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参考文献録

『女たちが究めたシルクロード――その国々の生活文化誌』 水谷令子/清水陽子・編著 東洋書店 2005
 再読。『ミカイールの階梯』の時にも参考にした。
 新疆ウイグル自治区からグルジア、トルコにまで至る地域のフィールドワーク。本文150頁弱だが、有益な情報は多い。

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『アラブ飲酒詩選』 アブー・ヌワース 塙治夫・編訳 岩波文庫 1988 (「イスラム文化」)
 ノートは訳者解説から取る。
 アブー・ヌワースは8~9世紀に活躍した詩人。イスラム以前の伝統に依然縛られていたアラブ詩を改革した。ムスリムの大半が都市の定住民となっている時代に、体験したこともない砂漠の生活や情景を詠い続ける詩人たちを風刺した詩も少なくない。

 母親もしくは両親ともがペルシア人である。一世代前のアラブ詩改革の先駆者バッシャール・イブン・ブルドもペルシア系だそうである。『ジャーヒリーヤ詩の世界』(小笠原良治)に収録されたジャーヒリーヤ詩に比べれば、比喩が随分洗練されているのは(それでもニザーミーやハーフェズとは比較にならない単純さだが)、都市文化が発展したためか、それとも彼がペルシア系だからか。

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参考文献録

『漂泊の王の伝説』 ラウラ・ガジェゴ・ガルシア 松下直弘・訳 偕成社 2008(2002)
la leyenda del rey errante
 邦題は原題の意味と同じ。著者はスペイン人。バルコ・デ・バポール児童文学賞受賞。

 舞台はイスラム以前のアラビア半島はキンダ王国、主人公はホジュル王の息子で詩才豊かなワリード王子。
 シバの女王を除けば、イスラム以前のアラビア半島が舞台の小説って珍しいよな。単にイスラム色を出したくないだけの、考証無視のいい加減なフィクションなら、それなりに数がありそうだが、本書はわりとしっかり考証されている。

 主人公ワリードのモデルは、実在のアラブ詩人イムルウ・ル・カイスである。『ジャーヒリーヤ詩の世界』(小笠原良治)によると、キンダ王国は5世紀の中頃に建国され、一時期はサーサーン朝ペルシアの後ろ盾を得て強勢を誇った。
イムルウ・ル・カイスは6世紀初めの王ホジュルの息子である。詩の才能に恵まれていたが、青年時代は放蕩がたたって父に勘当された。しかしまったく反省することなく、ならず者たちとつるんで半島各地を転々とした。一方、父のホジュルも暴虐な王だったらしく、被支配部族の叛乱によって殺害され、王国は滅亡した。
 亡国の王子となったイムルウ・ル・カイスは、父の復讐と王国の再興に残る人生を捧げ、結局どちらも果たせないまま530年代に歿した。

『漂泊の王の伝説』は、物語は創作だが、この史実を下敷きにしている(漂泊の「王」なのは、物語ではキンダ王国が滅ぼされたのは主人公の即位後だから)。当時の詩の形式など、時代背景も取り入れられている。
 物語自体についていうと、あからさまに説教臭い。子供なめんなよ。もちろん、時代考証がきちんとされてるから駄目なのではなく、創作部分が駄目。

『ジャーヒリーヤ詩の世界』感想

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『ジャーヒリーヤ詩の世界――イスラーム以前のアラビア』小笠原良治 至文堂 1983 (「イスラム文化」)
 ジャーヒリーヤ(無知)と呼ぶくらいだから、ムスリムはイスラム以前の文化全般に否定的だという印象があったんだが、少なくとも詩については長く口承され、8世紀には文字による記録もなされ、研究や批評も盛んに行われたという。まあ長く口承といっても、古い作品でもイスラム勃興から2世紀は遡らないらしいが。
 また、『アラブ飲酒詩選』(塙治夫)によれば、8世紀後半から9世紀にかけて活躍した詩人アブー・ヌワースの時代まで、アラブ詩はジャーヒリーヤ時代の伝統に支配されており、都市の住民である詩人たちは体験したこともない砂漠の遊牧生活を詠っていた。

 日本語で読めるイスラム古典文学は、ペルシア語で書かれたものが大分を占める。中世以前だったら九割を越えるよな。『カリーラとディムナ』はペルシア語からの翻訳だし、『千夜一夜』もペルシア的要素が強い。
 それらに共通するのは、とにかくヴァリエーションは豊富だが類型的な美女の形容(「美女」とされる女の形容は皆同じ)だ。これら後世の文芸作品では遊牧生活や沙漠の情景はもちろん、狩猟や戦闘も主要なテーマではないので、ジャーヒリーヤ詩との違いは、「美女の形容」が最もわかりやすかった。

 一番の違いは体型の好みだなー。後世の作品では「糸杉」と形容されるのが、ジャーヒリーヤ詩では、襞をなす腹や砂丘のような尻、閉じると隙間ができない両腿、骨がないかのように柔らかい(脂肪が付いて)腕とかが好まれる。でも胴は手綱のようにくびれてて、脚(膝から下)はパピルスのように細いのがいいそうな。
 
 比喩について言うと、やはり後世に比べて素朴というか洗練されていない。本書に収録されてる詩は、恋愛詩だけとっても多いとはいえないのが残念だが、それらを見る限り、比喩の種類もあまり豊富ではないようだ。
 一人の美女を形容するのにも統一感がないしな。後世の作品だと、身体を糸杉、顔を月に喩えて「糸杉の上に懸かる月」だとか、黒い巻き毛と白い顔を「黒雲の間から覗く月」だとか、唇がルビーで歯が真珠だとか、それなりの統一感があるんだが、ジャーヒリーヤ詩にはそれがないようだ。
 あと、後世の形容もたいがい大袈裟だが、胴が手綱とか脚がパピルスとか(しかも尻と腿は豊満)、なんぼなんでも、という無理な形容も多い。

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『大谷探検隊 シルクロード探検』 長澤和俊・編 白水社 1998
 大谷探検隊は、1902~1914年、3次に渡り、浄土真宗西本願寺の門主大谷光瑞によって派遣された(本人も参加している)仏教遺跡調査隊。
 本書は各隊員による報告書や講演等の抜粋。

大谷光瑞:「大谷探検隊の概要と業績」「パミール紀行」
渡辺哲信:「中央アジア探検隊」「西域旅行日記」
堀賢雄:「西域旅行日記」
橘瑞超:「新疆探検記」「中亜探検」
野村栄三郎:「蒙古新疆旅行日記」
吉川小一郎:「支那紀行」「天山紀行」

 龍大は西本願寺の学校で、史学科に東洋史専攻があるのはこの探検隊のお蔭だろうし、図書館にシルクロード関係の資料が充実してるのは間違いなく探検隊のお蔭である。学士論文は「唐代中国で流行した西域文化」だったからまだしも、修士論文は「シルクロードの仏教石窟寺院」だったんで、大学の7年間を通して、直接にも間接にも大谷探検隊のお世話になっていたのであった。

 にもかかわらず、今まで大谷探検隊関連の文献って未読だったんだよねー。20世紀前半以前のシルクロード旅行記・探検記は、道路事情が悪い上に自動車じゃなくて馬や徒歩のことが多いから、資料として使えるというのは『ミカイールの階梯』の時に学んでいたので、まあいい機会だからと読んでみる……外れ。記述が簡略すぎたり曖昧だったりして参考にならん。

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ジョージ・アレック・エフィンジャー 浅倉久志・訳 早川書房
『重力が衰えるとき』1989(1987)
 when gravity fails
『太陽の炎』1991(1989) a fire in the sun
『電脳沙漠』1992(1991) the exile kiss

 アラブの暗黒街ブーダイーンが舞台のハードボイルド風SF。ハードボイルド「風」なのは、パロディ的なお遊びの要素が強いから。この世界の人々は脳のプラグに人格モジュールを差し込むことで、どんな人格になることもでき、ジェイムズ・ボンドやネロ・ウルフのモジュールが普通に市販されてたりする。

 ブーダイーンという街が実に魅力的で、驚嘆させられた。文字どおり、驚くべき魅力だ。イスラム的色彩は、猥雑でどぎつい雰囲気を作り出すのに素晴らしく有効活用されている。あくまで「猥雑でどぎつい」味付けに使われているだけで、しかもその味付けも、くどすぎではない。イスラムについて知識がない・興味がない読者も、その味付けを充分に楽しめるだろう。
 それでいて、イスラムに関して私でさえ気づくような初歩的な誤謬はない。特定の「異文化」を扱ったフィクションて、呆れるほど初歩的なミスだらけか、衒学に走るかのどちらかだ。ていうか、その両方であることが多い。その異文化を専門に研究している著者であっても、唖然とするほど初歩的なミスを仕出かしてることもある。その一方で微に入り細に入り薀蓄を垂れ流しているのだから、げんなりさせられる。

 さらに驚くべきことに、この作品にはエドワード・サイードが批判する意味でのオリエンタリズムが存在しない。
 つまり、ここで描かれるイスラム圏(すなわち狭義のオリエント)は、「西」がいかに優れているか自画自賛するためのダシにされはいないのだ。「女性的」「倦怠」「停滞」「狂信」といったメタファーも押し付けられていない。「猥雑」と「暴力」は大盤振る舞いだが、これは世界中の「暗黒街」に共通したイメージであって、イスラムの特徴だと断じられてなどいない。
 また、「西」の自己批判のダシとして都合よく理想化した、裏返しのオリエンタリズムも見出せないのである。

 中東が「西」を照らしたり映したりする役割を負わされがちなのは、やっぱり距離が近いからなんだろう。その点、日本は「西」にとって、遠い上に歴史的にも関わりが少ないから、中東と違って「西」に繋がれた存在ではなく、「西」とは無関係な「奇妙な国」として愉しまれてきたわけだ。
 身勝手な役割を押し付けられてるのはオリエンタリズムと一緒だが、ジャポニズムは失笑したり不愉快な思いをさせられたりするレベルで済んでいる。オリエンタリズムは例えばアメリカの対イスラム圏政策に如実に反映されているが、ジャポニズムが対日本政策に反映されることは、少なくとも直接にはないはずだ。
 オリエンタリズムにも、「他者」の奇妙さを無責任に愉しむエキゾティシズムという側面はある。エフィンジャーのこのシリーズにも、そうした要素はあるが、あくまで味付け程度である。
 
 こうしたことはすべて、主人公マリードとブーダイーンの住人たちが、「他者」として書かれていないことに因っているのではないかと思う。欧米人が書く、中東が舞台のフィクションは、主人公が欧米人だったり、中東人であっても「他者」として位置づけられていることが多い。だからオリエンタリズムから逃れられないのである。
 ブーダイーンは、ムスリムのマリード(アルジェリア人とフランス人のハーフ)をはじめ、さまざまな人種や民族の住民によって構成されている。彼らは皆、「我々」で、「他者」はブーダイーンの外からやってくる余所者である。

「我々」といっても、想定される読者(アメリカ人)にとって本来「他者」であるキャラクターたちを、安易にアメリカナイズしているのではない。そして、それをやってのけたのがアメリカ人だというのもまた驚嘆すべき点なのである(いやマジで)。
 しかし、シリーズ3冊の訳者あとがきのどこにも、エフィンジャーがどういう経緯でイスラム圏に興味を持ち、これだけの見識を身に着けることができたのか説明は一切ない。第1作の『重力が衰えるとき』が生まれたきっかけは、知人のドラッグ・クイーンが殺された憤りだそうである。

 主人公たちを「我々」にすることに成功した大きな要因は、「俺」の一人称で語られるハードボイルドにしたことだと思う。
 ハードボイルドって、主人公がいかに自分がしょぼくて冴えないかを繰り返し強調しても、「でもおまえ、ほんまは『そういう俺ってかっこいい』て思てるやろ!?(そんで、作者もそういうんがかっこいい思てるやろ)」というのが露骨に透けて見えて辟易させられるから嫌いなんだが(まあ良作に巡り合えてないだけだという可能性はありますが)、このシリーズの主人公マリードにはそういうナルシシズムがほぼ無く(皆無とは言い切れんが)、本当にしょぼくて冴えないのが気に入りました。

 以下、個別の感想。各巻に付けた点数は辛めです。それぞれ+10点でもいい。

『重力が衰えるとき』
 一番おもしろかった。上に挙げた特徴は、実はこの第1作の特徴である。猥雑でさまざまな異文化が入り乱れた街ブーダイーンの造形が素晴らしい。舞台となる「街」が同時に主人公である小説としても成功しているし、ハードボイルドとしても入り組んだプロットは楽しめる。
 またSFとしても、人格モジュールというガジェット自体は今ではすっかりありふれてしまったが(言い方を変えれば、未だに有効なガジェットということだ)、使い方はおもしろい。古典作品のキャラクターのモジュールとか。100点満点で80点以上。

『太陽の炎』
 一匹狼の探偵だったマリードは、街の顔役の手下にされてしまう。それでも彼とブーダイーンの人々が依然「我々」であるのは著者の手腕というべきだろう。
 が、ブーダイーンの諸文化混淆の側面が薄れ、イスラム的要素が強くなったこと、またハードボイルドとしてもプロットが前作よりも直線的なのが惜しまれる。
 SFとしては、人格モジュールというガジェットは巧く応用されているが、インパクトのある新たなガジェットやアイディアの登場はなし。それに、1989年ていったらDNA鑑定はすでに実用目前だったと思うんだが、人格モジュールがあるような未来でなぜDNA鑑定やそれに類する技術がないのか。あると話の展開上不都合だからというのは明白だが、それならそれで、もっともらしい理由付けをしてほしかったなあ。100点満点で70点以上80点未満。

『電脳砂漠』
 異文化混淆の側面が後退し、イスラム的側面が強まるという傾向は、前作よりさらに促進されている。今やブーダイーンの顔役「パパ」の右腕となったマリードは、開巻いきなりパパとともに拉致され、死の砂漠に置き去りにされる。どれだけ手に汗握る脱出劇になるかと思えば、二人を助けたベドウィンの人々がどれだけ強靭かつ素朴かという描写が延々と続き、マリードは人生を見直すようにまでなってしまうのである。
『カリーラとディムナ』(平凡社東洋文庫)から引っ張ってきた動物寓話とか、入れる必要があったのか? というわけで、ブーダイーンに戻った時にはすでに頁数の半分が費やされているのである。後の展開はどうしても駆け足になる。やれやれ。

 ロバート・アーウィンの『アラビアン・ナイト必携』(「必携」が前に付くのか後ろに付くのかがどうしても憶えられない)によれば、アントワーヌ・ガランの『千夜一夜』翻訳刊行によって中東ブームに火が付き、いい加減な知識で書かれた中東ものが大量に生み出された。お蔭でまっとうな研究にも弾みが付いたが、中東についての正しい知識が増えるにつれて、逆に大衆の中東への興味は薄れていったという。
 研究が進むにつれて、大衆の興味と乖離してしていく――そこに因果関係があるのか否かアーウィンは言及していなかったが、やっぱり関係あるんだろう。『電脳砂漠』のアンバランスさは、明らかにエフィンジャーのイスラムへの知識が増大し、比例して興味も増大し、同時に反比例して他の要素への関心が薄れつつあったことを示している。
 第1作に於いてブーダイーンの魅力の一つだった諸文化混淆は、イスラムの知識が充分でないのを補う目的もあったかもしらんな。

 特定の事物について著者の知識と興味が深まり、マニアックになりすぎて読者置いてけぼり、というのはバリー・ヒューガードの『鳥姫伝』のシリーズにも言えるな。長く続く予定のシリーズが3巻目で止まってしまった理由は、ヒューガードとエフィンジャーでは異なるわけだけど、3巻目で読者置いてけぼりの黄信号が点灯してるのは一緒である。
 この因果関係は肝に銘じておこう。銘じておくだけな。
 100点満点で50点以上60点未満。辛めの採点ではありますが。

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『アルファフリー――イスラームの君主論と諸王朝史』 イブン・アッティクタカー 池田修/岡本久美子・訳 平凡社 2004 (「中央アジア中世」)
 全2巻。著者イブン・アッティクタカー(1262頃―?)が1302年に著した歴史書。「アッティクタカー」は流暢、饒舌に話すという意味で、綽名らしい。イル汗国のモウスル総督ファフルという人に献じられたので、「ファフリー(ファフルに捧げる書)」(「アル」は定冠詞)の名が付けられた。
「理想的な君主像」に関する雑多な逸話を集めた序と短めの第一章と、王や宰相の伝記、主要な事件などを概ね年代順に記した長い第二章から成る。第一章、第二章となっているが、巻末解説よると正確には序説と本論だそうで、この構成は『歴史序説』のイブン・ハルドゥーン(1332-1406)によって踏襲された。

 本論のほうは、正統カリフ時代からアッバース朝がモンゴルに滅ぼされる13世紀半ばまでを述べる。アッバース朝初期以前を扱った研究書とか読んでても、この本からの引用にお目に掛かった覚えがない。時代が下る文献なので致し方ないんだが。
 しかし、「何がどのように伝えられてきたか」というのは、史実そのものに劣らず重要である(フィクションのネタとしてだけじゃなくてね)。で、本書は大変ありがたいことに、アッバース朝初期以前のシーア派に関する記事がかなり多い。著者はシーア派の指導者(ナキーブ)だそうだが、シーア派関連の記事はやや同情的という程度で、充分に抑制が効いている。なので資料(「史料」ではなく)的価値は高い。

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『ジハードの町タルスース――イスラーム世界とキリスト教世界の狭間』 太田敬子 刀水書房 2009 (「イスラム文化」)
 タルスースはアナトリアの南東の付け根辺りに位置する町で、パウロの出身地タルソとして聖書にも登場するそうである。7世紀後半にイスラム軍によって破壊され、廃墟となったが、8世紀末にイスラムの対ビザンツ拠点の軍事都市として再建された。

 イスラムについて、通史は創始期から9世紀前半くらいまで、文化史はもう少し後まで、結構勉強してきたつもりだが、次作に直接関係する東側に重点を置いてきて、西側に関してはかなりおざなりだった。本書を読んでも、「トゥールーン朝って、何?」という状態。wikiによると、868-905年にエジプト・シリアを支配した、トルコ系軍人によって建てられた王朝だそうです。
 後ウマイヤ朝やイドリース朝、ファーティマ朝と違って、創始者がアッバース朝に迫害されたわけじゃないし、建前では最後までアッバース朝カリフを宗主と仰いでたし、何より四十年足らずしか続いてないから、概説書レベルではほとんど言及されてなかったから見落としてたんだろう。そういうことにしておこう。

 8世紀末~10世紀後半の対ビザンツ軍事都市なんて対象外なわけだが、「初期イスラム帝国にとっての辺境」という括りで、東の辺境であったマーワラーアンナフルとか、その他役に立つ情報が得られるかもしらんなあと思って読んでみたのであった→期待はずれ。
 本文140頁の分量じゃ仕方ない。とりあえず参考文献を1冊拾い、10世紀の年代記からの引用をメモする。どのファイルに分類すべきか迷ったが、「イスラム文化」に入れておく。

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『あやまちの夜』 ターハル・ベン=ジェルーン 菊地有子・訳 紀伊國屋書店 2000(1997)
la nuit de l'erreur
『砂の子ども』『聖なる夜』に続いて読んだわけだけど、格段の進歩が見られますね(何様)。前2作でいろいろ中途半端だった部分が、見事に昇華されている。

 第6章(全体の5分の1)までは、性的に奔放な少女ジーナの語りというベタな代物で、技術的に巧くはなってると思ったが、突出したところは見出せない。このままじゃ凡作だなあと思ってたら、第7章からはジーナは精霊のような存在となって5人の男たちに取り憑き、破滅させるという展開になる。しかもその過程は男たち自身と、同じくジーナに取り憑かれた講釈師夫婦によって語られるのだ。
 85年と87年に書かれた『砂の子ども』『聖なる夜』は連作で、一人の女の遍歴をテーマとしている。『砂の子ども』では複数の語り手を設定し、『聖なる夜』は幻想的な要素を取り込むというかたちで、どちらもマジックリアリズムを目指して半端に終わった(『聖なる夜』のほうは明らかに失敗)といったところ。
 10年後に書かれた『あやまちの夜』は、一人の女の遍歴を複数の人間に語らせ、かつ幻想的に描くという前2作と同じテーマと手法を用い、見事に成功している。

 読み進むにつれて、ラテンアメリカ文学の印象が強くなっていった。これはマジックリアリズム的というだけでなく、モロッコというスペイン(イベリア)文化の影響が強い土地が舞台になっているためでもあるようだ。
 しかし諸々のラテンアメリカ文学に比べると、荒唐無稽というか破天荒というか破綻寸前なところが少なく、構成に計算を感じる。良くも悪くもまとまっており、まあお蔭で読みやすいんだが。
 てなことを考えながら読んでいたら、後半なんとサルマン・ラシュディが登場した。しかもイブン・アル・ムカッファーという偽名を使っている。イブン・アル・ムカッファーは、8世紀半ばにカリフに仕えたペルシア系ムスリムだが、異端者(背教者)の疑いを掛けられ、「最も残酷な方法」で処刑された。その死の理由をもって、ラシュディの偽名に選ばれたのだろうけれど、インド起源の動物寓話『カリーラとディムナ』をペルシア語からアラビア語に翻訳したことにも因んでるかもしれない。

 ラシュディ未読なんだけど、ターハル・ベン=ジェルーンの「進歩」は、ラテンアメリカ文学からの影響じゃなくて、ラシュディからの影響かもしれん、と思う。作中に「ラシュディへのファンレター」まで収められてるし。ラシュディは今回読まない予定だったんだが、『千夜一夜』の翻案『ハルーンとお話の海』くらいは読んどこうかな。

 作中で日本のアダルトビデオに言及されていて、しかもありそうな内容(メイドものっぽい)なので、モロッコ(とフランス)で日本がどういうイメージが流布してるんだが少々気懸かりになる。

『砂の子ども』『聖なる夜』感想

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バジリスクの魔法の歌

パトリシア・A・マキリップ 原島文世・訳 創元推理文庫 2009(1998)

 バジリスクを家紋とするペリオール家の当主アリオッソは、グリフィンを家紋とするトルマリン家を滅ぼす。トルマリン家で生き残ったのは、ただ一人の幼い少年(音楽学院に入学していたことが後述されるので、7、8歳にはなってるか?)。記憶を失い、カラドリウスと名付けられたその少年が、辺境の吟遊詩人学校に預けられるところから物語は幕を開ける。
 が、実際に話が動き始めるのは、その37年後である。というわけで主人公はおっさんとなったカラドリウス。マキリップの長篇で、おっさん主人公って初めてだな。結構渋く、しかしマキリップの男性キャラクターに多い、ちょっとぼんやり系。復讐のためにアリオッソ・ペリオールの膝元に潜入するが、アリオッソの次女に惚れられても気がつかない。

 マキリップの作品世界は、重厚というよりは質実剛健で、かつ淡々としているわけですが、今回は何かえらく重厚で濃密でした。濃厚。分量としては本文約370頁と、ここ数年に邦訳された長篇とそれほど変わんないわけだが、えらく密度が濃いんだ。
 たぶん『影のオンブリア』『オドの魔法学校』『茨文字の魔法』の三作で、あまり煮詰められてなかった題材――都市、宮殿、権力者たちの陰謀、特殊な能力のための学校や機関、舞台芸術――が全部盛り込まれた上に、かなり煮詰めて濃縮されてるからだろう。

 その上、マキリップ作品にしては随分と血みどろなのである。「すごく残忍な人間」って、これまで邦訳されたマキリップ作品には出てこなかったキャラクターである。すごく残忍な人外なら毎回のように登場するが、何しろ人外であって人間とは価値観が違うから、残忍さはそれほど際立たないんだよな。

 仇敵アリオッソの誕生日に披露されるオペラをクライマックスとして、暗く華麗に、かつスラップスティックな様相まで帯びて展開していくわけだけど、終盤が駆け足であっさり片付いてしまうのは、まあいつもどおりのマキリップの長篇だなあ。
 いやー、こんなことじゃ感情的に収まらん人はようけおるでしょう、というのが、すべてあっさり片付けられてしまうのは、全三巻の『イルスの竪琴』シリーズにさえ言えることだ。特に今回は、直前までが相当緊迫した状況だっただけにな。

「こんなことじゃ感情的に収まらん人」たちには、アリオッソ・ペリオールの長男と次女も含まれる。二人とも徹底的に愚鈍な人物として描かれているんだが、マキリップ作品の愚鈍な人物は、どこか憎めなかったり何かしらの救いが用意されてたりするんだけど、今回は放置かい。カラドリウスの妻も放置だし、回収されてんだかされてないんだかよくわからん伏線もあるし。
 まあ、ばたばたした収拾にもかかわらず締めの場面が良いのは、これもまたいつもどおりのマキリップの長篇なんだけどね。

 しかしやっぱりファンタジーでもSFでも長篇より短篇のほうがいいや。マキリップの短篇集、また出ないかな。

 原題はsong for basiliskで、内容も「バジリスク歌」ではなく「バジリスクへの歌」である。「魔法の」とか付けるより、「バジリスクに捧ぐ歌」とかじゃ駄目だったのか?
 それと、ジュリア・ダルセットというキャラの呼び名が、地の文や友人からはジュリアだが公の場では「ダルセット教授」となるんだが、アリオッソ・ペリオールの次女「ダミエット姫」と混同されてる誤記(「ダルセット姫」等)が2、3箇所。こんな基本的な誤記がチェック漏れになってるとは思わなかったんで、最初は誤記と気づかず混乱させられた。いやはや。

 何はともあれ、クライマックスまでの濃密さは充分堪能いたしました。
 濃いい小説を読むと内容に微妙に関連したえぐい夢を見て体調を崩すことがよくあるんだが、まさかマキリップ作品でそうなるとは予想外だったなあ。まあ今回は濃さそのものより、クライマックスまでとその後の落差が原因だと思うけど。それにしてもえぐい夢だった。まだ胃の調子がおかしい。

『イルスの竪琴』感想

『ホアズブレスの龍追い人』『チェンジリング・シー』感想

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お茶は甘いかしょっぱいか

 時代設定が8世紀半ばの小説(一応非SF)を書いていて、起承転結の「起」のパートの舞台は中国である。後は西へ行く。
 当時、長安では喫茶が一般化しつつあったわけだが、その飲み方というのが、抹茶に薬味(葱、生姜、薄荷、陳皮等)と塩を入れてたんだよな。あと、棗とかグミとか。

 陸羽(?-804)は『茶経』で、茶の味だけを楽しむべし、として茶に入れるのは塩だけにしろと述べてるそうな。薬味と塩の入ったお茶だと、「御飯抜きのお茶漬け」っぽい(梅茶漬けがイメージ的に一番近いか?)。雲南では、漢族が飲料として茶を利用し始める以前から、粥に入れて「食べて」たそうだし。だけど、薬味なしの「塩味の抹茶」ってちょっときついなあ。抹茶だろうと煎茶だろうと、塩入れた緑茶は飲んだことないんだけどねー。

 さて、私は長野県諏訪地方の出身だが、両親とも新潟出身である。諏訪の人は、わりと何にでも砂糖を入れて食す。で、小学校の遠足等で、同級生が持ってくる麦茶には、砂糖が入っていたのであった。
 母は子供に甘いものを食べさせてくれなかったので(「子供には毒だからね」と言って、自分だけ甘いものを食べていた。素直な子供だったので騙されていた)、当時の私は常に甘いものに飢えていた。しかも母校の遠足というのが、文字通りの「遠足」で、小学校低学年でも十数キロ歩かされるふざけた行事だったので、甘い麦茶はとても美味しかった。
 そこで、二年生になってからだったと思うが、遠足の麦茶に砂糖を入れてほしいと母に頼んだ。母は最初渋っていたが、何度もせがむと承知してくれた。
 遠足当日、最初の休憩で、とっても楽しみにしていた麦茶を一口飲んだら……塩味だった。

 長野の「砂糖文化圏」と新潟の「塩文化圏」との、不幸な衝突でした。母は減塩にも気を使う人だったので、普段は麦茶には何も入れないのだが、敢えて入れるなら「塩」派だったのである。
 以来、私は塩味の茶は、麦茶だろうと緑茶だろうと、想像しただけで怖気が走る。いや、味覚というのは習慣に依存するところが大きいから、「不味い」と「馴染みがない」を混同して、食べ慣れてないだけの物を安易に拒絶する気はない。「甘い」と思って飲んだものがしょっぱかった衝撃の後遺症である。

「予想外の味」という衝撃を舐めてはいけない。以下は友人の中学時代の話である。
 その中学は給食がなかったのだが、ある日、同じクラスの男子Aが、紙パックのコーヒー牛乳を持ってきて飲んでいた。ところが実は、空いたパックにインスタント・ラーメンのスープを入れて飲んでいたのであった。
 パックを開かずにストロー穴から注入したわけで、どういう方法を取ったにせよ、それなりの手間が掛かったはずである。どうして男子中学生って、意味不明なことを一生懸命やるんだろうね。
 そんなこととは知らない男子Bが、「一口飲ませて」とねだった。Aは何も言わずにパックを渡した。
 コーヒー牛乳だと信じてラーメンスープを飲んだBはショック症状を呈し、救急車で運ばれる騒ぎになったそうである。

 甘い麦茶だと信じてしょっぱい麦茶を飲まされた私も、ひきつけこそ起こさんかったが、相当な衝撃を被った。小説家は想像力が命だというのに、「塩味の抹茶」を想像しようとすると脳が拒絶する……
 まあ、甘い麦茶も今では飲みたいとは思わんけどね。

 ところで、宋代の茶もやはり抹茶だったが、白色だったそうである。現在の「白茶」は、茶葉が白っぽく見えるからその名があるのだが、宋代は淹れた茶の色が白かった。だから、白色が映える黒釉の天目茶碗が好まれたのである。
 私が読んだ概説書では、ただ「白かった」とあるだけで具体的なことは何も書いてなかったんだが、大学時代、同じゼミで中国茶の研究をしてた子から聞いた話では、なんらかの方法で茶葉の葉緑素を除去して脱色してたらしい。
 確かに、天目茶碗の黒に映えるくらい白くするには、脱色するしかなかっただろうという気がするが、味も香も台無しになりそうだなあ。泡立てれば泡立てるほどよいとされてたそうだから、見た目はカプチーノみたいだったのか? 泡で字を書く達人がいたとかいう話も聞いた覚えが……

「塩+薬味入りの抹茶」以上に想像がつかん。宋代の話を書くわけじゃなから別にいいんだけどね。

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佐藤史生

 お亡くなりになってしまわれた……

 作品と出会ったのが80年代末と少々遅かったので(漫画を読むようになったの自体がその頃からなので)、全部の作品は読めていないのですが、最も好きなSF作家の一人です。SFに文化人類学の要素を融合させた手法は、大いに影響を受けていると思う。『ミカイールの階梯』執筆時には、『夢見る惑星』を何度も読み返していました。

 ああ、ショックだ……ただひたすら残念です。

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参考文献録

『文化の東西交流』 前嶋信次 誠文堂新光社 1982 (「中央アジア中世」)
 1927年から78年に発表された論文およびエッセイを収録。一番古い「カスピ海南岸の諸国と唐との通交」は卒業論文である。御大の卒論というだけでもなんかすごいが、それをポール・ペリオに送って読んでもらったってのも、いろいろな意味ですごい。「タバリスターンの拝火教諸国と唐朝」(1979)は、この卒論の補足。
 カスピ海南岸といえばアラル海東岸~南岸のソグディアナに近いので、何か使える情報はないかと読んでみたんだが、拝火教徒やサーサーン朝の遺民が多く、アラブ・イスラムと対立してたという共通点があるにもかかわらず、交流らしきものはまったくなかったようだ。

 ほかは、「漢民族のオリエント起源説」がおもしろかった。「十九世紀初頭のブハラとその文化――最初のロシア使節団員の記録から」は、下記の『シルクロードの秘密国』の補足。

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『シルクロードの秘密国――ブハラ』 前嶋信次 芙蓉書房 1972 (「中央アジア中世」)
 こういうタイトルの前嶋氏の著作があることは知ってたんだが、ネットや文献で内容紹介を見つけられず、とりあえず借りてみたのであった。古代(といっても、主に玄奘以降)~19世紀のブハラ史概説でした。

 第二章「アラブ族とブハラ」ではアラブによる征服に紙幅を割いてるわけだが、750年前後については割愛されてるよ。概説書なので、原典史料の提示はほとんどなし。

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参考文献録

『妖霊ハーリド』 F・マリオン・クロフォード 船木裕・訳 早川書房 1980(1891)
khaled
 再読……ほぼ四半世紀ぶり。内容よりも、天野喜孝のカバーイラストのほうが印象に残ってた。改めて見ると、やっぱ当時の天野絵はレオン・バクストの影響が強いなあ。こういうもろにオリエンタリズムなデザインだけじゃなくて、人物のポーズとかまんまバレエだし。

 クロフォードの著作はほかに数点邦訳が出てるが、いずれもゴシック・ホラーのようである。
ロバート・アーウィンの『必携アラビアン・ナイト』によると、19世紀のアラビアンナイト翻案小説ブームは、オリエンタリズムに加えてゴシック小説の隆盛と結び付いてるそうな。ウィリアム・ベックフォードの『ヴァテック』(1782)も、アラビアンナイト翻案小説としてよりもゴシック小説の古典として評価されてるわけだし。

『妖霊ハーリド』の訳者あとがきは、二世紀にわたって氾濫した「西欧風東洋物語」の中で「現在でも一読にあたいする作品となると僅かに三冊しかない」とし、この『ヴァテック』(Vathekを「ヴァセック」としてるが、原書はフランス語で書かれてるから「ヴァテック」だろう)とジョージ・メレディスの『シャグバットの毛剃り』(1855)と並べて本書を挙げている。
 んー………確かに本書は、「現在でも一読にあたいする作品」ではある。まあつまり、この邦訳が出た1980年当時から現在までに刊行された(国産および邦訳)ハイ・ファンタジーで、これより劣るものは無数にあるだろう。けど、『ヴァテック』と『シャグバットの毛剃り』と同列に並べられるかっつーと、甚だ疑問だ。

 一言で言うと、『妖霊ハーリド』は先行二作品に比べて、奇想が足りない。足りないのは「荒唐無稽さ」とか「ぶっとびかた」と言い換えてもいいが。『妖霊ハーリド』の訳が流麗で読みやすく、『ヴァテック』と『シャグバット』の邦訳がどちらも昭和初期のものだということを差し引いても、『ハーリド』はきれいにまとまりすぎている。よくできた小品といったところ。
 というわけで、訳者の持ち上げ方には疑問を持たざるを得ないものの、作品そのものはおもしろかった。イスラムについての知識もかなり正確だし。まあ『ヴァテック』や『シャグバット』より時代が下がるからでもあるんだろうけど。

 物語は古典的で、ジンのハーリドはアラーの許しなく人間の命を奪ったため、魂のない人間として地上に追放される。もはやジンに戻ることはできないが、もし一人の女が彼を愛してくれれば、魂を得て、死後は天国に行くことができる。だがその女、ジフワー姫は愛というものを知らなかった。かくてハーリドの苦難が始まる。

 ジフワー姫の父であるナジド国のスルタンに気に入られ、ハーリドは直ちに姫の婿になることができた。だが、愛してほしい、という要求に、彼女は「愛情ってなんですの?」と問い、ハーリドは返答に窮する。「あなた自身、こんなに単純な質問に答えられないのに、どうしてあなたを愛しているとわたくしに言ってほしいと思うのです?」
 あの手この手でジフワー姫の気を惹こうとする、ハーリドの努力は涙ぐましい。最初は魂を得るために姫の愛を欲していた彼だが、やがて彼女を愛するがために彼女にも愛してもらいたいと願うようになる。

 ジフワー姫の嫉妬を期待してハーリドが利用するのが、アルマスタというグルジア人の女奴隷である。可哀想な役回りのアルマスタではあるが、悪知恵だけは働く浅薄な女でもあり、後半は悪役になる。
 これは「我々(著者および読者)=東洋人」「他者=白人」という簡潔な逆転ではない。アルマスタは、赤毛であるところからしても白人は白人でも西欧人ではなく、東欧人(スラヴ)や北欧人(ヴァイキング)という「他者」(=野蛮な白人)である。

 マイケル・クライトンの『北人伝説』が優れているのは、文明的なムスリムであるイブン・ファドランを「我々」の側、野蛮な北人(=ヴァリャーギ。この時代、スカンディナヴィア人とスラヴ人の区別は明確でない)を「他者」としたところから出発して、イブン・ファドランが北人たちと親交を深めていくに従って、北人たちを「我々」の側へ引き寄せていくことだ。そして、終盤までにはイブン・ファドランと北人たちの間にあった垣根を取り払ってしまうのである。

『ヴァテック』と『シャグバットの毛剃り』感想

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参考文献録

『事物の声 絵画の詩――アラブ・ペルシア文学とイスラム美術』 杉田英明 平凡社 1993 (「イスラム文化」)
 アラブ・ペルシア文学の中で、美術工芸品がどのように言及されてきたかをテーマとした本。取り上げられているのはアストロラーベ、コンパス、浴場の壁画、酒杯の絵柄、絨毯、噴水の6つ。

 読んでいて、本当に好きでやってる研究なんだなあというのが伝わってくる。いろいろと羨ましい。内容自体もおもしろかったが、私のような初級者(初心者ではないと思いたい……)にとって、イスラム美術といえば真っ先に思い浮かべる細密画や建築物が取り上げられてなかったのが残念。
 著者にとっては今さら取り上げる価値もなかったんだろうけど、「はしがき」にあるように、イスラム美術に言及したイスラム文学についての研究そのものがこれまで存在しなかったというなら、なおさら基本中の基本である細密画や建築物についても取り上げてほしかったなあ。

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ハルシオン・ランチ

 今年最初の鑑賞記がこれっつーのも、あれだな。

 ものすごくテンションの高い、脱力系ギャグ漫画。沙村広明・作、講談社・刊。
 雑誌で読んだ時は、「わりとおもしろい」程度の認識しかなく、3月の刊行から数日後に「とりあえず買っとくか」くらいの気持ちで入手したのだが、妙に中毒性があって繰り返し読んでしまい、気がついたら「かなり、いや、すごく好きかも」。

「おひっこし」以上にわからないネタが多いが、わからなくてもおもしろい。とりあえず、黒夢子(クロム)ちゃんがヤのつく自由業の人を食べた時の擬音、「ぱふぁ バツン」は、『寄生獣』にあったよね。手許になくて確認できないが、パラサイトが最初に人を食った場面だったと思う。続く「ブショッ ぐっちゃ ぐっちゃ ぐっちゃ ぐっちゃ」もそうだっけか。
 でも実際、冷蔵庫を開け閉めする音も、「ぱふぁ バツン」だよな。黒夢子ちゃんやマミ子の再登場はあるんだろうか。
 あと、進次とトリアゾを拉致した謎の男たち(5人)の話す外国語の日本語訳が、本当に戸○奈津子風だったことに、甚く感心してしまった。

 「マッコリを?」
 「もらおう」
 「将軍に報告せにゃ」
 「二人と?」
 「人数など!」

 ……と、読んでない人にはなんのことかまったく意味不明であろう感想を書いてしまいましたが、きちんと説明しても間違いなく意味不明であろうカオス漫画です。絵柄が以前に増して劇画調になってるのも、カオス度を増してる要因だなあ。『シスター・ジェネレーター』は収録作の描かれた時期がバラバラだから、劇画調化に気がつかなかったんだが。
 しかし単にカオスなのではなく、立派なSFギャグ漫画として成立しているので、今後も「SF」の部分が取れないまま進行してほしいと思うのでした(私が「SF」と言った場合、褒め言葉です)。

 今後といえば、まだ単行本には収録されてない第6話では、化野元(あだしのげん。主人公)の家族とか出てきて、何か「ちょっといい話」に向かいそうな向かわなさそうな気配が立ち込め始めているので、ちょっと心配です。
「おひっこし」で「いい話オチ」、「涙のランチョン日記」で「いい話に見せかけたネタオチだけど、いい話オチと思おうと思えばできる」をやっているので、『ハルシオン・ランチ』では異なる決着をつけていただきたい。例えば、いい話オチを完膚なきまでに叩き潰す、とか。件の第6話では、わりと叩き潰されてましたが。

 ところで、どうも私が述べる感想(評価)は口頭・記述を問わず誤解を受けやすいようで、絶賛してるのにクソミソに貶してると思われたり、罵倒してるのに「わりとおもしろい」と言ってると思われたりしがちです(物書きとしてどうかと思われる)。
「ブラッドハーレーの馬車」とか「ブラッドハーレー」でググると、このブログに書いた感想がわりと上のほうにヒットするようですね。なので、『ブラッドハーレーの馬車』の私の感想を読まれて、あれが褒めてるのか貶してるのかよくわからない方もいるのではないかと思うので、ここで少々補足。

 まず賞賛すべきは、絵の方面での技巧の高さである。これを否定する人はそういまい。その技巧を惜しみなく注ぎ込んで描いているのが、「悲惨萌え」である。
「悲惨萌え」自体は、かなり人口に膾炙した嗜好だろう。しかし、それを自覚している人はあまりいないと思われる。なぜなら世の中に出回っているフィクションまたはノンフィクションで、「悲惨なシチュエーション」を包含するものは多いが、それらはほぼ例外なく物語にカタルシスをもたらすための道具でしかないからだ。
「悲惨なシチュエーション」は物語というオブラートにくるまれ、それに萌えた鑑賞者も、己の嗜好に正面から向き合わずに済んでいる。

 しかし『ブラッドハーレーの馬車』は、「悲惨なシチュエーション」のみを描いている。物語らしきものは一応あるが、それはシチュエーションを作り出すための道具でしかない。しかも悲惨さの度合いも半端ない。
 物語のカタルシスという欺瞞を取り去った(少なくとも商業漫画でできる限界まで)「悲惨なシチュエーション」は、到底萌えられる(もっと直截には劣情を催す)代物ではない。『ブラッドハーレーの馬車』は、欺瞞に保護されてきた読者に、「悲惨萌えってのは、つまりこういうことなんだよ」と眼前に突き付ける鏡である……と言いたいとこだけど、これを読んで己の欺瞞に気づく悲惨萌え読者ってのも、そういないだろうけどね。徹底的に拒絶するか、どうにかオブラートを作り上げて包み込むかどちらかでしょう。

 何より素晴らしいのは、絵的な技巧の高さ、「悲惨なシチュエーションを生み出す道具としての物語作り」の巧さ、「悲惨なシチュエーション」それ自体、そして作者の「悲惨萌え」にかける情熱が渾然一体となって、ギャグ漫画として読むことをも可能としている点である。作者の意図が奈辺にあるのかは、もちろん一番どうでもいいことです。

 で、結局私は『ブラッドハーレーの馬車』を褒めてるのか貶してるのか、どちらなのかというと、さてどちらでしょう? 関西在住が長かったからねえ。判断は各自にお任せします。

 それはともかく、『ハルシオン・ランチ』では「嘔吐」という大層特異な嗜好が中心に置かれていますが、私をはじめそのような嗜好が理解できない一般の人たちは、ギャグとしてスルーすることが可能です。

 

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参考文献録

『砂の子ども』 ターハル・ベン=ジェルーン 菊地有子・訳 紀伊國屋書店 1996(1985)
l’enfant de sable
『聖なる夜』 ターハル・ベン=ジェルーン 菊地有子・訳 紀伊國屋書店 1996(1987)
la nuit sacree
 著者はフランス在住のモロッコ人で、フランス語で創作を行う作家。『聖なる夜』は87年にモロッコ人として初めて、ゴンクール賞を受賞。

『砂の子ども』は、講釈師によって語られる、一人の人物の人生である。講釈師は、その人物の日記と手紙(謎の人物との往復書簡)を手に入れ、それを基に語る(と称している)。
『聖なる夜』は、主人公によって語られる、自身の人生である。
 二つの作品の主人公の前半生は共通しており、以下のようなものである。

 少し過去のモロッコ(56年の独立前後?)で、一人の女の子が生まれる。すでに七人の娘を持つ父親は、彼女を男として育てる。秘密を知るのは両親と、彼女を取り上げたのを最後に引退した老いた産婆だけである。
 割礼式も巧く切り抜け、胸が膨らみ始めれば布を巻き、姉たちにすら本当の性を知られることなく成人した彼女は、従妹のファーティマを娶る。病弱なファーティマは、「夫」が自分に触れないのは気遣ってくれるからだと信じたまま、やがて死ぬ。

 二つの作品の主人公は同一人物、後に書かれた『聖なる夜』は『砂の子ども』の続篇、とフランスでは見做されてるようだが、『砂の子ども』の主人公アフマド(男としての名前)が『聖なる夜』の主人公(一度も名乗らない)と同一人物だとは、一言も述べられていない(著者自身も明言していないようである)。
 実際、共通しているのは父が死ぬまでの前半生だけで、それすらも細かい相違が幾つかある。例えば、『砂の子ども』で最後まで相手が明かされなかった文通について、『聖なる夜』は何も語っていない。

『砂の子ども』は、主人公の日記や手紙を入手した講釈師によって語られる物語だが、どこまで「事実」なのか不明である。時々読み上げられる日記や手紙も、「本物」なのか確証はない。
 しかも、主人公が父親の死後、家を出てサーカスに入り、男女として人気者になった、という佳境まで来た時点で、講釈師が死んでしまう。物語の基になっていたはずの日記や手紙も消えてしまう。そこで、残された聴衆は物語の続きを語り、互いに論評し合うのである。

 おもしろいと言えば言えるんだが、もっとおもしろくなりそうだったのに小さくまとまってしまっていて残念な作品。200頁くらいしかなくて、主人公が家を出てからの展開が駆け足だしな。

 一方、主人公自身によって語られる『聖なる夜』は、臨終の父親の告白から始まる。それはラマダーン月の27日目で、ムハンマドが経典を授かったとされる「聖なる夜」である。
 息子として父の葬儀を果たした主人公は、家を出て女として生きていく。その遍歴が、時として幻想的な要素を交えて語られるのだが、戸惑わされたのは、全体として妙な通俗性を帯びていることだった。
 この場合の通俗性は、悪い意味での、である。

 主人公の前半生がイスラムの男尊女卑を批判してるのは言わずもがなだが、『砂の子ども』では、その批判は声高でもストレートでもない。
 それに対し、『聖なる夜』での批判は声高でストレートで、それが作品の幻想的な要素とまったく噛み合っていない。

「マジックリアリズム」という言葉はいい加減手垢が付いていて、しかも「リアリズム」の部分がおざなりにされて、「舞台が異世界ではない」という分類に使われている程度でしかなくなっていて、「異世界ではない場所が舞台」のシュールだったり不条理だったりする作品はとにかくマジックリアリズムて呼んどけ、みたいな安易な呼称に成り下がっている。
 しかし本来は、著者にとってのリアリズムによって書かれた作品が他者からすると「魔術的」としか思えない、というのがマジックリアリズムだったはずである。『百年の孤独』が、コロンビア、特にガルシア・マルケスと同郷の人たちにとっては「あー、あるあるあるある……」だというような。
 だから本来は、著者は「奇を衒」ったりしてはならないはずなんだよな。そういう作為があるのはマジック「リアリズム」ではない、と。

『砂の子ども』が、アラブの伝統に則って講釈師によって語られ、さらに講釈師の退場後は聴衆たちによって引き継がれていく、という構造は非常に「リアル」である。その結果として物語が「魔術的」になるのだから、マジックリアリズムと呼んでいいだろう。まあ随分と小粒なんだけどね。

『聖なる夜』のほうは、マジックリアリズムを狙って失敗しました、という感じだなあ。父の葬儀を済ませた主人公は家を出て、強姦され、公衆浴場の番台の女アジーズに保護される。アジーズは盲目の弟コンスュルを溺愛している。主人公とコンスュルは恋に落ち、嫉妬に駆られたアジーズは、主人公の過去を調べ上げ、主人公の父親の遺産を狙う叔父を連れてくる……

 プロットが通俗的(「ベタ」と言い換えてもいい)なんは別にいい。むしろ、プロットはベタなはずなのに作品自体は全然ベタにならんのが、マジックリアリズムというものだろう。
でもこれは、語りもベタなんだもんなあ。

 私は裁判にかけられ、懲役十五年の刑が決まった。弁護士を頼むつもりはなかった。国選弁護人がついたが、若い女性の弁護士だった。彼女はイスラム教国で、女性が置かれている状況について、見事な弁論を行った。

 とか、いったいどうすりゃいいのさ。あまりのベタさに戸惑い、何か仕掛けが用意されてるのかとも思ったが、そんなものはなかった。
 まあつまり、全体として「感動的なノンフィクション」という俗悪な代物をただなぞっている(パロディとしてではなく、まったく無批判に)としか思えず、そこかしこにベタさを軽減しようとするためか幻想的(これも安い意味で)な要素が挿入されてるんだな。

『砂の子ども』を読んだ限りでは、そこまでちんけな作家だとは思えんので、ひたすら戸惑うばかりです。まあフランスでは、この安い幻想性で味付けした通俗性(抑圧されたヒロインの解放と恋と再びの抑圧と最終的な自立というベタなプロット+ベタなイスラム批判+お色気もあるでよ)が受けたんだろうな。

『あやまちの夜』感想

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参考文献録

「住民の種族構成――敦煌をめぐる諸民族の動向」 梅村坦
「敦煌の流通経済」 池田温
(『講座敦煌3 敦煌の社会』 岩波書店 1980) (「中央アジア中世」)

 敦煌は西域の東端なので、「中央アジア」ということにしておく。次作に敦煌が舞台となる場面はなく、言及する予定もないんだが、まあ参考として。

 梅村氏の論文には、どこの図書館にも(国会図書館にも)置いてなかった池田温氏の「8世紀中葉における敦煌のソグド人聚落」(『ユーラシア文化研究』1 1965)の概略が含まれてて、とてもうれしかったです、まる。
 池田氏の論文は、東西交易路に於ける敦煌の位置付けについて。

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『隋唐時代の東トゥルキスタン研究』 嶋崎昌 東京大学出版会 1977 (「中央アジア中世」)
 論文集。タイトルには「隋唐時代」とあるけど、漢代や近世近代の東トゥルキスタンを扱ってる論文もいくつか。あと、ほとんどの論文が高昌(トゥルファン)中心。

「唐の高昌国征討の原因について」(初出1957)と「東トゥルキスターンに於けるカーレーズ灌漑の起源について」(初出1954)のみノートを取る。
 新疆のカレーズについては、『ミカイールの階梯』の時にネタにしようと思って調べようとしたんだが、歴史や範囲について詳しく述べてる資料が見つからず、結局言及すらしなかったのであった。うーむ、こんなとこで見つかるとは。

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