« 参考文献録 | トップページ | 参考文献録 »

参考文献録

『ハリウッド100年のアラブ――魔法のランプからテロリストまで』 村上由美子 朝日新聞社 2007 (「オリエンタリズム」)

 再読。『オリエンタリズム』を再読する前に、軽いこっちも読み返しとこう思って。第1章「聖書世界とアラブ/イスラム」から、サロメとヘロデについてちょびっとメモ。

 各章、テーマ別に「広義のハリウッド映画」(アメリカ制作でない作品含む)を取り上げ、論じている。

  1. 「聖書もの」:『十戒』(23、56)、『プリンス・オブ・エジプト』(98)『サロメ』(23)など
  2. 「アラビアン・ナイトもの」:『バグダッドの盗賊』(24、40、78)、『アラジン』(92)など
  3. 「十字軍もの」:『十字軍』(35)、『エル・シド』(61)、『ロビン・フッド』(91)など
  4. 『アラビアのロレンス』(62)と『ロレンス1918』(90)
  5. 「シークもの」:『シーク』(21)、『風とライオン』(75)、『シェルダリング・スカイ』(90)など
  6. 植民地のアラブ人~イスラエル建国:『カーツーム』(66)、『栄光への脱出』(60)など
  7. 「テロリスト・陰謀もの」:『ミュンヘン』(05)、『ブラック・サンデー』(75)など
  8. 湾岸戦争~9.11:『スリー・キングス』(99)、『シリアナ』(05)、『ユナイテッド93』(06)など

「オリエンタリズム」は、西南アジア(アラブ、ペルシア、トルコ、北アフリカ)だけに絞っても、遡ろうと思えばそれこそヘロドトスやアイスキュロスまで遡っちゃえるから、どっかで区切らなきゃならんわけだけだ。その区切り(どこまで遡るか)の付け方が不徹底なんだよねー。
「聖書もの」のルーツはフローベールの『聖アントワーヌの誘惑』やワイルドの『サロメ』まで、「アラビアン・ナイトもの」のルーツはガラン~バートンに至る『アラビアン・ナイト』翻訳まで遡ってるのに、『シーク』に始まる「虜囚もの」のルーツはアメリカ開拓時代の「野蛮なインディアン」に誘拐された女性の体験記にまでしか遡ってない。半端だなあ。

「広義のハリウッド映画」のオリエンタリズム、というだけでもそれこそ無数だろうから、全部を取り上げられないのは当然だ。しかし、論旨からいって、「これは取り上げるべきだろう」というのんが幾つも落ちている。『バベル』(06年10月公開)は間に合わなかったかもしらんが(同年8月公開の『ワールド・トレード・センター』は取り上げられてたが)。

 せっかくなので、西南アジア(地域、人)を扱っているアメリカおよびヨーロッパ映画で、本書で取り上げられていなかったものを思いつく限り列挙してみる(時間的余裕がなかったんとちゃうんか)。
「アラブ人/イスラム教徒テロリスト」が登場するだけ、というのは除く。思い出しきれないから。
 一応ネタバレ注意。

『ジーザス・クライスト・スーパースター』 (73)
 イスラエルロケ、衣装もそれっぽい。それでいてキリストが金髪白皙(碧眼だったかどうかは憶えてない)、ユダが黒人、マグダラのマリアが東洋人、という配役は音楽と同じくミスマッチを狙ったのだろうが、ユダヤ/中東的な風貌の俳優がすっぱりと除外されている点は、逆説的にオリエンタリズムかもしれない。

『クルセイダー』 (01)
 TVドラマ。十字軍によるユダヤ人虐殺(本書でも言及されている)や、エルサレムでのキリスト教徒・ムスリム・ユダヤ教徒の共存を描いているし、戦闘シーンもずいぶん頑張っている。でも、全体としてはあんまりおもしろくない。

『オーシャン・オブ・ファイヤー』 (05)
 これは取り上げるべきだっただろう。ヴィゴ・モーテンセンが当時、イラク戦争反対の筆頭の一人だったこともあって、「リベラルな配慮」に腐心した作品、という面がかなり話題になった作品である。アメリカ人にとっては「アラブ排除」と地続きである「インディアン排除」も扱っているし。
 そういう努力と、ディズニー側の「アドベンチャーものにしたい」努力がせめぎ合った結果、出来上がったのはなんとも中途半端な代物であった。アラブ人の描き方も、結局ステレオタイプだしね。
「自由に憧れるイスラム教徒女性」のヒロインが白人の主人公の導きで……というのんも、いかにも「ハリウッド的」だ。とはいえ、ヒロインと主人公は恋に落ちるわけではないし、最終的に彼女が到達するのも「以前よりは自分の意思を通すために努力する」という、ごく控えめな境地だというのは、評価すべきである。
 ステレオタイプといえば、流砂に沈みかけたアラブ人が、救出しようとする主人公に対し「自分はこういう運命だったのだから構うな」と言うんだが(そして主人公に叱咤され、救出されるんだが)、この「不幸に遭うと、すべては神の意志だと諦め、努力を放棄する」ムスリム像というのは、ガートルード・ベル(アラビアのロレンスと同時代の情報員)の『ペルシアの情景』でも語られていた。予定説はイスラム神学の主流だけど、一般民衆にはどれくらい浸透してたものなんだろうなあ。
 マスタングとオマー・シャリフが大層可愛いので、一見の価値はあり。

『レジョネア』 (98)
 ジャン・クロード・ヴァン・ダム主演。1925年、モロッコの外人部隊が砂漠の砦で反乱軍に囲まれて孤立し、全滅するまでの死闘。ヴァン・ダムは元ボクサーという設定ながら、素手でも銃でも超人的なアクションは封印し、また制作・脚本にも関わっていることから、新境地を拓きたかったのではないかと思う。そうだとしたら、失敗で終わってるんだが(そして、『その男、ヴァン・ダム』へと続く……)。
 脚本や演出、映像はそれほど悪くないと思うんだ。黒人兵が、「おまえなら現地人に見える」と送り出されるが、あっさりバレて殺されるところなど、「白人が現地民に成りすます」お約束に対する皮肉だろう。場合によったらかなりの佳作になってたかもしれん。
 最大の問題は、こういう救いのない重い話を引っ張っていけるだけの力量がヴァン・ダムになかったこと、そしてその代わりとなるような見所が何もなかったこと、だな。
 反乱軍は、どちらかというと「見えない敵」という描き方で、ことさら「アラブ/イスラム」を強調してはいなかったと記憶している。

『ロード・オブ・ザ・リング』 (01~03)
 特に二作目以降、「邪悪な異民族」の人種・文化がオリエント風にされてるのもあって、「正義vs悪」の戦いは「テロとの戦い」の解り易すぎるアナロジーなのではないか、という批判がかなり出た。
 制作側にどういう意図があったにせよ、ファンタジーやSFでは「正義vs悪」という構図や、「異文化」に欧米人にとっての現実の異文化を当て嵌めるのは、非常にありきたりである(いや、ファンタジーやSFにもいろいろあるんだが、ここは一般論で)。だから、上記の批判は単なる絡みと言えないこともないが、だからこそ、「正義vs悪」や「異文化」の取り扱いには慎重さが必要、ということだろう。  それに、「正義vs悪」の構図に「テロとの戦い」を当て嵌めて、無邪気に感動してたアメリカの観客は実際にいたしね。少なくともサム役のショーン・アスティンはそうだった。

『ビッグ・リボウスキ』 (98)
 いや、「サダム・フセインそっくりさん」が登場する映画として『ホット・ショット』(91)が取り上げられてたから。せやったら、これにも登場しとったで、というだけ。

『ブラヴォー・ツー・ゼロ』 (98)
 湾岸戦争中、イラクに潜入したSAS(英国陸軍特殊空挺部隊)隊員が、イラク兵に捕らえられ、数ヶ月にわたって監禁、拷問を受ける。元SAS隊員アンディ・マクナブの体験記の映画化。
 約1時間半のうち3分の2くらいが、主人公のショーン・ビーンの拷問シーンが占めるのであった。現在の彼で想像してはいけません。まだ30代です。しかもウェイトをかなり落としているので、『カラヴァッジオ』の頃に近い感じである。
 なんだか、SM映画を延々と見せられているような、妙にいたたまれない気分になってしまったのであった。
 いや、金髪で面長というショーン・ビーンの風貌も相俟って、『アラビアのロレンス』の「カラチの鞭打ち」シーンの拡大版みたいなのである。
 実際に制作側が『アラビアのロレンス』を意識していたか否かはともかく、原作でアンディ・マクナブはレイプの可能性に怯えていたことを言明しているし、映画でもその可能性は明確に示されている。
 男だろうとレイプされる危険というのは国や民族を問わず軍隊に偏在する、或いは少なくともマクナブ個人はそう考えているのかもしれないが、「アラブ/イスラム教徒は白人と見ると性別を問わずレイプしたがる」という性的幻想(妄想)はオリエンタリズムの一部である。原作を読む限り、マクナブはムスリムが割礼をすることも知らない無知な人物だが、だからこそ最も卑俗な形のオリエンタリズムに染まっていることはあり得る。
「カラチの鞭打ち」がロレンス自身によっても、デヴィッド・リーンによっても、「アラブ/イスラム教徒は白人と見ると性別を問わず……」の性的幻想に立脚しているのは確かだし、映画版『ブラヴォー・ツー・ゼロ』の制作者たちも、確実に同じ性的幻想を前提としている。
 マクナブ本人は黒髪で丸顔のむさいおっさん(原作表紙に肖像写真あり)なのに、映画では監獄の暗がりにショーン・ビーンの金髪や白い肌が浮き上がるような撮影の仕方をしてるし、何ヶ月も監禁されて、髪は伸びるし体重も落ちてるのに、髭は伸びてないんだもんなあ。
 ちなみにショーン・ビーンの地毛はダーク・ブロンドなので、あれは多少脱色しているのかもしれない。ピーター・オトゥールもロレンスを演じるに当たって明るい茶色の髪を脱色しているし、そもそもロレンス当人も「髪の色は明るいが金髪ではない」そうである。

「アラビアン・ナイト」や「千夜一夜」でググると、上位にヒットするのは風俗店に加えてBLの小説や漫画のタイトルである。これもまたオリエンタリズム。

『ドミノ』 (05)
 実在の女性バウンディ・ハンターをモデルにしているが、ほとんどトニー・スコットによる嘘八百、もとい創作。
 仲間の一人として、アフガン人が登場。『ハリウッド100年のアラブ』では、非アラブ・イスラム圏は一応除外していたが、アフガン・ゲリラとアラブ・ゲリラの区別が付く観客がどれくらいいるのであろうか。
 稼いだ金を故郷のゲリラに送金しているらしい。本人がゲリラ活動を行っているわけではないからか狂信的なキャラクターでこそないが、寡黙で仲間とも打ち解けない。しかも彼が、より積極的にゲリラに協力しようという気を起こしたことで、仲間たちはとてつもない災厄に巻き込まれる。まあ最後には彼も仲間に思い遣りを示すわけだが。
 演じたのはグラスコー出身の役者で、西南アジア系なのは名前から明らかだが、アフガン系なのかは不明。

 アフガン戦争時には、アフガン人をソ連(悪)に対する正義として『ランボー 怒りのアフガン』(88)や『レッド・アフガン』(88)が作られたが、どちらも未見。なのでアフガン人の描き方も、「対等な味方」だったのか「白人が教え導いてやらねばならない原住民」だったのかは不明。

『クラッシュ』 (04)
 バラードのんじゃないほう。群像劇の中で、移住してきてから日の浅いイラン人一家が登場する。地元の連中から嫌がらせを受け、「わたしたちはアラブ人じゃないのに」と困惑する。もちろん、そんな区別がアメリカ人にできるわけがないのである。

『インサイド・マン』 (06)
 銀行が強盗団に占拠されると、最初の反応は「テロの可能性」で、ターバンを巻いたシーク教徒が「アラブ人だ!」と殴る蹴るの目に遭わされるのを、ややスラップスティックに描く場面がある。現実にはシーク教徒が「アラブ人」として殺されてしまった事件も起きているので、あんまり笑い事ではないんだけど。

『憎しみ』 (95)
 マチュー・カソヴィッツの最高にして唯一の傑作。この人は役者としてのほうが遥かにいい仕事をするので、監督なんかやめてまえと思うが、当人は監督のほうが本業のつもりらしい。まあともかく、これは傑作である。
 フランスでも移民や人種差別は大きな問題だが、少なくとも移民を扱った映画を観る限り、そこに「我々(制作者と観客)」と「彼ら(移民)」という二項対立は明確ではない。

. 

 以下、ブログに感想を挙げたものへのリンク(アメリカおよびヨーロッパ映画。07年以降公開作も含む)。特記のないものは『ハリウッド100年のアラブ』で取り上げられていないもの。

『風とライオン』 (75) 取り上げられていた作品。

『キングダム・オブ・ヘブン』 (05)
 取り上げられてはいたが、ほとんど言及されていなかった。いろいろとリベラルな配慮の跡が見られる。同様の努力を払った他の作品に比べれば、努力は実を結んでいる。特に「お色気担当」を現地人(ムスリム)女性にさせなかったのは、賞賛に値すると言える。
 ただし、その代わりのように、お色気担当エヴァ・グリーン(エルサレム国の王女)は中東風の衣装を着て、手や爪をヘンナで染めている(濃いアイラインも中東風メイクかと思ったが、どうやら本人の好みらしい)。ベッドシーンで「官能的な中東風音楽」が流れ出した時には、映画館内だったにも関わらず失笑しかけた。
 あと、オーランド・ブルームが領地の灌漑工事をやって、領民(現地民)がその成功を喜ぶ場面が、彼の現代的な容貌も手伝って、「井戸掘りをしたボランティアの青年と現地の人たち」に見えてしまったのがなんとも。

『13ウォーリアーズ』 (99)  取り上げられていた作品。
 11世紀のアラブ人を「我々(観客)が感情移入すべき文明人」、ヴァイキングを「野蛮で不潔な異民族」として配置しているのが斬新(てゆうか、ほかに例を見ない)。
 映画への言及もちょびっとあるけど、主にマイケル・クライトンの原作(『北人伝説』)とその元ネタ(『イブン・ファドラーンのヴォルガ・ブルガール旅行記』)の読み比べ。

『バベル』 (06)
「メキシコ篇」「日本篇」「モロッコ篇」が同時進行する。
 公開当時、松本人志が日本篇とモロッコ篇について、「なぜいちいちセックスと絡めるのか」と指摘していたと記憶するが、異民族という「他者」に幻想を投影するのは、オリエンタリズムやジャポニズムといった個別のものではなく、エキゾティシズム全般の現象である。で、そこには性的幻想も多分に含まれている。
 また、エキゾチックな場所を背景に白人の男女が結ばれる、というのんも欧米映画ではよく見られるが、「モロッコ篇」の、白人夫婦のわだかまりが妻の放尿をきっかけに溶解し、キスに至る、という場面は、その変奏だろう。
 ただし、監督も脚本家もメキシコ人で、「メキシコ篇」に性的幻想が一切見られないことからすると、彼らにとっては白人(金髪女性)もまた(性的幻想を投影すべき)「他者」なのかもしれない。

『300』 (07)
 これも公開当時、「ギリシャ(ヨーロッパ)vsペルシア(アジア)」は「テロとの戦い」の解り易すぎるアナロジーではないか、という批判が出ていた(ただし、『ロード・オブ・ザ・リング』に比べれば遥かに少なかったように思う)。それ以前に、いろいろと問題のありすぎる作品。
 まあヘロドトスが『歴史』でペルシア戦争を記すに当たって、これを「ヨーロッパvsアジアの戦争」としているのは事実である。

 ヘロドトスが「ヨーロッパvsアジア」の始まりとして挙げているのが、トロイア戦争である。少なくとも『トロイ』(04)ではヨーロッパvsアジアの構図はまったく見られず、トロイアの文化や人種も特に「アジア・中東風」には設定されていなかった。
 オリバー・ストーン(『ワールド・トレード・センター』監督)の『アレキサンダー』(04)も、大王の東征に「テロとの戦い」の大義を見出す見方もあるようだが、未見なんでなんとも言えん。評判の悪さ以上に、コリン・ファレルの顔が嫌いなんだもん。

『ジャーヘッド』 (05)
 取り上げなかった理由は、イラク人が登場しないから(少なくとも生きたイラク人は)かもしれないが、「イラクという地はあってもイラク人が不在」というのは、「パレスチナという地はあってもパレスチナ人は不在」というパレスチナ問題と地続きなのではないだろうか。

『告発のとき』 (07)  『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』 (07)
 前者はイラク戦争、後者はアフガン戦争で、どちらについても「我々(アメリカ人)」の罪を反省してはいるのだが、その反省の内容はあくまで「我々の選択の誤り」であって、「彼ら」に甚大な被害を与えたこと自体には及んでいない。ベトナム戦争の時と一緒である。
『ジャーヘッド』もそうだが、「被害者=他者の不在」というのが、アメリカ人の心性に於ける最大の問題点なのかもしれない。

『ワールド・オブ・ライズ』 (07)
 イギリス人監督(リドリー・スコット)による、アメリカ人をバカにした映画、かもしれない。
 大して成果の上がらない作戦のために、現地民(情報提供者や、まったく無関係な人)を大量に犠牲にするアメリカ情報局。良心の呵責をまったく感じない上司と、いちいち苦悩する現場工作員では、後者のほうがより悪質だろう。
 苦悩するだけなんだもん。しかも良心の呵責というよりは、ゲームでミスをした程度の感覚だし。巻き添えになったのが現地民じゃなくて現地の建造物とかだったとしても、同じくらいの「苦悩」しかしないんじゃないかと。

『君のためなら千回でも』 (07)
 主人公(観客の感情移入の対象)をアフガン人少年にして、しかも英語ではなくダリー語を話させているのに、後半は「文明圏からやってきた主人公がイスラムの狂信者から現地民の子供を救い出す」話になってしまう。
 原作では悪役はタリバンでその上、ドイツ人とのハーフになっていた。『ハリウッド100年のアラブ』によると、「ナチと結託するイスラムの狂信者」は格好の組み合わせとして重宝されたという。
 アフガン難民である原作者は、どういうつもりでこの組み合わせを選択したのだろうか。  

『エージェント・ゾーハン』 (08)
 あくまで「アメリカ人から見たパレスチナ問題」という限界を超えられてはいないが、少なくともイスラエル人もパレスチナ人も「他者」扱いではない。

『ブラック・ブック』 (06)
 ナチ占領下のオランダに於けるレジスタンスが主題だが、苦難を脱したユダヤ人のヒロインに待ち受けているのは中東戦争である、という結末。

『グアンタナモ』 (06)
 イギリス映画。誤認逮捕でグアンタナモ刑務所へ送られ、辛酸を舐めるのは、パキスタン系「イギリス人」青年たちである。

『デイズ・オブ・グローリー』 (07)
“有色人種はいつも死んで初めて「全面的信頼」を勝ち取り、「同等」の人間に格上げしてもらえた。”(『ハリウッド100年のアラブ』225頁)
 この構図をまったく無批判に美談として描いたのが、ハリウッド映画の『グローリー』(南北戦争中の北軍の黒人部隊)。批判的に描いたのが、フランス映画『デイズ・オブ・グローリー』(第二次大戦中のフランス植民地現地人部隊)。

『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』 (03)
 60年代パリに於ける、トルコ人の老店主と孤独なユダヤ人少年の交流。老店主を「東方の賢人」、トルコを「夢のように美しい場所」的に描いているきらいはあるが、その割には結構地に足がついてたりもする。

.

 ついでに、中東出身の監督による中東を舞台にした映画の感想にもリンク。

『パラダイス・ナウ』 (05)、 『迷子の警察音楽隊』 (07)、 『カンダハール』 (01)
『ペルセポリス』 (07)
 以上4作品は、多かれ少なかれ「彼ら(欧米人)」の描く「我々(西南アジアのムスリム)」の像を意識した上での、「自画像」と言える。

『ハーフェズ ペルシャの詩』 (08)
 一方、この『ハーフェズ』では、「我々」は「現代的な教育を受けたイランの都会人」で、「彼ら(他者)」は「イランで最も因習的な辺境の現地民」である。
 ヒロインは麻生久美子だが、日本人ではなく「チベット人とイラン人のハーフ」で「イスラム教徒だがイスラムにはあまり詳しくない」という設定。ここで彼女は、異邦人だが悪しき欧米文化には染まっておらず、しかもイスラムに対して無知であるゆえに、イスラムの悪しき部分とも無縁な「無垢なる存在」である。

|

« 参考文献録 | トップページ | 参考文献録 »

参考文献録」カテゴリの記事