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副王家の一族

 原作(1894)が1958年の『山猫』の原作(とヴィスコンティの63年の映画)に影響を多大に与えた、という宣伝文句に釣られて観に行く。
 イタリア近代史についてはまったくといっていいほど知識がなく、ガリバルディのことを一応知ってたのも歴史の本を読んだからとかじゃなくて『魔の山』で言及されてたから、という体たらくだが、数ヶ月前に偶々『山猫』を観ていたのである。

『山猫』はたいへんおもしろかったのだが、ブログに感想を書かなかったのは、あそこで描かれていたシチリア貴族が、どれくらい「らしい」のかよくわからなかった、という弱腰な理由からであった。だってバート・ランカスターとアラン・ドロンだし。役者としては非常に見応えがあったが、それと「らしさ」とはまた別かもしらんし。

 で、この『副王家の一族』の感想を一言で言うと、「『山猫』のほうがおもしろかった」。

 時代も場所も同じ(19世紀後半のシチリア)、時代の激変に翻弄されながらも強かに生きる名門貴族の群像劇というのもまったく同じなんだが、最大の違いは、監督の作家性の違いはさておき(原作者同士にも違いがあるかもしらんが未読なので)、どっぷり濃いい愛憎を前面に出すか出さないか、に尽きる。

 バート・ランカスター演じるサリーナ公爵の傲岸さとか、アラン・ドロン演じるタンクレディの節操のなさとか、やろうと思えばいくらでも愛憎ドロドロにできるんだろうけど、数歩引いて淡々と、且つ重厚に描いたのが『山猫』。
 ドロドロというか、ギトギトコテコテな愛憎劇をやりきったのが『副王家の一族』。

 この違いは原作の違いでもあるだろう。20世紀半ば、シチリア貴族が死の直前に書き上げた『山猫』に対し、同時代の野心的なジャーナリスト(当時33歳)による『副王家の一族』。 
 同時代に取材してるということで(しかも作者自身、母親がシチリアの貴族出身)、ほな『副王家の人々』のギトギトコテコテは「リアル」なのかというと、あれは当時の様式がああいうんだったんだと思う。やたら劇的という。

 いや、この原作だけでなく当時のイタリア文学は1個も読んだことないんだが、極端さがいかにも19世紀末の小説っぽいというか、ドストエフスキーのイタリア版というか。悪魔のように傲岸不遜なウゼダ公爵が、息子に反抗されて「奴には悪魔が憑いている」と悪魔祓いに血道を上げるという展開が、どうも唐突で脈絡がないんだが、ドストエフスキー式だと思えば納得できる。てゆうか『イル・トロヴァトーレ』みたいだよなー。
『副王家の人々』はヴェリズモ(現実主義)文学に属するそうだけど、リアリズムというもの、つまり何をもって「リアル」とするかというのも、様式の問題に過ぎないからな。

 まあとにかく『副王家の一族』の邦訳が出てないんでこれ以上は比較のしようがないんだが、『山猫』は自身も貴族出身であるヴィスコンティがおそらく原作者と同じ視点に立って、つまり回想という視点で映画化しているのに対し、『副王家の一族』はロベルト・ファエンツァ監督(1943年生まれ)をはじめとするスタッフたちが、ギトギトコテコテの原作を、一切の解釈を加えることなく真正面からギトギトコテコテに映画化したのだろう、と思う。
 で、このギトギトコテコテというのは、イタリアに於いては時代を越えた普遍性のあるものなんだろう。

 つまり同じ材料を扱っていながら、二つの映画はまったく質が異なるのである。どっちが「格」が上とか下とか、そういうことは言わんでおく。もちろん、『副王家の一族』は思いっきり通俗的なわけだけど、通俗的=格が低い、というわけでは無論ない。
 とりあえず映画『副王家の一族』の、最初から最後まで臆面もなく終始一貫したギトギトコテコテは、それだけで御立派です。後は好みの問題だな。私は食傷してしまいました。それと、あれだけ全力で作っていながら、死んだ人(人はたくさん死ぬ)の目や頚動脈や胸が動いていることをまったく気にしていないところはお国柄なのか。

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