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参考文献録

『アラビアン・ナイトメア』 ロバート・アーウィン 若島正・訳 国書刊行会 1999(1983)
the arabian nightmare
『アラビアン・ナイト必携』(原著1994年、邦訳1998年)の作者の小説第一作。

 知識や批評能力は創作行為と関連してはいるが別物だということは、多くの人が解っているだろう。しかしもし他者の作品をあれこれ論評する人が実際に創作を行って、それが箸にも棒にもかからなかったとしたら、やはり多くの人が「自分のことは棚に上げといて……」と思わずにはいられないだろう。
 その点、『アラビアン・ナイトメア』は『アラビアン・ナイト必携』の著者(この二作品の著者が別人だと仮定して)の批評に充分耐え得る小説である。

 英国の青年バリアンは、シナイ砂漠の修道院への巡礼としてカイロを訪れたその日から、悪夢に悩まされることになる。カイロには、「アラビアの悪夢」という謎の伝染病が蔓延しているという噂だった。患者は毎晩夢の中で果てしない苦痛を味わうが、目覚めるとその夢を完全に忘れ去っている。だから誰が患者なのかはわからず、したがって噂が真実なのかどうかもわからない。
 バリアンは夢の内容を憶えているので、「アラビアの悪夢」病に罹っているわけではない。しかしそれゆえに、夢と現実の境界は速やかに消失していく。彼はカイロから出ようと街中を歩き回るが、出ることは叶わない(その苦闘もまた夢なのかもしれない)。

 都市の「闇」の領域を舞台とした作品といえる(「魔都もの」とでも呼ぶべきか)。魔術師まがいの怪しい学者とか怪しい教団とか怪しい組織とか、そういうんが人里離れた場所にじゃなくて、都市に巣食って暗躍してる。
 そういう外枠で、謎が謎を呼ぶ展開なわけだけど、著者の関心は夢(悪夢)と現実の混淆を描くことにあるので、結末で謎が解き明かされるわけではなく、謎解きを期待する人向けではない。まあ一応解明される謎もあるけど。

 私としては、メインとなっている夢と現実の混沌、あるいは怪しい連中の陰謀とかよりも、後半に挟み込まれる挿話「しゃべる猿の物語」が大層おもしろかった。アラビアンナイト風なのはむしろこのパートであり(猿にされた青年の物語はアラビアンナイトに収録されている)、『アラビアン・ナイト必携』の著者の真骨頂というべきだろう。
 時間潰しに語られた物語から、別の物語がどんどん派生していく。一つの物語が結末を迎えたところで、聞き手が「だが、どうして主人公は○○○について知ってたんだ?」といった質問をするので、語り部はそれについて新たな物語を語り始める。そのうち聞き手は大胆になってきて、一つの物語の途中で、「待ってくれ、そもそも×××なのはどうしてなんだ?」などと口を挟む。語り手はそれを拒みもせず、「私としたことがそれを話すのを忘れていた」と、中断して別の物語を始める……という具合に果てしなく展開していくかと思わせる。

 実際にはそうならずに強制終了されてしまうのだが、エンデの『果てしない物語』が、一つの物語から多数の(無数の)物語が果てしなく派生していく可能性を示しただけに留まったのに対し、『アラビアン・ナイトメア』は「無限の派生」を途中までとはいえ、実際に見せてくれる。

 この無限に展開していく挿話がメインであればよかったのに、と思う。外枠の「アラビアの悪夢」や怪しい連中の陰謀の物語とは一応繋がりがあるのだが、かなり曖昧な繋がりだし、挿話のパートのおもしろさに比べて、メインのほうは生々しい夢とも非現実的な現実ともつかない場面がずっと続いているので少々しんどい。自分がわりとよくそういう状態に陥るんで、その時の気分を強制的に蘇らされるというか。

 もう一つ難を言うなら、主人公バリアン、およびかなり重要な人物であるマイケル・ヴェインのキャラクターが曖昧なことだな。バリアンは巡礼の振りをして実はフランスのスパイだが、その動機を含めて過去がまったく語られないし、ヴェインは神学生崩れで現在はカイロの学者(魔術師)「猫の父」の手先だが、その波乱万丈の過去は駆け足で語られるだけだ。
「人物の掘り下げが足りない」とかそういう阿呆な物言いはしたくないんだが、しかしなんかなあ、もうちょっとこう……

 キャラを立たせることの功罪については措いとくとしても、問題なのは彼らが15世紀末の西洋人らしくないということだ。15世紀末の西洋人らしさとは何かというのも措くが、お蔭で舞台となるカイロも、別に15世紀末に設定しなくても、十字軍終了後、ナポレオン以前だったらいつの時代でもいいじゃないかと思えるんだよね。

 なお、ムハンマドの教友(直接の信者)の一人にアブー・フライラと呼ばれた人物がいるが、これは「仔猫の父」という意味で、彼が大変な猫好きだったことに由来する(ムハンマドも猫好きだったそうである。だからムスリムは猫好きが多い)。『アラビアン・ナイトメア』の「猫の父」は猫を実験に使ったりする奴だから、この名前は相応しくない。

『アラビアン・ナイト必携』感想

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参考文献録

「杜環とアル・クーファ――中国古文献に現れた西アジア事情の研究」(『シルクロード史上の群像』 前嶋信次 誠文堂新光社 1982) (「イスラム通史7、8世紀」)
 所収論文のうち、ノートを取ったのはこの一篇(初出1942年)のみ。
 タラス河畔の戦いでアラブ軍に捕虜にされ、イラクに連行された杜環について。戦時中にこういう研究が続けられてたのはすごいかも。たぶん東洋史の研究は日本のアジア支配のための道具になると見做されてたからなんだろうけど。

 なお「泉州の波斯人と蒲寿庚」(初出1952年)は、桑原隲蔵の『蒲寿庚の事跡』で、南宋末のイスラム商人蒲寿庚をアラブ人としているのに異論を唱え、ペルシア人であったとする。イスラム圏にあってはアラブ系とペルシア系ははっきり区別されており(そして中国では区別されていなかった)、唐宋代のペルシア湾-広東の南海貿易に於いて強勢を誇っていたのはペルシア系商人であったことがその根拠である。

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『蒲寿康の事蹟』 桑原隲蔵 平凡社東洋文庫 1989
 1914年および15年の講演を基に『史学雑誌』に発表された論文を、さらに加筆修正して1923年に刊行したもの、の復刊。

 蒲寿康は12世紀末頃、広東にいたイスラム系の富豪(本書ではアラブ人とされる)。「蒲」という姓は、ムスリムの多くが個人名の後に付ける「アブー・○○○」(「○○○の父」の意)の「アブー」の音写だという。
 海賊掃蕩で功績を上げたことで南宋朝廷によって取り立てられる。しかし朝廷が対元戦のために蒲寿庚の船舶を徴発したことで、すでに南宋を見限っていた彼は元に投降する。元来、海戦に弱い元が南宋海軍を破れたのは、蒲寿庚の力によるところが大きかったという。
その功績によって蒲一族は元朝廷に重用され、大いに栄えたが、明が元に取って代わると排斥され、没落した。

 いわゆる南海貿易に関する本では、ほぼ必ず参考文献として挙げられてるので読んでみた。
 さすがにこれだけ古いと、参考にはならんな……でもとりあえず「参考文献」に数えておく。

 当時から現在まで、いかにこの分野での研究が進んだかを知る指標にはなった。あと、巻末解説(宮崎市定)によると、従来「支那史」と呼ばれていた学問を「東洋史」の名称に変え、扱う範囲を大きく拡げたのはこの人によるところが大きいそうだ。まあ「東洋史」って中国では「日本史」のことになっちゃうんだけどね。

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『カリーラとディムナ――アラビアの寓話』 イブヌ・ル・ムカッファイ 菊地淑子・訳 平凡社東洋文庫 1978 (「イスラム文化」)
 インドの寓話『パンチャタントラ』が6世紀にペルシア語訳されたものが、8世紀半ばにペルシア人によってアラビア語に訳されたもの(『マハーバーラタ』から採用した物語も含む)。

 何重もの枠物語で、王の求めに従って哲学者が寓話を語るというのが一番外側の枠である。寓話のほとんどは動物たちが主人公となっている。
 動物が人間のように考えたり振る舞ったりする寓話は世界各地に見出せるが、ペルシアにもアラブにも、そのように動物をある意味人間と対等に扱う精神風土はなかったそうである。だからこのアラビア語版の序章でも、訳者イブヌ・ル・ムカッファイはわざわざ次のように説明している。

 知識人たちが自己を理解させるために、あらゆる工夫を凝らし、その想像力を最大限に生かそうとするのは、いつの時代にも見られる現象である。インドの学者たちに、鳥獣の言葉を借りて、優麗にして完璧な言語の精髄ともいうべき本書を述作させたものも、同様の情熱であった。
 彼らが動物に語らせた理由は二つあった。完全に自由な表現が許されることと、広い領域から題材を選ぶことができるということである。

 つまりペルシア人にとってもアラブ人にとっても、動物寓話というのはまったく異質な、驚くべきものだったらしい。『カリーラとディムナ』は広く読まれたが、結局イスラム圏に動物寓話は根付かず、この後、少数の試みを除いて、新たな動物寓話が書かれることも、異文化圏から持ち込まれることもなかった。
 確かに、これまで読んだイスラムの説話や伝承に、人間のように考えたり行動したりする動物が登場することはほとんどない。人間が動物の言葉を理解できるというパターンなら幾つかあるが、これはソロモン王の伝説からの派生だろう。

 日本の昔話と同じ話が幾つかあった。「猿の生き胆」とか「鼠の嫁入り」とか。ほかに、川面に映った自分の影を別の犬だと思った犬の話や、鼠が猫に鈴を付ける相談をする話など、イソップと共通のものも。
 凍えている小さな蛇を憐れんだ男が、懐に入れて温めてやったところ、蛇は身体が動くようになるや男を毒の牙で噛み、「こうするのが私の本性だ」と言った、という話は類似したのんが『アラビアンナイト』にあった。ほかにアラブ・ペルシアの説話と共通する話はないようだ。

 一箇所、「あまりにも下品」という邦訳者の一存で短縮されている。70年代くらいまでだと、こういう「自主検閲」を受けてる古典作品の邦訳が時々あるよな。

 イブヌル・ムカッファイはペルシア人貴族で、異教徒のまま有能な書記官としてウマイヤ朝に初期として仕え、750年にウマイヤ朝が滅ぶと改宗してアッバース朝に仕えたが、757年に不明の理由によって処刑された。表向きの理由は背教者の疑いを掛けられたからだが、真相は不明。「最も残酷な方法」で処刑されたと伝えられるが、その方法も諸説あって不明だそうである。
 解説より、イブヌル・ムカッファイの略伝をノートに取る。

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『シルクロードの響き――ペルシア・敦煌・正倉院』 柘植元一・監修 山川出版社 2002 (「音楽中世アジア」)
 ブックレット。図版のほとんどが鮮明なカラーで良い。特に楽器の写真。
 西アジアと中央アジアの音楽についてのみノートを取る。

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『人間と音楽の歴史 中央アジア』 F・M・カロマトフ/V・A・メシュケリス/T・S・ヴィズゴー 音楽之友社 1993(1987)
musikgeschichte in bildern mittelasien
 このシリーズがどういうシリーズで編集されたのか、なんの解説もついてない。以前読んだイスラム篇と同じく、図版とその解説という構成。中央アジアといってもシベリアやモンゴルも含む。どうも欧米の中央アジア史では北アジアも含んでいるようだ。時代は石器時代の洞窟(岩壁)画~11世紀。

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参考文献録

『オアシス国家とキャラヴァン交易』 荒川正晴 山川出版社 2003 (「東西交渉」)
 世界史リブレット
 ソグド人の交易活動についての論考は、これまで読んだ中で一番まとまってるかな。ソグド人の活動全体とか文化についてまではカバーしてないけど。

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『中央ユーラシア古代衣服の研究――立体構成の起源について』 加藤定子 源流社 2002 (「中央アジア地誌・紀行」)
 紀元前10~紀元後10世紀までの遺物(出土した衣服、および工芸・芸術品に見られる服飾)を、上衣や下衣を復元したりもして研究している。巻末略歴には「家政学部卒業」とある。
 羊などの皮革を衣服用に裁断する際、首の部分の皮は硬いし皺があって使いにくいので切り落とす。すると自然に襟ぐりの部分が形成されることになる。また、動物の肩の部分を衣服の肩とし、動物の前脚の部分を切り落として袖ぐりにすると、前脚の付け根の緩みの部分は人間の脇にあたることになる、といった実際に製作してみたからこその見解は非常に興味深かった。

 また、死者の衣服は布帛製の場合、縫製せずに包んだり被せたりしているだけの場合もあり、つまり屍衣ということらしい。単に縫い合わせてないってだけじゃなく、形とかも生前に着るものとは違う場合もあるかもしらんなと感心する。それにしても学生の時、こういう本が出てたら、さぞ活用できただろうなあ。
「中央ユーラシアの武装」に一章を割いているのもありがたい。

 ソ連・ロシアの研究を主な資料としており、掲載されている壁画の模写もロシア人研究者が描いたもののようだ。損傷した壁画とその模写を並べたセットが何組かあるんだが、模写のほうが明らかに実物よりも人物の眼を細く吊り上げて描いてあるのが微妙。

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ぱとらっしゅ、ぼくはもうつかれたよ

 小説を書くだけじゃなくて、それを世の中に出したいのは、読者に挑戦したいからです。小説を書くことは、読者への挑戦です。

 しかし、今のところ一回も負けていません。何重にも張り巡らせた仕掛けにまったく気がつかないか、表面のわかりやすい仕掛けにだけ気がついてその下にさらに仕掛けがあることに気がつかない。
 勝つのは好きですが、勝負にもならない有様では、嬉しくもなんともありません。

 時々、引き分けまで持ち込まれることはあり、そんな時は本当に嬉しいです。苦労が報われた気がします。
 でも、負けたことはありません。たぶん、勝ってる人はいるんだろうと思いますが、今のところ私はそれを知り得ません。

 なんにでも意味を読み取ろうとする、深読みしようとするのは、ヒトという生物固有の能力です。どうか、その能力を存分に発揮してください。私はそういう小説を書いています。あなたが仁木稔の小説を読んで「こういう話だ」と、そこで思考を停止した時、まず間違いなくその先が用意されています。

 ……ちょっと気持ちが折れかけていたので、タイトルがこうなりましたが、まだ大丈夫です。今後も挑戦者を求めて、小説を書き続けます。

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参考文献録

『ゴシック名訳集成 暴夜アラビア幻想譚』 東雅夫・篇 学習研究社 2005
 文庫本700頁弱。大分を占めるのが「ヴァテック」が註も入れて140頁余り、「シャグパットの毛剃り」が400頁余り。どちらも初訳版(というか「シャグパット」の邦訳は一つしかないが)。
 ほかはアラビアンナイトの初期の邦訳、『開巻驚奇 暴夜物語』(永峰秀樹 1875)と『壱陌壱夜譚』(日夏耿之助 1923-1927)からそれぞれ抜粋した「黒島王の伝」と「黄銅の都城の譚」、小泉八雲による「シャグパットの剃髪」(「シャグパットの毛剃り」の評というか紹介。田部隆次・訳 1931)、その小泉の死に寄せた「シャグパットの毛剃り」邦訳者の皆川正禧の「蓬莱」、さらに古川日出男の『アラビアの夜の種族』外伝「サイプレス」。
 以下、「ヴァテック」と「シャグパットの毛剃り」のみ感想。

「ヴァテック」 ウィリアム・ベックフォード 矢野目源一・訳 1932(1782)
vathek
 ロバート・アーウィンは『必携アラビアン・ナイト』でこの「ヴァテック」を傑作と呼んでいる。当時すでにアラビアンナイトに影響を受けた東方物語が英仏両国で数多く出版されていたが、いずれも「長たらしいお説教」付きで、現代の感覚では退屈極まりない代物だそうである。
 それら有象無象に比べると、「ヴァテック」は「群を抜いて豊かな写実性にあふれ、イスラム世界の生活を最も正確に描写した作品だった。」
 枠物語の構造を取らせるつもりだったようだが、枠内の物語となるはずだった3つの物語はベックフォードの生前には発表されず(しかもうち1つは未完成)、20世紀に入ってようやく日の目を見たそうである。

「シャグバットの毛剃り」 ジョージ・メレディス 皆川正禧・訳 1927(1855)
shaving of shagpat: an arabian entertainment
『必携アラビアン・ナイト』に於ける評価は、「今となっては『シャグバットの毛剃り』は、流行遅れの作家の手になる忘れられた小説だ。いくつかの点について言えば、無視されても致し方ない。アラビアン・ナイトのパスティッシュもしくはパロディーとして捉えたとしても、大していい出来ばえではない。冒険物語として見ても、こんがらがっていて長すぎる。」

「ヴァテック」を、条件付きとはいえ絶賛していたのとは、随分な差がある。もっとも、この評価には、「ヴァテック」が画期的・先駆的な作品で後進に与えた影響がかなり大きかったのに対し、「シャグバット」のほうは刊行当時、アラビアンナイト風物語が時代遅れになっており、当時から現在に至るまで評価が高くないという差にも因っているようだ。
 ただし、ロバート・ルイス・スティーヴンソンは「シャグバット」の影響の下、『新アラビア夜話』『続・新アラビア夜話』を書いたそうである。

 日本でも、小泉八雲と夏目漱石が本作を高く評価しているほかはあまり注目されず、小泉の教え子だった皆川の邦訳も、出版に漕ぎ付けるまで十数年掛かり、しかも他の著者の本(ウォルター・ペイター『享楽主義者メイリアス』の下巻に付録という形でだった。「ヴァテック」の邦訳が何種類も出ているのとは、これまた対照的である。

 で、私の感想はといえば、「シャグパット」のほうが「ヴァテック」よりおもしろかった。

 訳文に拠るところもかなり大きいんだろう。刊行時期だけとっても「シャグパット」の邦訳のほうが先行してるわけだが、訳文はこちらのほうが読みやすい。講談調だが、それがどこまでふざけてるのか真面目なのかわからない、人を食った展開に似合っている。
 英米での「シャグパット」の評価の低さの一因に、「読みにくさ」があるようだが、もしかしたら邦訳はこの文体のお蔭で原典よりもおもしろくなってるのかもしれない。
 あと、これは『アラビアンナイト』のパロディなので、詩が多量に挿入されているのだが、地の文(詩以外の部分)が講談調なので詩と違和感がない。この文体でなかったら、どうしても物語の流れが中断されてしまっただろう。

 物語自体も、ロバート・アーウィンの評価がなぜここまで低いのかわからない。アラビアンナイトのパロディとしても、冒険ファンタジーとしてもよくできている。主人公の青年がへたれで、女に助けてもらってばかりいるとか、苦難を乗り越えてもあんまり成長しないとか、話がどんどん明後日の方角に転がっていくとか。
 それでいて構成はきちんとしているし、枠物語として挟み込まれる小編も、本家アラビアンナイトのように全然関連のない話の寄せ集めではなく、ちゃんと関連があってしかもおもしろいし。

「ヴァテック」について言うと、どうも私はゴシック小説が苦手かもしれない。あと耽美とか悪への憧憬とか。主人公のカリフ・ヴァセックの母親カラチスの悪女振りは気に入ったけど。

 以前『アラビアの夜の種族』を読んで、どうしてもアラビアンナイト的だとは思えなかったのだが、「ヴァテック」を読んで、ああこっちの系統だったんだなと腑に落ちる。
 ゴシック的というか耽美的というか、昔の(本来の)ヒロイック・ファンタジーにあるような暗黒神話的要素というか、そういうのんは、実は『アルフ・ライラ・ワ・ライラ』にはない。少なくとも原典から訳した『アラビアンナイト』には。錯綜している上に相当いかがわしくはあるけど、そういう要素は一切ない。翻訳者の創作が少なからず加わっているというヨーロッパ版は、バートン版を子供の頃に途中まで読んだきりなんで、どうなんか知らんけど。

「シャグパット」は挿入された小編の一つ、「美人ヴァナバー」はそれなりにゴシック的だが(蛇属の女王となった美少女ヴァナバーが蛇の群を呼び出しては戯れ、「さうして起き上れば彼女の腕も頸も毒蛇の粘液で、ぎらゞ光る。」といった描写がある)、全体としては捻くれてはいるが健全で、そういう意味でもアラビアンナイトらしい。

 所収作品はいずれも(「サイプレス」は除く)旧仮名遣いのままだが、漢字は新字に改められている。不徹底だなあ。いや、読みやすいのんは確かだけどね。
「黒島王の伝」(アラビアンナイトの初邦訳)で、シェヘラザードにあてた漢字が「助辺良是土」でルビが「スケベラゼード」だったので軽く唖然とする。シェヘラザードの「シェ」の部分のスペリングがsche-とでもなってたのかね。ルビがスケ「ベ」ラゼードなのは、たぶん誤字だろう。ルビの誤字が幾つか目に付いた。

 ところで巻末、東氏による解説にボルヘスの「『千夜一夜』の翻訳者たち」が引用されている。そこではアントワーヌ・ガランに「アラジン」などの物語を提供した人物について、次のように述べている。

 ……シャーラザードにも劣らぬ神来の記憶力をもった、ひとりのマロン教徒の女助手であった。この素性のいかがわしい補佐役――その名をわたしは忘れたくない、それはハンナであると言われている――

 西尾哲夫氏の『図説 アラビアンナイト』によると、このハンナ・ディヤーブなる人物は、シリアのマロン派の男性修道僧だそうである。性別を取り違えたのは、「ハンナ」という名前に引き摺られたのもあるんだろうけど、それ以上に、「謎の語り部」は女であってほしい、という願望からだろうね。

ロバート・アーウィン『必携アラビアン・ナイト』感想

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参考文献録

『アラビアンナイト博物館』 西尾哲夫・責任編集 東方出版 2004
 2004年、ガラン版『千一夜』出版300周年記念として開催された「アラビアンナイト大博覧会」(主催:国立民族博物館)の図録。
 アラビアンナイトの挿絵(レオン・カレ、エドマンド・デュラック、アーサー・ラッカム等の著名な画家から無名画家まで)、中東の衣装や楽器、アラビアンナイトを題材にした映画のポスターなど、大量の図版を収録している。

 アラビアンナイトを題材にした日本の漫画も何点か掲載されてるが、探せばもっとありそうな気もするけどな。山本貴嗣の『シンバッド』もないし(『日本人の中東発見』では紹介されてたのにな)。
 最も大きく取り上げられてたのが長谷川哲也の『アラビアンナイト』だった。キャラクターのデザインがナポレオンのあれと全然違ってアニメ絵なんでちょっと驚いた……。

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『図説 アラビアンナイト』 西尾哲夫 河出書房新社 2004 (「イスラム文化」)
 本文100頁強のブックレット。千夜一夜から20話余りをダイジェストで紹介。19世紀~20世紀前半のアラビアンナイトの挿絵付き。「都市の生活」「アラジン・ミステリー」「アラビアンナイトとユダヤ人」等のコラムは、上の『アラビアンナイト博物館』よりも読み応えがある。

 ところで、千夜一夜中最も有名な話の一つ「アラジンと魔法のランプ」は、アントワーヌ・ガランがシリアのキリスト教徒修道僧ハンナ・ディヤーブなる人物から語り聞かされた物語で、原典となるべき写本の類は存在せず、類似した物語も見つかっていない。ガランまたはディヤーブの創作とも言われているが、真相は不明である。
 この「ハンナ・ディヤーブ」については、ほとんどのアラビアンナイト関係の本では、単に「シリアのキリスト教徒(マロン派)修道僧」としているだけであるが、一部の著者は女性だと見做している。ボルヘスもその一人である。
 が、本書によるとハンナ・ディヤーブは男性だそうである。「ハンナ」は女性名じゃないってことやね。

 ロバート・アーウィンの『アラビアン・ナイト必携』は大変解り易くおもしろい内容だが、残念ながら図版が少ない。邦訳者である西尾氏による『アラビアンナイト博物館』と『図説 アラビアンナイト』は図版が豊富で『アラビアン・ナイト必携』と併せて読めば完璧。

『アラビアン・ナイト必携』感想

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『イスラムの蔭に』 前嶋信次 河出書房新社 1975 (「イスラム文化」)
 10世紀のイスラムの民衆生活誌、ということで、前半がバグダード、後半がコルドバ。8世紀のイスラム生活誌を専門に扱った本がないので、10世紀でもないよりはマシだと読んでみる。前半のバグダードはおもしろかったが、後半のコルドバはおもんなかった。単に興味の有無の差だろう。

 それにしても10-11世紀のアラブ・イスラム世界は西も東でガタガタだったんだな。中国の王朝も末期は大概だが、それを上回るえげつなさ。

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『シナ・インド物語』 藤本勝次・訳 関西大学出版広報部 1976 (「東西交渉」)
 再読。前回読んだのは6年前の今頃だっけか。

 原題は「アフバール・アル・スィーン・ワ・アル・ヒンド」で「中国とインドの情報」といった意味。内容は第1巻と第2巻に分かれていて、第1巻は書かれた年代はヒジュラ暦237年(851年7月~852年6月)だが著者は不明(冒頭部分が失われているため)、第2巻は書かれた年代は不明だが著者はシーラーフのアブー・ザイド・アル・ハサンということが判っている。
 第2巻の序言によると、アブー・ザイドは誰かから『シナ・インド物語』第1巻の内容を検討するよう命じられたという。新たな情報に基づき、彼が記したのが第2巻である。『黄金牧場』の著者マスウーディーは915-916年にこのアブー・ザイドとバスラで会い、情報の聞き取りをしているので、第2巻が書かれた年代はこの頃と推定される。

 同じく10世紀の南洋貿易に関する記録だが荒唐無稽な話ばかりの『インドの不思議』よりは史料的価値が高いとされる。
 おもしろいネタを片っ端からノートに取る。

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参考文献録

『サマルカンドの金の桃――唐代の異国文物の研究』 エドワード・H・シェーファー 吉田真弓・訳 勉誠出版 2007(1963) (「東西交渉」)
golden peach of samarkand
 副題どおり、唐の人々の「異国好み」を論じており、第1章「唐朝のきらめき」で概観、以下第19章まで、唐代にもたらされた物品や生物(奴隷や捕虜、朝貢物としての人間から動植物まで)について、項目を設けて紹介している。
 事典的な構成で、一つ一つの事物についての解説は簡潔で平易で、それでいてかなりマニアックな領域まで及んでいる。唐代シルクロードに興味はあるけどよくは知らない人から詳しい人まで楽しめるだろうと思う。アメリカ人の視点による解説という点も新鮮だ。

 フィクションでもノンフィクションでも、欧米人が異文化について記述したもの(の邦訳)を読むと、その文化独自の事物を欧米人に馴染みのある事物の名称に訳し、それを邦訳者がそのままカタカナ語にしてあることが多い。琵琶やウードを「リュート」、横笛は一律「フルート」、裳は「スカート」、細身の刀剣は「サーベル」といった類だな。畳を「草のマット」、餅を「米のケーキ」とか。
 英語だとそう訳すのか、と感心することもあるが、なんでもかんでもカタカナ語で済ます邦訳者に呆れることもしばしばだし、そもそも原著者の訳自体が不適切だと思われるものも少なくない。昨日の『唐シルクロード十話』なんかは恰好の例だな。

 その点、本書の著者は「言語に対して非常に敏感で、外来語はすべて語源を探り、正確な英語に置き換えることを旨として」おり、それに応えて邦訳者の吉田氏も「安易なカタカナ語は使用しないという方針で」翻訳に臨んでいる。
 大変素晴らしい姿勢である。お蔭で、本書は大変漢字が多い。「突厥」「亀茲」「于闐」といった民族名・地名だけでなく、「駱駝」「羊」「山羊」「駝鳥」など日本語の動物名などもちゃんと漢字で表記されている。私は漢字が好きであり(嫌いだったら東洋史なぞ専攻していない)、日本語の動植物名がカタカナ表記になっているのは特に嫌いである。生物学関係でもないのに、ヒツジ、レイヨウ、サル、スギ等、カタカナ表記になってる本が多すぎるんだよ。

 だがしかし、なぜか本書にはルビが一切ない。犛牛(ヤク)、鬱金香(サフラン)、党項羌(タングート)等、()内に付してるものもあるが、徹底されていない。「花剌子」をホラズムと読める人がそういるとは思えんし、だいたいこの表記は唐代じゃなくて元代だ。
 内容自体は初心者でも大丈夫だが、日本語訳が大丈夫じゃない……

 訳者あとがきにもあるように、原著が古いので学説も古いのは致し方なし。それを差し引けば、非常に詳細で精確である。太宗の長男で奇行の多かった「突厥狂い」の李承乾を、「太宗の少し頭のおかしい皇子」と断じてたりする。

 本書は『唐シルクロード十話』の参考文献の一つだが(本書からそのまま引っ張ってきたと思われる挿話が幾つもあった)、バリー・ヒューガードの『霊玉伝』でも「サマルカンドの金色の桃」が言及される(本書の原題にあるgolden peachは「金色の桃」のことである)。
 ほかにも『霊玉伝』には「ソグド人の旋回舞踏の女性」が登場し、玉乗りをしているのだが、『サマルカンドの金の桃』もソグドの旋回舞踏すなわち胡旋舞を玉乗りとしている。踊り子たちの衣装を『サマルカンドの金の桃』では「真っ赤な衣に刺繍で飾った袖、緑色のダマスク織りのパンタロン、赤い鹿革の長靴」としていて、『霊玉伝』のほうも(今手許にないので確認できないが)同じような衣装だったと思う。

 胡旋舞と呼ばれた舞踏には二種類あって、一つは普通の旋舞、もう一つは玉乗りだった。後者は明らかに本場ソグドの民族舞踏ではなく、当時の中国では曲芸はすべて西域伝来と見做されていたので、玉に乗ってくるくる旋回することも「胡」旋舞と呼ばれたのだろう。かつては胡旋舞=玉乗りだとする日本人研究者が少なからずいたが、欧米でも同様だったのだろう(で、バリー・ヒューガードはその学説の正否はまったく気にしないだろう)。
 しかし『サマルカンドの金の桃』では、胡旋舞を玉乗りだとしたすぐ後に、安禄山や楊貴妃も胡旋舞を舞ったことを述べているんだが、「安禄山や楊貴妃が玉乗りをした」ということに疑問を持たなかったんだろうか。腹が膝まで垂れ下がるほどの大デブと汗かきの小デブが高速で旋回するダンスが得意だった、というのんにもだいぶ無理があるが、玉乗りをした、というほうがさらに無理があるじゃないか。

『唐シルクロード十話』感想

『霊玉伝』感想

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参考文献録

『唐シルクロード十話』 スーザン・ウィットフィールド 山口静一・訳 白水社 2001(1999) (「中央アジア地誌・紀行」)
life along the silk road
 著者は英国の敦煌研究者だが、本書は歴史書ではなく歴史小説。8世紀半ばから10世紀後半に至る時代のシルクロードを舞台に、「この地に生きた十人の人々の生活を、資料に基づいて再構成した物語」(訳者あとがきより)。

「資料に基づいた」とあるとおり、細かいエピソードやネタ(薀蓄)は記憶にあるものが多く、つまり文献資料や発掘調査報告、論文等のつぎはぎである。例えばサマルカンドとパンジケントの街の様子はエルミタージュ美術館の発掘調査隊の報告そのまんまとか。
 まあ巧いこと構成してるとは思うし、それだけ大量の資料を使ってるということなんだけど、細かい間違いが多い。私の中国~西域についての知識は8世紀半ばがピークで、そこからは時代が下がるにつれて先細りになっていくんだが(あー、あと大学のゼミはなぜか古代・中世じゃなくて近代・現代に入れられてたのと、『ミカイールの階梯』の時だいぶ勉強したのとで、近現代史については一応……)、目に付いただけでもかなりの量である。

 アッバース朝のバグダード遷都が750年だとか(正しくは762年)、「一頭のラクダの背中に大きな木製の鞍を置き、その中に八人の楽隊員が乗った」とか。
 後者はこの唐三彩を写実だと思ったんだろうな……いや、駱駝はこんなにでかくないから。積載量も最大で300キロ足らずだから。

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 ほかにも、長安には「王宮から500フィート幅で南に延びる大通りに沿って建ち並んだレストラン」があるとか(この時代の長安に、「大通り(大街)に沿って」入り口のある店は存在しない)。なお、朱雀大街の道幅の数値は正しい。
 「ヌードル」とあるのは漢字の「麺」の直訳だろう。中国の「麺」は日本のいわゆる麺類ではなく、小麦粉食品全般を指す(唐代では主食を「餅」といい、こちらのほうがよく使われた)。唐代にはまだ日本でいう麺類はないだろう。英語のnoodleがpastaと同じ意味だったら訳として適切だが、日本と同じ意味しかなかったら間違い。
 いちいち挙げないが、この長安の「レストラン」の下りはわずか1頁程度にミスが盛りだくさんである。中国の公娼制度とか女性の化粧や服飾についての記述なんかを見る限りでは、唐代文化について決して無知ではないんだけどね。

 ホータンの玉については「ジェードすなわちネフライトはきわめて硬質であるため、造形には細かい砂と水とダイアモンド・ドリルで長時間研磨しなければならない」とある。エドマンド・H・シェーファーの『サマルカンドの金の桃――唐代の異国文物の研究』(1963年刊。邦訳は2007年)によれば、「玉」(ぎょく、yu)の英訳は jadeだそうである。
 中国では玉とは翡翠に限らず美しい石全般を指すが、欧米では半透明の緑~白の宝石jadeと呼ばれるのは硬玉(ジェイダイト)だけで、中国産のよく似ているが硬さのやや劣る玉(翡翠)は軟玉(ネフライト)として価値が劣るとされる。中国でも日本でも硬玉と軟玉の区別には無頓着だけど、欧米ではかなり厳密なはずである。
 ウィットフィールドによる上記の説明からすると、彼女は中国の玉についても、硬玉・軟玉の区別にも無知なようだ。彼女が参考文献の一つとして挙げる『サマルカンドの金の桃』では正確な説明がされている。ちゃんと読んでないってことだな。

 訳文が「ジェード」「ネフライト」とカタカナ語になってるところを見ると、訳者の山口氏も解ってないのかもしらん。
 巻末プロフィールを見ると、訳書の一つにオーレル・スタインの『砂に埋もれたホータンの廃墟』があるので、シルクロードについての知識はあるようだが、小説の翻訳経験はないようである。
 そのせいか、一応は中国~西域が舞台の歴史小説だというのに、やたらとカタカナ語が多い。スカートとかジュースとかテーブルくらいはまあいいとして、「マーケット」「ノンストップ」「スキャンダル」「ポリッジ」「マトン」「ビーフ」「グレープ」……「ウイグル人はヌードル類や干したフルーツを携行していたが、主食はミートだった」とか、あんまりだよな。
「ドウ・ストリング」とか、なんだか判らないからそのまんまカタカナにしてると思われるものもある。「マウス・オルガン」(笙)や「ダブルシックス・ゲーム」(双六)とかも、もしかしたらそうなのかもしらん。
 あと、パジャマとかファスナーとか、英語では広い意味を持つけど日本語では限定した意味しか持たないんだから、適切な語に訳すべきだろう。ソグド人の衣装を表現するのに、「マンダリン・カラー(前開きの詰め襟)、正面中央にファスナー」ってのも酷いが、「マンダリン・カラー」は原文をカタカナにしただけだろう(()内の註釈も原文にあると思われる)。

 日本人作家の小説だと、舞台となる時代や場所によって語彙の使い分けがかなり厳密である。もちろん、語源にこだわりすぎてたら日本を舞台にした小説しか書けなくなってしまうが(それさえも時代を遡るほど制約が大きくなる)、なんとなくのラインというものは存在する。
 その上で、敢えてそぐわない語を使うことで独自の雰囲気を作るということも行われる。前近代の欧米(もしくはそれ風の異世界)を舞台に、「唐変木」とか「お陀仏」といった言葉を使うことで「翻訳小説風」にするのも、その一つだ。

 英語の小説は数を読んでないので確かなことは言えんが(それ以外の外国語の小説は読んだことないし)、もしかしたら、あちらの作家は「舞台設定に相応しい語かどうか」に無頓着なのかもしれない。異世界ファンタジーで、turquoise blueというのんにお目に掛かった覚えがある(ナルニアの「ターキッシュディライト」はいいんです。あれはああいう世界なんだから)。

 以上のことに加えて本書の著者は小説家じゃないことを踏まえても、「マンダリン・カラー」は酷いわ。「アラブの軍勢はソグディアナの地を『オクサスの対岸』すなわちトランスオクサニアと呼んだ」ってのもな。「トランスオクサニア transoxiana」はアラビア語じゃねー(該当するアラビア語は「マー・ワラー・アンナフル」だ)。

 とか散々言いつつ、ノートは取った。

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参考文献録

『イスラムの国家と社会』 嶋田襄平 岩波書店 1977 (「イスラム通史7、8世紀」「シーア派」)
 第2章「アラブ帝国」のノートは「イスラム通史7、8世紀」のファイルに分類。第3章「イスラム帝国」ノートは「シーア派」のファイルに(同じ著者の『イスラム教史』(1978)のノートの補足の形で)。取ったノートを分類するの、めんどくさいんだが、分類せんことには収拾がつかなくなるからな。ああめんどくさい。
 第2章「イスラム帝国」は、『イスラム教史』と内容が部分的に被る。文面までほぼ被るとこも。まあアッバース革命については、これまで読んだ資料の中では一番詳しい。

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『初期イスラーム国家の研究』 嶋田襄平 中央大学出版部 1996 (「イスラーム通史7、8世紀」「シーア派」)
 著者の一周忌を機に編集された論文集(初出は1960~1989)。これまでに読んだ嶋田氏の著作(『イスラム教史』『イスラムの国家と社会』)よりも専門性が高く、税制を中心に扱う。よって、あんまりノートを取るべき事項はなかったが、ウマイヤ朝末期のごたごたについてとか、ウマイヤ朝に仕えたサーサーン朝軍人たちのこととか。
 専門性が高いだけあって、年代は多少の例外を除いてすべてヒジュラ暦で記されてて、しかも西暦との対照表が付いてない。

 第1部第1章「イスラーム帝国の成立」、第5部第5章「ムスリム支配下のササン朝軍人」、第6章「マワーリー問題再考のための覚書」のノートは「イスラーム通史7、8世紀」に。
 第5部第4章「アラブ帝国の非アラブ軍人」の744~746年の内乱についてのノートのみ「シーア派」に(『イスラム教史』の補足として)

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参考文献録

『唐代邸店の研究』『続 唐代邸店の研究』 日野開三郎東洋史学論集 第17・18巻 三一書房 1992 (「唐代」)
 初版は1968・70年らしい。
「邸店」(旅館と倉庫・荷物預かり所を兼ねる施設。隊商宿)を中心に、唐代の商業全般について広く論じている。城邑都市を中心に論じた正篇は、安史の乱以前についての情報が多くてありがたかった。続篇は地方や新興都市の発展が中心なので、乱以後が多かったが。

 非常に広範かつ詳細に論じているので、唐代の中国本土を舞台にした小説を書きたい人には、すごく参考になるだろう。ただし、史料がほとんどない(皆無ではないが)事柄についても、「……に違いない」「……はずである」といった推量による断定が少々多すぎる。
 とにもかくにも、分量が多くて読むのが大変だった。

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『妓女と中国文人』 斉藤茂 東方書店 2000 (「唐代」)
 晩唐を中心に、先秦~清代まで。一般向けの概説書。中唐以前の記事をメモ程度に拾う。

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参考文献録

『倦怠の華』 ピエール・ロチ 遠藤文彦・訳 水声社 2009
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 1882刊行の同名の作品集から。
 サイードの『オリエンタリズム』で「二流作家」呼ばわりされてた二人のオリエンタリズム作家のうち一人が、このピエール・ロティである。もう一人の作家はどうやら邦訳がなく、ロティのほうは存命中から邦訳が複数出ており、本作を初めとして近年も新たな訳や復刊が出ているのは、偏に彼が『お菊さん』『秋の日本』といったジャポニスム小説を書いてるからだろう。
 なんにせよ、その時代のポピュラーな嗜好を知るには、「一流」の作品よりも「二流」作品のほうが適しているので、手軽に読めるのはありがたいことである。

 ロティ(本書でLotiがロチとなってるのは、戦前の慣行に合わせていると思われる)名義になってるが、実際には友人のH・プラムケットとの共著で、二人の対話という形を取り、間にそれぞれの比較的長い(掌編~短篇程度)語りが挟み込まれている。
 で、その対話というのが、

ロチ プラムケット君、僕の夢についての君の説明はナンセンスだ。僕が四分の三はイスラム教徒だってことは君もよく知っているはずだ。それに僕が酔っ払ったのは生涯たったの一度きりだということも。あれはニューヨークでのこと、ある禁酒会の宴席に招かれたときだった。あのときは警官が僕を艦まで連れて帰ってくれたのだった。
プラムケット 愚にもつかないこと言って話の腰を折らないでくれ、ロチ、たまさか僕がまじめな話をしているというのに。たしかに、不幸にも僕は君が持たない唯一の欠点に陥ってしまった。しかし僕は、君の好きな東洋人たちのように喩えで話をしているんだ。酒に酔うことよりよほど危険な酩酊がほかにもたくさんある。そういった酩酊のことは、ロチ、君も知っているじゃないか……

 といった具合で終始する。なんというか、揃って大して才能もなければ頭もよくない者同士の、ナルシシズム溢れる交換日記? しかも、他人に見せることを前提とした交換日記だ。

 ロチ君、僕らはいたるところで退屈するのだから、よその場所しか居心地がよくない。だから時折、僕らが今いるあらゆる場所を離れてよそに行くのも悪くはない。普遍的意識不明状態と絶対的無我の境地からなるある種のどこにもない場所、そういうものがあったらどんなに素晴らしいだろう! そのような虚無――夢を見ることのない永遠の眠り、あらゆる夢よりも甘美な眠り――、それが存在しようとしまいと、僕はそれを愛する……

 かなり、アホっぽい。というかアホ。
 作品として読むのは痛痒くて耐えられそうにないが、資料として読むなら生温い笑いとともに許容できる。いや、当時はこういうのがかっこよかったんだね。

 間に挟みこまれたそれぞれの語りのうち、最も長いのは中国紀行(プラムケット)とオリエンタリズム小説風「カスバの三人の女」(ロティ)である。実に似た者同士、似合いの二人だったのはここに於いても如実で、彼らの異人種・異文化観は区別が付かないほど似通っている。

「カスバの三人の女」についてだけ述べると、これはロティいわく「アラビアが舞台で、『千一夜物語』の続きとでもいった話」で、アルジェリアのカスバに住む寡婦と二人の娘がひねもす退屈しているところから始まる。彼女たちの生活は、東洋そのもののように困窮し停滞し、倦怠にどっぷり浸かっている。
 そこへ、六人の西洋人の水夫が現れる。酔っ払って偶々彼女たちの家の近くに迷い込んでしまった彼らは、三人のバスク人と三人のブルターニュ人という構成である。
 三人の女たちと六人の水夫たちが遭遇する。ここで初めて、彼女たちが西洋人相手の売春で生計を立てていることが明らかになる。ブルターニュ人たちは尻込みするが、バスク人たちは家に乗り込んでいく。
 翌朝、太陽の光の下で、バスク人たちは女たちが厚化粧をし、もはや若くない(母親のみならず娘たちまで)ことに気づき、そそくさと港まで逃げ帰る。しかしもはや彼らの「血の中に忌まわしい死の種(すなわち梅毒)を持ち帰って」いたのだ。そして一人は間もなく死に、あとの二人はどうやら症状は出なかったが、「しかしこの毒の芽は彼らの血の中にとどまった。(中略)翌年彼らは、彼らが海を渡っているあいだ故郷の村で待っていた娘たちと結婚した。それまでは健やかでたくましかった漁師の家系に、彼らはそのアラビア産の伝染病を持ち込んでしまった。生まれてきた二人の初子は、ともに、見るも恥ずかしい傷に被われていたのである。」

 何もかも、実にわかりやすい構図だ。東洋は停滞し、貧窮し、かつての偉大さの残滓を魅力として留めてはいるものの、一皮剥けば「不浄の塊」で、隙あらば健やかな西洋人を汚染しようと狙っている。そしてブルターニュ人(著者の同胞)は本能的な賢明さから難を逃れるが、バスク人たちは愚かなのでこの罠に引っ掛かる。東洋の「穢れ」は、遺伝という科学的(当時に於ける)な裏付けも与えられている。

 訳者の遠藤氏は、この作品を「反植民地主義的」とし、その根拠の一つとして、三人の女たちに梅毒をうつしたのが異教徒(西洋人)だったことに言及する一節を挙げてるんだが、上記のようにロティにとって西洋人は一枚岩ではないのだから、この一節に遠藤氏が言うほどの意味があるとは思えない。
 本書巻末には、遠藤氏の長文注意!な解説が付いており(本文160頁強に対し、80頁強)、「倦怠の華」の解読が行われているのだが、どうにも買い被り、深読みのしすぎに思えてならない。
 しかしその熱意のお蔭で、貴重な資料である「二流作家」の作品が日本語で読めるのだから、本当にありがたいことである。

ピエール・ロティ『アジヤデ』感想 (『日本人の中東発見』(杉田英明)は、日本人のオリエンタリズム形成に多大な影響を与えた作品の一つとして、『アジヤデ』を挙げている)

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参考文献録

『盲目の梟』 サーデク・ヘダーヤト 中村公則・訳 白水社 1983
 著者名がサーデ「ク」なのは、本書の表記どおり(サーデ「グ」のほうが原音に近い)。

 今回、資料として読んでる小説は、「過去の中国~中東とその周辺世界、もしくはそれをイメージした架空の世界を舞台とした、東アジア人(日本や中国など)以外の著者による」という条件で選んでいるんだが、ネットその他で得られる情報では、舞台となる場所や時代がどこのものか判らないものも少なくない。
 そういうわけで、本書はいずれも著者と同時代(1930~40年代)のイラン、インド、フランスを舞台としており、「外れ」だったわけだが、分類がめんどくさいので参考文献の一つに数えておく。
「変わった女」「こわれた鏡」「ラーレ」「ハージー・モラード」「サンピンゲ」「赦しを求めて」「野良犬」「三滴の血」「ダーシュ・アーコル」が短篇。「盲目の梟」が中篇。

 これでヘダーヤトの邦訳は3冊全部読んだことになるが、おもしろさは『サーデグ・ヘダーヤト短篇集』<『盲目の梟』<『生埋め』の順だな。
『短篇集』と『生埋め』の石井啓一郎氏の訳に比べて、中村公則氏の訳は少々古く感じた。まあ読んでるうちに慣れたけど。「盲目の梟」では一人称を「私」「俺」「僕」と明らかに意図的に使い分けてるのに、「変わった女」では「私」と「僕」の両方が無頓着に使われてるのが気になると言えば気になった。いや、一人称の使い分けにこだわるのは、キャラクター小説に毒されてるからなんだろうけど。

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SFが読みたい! 2010年版

 発売日は毎年2月10日で、誕生日だったりする。他人にはまったくどうでもいい個人的なことだし、私自身にしたところで、誕生日が節目じゃなくなってもう何年も経つが(節目だったのは、せいぜい30歳までだな)、誕生日に目にするこの本に名前が載ってても載ってなくても、もっと頑張らなくちゃと思う。

 ところで、この本で毎年一番重宝しているのは、サブジャンル別ベスト10の、科学ノンフィクション部門だったりします。文芸ノンフィクションもかなり。

『ミカイールの階梯』はベストSF2009で20位、SFマガジン読者が選ぶベストSF2009では8位でした。投票してくださった方々、ありがとうございました。

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参考文献録

『唐の行政機構と官僚』 礪波護 中公文庫 1998 (「唐代」)
 1968~79年に発表された六篇の論考をまとめたもの。三部構成で、Ⅰに概説的な二編、Ⅱに個別のテーマを論じた三篇、Ⅲに総括的な一篇、という構成で、はしがきによると「Ⅰの二編のあと、Ⅱの三篇を飛ばし読みし、Ⅲの総括を読んだ上で、改めてⅡに立ち返っていただいては、いかがであろうか」とあるんだが、いや、せやったら最初っからⅠ、Ⅲ、Ⅱの順番にしたらよかったんとちゃうん?

 唐の行政機構については、ごく基本的なとこだけ押さえておけばいいので、ⅠとⅢからノートを取る。

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『インドの不思議』 ブズルク・イブン・シャフリヤール 藤本勝次/福原信義・訳注 関西大学出版・広報部 1978 (「東西交渉」)
 10世紀後半に書かれたと推測される。著者はペルシャ湾岸のクジスターン(フーゼスターン)出身でペルシア系の船主ということ以外は不詳。この「船主」というのは、船長として自ら船に乗り込む者と、自分は海に出ずに人を雇って船を任せる者の2タイプがあり、著者がどっちなのかは不明。しかし本書に収められた135のエピソードはすべて他人から聞いた話であり、しかもそのほとんどが荒唐無稽のものであるから、後者のタイプの可能性が高い。

 女人国とか巨大な鳥とか、荒唐無稽な話ばかりなので、史料的価値は低いとされている。しかし当時のムスリムの商人や船乗りたちの間で、こうした話がまことしやかに語られていたという貴重な記録ではある。
 というわけで、おもしろかったエピソードを片っ端からメモする。作品にどの程度反映されるかは不明。

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『イスラーム商業史の研究』 佐藤圭四郎 同朋舎 1981 (「東西交渉」「香料・香辛料」「前近代科学・錬金術」)
 本文約430頁のうち、4分の3ほどが「内編」として「イスラーム商業史の研究」、残り4分の1が「外編」として「東西交渉史の研究」(中国サイドから)。どちらも半分以上が11世紀以降のことなんで、参考になる部分は少ない。

 内編第二章「ムスリム商人の企業形態」は「東西交渉」、第七章「ファーティマ朝時代における香料史料について」は「香料・香辛料」、外編第一章「北魏時代における東西交渉」は「前近代科学・錬金術」としてノートを取る。

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参考文献録

『アルハンブラ物語』 ワシントン・アーヴィング 平沼孝之・訳 岩波文庫 1997(1832/1852)
the alhambra
 上下巻。
 著者アーヴィング(1783-1859)は『スリーピーホロウ』の原作者、と言えば知ってる人も多かろう(私は未読だが)。1826-29年、アメリカ公使館書記官としてスペインに滞在した。29年のアルハンブラ滞在を中心にまとめたものが32年の初版、邦訳は20年後に大幅に加筆修正した改訂版(量的には倍以上増加)に拠る。初版から改訂版までの間の1842-44年にはスペイン公使を務めている。

 上巻は主にアルハンブラの紀行と歴史。上巻の最後のエピソード「アラブの占星術師の伝説」以降は、著者が現地で収集した伝説が中心となっている。伝説といっても、著者自身が断りを入れているように、かなり改変しているようである。著者はスペインおよびイスラムの歴史や文化に造詣が深く、よくできた改変なのではないかと思う。アラビアンナイト風あり、騎士道もの風あり、ピカレスクもの風ありで、単独の文芸作品として充分おもしろいものが多い。

 上巻のアルハンブラの紀行と歴史のパートもおもしろかった。私は電車で小説を読むと、ほぼ確実に乗り過ごすので、先日渋谷に行った際、車内本としてこの『アルハンブラ物語』の上巻を選んだのだが、ものの見事に品川で乗り過ごしましたよ。

 ナポレオンのスペイン戦役が、「ついこの間のこと」として語られており、少々戸惑った。初版当時はまさしく「ついこの間のこと」だったわけで、いかに私がこの時代に書かれたものを読んでないかの現われだな。

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参考文献録

『フェルハドとシリン』 ナーズム・ヒクメット 石井啓一郎・訳 慧文社 2002(1948)
 トルコ出身の詩人ヒクメット(1902-1963)による戯曲。
 タイトルでは全然気がつかなかったのだが、ニザーミーの『ホスローとシーリーン』に基づいた物語である。イランではシリン(シーリーン)という名はかなりポピュラーだが、トルコやアラブでは少なくとも一般的ではないようだ。だからペルシア語圏以外で「シリン」といったら、『ホスローとシーリーン』のヒロインしかいないわけだ。

 本書は『ホスローとシーリーン』の中の、シーリーンに恋した天才的な工匠ファルハードが、彼女を得るために、「岩山を穿って水路を開く」という難題に挑む挿話を基にしているが、フェルハド(ファルハードのトルコ語形)が天才的な工匠でシリン(シーリーンのトルコ語形)が高貴な女性、彼女を得るためにフェルハドが岩山に水路を開く、という要素を除けば、『ホスローとシーリーン』とはまったく別物の話となっている。
 すなわち、サーサーン朝皇帝ホスロー2世(在位590-628)は登場しないし、シリンもアルメニア女王の姪ではなくアルゼン(架空の国? アルメニアの古名とかではないようだ)の女王メフメヌ・バヌの妹ということになっている。
『ホスローとシーリーン』は元からあった伝説に基づいているが、『フェルハドとシリン』は別系統の伝説等が存在するわけではなく、ヒクメットが自由に創作したもののようだ。

『フェルハドとシリン』のテーマは、同じニザーミーの作品でも『ホスローとシーリーン』より『ライラとマジュヌーン』に近い。前者では男女の駆け引きが延々と続くが、後者ではライラに恋するあまりマジュヌーン(ジンに憑かれた者、狂人)になった青年が、彼女と会うことを禁じられたまま延々と恋焦がれ続ける。

『フェルハドとシリン』では、まず女王メフメヌ・バヌが死に瀕する妹シリンを救うため、謎の老人の力によって自らの美貌を手放す。メフメヌ・バヌの顔は醜く変わり果て、シリンは病が癒えただけでなく姉の美貌を得る。
 回復したシリンのために離宮が造られる。建設現場を見学に訪れた姉妹は、工匠たちの一人フェルハドに同時に恋をする。そしてフェルハドは、醜い顔を覆い隠した姉ではなく、絶世の美貌を露わにした妹に恋をする。

 メフメヌ・バヌは嫉妬に身を焦がすが、激情のままに振る舞うのではなく、シリンを与える条件として、水が汚染された都のために山に水路を穿つことをフェルハドに命じる(山があまりにも険しいため、工事はたった一人でするしかない)。
 何年も経つうちに、フェルハドは聖者として国中の人々の尊敬を集めるようになる。彼はレイラ(ライラ)への恋に狂ったメジュヌン(マジュヌーン)と比較される。
 さらに歳月が経ち、シリンへの愛ゆえに鎚を振るうフェルハドにとって、人々に水をもたらすためのこの苦役はシリンへの愛そのものとなる。ついにシリン自身が彼を訪れて姉の赦免を伝え、一緒に帰ろうと誘うが、フェルハドは拒絶する。彼にとっては、この先20年はかかる苦役を遣り遂げることこそが、シリンへの愛なのである。

 イスラム神秘主義思想では、恋人への愛は神への愛に埋没してしまう。恋人は神の被造物であり、被造物を愛することは神を愛することにほかならない。だから愛の対象である恋人は、ただの象徴に過ぎない。
『ライラとマジュヌーン』はそこまで神秘主義思想を明確に打ち出してはいないものの、愛の対象であるライラが象徴的な存在に過ぎないことは明白である。ある時、さすらい歩くマジュヌーンは「ライラ マジュヌーン」と書かれた紙片を見つける(ライラとマジュヌーンのことは人々の間で広く語り伝えられていたのである)。マジュヌーンは「ライラ」の文字を破り捨ててしまう。愛の究極の形は恋人(対象)との一体化であり、そうなればもはや対象すら必要なくなる、ということである。

 そういうわけだからなのか、ライラもシリンも非常に個性が乏しい。『ホスローとシーリーン』でシーリーンの意思の強さと揺れる心を描いたニザーミーだが、『ライラとマジュヌーン』では、ライラの魅力はほとんど美貌しか語られていない(その美貌も死の間際に失われてしまう)。
『フェルハドとシリン』でも、シリンは姉から譲られた美しい顔以外、魅力といえるものは一切ない。軽率なのはまだ15歳だからということにしても、美しいのは顔だけで、身体は「姉と並べば、杉の傍らにある柳のよう」である(中東では美女の肢体は杉に喩えられる)。一方、姉メフメヌ・バヌは顔こそ醜くなったものの美しい肢体を保ち、女王としての権力とそれに相応しい威厳も備えている。
 ヒロインへの愛はもっと大きなものへの愛の仮の形だから、ヒロインに個性は必要ないのである。ニザーミーもヒクメットも、どこまで意図してるのかは不明だが。

 神秘主義思想は、恋人(被造物)への愛を神への愛に発展させるが、ヒクメットが恋人(個人)への愛を博愛に発展させているのは、社会主義者だからなんだろうな。本作を獄中で執筆した3年後の1951年、ソ連に亡命し、63年にモスクワで没している。しゅ、粛清されなくてよかったね。まあ国際的な著名人だったようだから無事だったんだろう。
 粛清どころか、この『フェルハドとシリン』を基にバレエが『愛の伝説』が創作され、訳者の石井氏は中学生の時(1970年代後半)、ボリショイバレエの来日公演をTVで観たという。ググったら、『愛の伝説』は近年もロシアのバレエ団で上演されている。

 石井氏は本書をトルコ語原書から訳しているし、先日読んだ『サーデグ・ヘダーヤト短篇集』と『生埋め』もペルシア語原書から訳している。で、大学はイスパニア語学科卒業である。世の中には凄い人がいるなあ。てゆうか、『わたしの名は紅』もこの人に訳してもらいたかったなあ。

『ホスローとシーリーン』感想

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参考文献録

『大英帝国のオリエンタリズム――歴史・理論・諸芸術』 ジョン・M・マッケンジー 平田雅博・訳 ミネルヴァ書房 2001(1995)
orientalism: history, theory and the arts
 これはひどい。

 イギリスの歴史家によるサイード批判。本文(+注)340頁と、あまり厚い本ではない(全8章+序章・結論)。うち3分の1弱にあたる80頁(序~第2章)が、サイードおよびその「追随者」たちの批判に充てられている。
 主に槍玉に挙げられているサイードの著書は、『オリエンタリズム』(1978)と『文化と帝国主義』(1993)。いわゆる「オリエンタリズム論争」についてはほとんど何も知らんので、このパートはよくわからんかった。

 が、要するに著者が言いたいのは、サイードと「追随者」たちは「文芸理論家」「言説理論家」なので、歴史をまともに解釈することができない。まともな歴史家なら回避するよう常に注意する「過去の時代に現在の価値観を読み込むこと、過去の世代の人々の判断にそのまま基づいた上滑りの判断をすること、意図と結果を区別しないこと、著者の意図と読者の期待との軋轢から由来する読み方の多様性を見落とすこと、など」を平気でやらかす。
 それに対し、「真摯な歴史家たちは、党派的で物語的な伝統を長いこと棄却しており、近年の帝国史研究の確固とした分析的・自己批判的傾向を選択している。」
 だから「真摯な歴史家たち」はオリエンタリズム論争に加わったりしない。そして著者もその一人であるが、もはやサイードと追随者たちの跋扈が目に余るので、というわけだ。

 覚えがないこともない価値観だな……「歴史家=正しい歴史認識ができる=正しい」「門外漢=正しい歴史認識ができない=駄目」

 第3章からは、19世紀~20世紀初頭のイギリス(および他のヨーロッパ諸国)の諸芸術の「(本来の意味に於ける)オリエンタリズム(すなわち東洋趣味)」の具体例を列挙している。第3章:絵画、第4章:建築、第5章:デザイン、第6章:音楽、第7章:演劇(なぜ文芸を除外しているかは不明)。
 そうして、イギリス(とその周縁である欧米)はこんなにも東洋を賞賛し、影響を受けてるじゃないか、侮蔑や政治的意図なんかないじゃないか、と主張しているのである。

 サイードは、広義のオリエンタリズムの「東洋趣味」「異国情緒」の面を完全に無視しネガティヴな面ばかり取り上げている、というのがマッケンジーによる批判の第一義である。
 確かに『オリエンタリズム』では、サイードは欧米人の「東洋への賞賛・憧れ」をほぼ無視している。しかし『文化と帝国主義』では、一応それなりに取り上げている(特に『キム』で描かれるインドの魅力について)。
 その上でサイードが問題としているのは、賞賛しようが貶めようが、ヨーロッパ人は東洋について語る時、その言説は当の東洋人たちが自身について語る言説よりも断然正しいと思っている。否、それどころか東洋人たちが自身について語る能力があるとすら思っていない、ということだ。

 マッケンジーは、サイードのこの苛立ちをまったく理解していない。それはもう、見事なまでに。「我々は東洋をこんなに賞賛し、影響を受け、愛している。なぜそれが解らないんだ。確かに細かい考証は間違ってるかもしれないが、東洋への愛があるんだからいいじゃないか。なぜそれが解らないんだ」と驚き、不快を露わにしているだけである。
 無神経な人間を無神経だと非難しても徒労に終わるだけ、という見本だな。

 オリエントを題材とした芸術作品に、(ありもしない)政治性を見出している、というのがマッケンジーのサイード批判の第二義だが、どうも彼は「政治」を「国の政策」と極めて狭く定義しているようで、あたかもサイードを暗に陰謀論者と誹謗しているかのようである。
 マッケンジーはまた、サイードの主張を「比類なき西洋の植民地の文化衝突におけるマニ教的二項対立」とし、「マニ教的二項対立」または「二項対立」という語は、この大して厚くない本の中に繰り返し登場する。
 サイードはそんな見方はしてないし、「マニ教的」って修飾もなあ。マニ教の神話では、少なくとも地上に於いては光の元素と闇の元素は交じり合った状態とされていて、つまりは「二項対立」にはなってないんだが。まあ慣用句っちゃそうなんだが、慣用句を何度も何度も何度も繰り返すというのもアレだな。

 サイードが『文化と帝国主義』で取り上げている芸術作品がサンプルとして充分な数とはいえないのに対し、マッケンジーは膨大な数の芸術作品を列挙している。しかし上記のように、「我々は東洋をこんなにも賞賛してきたんだ。イデオロギーなんかない」という主張を繰り返しているだけなので、作品タイトルの列挙というかほとんど羅列で終わってしまっている。
 また列挙・羅列された作品の選択にしても、例えば第三章の絵画で浮世絵の影響を無視してるのが理解できん。

 あと、細かいことだが「1851年」の万博に「日本からの出品」があった、てのは何? 独自の区画ではなく中国の区画に展示されたそうだが、私が知らないだけで史実なのか? それとも誤字? 誤認? マッケンジーのミスだったら、訳注等でフォローすべきだろう。ミスじゃなくて史実だとしても、フォローは欲しいよな。
 Eugèneの読みが「アージェン」ってのもないだろ(英語読みだったらユージーンだ)。アージェン・ドラクロワて、同姓の知らない人だと5秒くらい思ってしまいましたよ。

 ……といろいろ不満はあるが、まあ「彼ら」の考え方はよくわかったし、実は作品タイトルの羅列・列挙だけでも結構おもしろかった。例えば1828~1916年にロンドンで上演されたオリエンタル劇タイトル:「地震、ナイルの亡霊」「バヤデレス」「砂漠、イマームの娘」「ムガール皇帝」「芸者」「アマシス、エジプトの王子たち」「提灯」「チュー・チン・チョー」etc

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参考文献録

『唐代音楽の歴史的研究 楽制篇』 岸邊成雄 東京大学出版会 1960
『唐代音楽の歴史的研究 続巻』 和泉書院 2005

『楽制篇』(上下巻)が2005年に復刻された際、続巻が上梓されたそうである。続巻所収の論考も、初出は1930年代~60年代。
 唐代音楽は学部時代の守備範囲だったんだが、この本(続巻所収論文含む)は読んでなかった。日本語の資料はあんまり使わなかったからな。今では中国語読解能力が著しく低下してもうたので、日本語資料を読む。

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『南海香薬譜――スパイス・ルートの研究』 山田憲太郎 法政大学出版局 1982 (「香料・香辛料」)
 中国と西域の交易の資料として読んだんだが、香料・香辛料それ自体についての有用な情報が豊富だし、香料・香辛料については今後、別の作品で取り上げることもあるだろうからということで、新たにファイルを設ける。ノート取ったのは相変わらず宋代までだけど。
 本文だけで600頁もある。有用な情報は多いとはいうものの、文章が冗長というか、やや「馬から落馬した」調のきらいがあり、内容の重複も少なからずある。

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