシコ人はネスカフェが好きである。たぶん手軽なのと、日本人がちゃんとしたラーメンもインスタントラーメンも両方好きなのと一緒なんだろう。グアナファトのとある喫茶店(『地球の歩き方』にお洒落な店として紹介されている)に入ったところ、メニューにnescafe y agua(ネスカフェと水)と載っていた。いや、頼まなかったけど。

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メヒコ旅行記最終回

 この旅行ではプランを立てるに当たり、砂漠とバロック教会のどちらを取るか迷った結果、自分の体力が信用できないので砂漠は諦めることにした、と最初に書いた。その判断は間違っていなかった。都市部にしか行かなかったのに、しっかり体調崩しましたよ。到着の翌日、朝食を食べてから5分と経たないうちに、胃がキリキリと痛み始めた。持参の胃薬を飲んでもまったく効かない。どうも、オレンジを食べたのが拙かったようだ。ガイドブックには「生野菜は絶対食べるな」と書いてあったのに、生野菜も生の果物も一緒やという頭がなかった私の不注意である。

 胃痛は丸二日続き、三日めから腸に移動。症状は薬で抑えられたが、じわじわと体力が削られていく。なんていうか、ステータス異常で常時「毒」状態って感じ。後半のグアナファトは山間の町で、とにかく坂ばかりで歩き回るだけでも非常にしんどかった。ディエゴ・リベラの生家も、大きな市場も素通りしてきてしまいました。別にやばい病気とかじゃなくて、帰国してから内科で抗生物質を処方してもらったら、あっさり治りましたけどね。

 さて、ベニート・フアレス空港に到着直後、取り調べとも言えない取り調べを受けた理由は結局謎のままなんだが、帰路、乗り継ぎのヒューストンで推測の手掛かり(のようなもの)を得ることはできた。
 出国手続きの際、偶々同じ列に並んでいたアジア系は、私のほか六十代の日本人女性と私と同年代の中国系女性だけだったんだが、六十代の女性が他の乗客同様、あっさり通過できたのに対して、私と中国系女性だけは非常に念入りにボディチェックを受けた。そこから推測するに、当時、麻薬密輸か何かに関わっていた三十歳前後のアジア系の女がいたのではなかろうか。一人旅で多額の現金(って言ったって、TCと併せても十万円足らずだが)を持ってたってことで、麻薬の買い付けにでも来たと疑われたんじゃなかろうか。
 その割りにあっさり解放されたのは、たぶん全然犯罪者っぽく見えなかったからだろうなあ。

 というわけで大変楽しい旅行でしたが、その成果が『ラ・イストリア』に反映されているかというと、まあそれなりに、いろいろと。

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2009年度佐藤亜紀明治大学特別講義第4回

 まず、これまでの講義でも幾度か提示された、ゴヤの「五月二日」と「五月三日」。1814年、二枚一組として描かれたものである。

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 両作品の構図上の違いは、ダイナミズムの有無、言い換えれば高さの有無である。「二日」は、馬に乗った人物と乗っていない人物とを配することで、画面に高低を作り出している。

754px1  この手法を多用したのがドラクロワで、端的な例がこの1827年の作品。えーと、日本語タイトルが判らないんだが、英語タイトルは"combat of the giaour and pasha"(異教徒とパシャの戦闘)。這い蹲る人物によって、馬の高さが殊更強調されているが、実際、騎乗した人間は高いのである。ちょうど肩車したくらいの高さ。

「五月二日」は、ドラクロワに比べれば高さはそれほど強調されていない。そして「三日」に至っては、まったく平坦な構図である。つまり、ダイナミズムというものが削ぎ落とされている。

 暴力をどのように捉えるのか。それによって、暴力を描く上で何が変わってくるのか。
 ゴヤが描いたのは政治的な暴力だが、ドラクロワは絵も本人もマッチョである。彼は実際に北アフリカに赴いているのだが、かの地に「ヨーロッパではすでに失われた男性性の極致」を見出した。
 そうして馬上(高い場所)で行われる総合的な暴力という形で、暴力の最も「高貴なもの」を捉えようとした。

 ヨーロッパの日常では、暴力はまったく高貴でないことを、ドラクロワはよく知っていた。暴力を高貴なものとして描くには、舞台をヨーロッパであっては駄目で、そして北アフリカに「失われた高貴な暴力」を見出したのである。

Eugc3a8ne_delacroix__la_libertc3a9_ 「民衆を導く自由の女神」(1830)。革命を、暴力として表現する。「暴力を導く女神」が最も高い位置に配されている。

「秩序を作り出し、維持する」ものとして機能する暴力は、「ハリウッド的暴力」である(実際にはハリウッド映画にもいろいろあるのだが、ここでは敢えて解り易い喩えとして)。我々も楽しむことのできる暴力である。
 このような暴力の表現は、その先にあるものに直面したことがない者の表現である。

 ゴヤ的な暴力は、秩序を作り出しもしなければ維持もしない。無意味なものである。現実に暴力をいきなり向けられた時、それがドラクロワ的な暴力(有意義な暴力)だとは誰も思わない。まず感じることは、「起こってはならないことが起こった」であるはずだ。起こった瞬間には、それは完全なカオスである。いったい何が起きたのか(例えば馬鹿なガキに財布を強奪された等)判断するのは、後付けになる。

774pxfrancisco_de_goya_y_lucientes_  再び、「五月三日」。銃殺する者たちの顔は、こちらからは見えない。帽子を被って顔を伏せているので、殺される者たちからも見えていない。
「銃殺」を描いた絵画は、おそらくこれが最初で、そして以後の「銃殺の絵」はこの構図が定番となる。

Manet_maximilian00  半世紀余り後に描かれた、マネの「マクシミリアンの銃殺」(1867)。「五月三日」の影響の下に、というか構図を借用して描かれている。塀の上の見物人たちも、「黒い絵」からの借用らしい。構図だけでなく、ざっくりした描き方も似ている。

 ゴヤ自身が目撃した光景を描いた「五月二日」に比べ、マネはメキシコ皇帝マクシミリアンの銃殺(同年の1867年)をもちろん目撃しておらず、いくらゴヤの時代よりも銃の反動は弱くなってるにしたって、その足の構えはないんじゃないの、という代物だが、違いはそうした表面的なものだけではない。
 決定的な違いは、「不穏な暴力性」が削ぎ落とされていることである。銃殺する兵士たちの顔が見えていないのは同じだが、指揮官の顔は見えている。
 ゴヤが殺す側の顔を描かなかったのは、殺される側にしてみれば、相手が誰であろうと同じことだからである。マネは、そうした暴力の本質を無視している(おそらく理解していない)。

 マネがやったのは、ゴヤの表現から内実を抜いて、「平面的な表現」を確立させたことである。スタイルだけ真似たわけだ。

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 左から「バルコニーのマハたち」(1808-1812)、マネの「バルコニー」(1869頃)、ドラクロワの「サルダナバロスの死」(1827)。

 マネが再びゴヤから構図を借用しているのは言うまでもないが、もう一つ借用しているものがあって、それは「サルダナバロス」にも見られる「ダンディズム」である。
 どういうダンディズムかといえば、「手許にいい女を置いといて、かつそれに無関心」というもの。

Re09  それをより解り易く描くと、ルノワールの「桟敷席」(1869頃)になる(同席する綺麗な女には目もくれないでオペラグラスで他所を眺めている)。

 ゴヤの「マハたち」に背を向けた黒衣の男にも、ドラクロワのサルダナバロスにも、どっぷりと濃いいダンディズムが立ち込めているわけだが、マネはそこから「濃さ」を取り除いたものを、「おしゃれ」に成立させているのである。
 マネの「功績」は、ゴヤ的なものにせよドラクロワ的なものにせよ、内実のない形式だけを継承し、形式だけを表現として確立させた、ということ。

 マネがゴヤから形式だけを模した時、抜け落ちたのは何なのか。
「五月三日」と『ユナイテッド93』との共通点は、高さが均等であること。つまり殺す側と殺される側の両者を同じ「低さ」で描いている。
 えーと、私は『ユナイテッド93』は未見なのだけど、「同じ低さ」というのはもちろん画面上の構図のことではない。飛行機の操縦などできもしないのに操縦棹を握るテロリストも、阻止するために扉をぶち破ろうとする乗客たちも、どちらも必死で、神に祈っている。どちらの神も同じ「唯一絶対神」である。立ち位置が均等だということ。
 ゲリラと民間人の区別がつかない状況では、必ず凄惨な殺し合いが起きる。ゴヤの連作「戦争の悲惨」は、基本的にフランス軍の暴虐を描いたものだが、幾つかはスペイン人の報復も描いている。どちらも同じくらい残虐である。

 ゴヤ的な経験を一口で言うと、「他者である世界」を見てしまった、ということ。それを表現する時、ヨーロッパ美術の方法論、すなわち人間を「リアルに」(立体的に)描く手法では不可能であり、だから「五月三日」の人物はあんなに平坦に描かれているのである。
 描かれているのは、一方の他方に対する暴力だが、暴力を振るう側を非難するのでも正当化するのでもない。フランス兵から軍服を剥いでしまえば、殺される側と区別がつかなくなる。人物の平坦さは、そうした「均等さ」の表現でもある。

 そのように描かなければ到底表現することができなかったゴヤの体験をきれいに抜き去って、平坦さだけを表面的に模したのがマネなのである。

 他者というのは、何を考えているのかわからない、次の瞬間何をするのかわからない、ルールというものをまったく共有していない、本質的に不気味な存在である。そして世界そのものも、次の瞬間何が起こるかわからない、これまでずっと平穏だったからといって、これからも平穏である保障などまったくない以上、やはり「他者」である。
 しかし「次の瞬間何が起こるかわからない」などと常に意識し続けていては、まともな生活など到底送れなくなってしまうから、我々はそのことから目を背けている。
 他人にそのようなことが起こっても、「これこれこういう理由で、あんなことが起こったのだ」という物語を被せて、世界の他者性そのものは見なかったことにしている。

 9.11当時、あれに被せることのできる物語はなかった。そして大勢が口をそろえて言った言葉が、「リアルじゃない」。つまり「リアリズム」とは、他者を物語的に回収する行為である。

「五月三日」は、巧い絵でも美しい絵でもない。ということは、絵画として駄目だということである。
 絵として良いとか悪いとかいうのは、安定した価値観である。ただし、その「安定した価値観」、審美眼を獲得するだけでも結構大変なことではある。薄皮一枚という限定された場の上で共有される価値観という約束事によって描かれた絵であっても、鑑賞者にとって「他者」であることは変わらない。そうした作品をきちんと「見る」ということが、一生かかってもできない人のほうが多い。

 世界の異様さは、小さな水の一滴の中にも見出すことはできる。だがその表現は惰性になってはいないか――という問題提起が為されたところで、今年度講義あと一回を残して今回は終了。

2009年度講義第3回

特別講義INDEX

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