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ラテンアメリカの人とか文学とか1

『グアルディア』『ラ・イストリア』の背景となる史実について。07年6月の記事を加筆修正の上、カテゴリー変更(「諸々」から「HISTORIA」へ)。

 南米独立の英雄シモン・ボリーバルに関する日本語文献で、一番メジャーなのって言ったらガルシア・マルケスの『迷宮の将軍』(新潮社、今年10月に復刊予定)だろうなあ。しかしボリーバルを知る目的でこの作品を読むというのはお薦めできない。
 もちろん、小説だからというのではない。むしろガルシア・マルケス自身が述べているように、史実に囚われすぎて飛躍が一切ない。その一方で、ガルシア・マルケスが抱く「シモン・ボリーバル像」に囚われすぎている。ガルシア・マルケスが自ら創造したキャラクター、『百年の孤独』で32回の反乱を起こすアウレリャーノ大佐をシモン・ボリーバルに(或いは、シモン・ボリーバルをアウレリャーノ大佐に)投影しているのは明らかだ。愛も情熱もなく、ただ惰性で戦い続け、孤独に虚しく死んでいく男。

 それは違うよ、と私は思うのである。確かにボリーバルの晩年は、「私の人生は海を耕すようなものだった」と述懐する、孤独と虚無感に満ちたものだった。だが彼の全人生を眺めれば、決して陰鬱なだけではない。といって、栄光に包まれていたのかというとそうでもなく(何しろ負け戦が多い)、栄光と挫折、希望と絶望、歓喜と悲嘆が表裏一体となった、いわばラテンアメリカを体現したかのような人生だったのだ。
 いや、なんというか、ざっと眺めただけでもツッコミどころ満載な人なのである。熱愛した妻を新婚早々亡くし、その痛手から「二度と結婚しない」という誓いを立て、守り通した……のはいいけど、そこらじゅうの女と浮名を流して、結婚を迫られれば誓いを理由に断り続けたとか、自宅に泊めた友人に自分のハンモックを貸してあげたら、スペイン政府によって買収された召使が間違えてその友人を殺してしまったとか(その間ボリーバルはどこへ行っていたかというと、愛人の家)。或いは、一番関係が長く続いた愛人マヌエラ・サエンスはボリーバルの死後、三匹の犬を飼い、彼の政敵だった三人の名を付けていた、とか。その理由が「そいつらを呼び捨てできるから」。

 ベネスエラで行われているという「シモン・ボリーバル教」については、リサーチ不足で詳しい現状を知ることはできなかったのだが、ともかくベネスエラにおいては現在でもボリーバルは英雄である。チャベス大統領は自らをボリーバルの後継者と見做している。
『グアルディア』の世界では、シモン・ボリーバルは神話上の人物、シンボリックな英雄像である。民衆にとっては信仰の対象であり、多少なりとも旧時代の知識を持つ人々にとってはイデオロギー的な拠り所である。つまり、あらゆる階層の人々にとって、「理想的な支配者」とは「ボリーバルの後継者」にほかならない。

 アンヘルはボリーバルの称号である「解放者」を自称し、後半、コンポステーラに跳梁する匪賊の首領は「ボリーバルの再来」を自称し、ユベールは望まずして「将軍」と呼ばれる。「将軍」とは言うまでもなくボリーバルを指す。「ボリーバルの再来」は、前半でコンポステーラ参詣団の槍騎兵を指揮するアルフォンソ・デ・ヒホン「リャノスの虎」である。
 ボリーバルの第一次共和制を崩壊させたのはカラカスを襲った大地震だが、第二次共和制を崩壊させたのは、リャノスの牧童たちを率いたスペイン人の元密輸商人ホセ・トマス・ボーベスだった。ボーベス(アストゥリアスのヒホン出身)は自らを「リャノスの虎」、短槍で武装した彼の騎兵たちを「地獄連隊」と称した。
『グアルディア』の世界、というか「大災厄」以降の世界では、失われたはずの古い記憶(名前やモチーフ)が、あたかも伏流水が再び地上に現れるように蘇ることがある。

『ラ・イストリア』で二度繰り返される「めくるめく世界el mundo alucinante」というフレーズは、レイナルド・アレナスの長篇小説のタイトルである。
 実在の修道士セルバンド・デ・ミエルの生涯を「マジック・リアリズム的に」描いた作品なんだが、これもまた実人生そのまんまを描いたほうがおもしろかったんじゃないかと思える。巻末のミエルの年譜が、アレナス本人によるものなのか、それとも訳者か誰かが付けたものなのか判らないんだが、これを見るだけでも小説本編以上に波乱万丈な人生である。いったい何回逮捕されて、何回脱獄してるんだ、この人は。

『めくるめく世界』ではほとんど言及されていないが、逮捕の原因となったミエル師の1794年の論文というのが、「アステカの守護神ウィツィロポチトリは母親(処女ではなかったが)が不思議な玉に触れて身籠ったと伝えられる」→「聖トマスはインドへ布教したと伝えられる」→「インドとはアジアのインドではなく、西インドすなわちアメリカ大陸である」→「聖トマスはアメリカ先住民に布教し、ウィツィロポチトリの神話はキリスト生誕の変形である」。
 さらに「ウィツィロポチトリの母は聖母マリアであり、彼女が聖トマスにアメリカへの布教を命じた」→「スペイン人によって再度の布教が行われると、彼女は褐色の聖母グアダルーペとしてメキシコに顕現した」。
 また「神人ケツァルコアトルは白人だったと伝えられる」→「ケツァルコアトルは聖トマスである」

 というわけで「アメリカはスペインによる征服よりずっと前に聖別されていたのだから、スペインから独立すべき」という、よくわからない論理である。ミエル師は辺境の無学な聖職者などではなく、メキシコの支配階級の生まれで、ヨーロッパ式の教育を受けたまっとうな知識人である。この主張にしても、おそらくは本気で信じていたわけではなく、独立の思想的拠り所として捻り出してきたのだろうとは思われる。が、だとしたも何もこんなトンデモ思想を持ち出してくることはないじゃないか、とも思う。
 そしてミエル師の狙いどおり、グアダルーペの聖母はメキシコ独立の象徴となり、1810年、ドロレス村の司祭イダルゴは「メヒコ万歳! グアダルーペの聖母万歳!」と叫び、農民たちを率いてメキシコ独立戦争を開始するのである。

 アルフォンソ・フンコの伝記によると「ミエル師は洗礼の時は赤ん坊に、結婚式では新郎に、葬式では死体になりたがる人物である」。要するに、常に自分が物事の中心にならないと気が済まない人だったらしい。この伝記のタイトルからしてが『とてつもないミエル師』と来た。

『めくるめく世界』には、19世紀初頭、ボリーバルが妻を失った傷心からヨーロッパで遊蕩三昧をしていた(だから、どうしてそうなるんだ……)時に、脱獄して逃亡生活を送っていたミエルと出会い、感化されたというエピソードがある。そのような記録は存在しないんだが、でも二人がヨーロッパにいた時期は重なっているので、もしかしたらニアミスくらいしたんじゃないかと想像するのは楽しい。

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