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参考文献録

『鳥姫伝』 バリー・ヒューガート 和邇桃子・訳 早川書房 2002(1984)
bridge of birds
 はははははは、これはひどい。

 もちろん、考証がどうとか的外れなことは言わん。とりあえず知識は膨大である。
 しかしそれはまったく体系的でない雑学で、よくこんなことまで知ってんなあってことまで知っている半面、ごく基本的な知識を欠いている(ようだ)。古文書(中国の)が「羊皮紙」だったり「粘土板」だったりするのも、意図的な錯誤というより基礎知識の欠如によるものに思える。どうもこの作品のカオス的状況は、意図した錯誤と無知による錯誤の混沌によるところが大きいようである。
「中華風というと聞こえのいい似非中華ファンタジー」で概ね一貫しているのはよろしいが、時々イマジネーションが枯渇するらしく、「中華風」じゃない凡百のファンタジーと代わり映えのしないガジェットやイメージが混じる。秦王の地下迷宮とか、その辺のダンジョンとどう違うの、という感じだ。

 文章も錯綜しているのは、部分的には意図的なのだろうけれど、特に複雑な仕掛けとか複雑なアクションとか複雑な駆け引きの描写が、何がどうなってるのか理解不能ものになってるのは、やっぱり下手だからだな。
 もっともこれらのうち、「複雑な符牒」とか「複雑な勝負」とかが理解不能なのは、明らかに意図したものでもある。
「異民族の文化(風習、儀式、ゲーム、武術、舞踏等から考え方や喜怒哀楽に至るまで)には、我々(作者と読者)には基本的に理解できないものであり、理解する必要もない」という姿勢で行われる「異民族の文化」描写は、最近でこそ露骨にやると顰蹙を買うが、少し前まで大手を振って罷り通っていた。「日本人とは斯くも理解不能である」的な日本人論とか。そこで描かれる「日本人」の心性や習慣や儀礼は、日本人にとっても理解不能であった。
 その流れを汲んで、少し前まではフィクションの中の「異民族」も、その民族が実在しようが実在しまいが、「我々(作者と読者/観客)には基本的に理解できないものであり、理解する必要もない」奇妙な風習や心性や儀式その他を盛んに行っていたのであった。

 いや、『鳥姫伝』を読んでいて、80年代半ば頃に読み漁った異世界や異星を舞台にしたファンタジー/SF(つまり刊行は80年代半ば以前)がしきりと思い出されたのですよ。「日本風異世界」を舞台にした珍作ファンタジー「黄昏の戦士」シリーズ(70年代後半)とか。
 で、読み終わって原書の刊行年を見てみたら、1984年だった。執筆に何年も掛かったそうだから、「我々には理解できないし理解する必要もない」異文化表現が色濃くて当然なわけだ。
 こういう異文化「無」理解とそれに基づく表現は、90年代に入ってようやく下火になり現在に至る……と思うんだが、私はその頃から90年代末までの10年近く、SFやファンタジーを含めてほとんど小説を読まずに過ごしてしまったので、実際の推移はどうだったのか知らない。

 まあ、そういった異文化「無」理解が問題なのは、「我々の文化」の優越を前提にしているからだけじゃなくて、文化と遺伝を混同した擬似遺伝学的な思想が根底にあるからだが、それはそれとして、昨今の「異文化は理解できるものです、理解しなくてはいけません」的な強要もどうかと思うけどね。理解の強要というより、理解できたと思い込むことの強要というか、或いは異文化を「我々が理解できるもの」に改変して表現したりとか。
 
 それはともかく、『鳥姫伝』の「歴史改変SF」としての設定は、なかなか素晴らしいと思ったんだけどなあ。隋滅亡の原因は煬帝じゃなくて文帝の妃の皇祖娘子なる悪女で、煬帝は操られてるだけだった、とか、秦は滅びずに代々の王は地下迷宮に立て籠もり、中国の王朝が幾つも交代するのを尻目に「国家内国家」として栄えてきた、とか。
 ところが、この鳴り物入りで予告された秦王の地下迷宮(阿房宮+始皇帝陵?)が、そこらのファンタジーのダンジョンと変わらない(というかむしろしょぼい)のが明らかになった中盤以降、唐帝国に於ける皇祖娘子や秦王の位置付けが曖昧になり、「歴史改変」設定は宙に浮いてしまう。で、そのまま最後まで回収されないのであった。やれやれ。

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