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参考文献録

『七王妃物語』 ニザーミー 岡田恵美子・訳 平凡社東洋文庫 1971

 ニザーミーの現存する五作の長編叙事詩のうち、第四作。「結び」で著者が述べるところによると、1197年の作だそうである。
 一般には「ハフト・パイカル(七つの肖像画)」という名で知られるそうで、登場する七人の王妃の肖像画を指す。邦題はこのタイトルの意訳。

 ニザーミーの作品のうち、ほかに邦訳されているのは『ホスローとシーリーン』(第二作)、『ライラとマジュヌーン』(第三作)。この二作は一貫したストーリーが主軸となっているのに対し、本作は枠物語である。『千夜一夜』みたいに、登場人物(たち)が物語を語っていくというあれ。

 本作はペルシア文学史に於いては、ニザーミーの最高傑作ということになってるそうな。どういう基準でそう評価されてんのか知らんが、私の感想では、前二作はおもしろかったが、これはおもんない。
 なんでおもんなかったのか、と数日かけて考える。

『ホスローとシーリーン』は、以前ブログに書いたが、シーリーンをものにしたいが、あくまで「愛妾の一人」として、というホスローと、彼の正式な王妃として、唯一の女として愛されたいシーリーンの延々と続く駆け引きがおもしろさの要であった。
『ライラとマジュヌーン』は、単なる若い男女の悲恋ものではなく神秘主義文学、すなわち「愛する者」の自己意識が「愛される者」と完全に同化し消滅してしまうという「究極の愛」の物語として読むと、なかなかおもしろい(悲恋ものとしては、正直どうでもいい)。

 この二作で共通してるのは、恋愛の駆け引きとか風景の美しさの描写は素晴らしいんだが、戦争とか政治に関する叙事の部分が、むっちゃおざなりという点である。苦手だったのか、或いはフェルドゥスィーという偉大すぎる先達にその分野で張り合おうという気がなかったのか、たぶんその両方だろう。
 そして『七王妃物語』でニザーミーは、そのフェルドゥスィーがすでに『王書』で相当な分量を割いているというササン朝のバハラーム・グール(バハラーム5世、在位420-438。『王書』のササン朝のパートは未訳)を敢えて取り上げて、「彼(フェルドゥスィー)は同から純銀を作ったが、わたしは銀から純金を作り出す」と豪語している。

「銀から純金を作り出す」というのんは具体的には、偉大な英雄王バハラーム・グールを「外枠」にして、メインは彼が寵愛する七人の王妃たちが語る物語、という手法なのであった。

 ストーリーが一貫した長編に比べて、枠物語が単純素朴に思えてしまうのは、私が現代の人間だからだろう。もちろん緻密な構成の枠物語というのんもあり得るし、ものによっては一貫したストーリーの長編よりも高度な技巧を要するだろう。「単純素朴」な枠物語でも、ぐだぐだだらだら続いてるだけの長編よりはおもしろかろう。つまんなかったとしても、読むのに忍耐は少なくて済むな。

 七人の王妃が語った七つの物語は、ニザーミーのオリジナルではなく、既存の説話をアレンジしたものだと思われる。そのせいか、前作にはなかった要素が幾つも見られる。荒唐無稽な展開、人物造型の個性の乏しさ、露骨な性描写、イスラム以前の時代設定であるのにムスリムが登場したりするような時代錯誤、それに黒人とユダヤ人に対する蔑視等である。
 いずれも、いかにも説話的な(『千夜一夜』のような)要素である。荒唐無稽は説話に於いてはプラス要素だから、『七王妃物語』でも変に整合性を付けようとしてないのはいいんだが、問題はニザーミーがそれを意図的にやってるかどうかだ。

 七つの物語と、語り手となるそれぞれの王妃との間には、王妃の居城や衣装などの色(黒、黄、緑、赤、青、白檀色、白)と、物語の登場人物の衣装の色が同じ、という点しか関連がない。内枠となる七つの物語の内容は、外枠となるバハラーム・グールの生涯とはなんの関連もない。そして、内枠の登場人物たちだけでなく、外枠の登場人物たちも、人物造型に個性も一貫性もない。
『ホスローとシーリーン』も『ライラとマジュヌーン』も、少なくとも主要キャラクターたちは個性がある。緻密な構成だけでなく、登場人物のキャラクター性も重視しがちなのは、私が現代の日本人だからなんだろうけど、とにもかくにも、ニザーミーは一貫性のあるストーリーや個性のあるキャラクターを作り上げることができるのは確かである。
『七王妃物語』ではそれらを行っていないのだが、何か意図があってのこととは思えない。つまり、ニザーミーは「一貫性のあるストーリー」や「個性のあるキャラクター」といったものを自分が作ったことを意識していない、少なくとも重視していないのかもしれない。

 また、イスラム以前なのにムスリムが登場する、といったアナクロニズムも、意図してそうしたようには思えないので、やっぱり頓着してないのかもしれない。

 黒人と異教徒(ユダヤ人に限らない)に対する侮蔑と嫌悪は、イスラム古典文芸に通底するもので、遭遇するとかなり不快な気分にさせられる。特に、イスラムの黒人差別はヨーロッパの黒人差別のルーツになってるだけにね。
『七王妃物語』七つの内枠物語は、頑なな姫君の婿探しとか、何度も悪魔に騙される若者とか、たぶん元になった説話はかなりおもしろかったんじゃないかと思われる。説話文学全般で、露骨な蔑視に遭遇しても、不快になり呆れはするが、むかつくほどではない。まあむかついたって仕方ないものだし。『七王妃物語』の原型となった説話が現存してるとしたら、たぶん読んでもむかつきはしないだろう。なのに、『七王妃物語』でむかつくのはなぜだろう。
 
 ま、要するに、ニザーミーによって教訓物語に仕立て上げられて、偉そうな説教をかまされてるのがむかつくんだよな。黒人や異教徒に対する差別はイスラムの歴史に於いて普遍的な価値観だったけど、そうではない価値観も、少数ながら確実に存在していた(『千夜一夜』にすら散見される)。その時代の最も凡庸な価値観から一歩も出ていないくせに何を偉そうに、とむかつくわけだ。

『ホスローとシーリーン』感想

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