パブリック・エネミーズ

 すでに2010年だが、鑑賞したのは昨年末なので。

 1934年に31歳で死んだ実在の銀行強盗ジョン・デリンジャーの晩年を描いたドラマ。当時は超有名な犯罪者だったそうだが、活動期間は2年間ほど。もはや派手な犯罪を何年も続けられるような時代じゃなかったからな。
 based on a true storyには興味がない、というか、制作サイドも宣伝サイドも「実話であること」に寄り掛かりがちなのが嫌い(特に宣伝サイドは例外なく寄り掛かっている)。その態度の裏にあるのは、フィクションよりノンフィクションのほうが「偉い」という格付け、実話が基になってようが「作品」になった時点で創作が混じっていることへの無自覚だ。
 もちろん、based on a true storyが惹句として有効なのは、観客の責任でもある。だから『ファーゴ』のthis is a true storyの惹句に、無数の観客(と宣伝部)が釣られたのであった。

 実話であることに寄り掛かって作られた映画は、だいたい作品として失敗する。その点『パブリック・エネミーズ』は、はまあ脚本も演出もごく手堅く、いい意味でオーソドックスな映画である。
 悪い意味でのオーソドックスにならなかったのは、やはりジョニー・デップに拠るところが大きいんだろうな。true storyに興味はないのに鑑賞したのは、ジョニー・デップがどんな演技をするかに興味があったからである。

 出演作をすべて観ているわけではないが、この俳優は実は演技のパターンが2つしかない。①「迷子の仔犬の目をした青年」、②「イカレ野郎」。
 ①は『シザーハンズ』から始まって、『妹の恋人』『デッドマン』『アリゾナ・ドリーム』『ギルバート・グレイプ』など初期の役柄はほとんどこれに当て嵌まる。
 ②は『ラスベガスをやっつけろ』が極北で、ここまでイカレていて、およそ親しみというものを感じられない野郎はこの一作だけで、後は適宜ヴァリエーションを加えて親しみを持てるキャラクターを創造している。

『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズや『レジェンド・オブ・メキシコ』は②のヴァリエーションだが、全体としては①と②の混合「迷子の仔犬の目をしたイカレ野郎」が一番多いだろう。特に不惑が近くなってきてからは。「青年」というか「大人になれない大人」の『ネバーランド』(撮影時40歳)以降、②の混ざっていないパターン①は演じていなかった。
 いずれにせよ、「エキセントリックで社会不適合な変人」役が巧い、というわけだ。

 で、①でも②でもない役柄となると、途端にものすごく凡庸になる。普通のお父さんを演じた『ニック・オブ・タイム』はもちろん、『フェイク』『ノイズ』『ナインスゲート』『ショコラ』『フロム・ヘル』『耳に残るは君の歌声』『ブロウ』といった「エキセントリックで社会不適合だが変人というほどではない」役も全然ぱっとしない。特にジャック・スパロウ直前の2、3年間にそういう役が多かった。要は低迷期だわな。

 一年以上前から、映画誌等に『パブリック・エネミーズ』のスチールは公開されてきたのだが、それを見る限り、ジョン・デリンジャーのキャラクターは明らかに「エキセントリックで社会不適合だが変人というほどではな」かった。映画自体も非常に堅実そうである。
 果たしてデップは凡庸に落ちてしまうのか、それとも新しいパターンを開拓できるのか。

 結論を言うと、凡庸にもならず、新しいパターンも開拓しなかった。パターン①のヴァリエーションの一つとして、「エキセントリックで社会不適合だが変人というほどではない」銀行強盗を演じてのけたのであった。引き出しは増やさず、引き出し自体を大きくしたのである………まあ、それも大した才能ではあるな。

 脚本・演出から音楽・撮影・美術等、良くも悪くもすべてが堅実でオーソドックスで突出したものが一つもない映画であり、キャストも主役とヒロイン以外、目立つ役者がまったくいなかったのであった。
 いやー、クリスチャン・ベイルがね、主人公を追う捜査官という準主役的ポジションなんだが、苦悩とか焦燥とか、相変わらず巧いのに相変わらず埋没してるんだよ。報われないキャラクターなので、合ってるといえば合ってるんだが。
 ほかにも、フーヴァー長官とかもっと印象的なキャラクターにできそうなものなのにな。演じた役者は下手ではなかったが、どうも若造っぽくて。

 ヒロインのマリオン・コティヤールは、出番は少ないがなかなか印象的だった。どっちかというとファニーフェイスなのだが(てゆうかスティーヴ・ブシェミに似てる……)、フランス人とネイティヴ・アメリカンのハーフでギャングの女というエキゾティックで薄幸な役柄によく嵌まっていたし、正統派美人でないところが30年代当時のファッションと相俟って、却って退廃的な雰囲気を醸し出していた。

 あと、一人だけ登場する女性保安官が、出番はほんの数分で、目立つところも何もない役なのに妙に印象的だなあと思ったら、リリ・テイラーでした。久し振りに見たよ。

 以下、一応ネタバレ注意。

 終盤、ジョン・デリンジャーは捜査員が迫っていることを知らず、クラーク・ゲーブル主演の『男の世界』を鑑賞する。ゲーブルが死刑執行直前に述べる台詞に、デリンジャーは微笑を浮かべる。そして映画館を出た直後、銃殺される。
「悔いのない人生だった」(うろ覚え)というその台詞にデリンジャーが共感し、自身も悔いなく人生を終えたことを暗示するという流れは、かなりあざというというか平凡だ。とはいえ一切説明を入れず、ただデップの微笑のみで表現する演出は悪くなかった(彼の演技力も)。

 公開直前、いろんな媒体で「ラブ・ストーリー」だとやたらに強調され、作品紹介もジョン・デリンジャーと恋人の「逃亡劇」ということになっていた。実際には、ヒロインの出番ほとんどないから(それなりに重要な役どころではあるけれど)。「逃亡劇」でもないし(一緒に逃亡するシーンはほんの数分だよ)。
 要するに「若い女性」客を当て込んでるんだが、そうするのが一番効果的、それしか方法がない、と思ってるわけで、随分と「若い女性」を馬鹿にしたものである。もちろん、それに釣られて映画館に足を運んだ「若い女性」は、ラブ・ストーリーでも逃亡劇でもないものを目にすることになる。1800円かそこらを払って観た「ラブ・ストーリーでも逃亡劇でもない映画」を楽しめたなら結構なことだが、ただ失望しただけだったら言わずもがな。

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副王家の一族

 原作(1894)が1958年の『山猫』の原作(とヴィスコンティの63年の映画)に影響を多大に与えた、という宣伝文句に釣られて観に行く。
 イタリア近代史についてはまったくといっていいほど知識がなく、ガリバルディのことを一応知ってたのも歴史の本を読んだからとかじゃなくて『魔の山』で言及されてたから、という体たらくだが、数ヶ月前に偶々『山猫』を観ていたのである。

『山猫』はたいへんおもしろかったのだが、ブログに感想を書かなかったのは、あそこで描かれていたシチリア貴族が、どれくらい「らしい」のかよくわからなかった、という弱腰な理由からであった。だってバート・ランカスターとアラン・ドロンだし。役者としては非常に見応えがあったが、それと「らしさ」とはまた別かもしらんし。

 で、この『副王家の一族』の感想を一言で言うと、「『山猫』のほうがおもしろかった」。

 時代も場所も同じ(19世紀後半のシチリア)、時代の激変に翻弄されながらも強かに生きる名門貴族の群像劇というのもまったく同じなんだが、最大の違いは、監督の作家性の違いはさておき(原作者同士にも違いがあるかもしらんが未読なので)、どっぷり濃いい愛憎を前面に出すか出さないか、に尽きる。

 バート・ランカスター演じるサリーナ公爵の傲岸さとか、アラン・ドロン演じるタンクレディの節操のなさとか、やろうと思えばいくらでも愛憎ドロドロにできるんだろうけど、数歩引いて淡々と、且つ重厚に描いたのが『山猫』。
 ドロドロというか、ギトギトコテコテな愛憎劇をやりきったのが『副王家の一族』。

 この違いは原作の違いでもあるだろう。20世紀半ば、シチリア貴族が死の直前に書き上げた『山猫』に対し、同時代の野心的なジャーナリスト(当時33歳)による『副王家の一族』。 
 同時代に取材してるということで(しかも作者自身、母親がシチリアの貴族出身)、ほな『副王家の人々』のギトギトコテコテは「リアル」なのかというと、あれは当時の様式がああいうんだったんだと思う。やたら劇的という。

 いや、この原作だけでなく当時のイタリア文学は1個も読んだことないんだが、極端さがいかにも19世紀末の小説っぽいというか、ドストエフスキーのイタリア版というか。悪魔のように傲岸不遜なウゼダ公爵が、息子に反抗されて「奴には悪魔が憑いている」と悪魔祓いに血道を上げるという展開が、どうも唐突で脈絡がないんだが、ドストエフスキー式だと思えば納得できる。てゆうか『イル・トロヴァトーレ』みたいだよなー。
『副王家の人々』はヴェリズモ(現実主義)文学に属するそうだけど、リアリズムというもの、つまり何をもって「リアル」とするかというのも、様式の問題に過ぎないからな。

 まあとにかく『副王家の一族』の邦訳が出てないんでこれ以上は比較のしようがないんだが、『山猫』は自身も貴族出身であるヴィスコンティがおそらく原作者と同じ視点に立って、つまり回想という視点で映画化しているのに対し、『副王家の一族』はロベルト・ファエンツァ監督(1943年生まれ)をはじめとするスタッフたちが、ギトギトコテコテの原作を、一切の解釈を加えることなく真正面からギトギトコテコテに映画化したのだろう、と思う。
 で、このギトギトコテコテというのは、イタリアに於いては時代を越えた普遍性のあるものなんだろう。

 つまり同じ材料を扱っていながら、二つの映画はまったく質が異なるのである。どっちが「格」が上とか下とか、そういうことは言わんでおく。もちろん、『副王家の一族』は思いっきり通俗的なわけだけど、通俗的=格が低い、というわけでは無論ない。
 とりあえず映画『副王家の一族』の、最初から最後まで臆面もなく終始一貫したギトギトコテコテは、それだけで御立派です。後は好みの問題だな。私は食傷してしまいました。それと、あれだけ全力で作っていながら、死んだ人(人はたくさん死ぬ)の目や頚動脈や胸が動いていることをまったく気にしていないところはお国柄なのか。

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イングロリアス・バスターズ

 朝一の上映に行ったらすごく混んでて、まさか『イングロリアス・バスターズ』じゃあるまい、じゃあなんだろうと思ったら、『マ○ロス』だった。

 それはともかく、久し振りに映画を観てハイになれた。「タランティーノ映画」として観た場合、150点をあげてもいい。が、これは『キル・ビル』でも『デス・プルーフ』でも奴を見捨てなかった忍耐の歳月、「あいつはやればできるはず」という、次第に絶望的になっていった期待がようやく報われた多幸感が含まれている。「タランティーノ映画」ってのを差し引いたら、まあ78点くらい?

 とにかく、手間暇掛けて丁寧に、わざと下手くそに作った映像は、一本くらいならまだ「馬鹿でえ」と笑えるが、三本ともなると(しかもどれも馬鹿長い)もう心底うんざりさせられたので、今回は見ていて終始幸せだった。まあ上記のとおり、あらゆる点に於いて「『キル・ビル』と『デス・プルーフ』よりずっとマシ」という解放感が含まれた至福ではあるんだけどね。

 だべりが長いとか、やたらと引っ張るといった、タランティーノの特徴(端的に短所ともいう)である冗長性は相変わらずだが、かろうじて「作家の個性」で済ませられるラインに留まっている。長々しいだべりも、一応は必要な情報を伝える役割は果たしているし。構成も巧くまとまっているし。どこまでも、『キル・ビル』と『デス・プルーフ』に比べれば、なんだが。

 タイトルは「イングロリアス・バスターズ」だが、一応主軸となるのは家族をナチに殺されたユダヤ人の少女ショシャナの復讐譚である。
 アメリカ軍傘下のナチ虐殺ユダヤ人部隊「バスターズ」とショシャナは、最後まで接点を持たないわけだが(これは欠陥と見るべきであって、「タランティーノらしい」と思ってはいけないんだろうな。私はもはや後者の境地だ)、唯一両者と接点を持つのが、「ユダヤ・ハンター」の異名を取るSS将校ハンス・ランダである。
 このランダ大佐を演じるクリストフ・ヴァルツが素晴らしい。目つきと下睫毛がピーター・オトゥールに似ている(顔は似ているわけではないが、同系統だとは言える)。つまり、変態ぽい。
 実際、ランダ大佐のキャラクターは語学に堪能で優雅な知的サディストで、ドイツ人にしては食道楽のようでいて実は食べ物を粗末にする。そして最終的にはへたれである。キャストが別の俳優だったら、『イングロリアス・バスターズ』の魅力は半減していただろう。
 1956年生まれで、役者としてのキャリアは30年近いという。ハリウッドには知られていない、すなわち日本でも知られていない優れた役者は、まだまだたくさんいるのだなあ。

 ほかのキャストたちも、全員いい仕事をしているのである。ブラッド・ピットはやはり、馬鹿というか頭が空っぽな役がとても巧い。『バーン・アフター・リーディング』に引き続き、ブラピ目当てのお嬢さん方にはお気の毒だが。ナチをバットで殴り殺すイーライ・ロスをはじめとするバスターズの隊員たちも揃ってアホ面下げていて、こんな連中に殺されるナチの兵隊さんたちはつくづく気の毒である。
 バスターズでは、イーライ・ロス、オマー・ドゥーム、マイケル・バコールが『デス・プルーフ』に出演していたそうで、確かに『デス・プルーフ』のパンフレットには名前が載ってるけど全然思い出せん。

 ダイアン・クルーガーは、高慢なドイツ人女優、でもスパイとしては二流どころ、という役が大変嵌っていた。役柄のイメージとしては、もう少しごついほうがいいかもしれない気もするが、ここまで嵌っている役は初めてなんじゃないだろうか。全部の出演作を観たわけじゃないけど。年齢が上がったことで、却って味が出てきたのかもしれない。
 今回、ヒロインは金髪だが、フランス系なのでそれほど大柄ではなく、タランティーノの好み(金髪碧眼のでかい女)からは少々外れる。クルーガーはその条件を満たしており、だからなのか、今回タランティーノの脚フェチを担ったのは彼女でした。ギブスから覗くペティマニキュアね……

『キル・ビルvol1』で脚フェチを請け負ったジュリー・ドレフュスは、パンフレットを見るまで気が付かなかったのだが、ゲッペルスの通訳兼愛人の役で出ていた。『キル・ビル』の時は素人っぽかったのに、ずいぶん貫禄を増している。前回に引き続き今回も「同時通訳ネタ」をやっていた。ドイツ語→フランス語だったんで、日本人にはおもしろさが解らなかったわけだけど。

『キル・ビル』に於けるルーシー・リューとユマ・サーマンの日本語のレベルを、本人たちとタランティーノが果たして判っていたのかは不明だが、今回は「アメリカ人は外国語が苦手」という自虐ネタが物語の上で大きなポイントとなっていた。
 片言でも話せれば「外国語ができる」と思い込み、流暢に話せる必要が生じる可能性など想像もせず、いざそういう場面に追い込まれると為す術もないアメリカ人と、アメリカ人に比べればだいぶマシだが、そこそこ話せるだけで「ネイティブ並み」と思い込み、ネイティブにはバレバレなイギリス人、という対比もおもしろい。ただし、あのイギリス人将校を演じた役者は、アイルランド育ちのドイツ人だそうである。

 ヒロインのメラニー・ロランは、巧いけどそれほど突出もしてなかったな。まあ、ほかの役者が強烈すぎるせいだろうけど。

 以下、一応ネタばれ注意。

 結末は思い切り歴史改変になっているわけだが、映画業界全般に於いて時代考証が目を覆いたくなるほど蔑ろにされているにもかかわらず、こういう形の改変が存在しなかったのは、不思議といえば不思議である。チャップリンの『独裁者』は、戦争中に作られた作品だしな。
 それだけ史実が重すぎるということではあるんだけど、その重く悲惨な事実が、作品をエモーショナルなものにする材料にされてきた、と言えなくもないわけで、そういう意味ではタランティーノの選択は、誠意のあるものだと言える。

『キル・ビル』感想

『デス・プルーフinグラインドハウス』感想

『ジャンゴ 繋がれざる者』感想

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ホスローとシーリーン

 岡田恵美子・訳、平凡社東洋文庫、1977年刊。

 イルアース・ビン・ユースフ・ニザーミー(1140頃~1209)は、現在のアゼルバイジャン生まれの詩人。邦訳ではほかに『ライラとマジュヌーン』『七王妃物語』(ともに東洋文庫)が出ている。
 イスラム古典文学のうち、フィクションでこれまで読んだものは『王書』、『アラビアン・ナイト』(原典からの訳)、『ハーフィズ詩集』、『マナス』のみ(いや、『アラビアン・ナイト』は全18巻もあるんだが)。
『ハーフィズ詩集』以外の三点、『王書』はペルシアの王者や勇士たちの物語、『マナス』はキルギスの英雄叙事詩、『アラビアン・ナイト』は幾つかのタイプの話があるが、割合として一番多いのはやはり男たちの冒険物語である。これらすべてに共通しているのは、「男が女を助けるエピソードが一つもない」ことだ。
 助けるどころか、守ろうとさえしていない。そして女たちの多くは男装して馬を駆り、男顔負けの武勇を誇る。主人公たる英雄たちは、そんな女たちに打ち負かされそうになったり、実際に打ち負かされたりしている。キルギスの英雄マナスは、ある姫君に夜這いを掛けたはいいが反撃され、動顚のあまり相手に肋骨骨折の重傷を負わせて逃げ帰るという醜態を晒している。

『アラビアン・ナイト』では、女の自立性はより明確だ。男は皆考えなしで、状況にただ流されていくだけか、あるいは好奇心に突き動かされて後先考えずに行動し、いずれにせよのっぴきならない状況に陥る。それを女たちが、ちょっとした親切、或いはより積極的に深い知恵や魔法、或いは武勇で助けてくれるのである。
 まあいくらイスラムの権威が、女は弱くて劣っているから男がしっかりしろ、と説いたところで、男の本音としては苦労して女を御し続けるより、女に助けてもらって楽したい、ってことだよねえ。

 つまり『アラビアン・ナイト』に見られる女の自立性は、男の身勝手の表れ以外の何ものでもないわけだ。男があちこちふらふらしてるうちに、そこかしこで女といい仲になり、この始末をどうつけるつもりだと思ってたら、「みんなで仲良く妻になりました」……そう来たか。
 或いは、新婚夫婦が砂漠を旅していたら、夫のほうが珍しい鳥を見かけてふらふら後を付いていってそのまま行方不明になってしまう。妻は身を守るため男装し、いろいろ冒険をしているうちにある王女と結婚させられる。その王女に正体を打ち明けると、自分の夫がどんなに素晴らしい男かを説いて、「一緒に妻になりましょう」。
 そのまま王女の婿として王位に就くと、ほっつき歩いていた夫を探し出して宮殿に連れて来る。そして自分が対面しているのが妻だとはまったく気づかず異国の王(男)だと思い込んでいる夫に向かって、夜伽をせねば処刑する、と迫る。殺されるよりは……と夫が泣く泣く寝所に赴くと、そこで正体を明かし、めでたく夫は王に、妻とその妻だった王女は王妃に、とか……

 イスラム圏でも経済的事情で庶民のほとんどは実質一夫一妻を続けてきたというから、やっぱりハーレムって男の夢(妄想)なんだね、と呆れるのを通り越して感心させられたものだが、そんな妄想ばっかり見せ付けられてもなあ。

 で、ようやく『ホスローとシーリーン』に戻る。ホスローは、ササン朝ペルシアのホスロー2世(在位590-628)で、シーリーンはアルメニア王家の架空の女性である。一説によると彼女は実在し、ササン朝最後の皇帝ヤスデギルド3世はこの二人の孫だそうだが(青木健『ゾロアスター教史』刀水書房、2008)、作中では子を残さず死んでいる。
 フェルドゥスィーのとにかく長大な『王書』(邦訳はその一部)や説話集『アラビアン・ナイト』、口承文学の『マナス』に比べて、ホスローとシーリーンの恋愛だけにテーマを絞った本作品は読みやすい。岡田氏の訳文は、岩波文庫版の『王書』では特に読みやすくもなかったので、やはり原文の構成がしっかりしているのだろう。
 読みやすさの一つとして、表現の多彩さが挙げられる。これまで読んだイスラム古典文学では、特に美女の描写が紋切り型、しかも頻出するので辟易させられたが、『ホスローとシーリーン』では紋切り型から離れていないとはいえ、毎回手を変え品を変えて表現にヴァリエーションを持たせているので、なかなかにおもしろい。

 しかし本作品の魅力は、その大半を占めるホスローとシーリーンの駆け引きに尽きる。本文約340頁中、最初の数頁でホスローがシーリーンの存在を知ってから、実際に二人が結ばれるまで、実に300頁近く掛かっている。そこまで紆余曲折あったのは、ほとんどホスローが原因なんだが。
 ペルシアの若き王子ホスローは、優れた絵師シャープールからアルメニアの女王の姪シーリーンの話を聞き、是非ものにしたいと思う。そこでシャープールはアルメニアに赴き、シーリーンにホスローの肖像を見せる。ホスローに恋した彼女は、男装して王宮を脱け出し、ペルシアへ向かう。ところがホスローはシーリーンを待ちきれずにアルメニアに向かうので二人は行き違いになる。

 いろいろあってようやく二人は巡り合うのだが、その間にホスローの父ホルミズド4世はクーデターで殺され、王位はバフラームという男に奪われる(これは史実)。それにもかかわらず、ホスローはシーリーンにうつつを抜かし、「とにかくやらせろ」と迫るので、彼女は「王位を取り戻すのが先でしょう」と叱咤する。
 ホスローは「そっちから誘ったくせに説教するとは何事か」と激昂してシーリーンの許を去り、その勢いで簒奪者バフラームを倒し、王位に就く。そしてビザンティン皇帝と同盟を結び、その皇女マルヤムを妃に迎える(これも史実)。しかし怒りが冷めると、シーリーンが恋しくなる。

 シーリーンは伯母の跡を継いでアルメニアの女王になったが、ホスローへの想いを絶ち難く、やがて他人に王位を譲ってペルシアへ行く。しかし皇后マルヤムは愛人の存在を絶対許認めず、またシーリーンも自分を唯一の正式な妃にしない限り身を許す気はないので、ホスローは彼女を都から遠く離れた山城に住まわせる。
 やがてマルヤムが死んだので障害がなくなったと思いきや、ホスローは今度はシャキャルという名の美女(シーリーンが「甘美」という意味なのに対し、「砂糖」の意)に心を移す。シーリーンは自分を正式な妃にし、自分だけを愛さない限り、絶対にホスローを許さない。ホスローはなんとか彼女を誤魔化そうとし、散々に甘言を弄するが、ついに折れて彼女を妃に迎える。

 おもしろいのは、ホスローが女たちに不実でいることについて罪悪感を抱くことである。だったら最初から一人に絞っとけよ、とも思うが。また、ペルシア皇帝の地位を笠に着て女たちに対して強く出ることもない。マルヤムに対しては、簒奪者を倒せたのは彼女の父親の協力のお蔭という遠慮もあったんだろうけど、シーリーンに対しも、ひたすら弱腰である。手厳しく跳ね除けられては、側近に向かって、或いは独白で彼女の頑固さを罵るのだが、本人を前にしては下手にしか出られない。
 さらに、マルヤムとシーリーンが正式な妃の座を要求し、ほかの女の存在を認めなかったのに対し、そうした要求をしなかったシャキャルは、すぐにホスローに飽きられてしまう。

 ホスローは晩年、息子のシールゥエ(史実ではカワード)によって幽閉され、忠実に侍るのはシーリーンだけとなる。そしてついに就寝中、息子が差し向けた刺客によって暗殺されるのだが、目覚めて己が死に瀕していることに気づいた王は、傍らで眠るシーリーンを呼ぼうとするが、彼女に自分が苦しむ姿を見せてはいけないと思い直し、一人で死んでいく。
 この場面は感動的ですらある。まあこれも男の身勝手といえばそうなんだけどね。

 時代設定がイスラム以前とはいえ、イスラムに於ける男女観、恋愛観へのイメージが変わる作品である。
 また、これより二百年ほど前に書かれた『王書』では、登場人物たちがムスリムでないことがぼかして書かれているのに対し、本作品ではその旨明記され、「拝火教徒でさえこれだけ立派な行いができるのだから、イスラム教徒と自称するだけで行動が伴わないくせに拝火教徒を蔑んでいる輩は恥じ入るがいい」といったことが述べられている。非アラブ圏に於ける復古主義の発展が見て取れておもしろい。

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4ヶ月、3週と2日

 いやな映画(褒めてます)。ネタバレが問題になるような作品じゃないが、一応ネタバレ注意。

 1987年、チャウシェスク政権下のルーマニアが舞台なんだが、「馴染みがない」と敬遠することはない。これは立派なディストピアものである。
 優れたディストピア作品は、ただ圧制に対する批判ではなく、どんなに「豊かで自由な」社会にも潜む抑圧(体制によって為されるとは限らない。「善良な多数派」も抑圧者となり得る)を炙り出す普遍性を持っている。

 当時のルーマニアでは人口増加政策によって堕胎が禁じられる一方、社会は出産や子育てにまったく適していない。違いは刑罰があるかないかだけで、現在の日本にも通じる状況だ。男が無責任なのは、どこでも一緒である。

 ……とか言いつつ、なんでもかんでも「現代の我々」に引き付けるってのは、現代の我々に「馴染みがないから」と敬遠するのと大して変わらん貧しい見方だと、実は思ってるんだけどね。

 監督の目的は、もちろん当時の批判とか反省とかそういうのんもあるんだろうけど、むしろヒロインをどん詰まりの状況に置くことにあったのではないか、と思う。極限状態とまではいかない、日常と数歩隔てただけの異常状態だ。
 そうであればこの作品は、そんな状況に於けるヒロインの心理を描くサイコ・スリラーである。

 ヒロインとルームメイトの関係が、めちゃきっつい。依存心が強い女と、文句を言いつつ面倒を見てしまう「親友」。よくある関係だが、閉塞した状況に置かれると、歪みが突出することになる。
 冒頭から、二人の関係は明らかだ。何もかも任せきりのガビツァと、文句を言いつつてきぱきと動く(でもかなり大雑把)なオティリア。
 ガビツァが闇医者に堕胎をしてもらおうとしているのだと判明するのは中盤になってからなのだが、それまでにこの女は必要な金をオティリアに工面させ、ホテルの予約こそ自分でしたが、遣り方がいい加減だったので予約が取れておらず代わりのホテルをオティリアに探させ、医者との待ち合わせにも体調不良を理由にオティリアを行かせ、感謝や謝罪は口先だけである。

 ホテルで医者と落ち合うと(この医者もオティリアが探したのである)、それまでガビツァがその場しのぎの嘘ばかりついていたことが明らかになる。面倒を先延ばしにすることで解決したと思い込むタイプだ。ああ、いるいるこういう女……別に女だけとは限らんが。

 堕胎するのは自分が望んだからなのに、まったく真剣みが欠けている。医者に用意しろと言われたビニールシート(ベッドが血だらけになったら、堕胎したことがばれる)まで忘れてくる始末である。ばれたら一番罪が重くなる(懲役4、5年)医者は当然怒るが、ガビツァはぽかんとしているだけだ。
 そんなガビツァに呆れつつも、よほど自分のことのように真剣だったオティリアだが、やはり彼女も認識が甘かった。かなり低く見積もった金額しか用意していなかったのである。

 ここに至ってもガビツァは困惑して口籠るだけで、「次の土曜までに必ず用意します」と断言するのはオティリアである。医者は鼻で笑い、彼女たちのどちらかの身体を要求する。嫌なら帰る、と言い捨ててドアに向かう医者を、初めてガビツァが必死になって止める。条件を飲むから堕ろしてくれ、と。

 もちろんガビツァは、オティリアが助けてくれると思っているのである。そしてオティリアは、そのとおりにする。

 いくらルームメイトで、この先もしばらくは付き合っていかなきゃならないとはいえ、なぜこんな馬鹿女にそこまでするのか理解できない。と言ってしまうのは簡単だが、おそらくガビツァは依存することでオティリアを支配しているが、オティリアも依存されることでガビツァを支配しているのだ。
 それは終盤、無事堕胎したガビツァが、「どこかに埋めてね。投げ捨てたりしないでね」とオティリアに胎児を託した後で明らかになる。オティリアは、一応埋められそうな場所を探しはするが、最終的に胎児をどこかのビルのダストシュートに投げ込むのである。たぶん最初から、そうなるだろうと自分でも予想していたのだと思う。ガビツァの胎児を投げ捨てることができるのは、オティリアしかいないからだ。
 そしてガビツァも、「埋めてね」とお願いしたのは、オティリアに本当にそうしたほしかったのではなく、ただお願いしたかっただけだろう。そして、もしかして埋めないで捨てたんじゃないかと思いつつ、それほど気にせずにこれからもオティリアに依存していくのだろう。

『4ヶ月、3週と2日』という意味ありげなタイトルがガビツァの妊娠期間を指しているのは明らかだが、「4ヶ月」は作中で述べられるが、「3週と2日」はどっから出てきたんだ。相手の男が一切登場せず、言及もされないのは悪くない演出だが、いつやったのが当たりだったのか、ガビツァ(とオティリア)が認識していた様子はない。「その日」を特定する演出がない以上、「3週と2日」という意味ありげな数字は宙に浮く。

 エンドクレジットに流れる、87年当時にルーマニアで流行ったと思しき明るくダサいポップスが、いやな感じを高めていてよろしい。

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その後のテミストクレス

『戦史』トゥーキュディデース 久保正彰・訳 岩波書店 1966

 全3巻。『サラミス』の登場人物たちのその後が気に掛かったので読むことにした。以下、長音はめんどくさいので省略。

 前480年のサラミス、479年のプラタイア、ミュカレの戦いで勝利後直ちに、アテナイはペルシア軍に破壊された城壁の再建に取り掛かった。他市の防御力を少しでも弱めたいスパルタは、「再びペルシアが侵入して、征服した都市の城壁を根拠地にするといけないから」という口実でアテナイに城壁再建を取りやめるよう要求した。
 これに対しテミストクレスは、「私がスパルタに直接赴いて話し合おう」と提案し、スパルタの使節を体よく追い払った。そして実際にスパルタに赴いたものの、一向に協議の席に就かず、スパルタ人たちに追及されると、「後から到着するはずの同僚たちを待っている。なぜ彼らが遅れているのか私も怪しんでいる」と答えて時間稼ぎをし、その間にアテナイでは女子供まで動員して突貫工事で城壁の再建を行っていた。

 スパルタ人は(何しろ単純なので)テミストクレスの弁解を信じていたが、アテナイ経由でスパルタにやってくる一般の旅人たちが、城壁再建が進んでいると口々に告げるので、さすがに疑いを持った。
 これに気づいたテミストクレスは、スパルタ人たちに「風評に惑わされてはならない。それより信頼できるスパルタ市民を派遣し、確かめさせるべきだろう」と提案した。
スパルタ人たちはこの提案をもっともだと思い、使節を派遣した。しかし実は、この時すでにアテナイの「遅れていた同僚使節たち」が到着し、城壁が充分な高さまで再建できたとテミストクレスに告げていたのである。

 テミストクレスはアテナイに密かに急使を送り、「これからスパルタの偵察者が行くから、我々が戻るまで巧いこと引き留めておけ」と命じた。そしておもむろにスパルタの代表たちの許に赴き、今度ばかりは正直に、城壁再建が完了したことを告げた。
 スパルタは、表向きの理由をあくまで「対ペルシアの備え」としていたのもあって、露骨な抗議こそしなかったものの、アテナイの遣り口に内心では憤懣を抱いた。

 トゥキュティデスはペロポネソス戦争(前431-404)の原因を、アテナイが強大になりすぎたため、スパルタが恐怖を覚えて開戦に踏み切った、としている。そしてアテナイの勢力拡大の発端として上の城壁再建と、アテナイ海軍の強大化を挙げる。
 スパルタおよび諸都市がアテナイ海軍がギリシアでは空前の規模であることに気づいたのはペルシア戦争に於いてだが、そもそもペルシアが本格的に侵略を始める以前に、逸早くそれに備えて艦隊増強と港の防御強化を行ったのもテミストクレスである。
 城壁再建にしたって、テミストクレスの小細工のせいで余計な怨みを買ったと言えるし、要するにトゥキュディデスの説に従えば、ペロポネソス戦争の根本原因はテミストクレスにある、ということになる。

 なお、「遅れていた同僚使節」として、城壁再建完了の報をテミストクレスにもたらしたのは、かつて彼に陥れられ陶片追放されたアリステイデス。サラミス海戦に引き続き(『歴史』)、アテナイのために恨みを措いてテミストクレスに協力したのである。
『サラミス』でアリステイデス自身が語る、「陶片追放の際、文盲の百姓に頼まれて自分の名を書いた」エピソードは、『戦史』訳注によるとプルタルコス「アリステイデス伝」にある。そんなことをしたのは、誠実だからじゃなくてよっぽど怒ってたからだろうな、という気がするんだが。

 テミストクレス自身が陶片追放の憂き目に遭ったのは470年頃。註によるとアテナイの遺跡からテミストクレスの名を書いた陶片が大量に発掘され、中には未使用のものも多数あったことから、政敵が予め用意して市民にばら撒いたと見られる。
 同じ頃、スパルタのレオニダス王(『300』の)の甥パウサニアスが、ペルシア王クセルクセスと内通していた。クセルクセスから色よい返答を貰えたパウサニアスは、何しろ単細胞のスパルタ人であるので、すっかり陰謀が成功したように錯覚し、ペルシア風の衣装を着てペルシア兵を侍らせ、ペルシア風の宴席を設け、さらには専制君主然として振る舞い始めた。当然ながら内通の噂が広がり始め、スパルタ人たちもパウサニアスの身辺を調査し始めた。その過程で、テミストクレスがこの件に一枚噛んでいることが明らかになった(具体的に何をしたのかは言及なし)。

 スパルタ人たちはその習いとして、同胞であるパウサニアス本人を追及するより先に、アテナイに対し、テミストクレスを処罰せよ、と要求した。アテナイはこれを承諾し、スパルタと共同でテミストクレス逮捕に乗り出した。
 この動きを逸早く察したテミストクレスは、さっさとギリシア本土から逃げ出し、各地を転々として最終的にペルシア王(代替わりしてアルタクセルクセス)の許に身を寄せた。その際に主張したのが、「あなたの父上がペルシアへ敗退した時、ギリシア軍は追撃しようとしたが、それを止めたのは自分だ」というものであった。

 この主張が嘘だということで『戦史』と『歴史』は一致している。『歴史』によれば、追撃を主張したのはテミストクレスとアテナイ勢だけで、他のギリシア将兵は一日も早く帰国したがっていた。分が悪いと見て取ったテミストクレスは、素早く主張を引っ込め、代わりにクセルクセスに使者を送って、「私は追撃を主張するギリシア将兵を、あなたのために止めました」と述べさせた。
 これはもし将来アテナイを追放されるようなことになったら、ペルシアに亡命できるよう恩を売っておこうという考えからだったという。

 テミストクレスはペルシアで領地を与えられ、それなりの地位と栄誉に浴したらしい。彼が「牛の血を飲んで自殺した」という妙な説は、トゥキュディデスと同時代のアリストパネスもその喜劇で言及しているほどだから、当時通説となっていたようだが、トゥキュディデスはこれを否定し、病没としている。また、「牛の血」には言及せず、単に「毒を飲んで」としている。彼の性格からすると、牛の血で自殺、という説は馬鹿馬鹿しくて書くに耐えなかったのだろう。

『戦史』は巻頭で宣言されているとおり、物語的要素が極力排除されているのだが、テミストクレスにまつわるエピソードは、例外的に物語的に細部まで書き込まれている(それでも『歴史』に比べれば少ないわけだが)。そして、締め括りとして十行ほどにもわたってテミストクレスを手放しで賞賛している。これもまた『戦史』に於いては例外的である。

 物語要素の排除と合理的な論証は『戦史』の大きな特徴だが、これと並ぶもう一つの特徴が、歴史上の人物たちに意見表明を行わせていることで、それらはほとんどが非常に長大な演説(文庫本数頁分にわたる)で、明らかに実際の記録等に拠ったものではなく、トゥキュディデスの創作である。
 その人物自身や彼が代表する勢力の立ち位置を説明する、わかりやすい手段として直接話法を用いているわけで、もう一つの特徴である合理性・客観性と相容れないように思えるのは現代人の感覚だが、しかしトゥキュディデス自身も一応は強引さを認識していたようである。
 スパルタ人が寡黙を好むというのは当時の常識で(『歴史』でも描写されている)、トゥキュディデスもその常識をまったく無視することはできなかった。スパルタ人に長々と「演説」させる際には、「かれはラケダイモーン人(スパルタ人)にしては珍しく弁論の術にも長けていた」と註釈を付けたり、当の演説者自身に「われらの口上はやや長きにわたるが、これはあながちわれらの習慣をあざむくものではなく、われらの習いは短きをもって足りるとき長きを用いないが大事に及んで説明が望ましいときには言葉をつくしてのち、なすべき行動を起こす。」と言い訳させたりしている。

ヘロドトス『歴史』と佐藤哲也『サラミス』読み比べ

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プラネット・テラーinグラインドハウス

『デス・プルーフ』のほうは映画館で観たが、こっちはTVで。「内臓ぐちゃぐちゃ」は嫌いなもんで躊躇ってるうちに上映期間を逃したのである。

 が、どっちがおもしろかったか言うたら、こっちのほうがおもしろかったよ普通に。ロバート・ロドリゲスは映画狂なのは確かだが、オタクではない。ロドリゲスの『プラネット・テラー』とタランティーノの『デス・プルーフ』と比較すると、だからオタクは駄目なんだよいろんな意味で、と言いたい。
 まあ『デス・プルーフ』は、「しょうがねえなあタランティーノは」と笑うための映画ではあるんだが、それでもタランティーノ監督作、というのを措いてみれば、やっぱりどうかと思うよ。

 血と内臓ぐちゃぐちゃが嫌いなので、スプラッタ映画は嫌い。ホラー映画は、観客を怖がらそうとする手段が稚拙だから嫌い(「ああ怖がらそうとしてるぞ」と解っているのに律儀に怖がってしまう自分にも腹が立つから嫌い)。だから、この系統の映画は、自分から進んで観ることはほぼない。
 ついでに言うと、血が嫌いなのはそれが気持ち悪いものだからなので、血を美しく描こうとしている耽美ものには失笑するしかない。

 そういうわけで、ゾンビ映画は『バイオハザード』(1作目。ゾンビ描写が少ないと聞いたので)と、『ザ“蛍光ゾンビ”コンヴェント』(友人たちに連れて行かれた)しか観たことがない。『プラネット・テラー』が目指したのは『コンヴェント』の系列だというのは解る。才能の乏しい監督が、乏しい予算と残念なキャスト・スタッフとで頑張って作ったのが『コンヴェント』で、才能豊かな(偏りのある才能とはいえ)監督が潤沢な資金と人材で『コンヴェント』のようなものを作ろうとしたのが『プラネット・テラー』なわけだ。

 才能の違いというのはどうしようもないもので、『プラネット・テラー』から故意にB級C級に作ってある要素を取り除くと、普通によくできた映画なんだよな。まあロドリゲスの作品には思い付きのネタを脚本と巧く噛み合わせきれていない傾向があって、今回の「片脚マシンガン」もそうなんだが(そういうところが、B級志向と相性がいいとも言えるかもしれない)。
『デス・プルーフ』も、故意のB級C級要素、および「しょうがねえなあタランティーノは」要素を取り除くと、随分よくできた映画である。

 心配していた血と内臓は、それほど大量ではなかった。後で知ったことだが、怪しい生物兵器の感染によって生み出されたクリーチャーたちはゾンビではなく、実在の化学兵器の犠牲者をイメージしたものだという。
 まあ確かにそう言われてみれば、皮膚の糜爛とか、それっぽくなくもない。ジョシュ・ブローリン演じる医者が感染初期の犠牲者を診察する場面の傷口や膿疱の描写なんか、ちょっといい。この時、隣ではもう一人の医師がネットで化学兵器の犠牲者の画像を見て喜んでいる(生物化学兵器廃絶のメッセージなど籠められている、わけがない)。
 ちょっといいが、この「ゾンビではない」という設定が、例えば斃し方とかに反映されてるとかそういうことは全然ない。まあロドリゲスだしグラインドハウスだから、しょうがないんだけどさ。

 以前から、どうして自分では血とか内臓とかのぐちゃぐちゃを描くのが結構好きなのに、他人の描いたそれら(映像でも小説でも漫画でも)は嫌いなんだろう、と不思議だったんだが、『スターシップ・トゥルーパーズ』のぐちゃぐちゃは例外的に好きだし、上記の「ちょっといい」とこなどからも考えると、どうも好きだからこそ、多少でも方向性のずれたものには耐えられないらしい。

 嘘予告が入る、という話は公開前から聞いていたんだが、『デス・プルーフ』の劇場上映ではカットされていた。今回の『プラネット・テラー』の放映では、チーチ・マリン主演『マシェーテ』(スペイン語のマチェーテ=山刀。英語の発音だと「マシェティ」と聞こえた)の予告が入っていた。
 これが実は、本編よりもおもしろかった。特にチーチ・マリンが大勢のメキシコ人不法就労者と共にマチェーテを振り上げ、「メキシコ人をなめるな」と気炎を上げる場面と、彼を陥れた悪いアメリカ白人の「メキシコ人不法就労者のくせに連邦主義者だと!?」という謎台詞には、変な笑いが込み上げた。今さらながら、『デス・プルーフ』上映でのカットがむかつく。

『デス・プルーフinグラインドハウス』感想

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スピード・レーサー

 ちょっと久し振りの映画鑑賞記。

『マッハGO! GO! GO!』は未見なので、どうアレンジしてあるのかは判らないんだが、昔のタツノコのアメコミテイストは、ハリウッド映画化に向いているかもしれない。もちろんアメコミの映画化と同じく、監督が有能かつ原作をよく理解してなきゃ駄目なんだけど。

 ウォシャウスキー兄弟監督作は『バウンド』と『マトリックス』1作目しか観てない。レズビアンのカップルがマフィアの金を奪うサスペンス『バウンド』は佳作だが、『マトリックス』は特殊効果の使い方が大変巧いという点だけでしか評価できない。
 そしてこの『スピード・レーサー』は、おそらく原作を大変愛している上によく理解していると思われ、かつ特殊効果の使い方も技術の進歩に合わせて進歩している。脚本・設定には多少矛盾があるが(なぜ大企業の御曹司がライバル企業の手先として八百長レースをやらされてるのかとか、謎の覆面レーサーXがあそこまでして正体を隠し通す必要があったのかとか、真田広之が出てくる必要があったのかとか)、まあ手堅くまとめられている。(昔の)アニメ的な演出とゼリービーンズのような極彩色との融合も素晴らしい。
 ただ難を言えば、私のように動体視力の悪い人間には、レースはスピードが速すぎて何がどうなっているのかよくわからないことがしばしばだった。この作品に限らず、最近のアクションものにはよくある。

 主要な女性キャラクターが、有能なのに男をサポートする位置に徹してるのが微妙(テジョの妹もその位置だと言える)。
 車の設計とか整備とかだってサポートだけど、それは各自の「仕事」でもある。だけど「パートナーの成功が私の成功」みたいな彼我の区別のついてない夫唱婦随ってさあ。原作に忠実だからだとしたら、まあ下手に改変しなくて正解だとは思うけど。エミール・ハーシュに尽くすクリスティーナ・リッチという配役が、余計にこの構図の歪さを浮き上がらせてるな。

 一番演技が巧かったのは、チンパンジーでした。

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下りの船

 ――つまるところ、おこなわれていることはすべてが人間の営みであり、いかに時が流れても何一つ変わってはいなかった。

 佐藤哲也著、早川書房刊。再読。
 東南アジアを思わせる環境の惑星に、強制移住させられた人々を描いた作品である。多数のエピソードの断片が交錯する。「断片的なエピソード」ではなく、「エピソードの断片」である。提示されるのは、何年にも何十年にもわたるであろう人々の営みから、ただ切り出してきた欠片のように見え、一応それなりにまとまりを持っているものもあれば、まったくそうでないものもあり、読者はそれ以上のことを何一つ知らされることなく放り出される。
 それらの多数の断片をくぐっていく一本の糸のように、唯一一貫して辿られるのが、アヴという少年の生涯である。その糸が断ち切られた時、この小説も幕を閉じる。

 語られるのは、徹底して人間の卑小さだ。交錯するエピソードの断片の中には、「心温まる」とか「しみじみとした」といった形容を当て嵌めることのできそうなものもある。そうしたささやかな善良さは、圧倒的な非情さによって叩き潰されるために提示されているのではない。善良も非情も等しく「人間の営み」であり、等しく卑小なのだ。
 その徹底した卑小さに、何を見出すかは人それぞれだろう。なべて作品とは、そういうものだ。見出したものを好むのも拒絶するのもまた人それぞれだ。

 私が見出したのは、徹底した卑小さ、それだけである。意味も教訓も、カタルシスも何もない。だが、その卑小さを表現する技巧は、信じがたいほど美しい。「人間は卑小だ。しかし美しい」ということを表現しているのではない。美文だというのでもない。
 彫刻に喩えたら、解りやすいだろうか。二人の人間が支え合ってようやく立っている像だ。性別や年齢も判然としないほど痩せこけ、四肢は苦痛に捻じ曲がり、顔を歪め、襤褸を纏い、おそらく全身泥に塗れている。激しい風雨か、ひょっとしたら殴打の雨から、身を縮めて逃れようとしているようだ。そこには人間の尊厳などなく、或いはそうした悲惨に対する作者の声高な抗議も見て取れない(いや、そういうものを見て取りたい人は見て取ったっていいんだが)。表現されているのは、ただ「卑小」だ。
 にもかかわらず、それを表現する技巧は美しい。全体のバランスから鑿の一彫り一彫りに至るまでのすべてが。
「下りの船」には、そんな美しさがある。

 ただもしかしたら、もっと美しくすることもできたのではないか、とも思う。研ぎ澄まされた刃のような、触れただけで皮膚が裂け、血が迸るような美しさだ。そんな美しさを、著者ならば現出させることが可能だったのではないか、と想像する。
 まあ実際にそういう作品を書けたとしても、刊行は難しいかもしれないが。

『熱帯』と『イーリアス』読み比べ

『サラミス』と『歴史』読み比べ

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激しく、速やかな死

 佐藤亜紀・著、文藝春秋社。日本の文芸書(単行本)をエンターテイメント(ミステリ、SF、ホラーなど)と文学に分け、さらに文学の下部カテゴリーとして「男性作家」と「女性作家」を分けている書店では、佐藤氏の小説は大概エンターテイメントの棚なのに、この短編集だけは「女性作家」の棚に置かれていた。お蔭で見つけるのに少々手間取ったよ。

 収められている七つの短編は、書かれた(掲載された)時期は1998~2009年とばらばらであるが、巻末の著者による解題から明らかなように、いずれも下敷きとなる文献もしくは本歌を有している。また、フランス革命(或いはナポレオン)を中心点に同心円を成しているともいえる作品群でもある。以下、所感。

「弁明」
 私は『クイルズ』でしかサドを知らず、つまりあれが私にとってのサド像なのだが、佐藤亜紀氏によるとあれはよく出来た映画ではあるがサドではない、とのこと。
 そう言われても何しろサドの著作もまともなサド研究書も読んだことがないので(渋澤龍彦のエッセイは読んだことがあるが、渋澤の言うことは信用しないと決めたので記憶から締め出した)、この「弁明」のサドもジェフリー・ラッシュ演じるあの困ったおっさんでイメージされてしまうのであった。

 いずれこの時代について学ぶとともにサドに関しても学ぶつもりではあるが、今は西洋史は古典期のお勉強で手一杯で、それもそろそろ中断しなければならんので(そろそろ次作に取り掛からんと拙い)、この調子ではサドは数年先だろう。
 しかしどれほどイメージに隔たりがあろうと、「困ったおっさん」であるのは間違いない、と確信した次第である。

「激しく、速やかな死」
 書簡の形を取った「荒地」と「金の象眼のある白檀の小箱」、報告書の引用と解説の体裁を取った「フリードリヒ・Sのドナウへの旅」は、「過去の事実」という意味での歴史から、ざっくりと切り出してきたピースをほとんど加工することなく提示したもののように見える。

 言うまでもなく技巧によってそう見せているのである(サドの独白の形を取った「弁明」も同じ系列といえる)が、それらに比べてこの表題作は完結性の高い作品である。上記3(+1)作品が「過去の事実」とそのまま地続きであるかに思えるリアリティをもつのに対し、こちらは幻想的でさえある。
 もちろんここでいう、「リアリティ」と「幻想的」とは加工の仕方の違いであって、優劣の含みを持たせているのではない。「リアル」であるか「幻想」であるかに優劣はない。作品の優劣を決めるのは、すなわち技巧の優劣である。本書所収の作品の技巧については、論じるまでもない。

 それはさておき、「激しく、速やかな死」が他と異なる印象であるのは、単に「この世の外」を舞台としているからだけではなく、その舞台空間すなわち登場人物たちが入れられている奇妙な建築の閉鎖性に拠るところが大きい。
 解題によると歌劇へのオマージュだという。閉ざされた建物内部の様子は舞台装置のようでもあるし、ピラネージが描く建築空間のようでもある。そうした舞台装置もしくは絵画からインスピレーションを得て書かれた作品であるようにも思える。
 もっとも、この閉ざされた建築空間がどのような場所であるか具体的に意味づけられている(ある特定の死に方をした人々のための煉獄的な「場」)ことや、空間と人々の在りようの奇妙さではなく二人の人物の対話を主体とするところは、著者の特質であろう。

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 対話中で言及されるカローとは、エッチング集「戦争の悲惨」を描いたジャック・カロー(1592‐1635)だと思う。「戦争の悲惨」(左)が断頭台(および国民戦争)を経ると、ゴヤの「戦争の惨禍」(右)になるわけだ。

「荒地」
 初読は雑誌掲載時(2003年初夏)。当時は語り手(手紙の書き手)がタレイランだと判らなかったし、そうと判ったのは作中で語られる彼の若い頃のエピソード(司祭の叙階を受けた時のことなど)がタレイランのそれと一致すると気づいたからで、しかもそのエピソードでさえ明治大学での講義中に佐藤氏が語ったものである。
 しかしタレイランだと判らなくても、或いはそもそもタレイランが誰か知らなくても、「荒地」の語り手はタレイランとなる前のタレイランであり、フランス革命を逃れてアメリカへと亡命してきた貴族であるという情報は作中で明示されているので何も問題はない。

 ピューリタニズムと新大陸の荒々しい自然とが交わった結果、どれほど不毛な「文化」が生み出されたのかは、例えば『シザー・ハンズ』の郊外住宅のおぞましさだけでも一目瞭然なのだが、そのことに言及している日本人はほとんどいないような気がする。つまりそう思っている日本人はごく少数であり、大多数はあの郊外住宅を見ても怖気を振るったりしないというわけだ。

 2002年9月から1年間、私は1、2ヶ月毎に神戸から東京まで行って、佐藤亜紀先生に『グアルディア』を1、2章ずつ見てもらっていた。「荒地」が雑誌掲載された2003年初夏は、全11章中の第8章の執筆時に当たる。
『グアルディア』では最終的な敵(ラスボス)の前に、いわば中ボスとして北米のWASPの子孫である白人至上主義者たちを設定した。これは、日本に入ってくる海外作品ではジャンルを問わずカトリックを狂信的な「悪玉」としているものがあまりに多く(歴史物から現代ものまで。SFやファンタジーでは露骨にカトリックをモデルにした宗教)、またその影響で国内作品でもカトリックを「狂信的な」「悪玉」とする紋切り型が氾濫していることに気づいたからである。
 別にカトリックを擁護するつもりはまったくなく、ただ多数派には脊髄反射で逆らいたくなる習性なのである。

 しかしいざ執筆に取り掛かると、プロテスタントはカトリックに比べると実に「使えない」ことが直ちに判明した。文字どおりカトリックへの反発として生まれたから、その最も端的な特徴もアンチカトリック的、すなわち「清貧」と「小集団」だ。連綿と続いてきた巨大な共同体と、それらが育んできた文化とをことごとく否定する。その結果、諸派分立して横の繋がりがなく、伝統によって作り上げられるべき儀礼も芸術も持たない。あるのは清貧と称する殺風景と、個人または小集団(カルト)の狂信だけだ。

 カトリック=狂信、という図式は、プロテスタントや啓蒙主義的無神論者による捏造である。もちろんカトリックにも狂信はいくらでも見出せる。しかしプロテスタントにもいくらでも狂信は見出せる。
 最大の違いは、カトリックは非常に巨大な組織である上に多重構造であるため、その中枢部は良くも悪くも高度に政治的にならざる得ない。つまり狂信的、すなわち「純粋の追求」ではやっていけないのである。これに対して「純粋」を求めたのがプロテスタントであり、だから組織として規模が小さく、だから自浄作用が働かず狂信へと暴走しやすい。
 恐ろしいことに近年のアメリカでは、有効な抑制装置を欠いたまま巨大組織化しているようである。そして相変わらず、歴史も文化も不毛なままだ。

 White-Anglo-Saxon-Protestantは敵愾心からカトリックを「古き悪しきもの」とし、無神論者は宗教全般に対する無頓着な反感からプロテスタント的狂信と反科学(創造論がその代表)を、カトリック的狂信および反科学とまったく区別することなく一絡げに「古き悪しきもの」としてカトリックに押し付ける。
 そうした人々が多数を占める英米の作品が最も多く入ってくるため、日本人はそうした背景を理解もせずに、そうした考えに染められている。

 という事態に私は逆らいたくてむらむらしてくるのだが、だからといってプロテスタントが悪玉として愕然とするほど魅力がないのは如何ともしがたいのであった――言うまでもなく善玉としても。少なくとも私はカルト(メガチャーチは規模がでかくなったカルトだ)を魅力的に描くようなメンタリティは持っていない。
 ああ、カトリックって「悪の組織」としてなんて魅力的なんだろう。「狂信」の紋切り型を取り除いてやれば、なおのこと魅力的である。

 というわけで、「ネオピューリタン」と称する連中は中ボスとしてすら使えず、かませ犬に格下げとなったのであった。
 で、第8章ではこの連中の「文化」の不毛さを書き綴ろうとした。めくるめくメキシカンバロック(小野一郎氏が呼ぶところのウルトラバロック)の教会の内装を引っぺがして壁を剥き出しにした独善者たち、その直系が生み出した不毛だ。その直後に、『文學界』7月号が発売された。

 私が表現したかったこと、表現したかった以上のことがそこには書かれていた。だから佐藤先生に第8章を送る前に、その下りを必要最低限の記述(約3分の1)に切り詰めた。その旨を告げると、削らなくてもよかったんじゃない、と先生は仰ってくださったが。

「フリードリヒ・Sのドナウへの旅」
 初出は1998年。『1809』(1997年刊)のスピンオフともいうべき作品。

「陛下、戦争をおやめくださいと言って駆け寄った若者を取り押えてみたところ、両刃に研いだ包丁を持っていた、というのが正確なところだ。……世の中は実によく出来ている。一人の狂人の企んだことを、もう一人の狂人が邪魔をするとはね。……」
      (『1809』第九章より)

 この「もう一つのナポレオン暗殺未遂」(解題によれば、こちらは実際に起きた事件で調書も残っている)の顛末が語られている。ウストリツキ公爵も「フリードリヒ・S」も、まったく政治的でない動機によってナポレオンをを排除しようとした。その後どんな世界が訪れるかという予想(期待)は、まったく異なっていたわけだが。

 フリードリヒ・Sは十七歳で、「……背丈は、長身とは言えないベルティエより、つまりはナポレオン・ボナパルトより遥かに低かった。小柄だったと言うより、まだ子供だったのだ。」
 徴兵制によって当時の男性の身長が記録に残るようになったのだが、そこから判るのは、彼らが二十歳を過ぎてもまだ身長が伸びていたことである。つまり栄養状態が悪いので、現代の先進国と違って十代のうちに成長しきってしまわなかったのだ。
 ……ということも、明治大学の佐藤亜紀氏の講義で教わりました。

 私が知る限りでは、佐藤亜紀氏が長編のスピンオフとして書いた短編は、ほかに「モンナリイザ掠奪」(『日本SFの大逆襲』所収、1994)がある。『戦争の法』(1992)の序盤で語り手のご先祖「酒々井仁平」が紹介されるが、その仁平の「手記」にある「現在ルーヴル宮に飾られているモナリザの真贋に関する眉唾な話」をそのまま抜粋、という体裁で書かれた作品である。
 後述する「白鳥殺し」ともども、いつか出るであろう第二短編集に収められることを気長に期待している。

「金の象眼のある白檀の小箱」
 メッテルニヒ夫人からの夫への手紙の翻訳、という体裁を取った小説。解題によると出来事そのものは実際にあったそうである。

「何だってあんたたちは、あたしの人生に面倒ばっかり持ち込むのよ」
 ……しかし、何と言ってもこれ以上の真実はない。女の人生に面倒を持ち込むのは九分九厘、男なのだ。
 ……男のいない人生はなんとも穏やかで、平和で――退屈なものに違いない。
     (『ブーイングの作法』四谷ラウンド 1999より)

 佐藤亜紀作品の女は、原則として男によって人生に面倒を持ち込まれることを許している。優しさによって「赦して」やっているのではない。「許可」してやっているのである。
 一つには、上記のとおり面倒を完全に遮断してしまえば、穏やかで平和だが、退屈な人生になってしまうからだ。
 とはいえ佐藤亜紀の小説は、「女の強さと寛容」を無邪気に賛美するのでもなければ、賛美の振りをして面倒を押し付けようとする魂胆を持ったものでもない。なんといっても、男は「強き性」なのだ。

「金の象眼のある白檀の小箱」では、いかに男が強いかが描かれている。
 まず厳然たる生物学的性差によって、男は平均して女より筋力が強い。次いで、彼らはその生物学的優位をもって女を威嚇したり実際に暴力を振るうことを、さほど恥じていない(恥じるどころか、という者も多い)。さらに、女を屈服させるのに武器を使うことすら厭わず、しかも武器による力を自身の力と錯覚する。刀剣等、筋力で操作するものばかりか火器であってすら区別を付けない。
 物理的な暴力を除外しても、男は女の話を聞かない。聞いたとしても自分に都合のいいように曲解する。唖然とするほど想定外の精神構造を持ち、行動もそれに忠実だ。ガラスのように傷付きやすい上に、傷付けられたことを攻撃と解して過剰防衛に走る(尖ったガラスのように?)。そして「この世のものとは思えないほど」しつこい。

 語り手であるメッテルニヒ夫人をはじめとする女性登場人物たちは、かくも強き男たちを排除する気力がないので、人生に面倒を持ち込まれるのを諦めとともに許可してやっているのである。まあ多少はその面倒を楽しんでもいるだろうけれど。

 退屈よりは面倒のほうがマシだからなのか、或いは面倒を排除する気力がないから退屈よりはマシだと思うことにしているのか、ともあれ、原則として佐藤亜紀作品の女たちは男たちが面倒を持ち込むままにさせている。
 しかしもし、女が本気で「穏やかで平和な」人生を欲したらどうなるか。それが「白鳥殺し」(『ハンサムウーマン』所収、1998)である。
 まだ若い女である主人公は、自己完結した世界に生きており、その世界を乱す者は徹底して排除する。親から受け継いだ領地には白鳥が飛来するが、白鳥は優美なもの、という社会通念にはまったく頓着せず、鳴き声が醜い、という理由で撃ち殺す。同様に、彼女の静けさを乱す人間にも、血縁者であろうと容赦はしない。面倒を持ち込まれない人生が退屈だなどとは思わないし、面倒の排除を遣り遂げるだけの意志も持っている。

 この短い作品の最後で「面倒」の排除に成功し、自己完結を完璧なものにした彼女は、もはや漣一つ立たない、もしくは全面凍結した湖面のような存在だ。残る人生もそのままで生きていくに違いない。面倒を引き寄せない防御策は何重にも巡らせるはずだし、よしんばそれを乗り越えてくる男がいたとしても、石ころの如く手際よく排除するだろう。
 つまり、面倒の締め出しを完了した時点で物語も完了してしまい、これ以上どう発展しようもないのである。

『戦争の法』でも、主人公の母親は二人の仲間とともに「男っ気なしの女のユートピア」を手に入れる。これは運と要領の良さに拠るところが大きいが、いずれにせよそこでの生活は完璧に「穏やかで平和」で、いかなる物語も生まれようがない(主人公は、万が一の場合の「虫除け」として同居を許されているのであろう)。
 つまり佐藤亜紀作品の「物語」は、「男が人生に面倒を持ち込むのを許してやっている女たち」によって成立しているとも言えよう。

 ところで、ナポレオンは気に入った相手の耳を引っ張る、というのは『戦争と平和』にもあったなあ。

「アナトーリとぼく」
 トルストイの『戦争と平和』との比較検証(単なる読み比べ)は、以前ブログに上げました。下にリンクを張っておくので、よろしければお読みください。

 今春、『S‐Fマガジン』増刊号で「アナトーリとぼく」を読んだ時には、『戦争と平和』は未読だったが、映画版(ソ連製)は観ていた。映画ではナポレオン軍が撤退し、ピエールとナターシャがくっつくところで終わっている。ハリウッド版(未見)ではナターシャ役はオードリー・ヘプバーンだが、このソ連版のナターシャもヘプバーンに似た容姿の可愛らしい女優だ(原作からイメージされるのが、そういうタイプなのだろう)。
 映像によって初々しく可憐なイメージがことさら強く刷り込まれていたため、「アナトーリとぼく」を読んだ時点でなんとなく嫌な予感があったのだが、『戦争と平和』を読んでみて、映画では描かれていないエピローグでのナターシャの「変貌」には、トルストイの嗜好にげんなりしたのとはまた別の次元で愕然とさせられた。

 トルストイがああいうのんを理想とし、そういう小説を書くのは勝手である。どうせ実現できなかったんだから。
 しかし、『戦争と平和』が傑作として無数の人々に読まれてきたということは、結末でナターシャが「多産な雌」に「改造」されたのを気色悪いと思った読者はほとんどいなかったということだ。もしそう思ったとしても「トルストイは偉大な文豪だとされてるし、その彼の大傑作とされてる小説なのだから間違いはないはず」と、無理やりもしくは深く考えもせずに自分を納得させたり、或いは「そのとおりだ、こういうのが男にとっても女にとっても幸福なんだ」と感動したり、或いは何も感じずに読み流したり、ということが150年近くも続いてきたのだと思うと、じんわりと嫌な気分になる。

「漂着物」
 1800年前後の巨大な衝撃で生じた波が時を経て増幅しながら、1848年に達する。その波。
 生半可な知識の付け焼刃で読みたくはなかったので、敢えて何も調べていない。いずれ知識が増えた時に再読すれば、新たな楽しみが得られるだろう。

『戦争と法』と「アナトーリとぼく」の読み比べ

『ミノタウロス』感想

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