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参考文献録

『アジヤデ』 ピエール・ロティ 工藤庸子・訳 新書館 2000(1879)
aziyade(発音記号はめんどうなので省略しました)
 オリエンタリズムに分類されるフィクションのコンプリートにはほど遠いが(する気もないが)、これはまさにオリエンタリズムの中のオリエンタリズムと呼べる作品だと思う。そしてまた、このオリエンタリズムっぷりも含めて、19世紀後半~20世紀初頭の通俗小説の典型ではなかろうか。

 オリエンタリズム的要素を除いても、書簡体だとか、ナルシシズム溢れるペシミズム気取りだとか。究め付けは本作が「ピエール・ロティ」という名の英国青年士官の一人称で語られていて、著者は匿名、以後はピエール・ロティ名義で作家活動を行っていることで、これって当時でさえ相当な厨房テンプレートという気がするんだが。

「西」から見たオリエント(広義の東洋)は二つに大別できる。一つはひたすら魅力的な幻想である(いかがわしさや危険も魅力たりうる)。もう一つは実際にオリエントを訪れた者が幻滅する「真実のオリエント」である。
 言うまでもなく、どちらも手前勝手なイメージの押し付けである。ついでに言えば、相手がどんな集団だろうと個人だろうと、「他者」像というものはなべて手前勝手なイメージの押し付けである。そしてもちろん、「自画像」もまた「真」ではない。

『倦怠の華』に見られるオリエント像は、「オリエントの真実」を熟知すると自認する著者たち(ロティとプラムケット)によって語られる、上辺のものでしかない魅力とその下の不潔と退屈、どうあっても魅力には変換できない種類のいかがわしさと危険である。
 一方、『アジヤデ』のオリエント像は、どこまでも美しく悲しく魅惑的な幻想である。『倦怠の華』の「幻滅」は、一部のペシミズム気取りには「これぞ真実」と好まれるだろうが、圧倒的多数に好まれるのは『アジヤデ』の口当たりのいい幻想だ。著者ロティは、「真実のオリエントの幻滅を体験」しているわけだから、『アジヤデ』は徹底した幻想の産物なのである。

 本書の表紙には、アングルの「奴隷のいるオダリスク」が使われている。横たわるハーレムの女奴隷は、白人で金髪である。「イスラム教徒に奴隷とされた白人(金髪)女」というのは、オリエンタリズム絵画で好まれた題材だ。白人のそれも金髪の女がイスラム教徒に汚される、という図式は倒錯した性的妄想であり、現在までハーレクイン・ロマンに継承されている(いや、読んだことはないんだけど)。
 ヒロインのアジヤデは東洋人ではなく、栗色の髪と白い肌を持つチェルケス人である。オリエントとヨーロッパの中間からトルコのハーレムに売られてきた、というこの設定は、上記の「ハーレムの白人女」という妄想もいくらかは含んでいるが、それよりはむしろ、ヒロインをまったくの東洋人にしてしまうと、西洋人である読者との距離が離れすぎてしまうという計算によるものだろう。

 すなわち、アジヤデの外貌は適度なエキゾティシズムを備えつつ、白人の一般的な美的感覚に適合している。それでいて、その精神はまったく東洋的であり、怠惰かつ子供または動物のようだ。
 だから、読者は彼女の死に対して後味の悪さは感じず、甘い感傷に存分に浸ることができる。

 終盤、アジヤデは主人公に捨てられたと思い込み、絶望で死んでしまう。で、それを知った主人公もまた世をはかなみ、トルコ軍に身を投じ、トルコ人として死ぬ。
 この徹頭徹尾ぶりは、いっそ見事なほどである。ヒロインと主人公が共に死んでしまう作品というのは、きれいに完結した物語を望む読者を対象としている。そこまであられもない、もしくは繊細な読者が大半を占めるわけではないから(時代や社会によって比率は異なるだろうけど)、たいがいの作品では死ぬのはヒロインだけである。ヒロインが死ななくてはならないのは、当然ながら「死んだ女だけがいい女」だからであり、読者の多くは女が生き永らえて新たな物語を生み出していくことに耐えられないほど繊細だからである。

 ヒロインが東洋に属するオリエント作品では死亡率がより高くなるのは、「死んだ女だけがいい女」に加えて、「死んだ東洋人だけがいい東洋人」だからだ。

 先日読んだ同じ作者の『倦怠の華』の訳者の遠藤文彦氏による巻末解説は、その長さ(本編の半分にも及ぶ)もさることながら、内容がなんというか『倦怠の華』という作品の買い被りというか深読みのしすぎとしか思えなかったのであった。一方、この『アジヤデ』の訳者解説は「エキゾチズムをめぐる試論」というタイトルで、概ね首肯できる内容だ。
 それによれば、日本を舞台にしたロティ作品『お菊さん』では、ヒロインのお菊さんは死なないそうである。それどころか、ヨーロッパに戻る主人公が最後にもう一度、一目だけでも会いたくて、彼女の家にこっそり引き返してみると、彼女は悲しみに打ち沈むどころか、けろりとして手切れ金の銀貨を転がして遊んでいたという。

 主人公は、このまともな情緒を持たぬ「黄色い脳味噌」に甚く幻滅する。ロティの実体験により基づいているらしい『お菊さん』を私は未読なので推測でしかないが、まず間違いなく彼はオリエンタリズムの二番目の類型である「真実のオリエント」を、「オリエント体験者」としてペシミスティックに描いてみせたつもりであろう。しかしそこから見えてくるのは、「文明人」である男の幻想などものともしない、「現地人」の女の清々しい逞しさである。
 お菊さんのような、男が去った後でもけろりとして生きていく女という野蛮人に耐えられない文明人の男および女の繊細さに応えたのが『アジヤデ』であり、『お菊さん』を元ネタにした『蝶々夫人』である。

『倦怠の華』感想

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