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参考文献録

『砂の子ども』 ターハル・ベン=ジェルーン 菊地有子・訳 紀伊國屋書店 1996(1985)
l’enfant de sable
『聖なる夜』 ターハル・ベン=ジェルーン 菊地有子・訳 紀伊國屋書店 1996(1987)
la nuit sacree
 著者はフランス在住のモロッコ人で、フランス語で創作を行う作家。『聖なる夜』は87年にモロッコ人として初めて、ゴンクール賞を受賞。

『砂の子ども』は、講釈師によって語られる、一人の人物の人生である。講釈師は、その人物の日記と手紙(謎の人物との往復書簡)を手に入れ、それを基に語る(と称している)。
『聖なる夜』は、主人公によって語られる、自身の人生である。
 二つの作品の主人公の前半生は共通しており、以下のようなものである。

 少し過去のモロッコ(56年の独立前後?)で、一人の女の子が生まれる。すでに七人の娘を持つ父親は、彼女を男として育てる。秘密を知るのは両親と、彼女を取り上げたのを最後に引退した老いた産婆だけである。
 割礼式も巧く切り抜け、胸が膨らみ始めれば布を巻き、姉たちにすら本当の性を知られることなく成人した彼女は、従妹のファーティマを娶る。病弱なファーティマは、「夫」が自分に触れないのは気遣ってくれるからだと信じたまま、やがて死ぬ。

 二つの作品の主人公は同一人物、後に書かれた『聖なる夜』は『砂の子ども』の続篇、とフランスでは見做されてるようだが、『砂の子ども』の主人公アフマド(男としての名前)が『聖なる夜』の主人公(一度も名乗らない)と同一人物だとは、一言も述べられていない(著者自身も明言していないようである)。
 実際、共通しているのは父が死ぬまでの前半生だけで、それすらも細かい相違が幾つかある。例えば、『砂の子ども』で最後まで相手が明かされなかった文通について、『聖なる夜』は何も語っていない。

『砂の子ども』は、主人公の日記や手紙を入手した講釈師によって語られる物語だが、どこまで「事実」なのか不明である。時々読み上げられる日記や手紙も、「本物」なのか確証はない。
 しかも、主人公が父親の死後、家を出てサーカスに入り、男女として人気者になった、という佳境まで来た時点で、講釈師が死んでしまう。物語の基になっていたはずの日記や手紙も消えてしまう。そこで、残された聴衆は物語の続きを語り、互いに論評し合うのである。

 おもしろいと言えば言えるんだが、もっとおもしろくなりそうだったのに小さくまとまってしまっていて残念な作品。200頁くらいしかなくて、主人公が家を出てからの展開が駆け足だしな。

 一方、主人公自身によって語られる『聖なる夜』は、臨終の父親の告白から始まる。それはラマダーン月の27日目で、ムハンマドが経典を授かったとされる「聖なる夜」である。
 息子として父の葬儀を果たした主人公は、家を出て女として生きていく。その遍歴が、時として幻想的な要素を交えて語られるのだが、戸惑わされたのは、全体として妙な通俗性を帯びていることだった。
 この場合の通俗性は、悪い意味での、である。

 主人公の前半生がイスラムの男尊女卑を批判してるのは言わずもがなだが、『砂の子ども』では、その批判は声高でもストレートでもない。
 それに対し、『聖なる夜』での批判は声高でストレートで、それが作品の幻想的な要素とまったく噛み合っていない。

「マジックリアリズム」という言葉はいい加減手垢が付いていて、しかも「リアリズム」の部分がおざなりにされて、「舞台が異世界ではない」という分類に使われている程度でしかなくなっていて、「異世界ではない場所が舞台」のシュールだったり不条理だったりする作品はとにかくマジックリアリズムて呼んどけ、みたいな安易な呼称に成り下がっている。
 しかし本来は、著者にとってのリアリズムによって書かれた作品が他者からすると「魔術的」としか思えない、というのがマジックリアリズムだったはずである。『百年の孤独』が、コロンビア、特にガルシア・マルケスと同郷の人たちにとっては「あー、あるあるあるある……」だというような。
 だから本来は、著者は「奇を衒」ったりしてはならないはずなんだよな。そういう作為があるのはマジック「リアリズム」ではない、と。

『砂の子ども』が、アラブの伝統に則って講釈師によって語られ、さらに講釈師の退場後は聴衆たちによって引き継がれていく、という構造は非常に「リアル」である。その結果として物語が「魔術的」になるのだから、マジックリアリズムと呼んでいいだろう。まあ随分と小粒なんだけどね。

『聖なる夜』のほうは、マジックリアリズムを狙って失敗しました、という感じだなあ。父の葬儀を済ませた主人公は家を出て、強姦され、公衆浴場の番台の女アジーズに保護される。アジーズは盲目の弟コンスュルを溺愛している。主人公とコンスュルは恋に落ち、嫉妬に駆られたアジーズは、主人公の過去を調べ上げ、主人公の父親の遺産を狙う叔父を連れてくる……

 プロットが通俗的(「ベタ」と言い換えてもいい)なんは別にいい。むしろ、プロットはベタなはずなのに作品自体は全然ベタにならんのが、マジックリアリズムというものだろう。
でもこれは、語りもベタなんだもんなあ。

 私は裁判にかけられ、懲役十五年の刑が決まった。弁護士を頼むつもりはなかった。国選弁護人がついたが、若い女性の弁護士だった。彼女はイスラム教国で、女性が置かれている状況について、見事な弁論を行った。

 とか、いったいどうすりゃいいのさ。あまりのベタさに戸惑い、何か仕掛けが用意されてるのかとも思ったが、そんなものはなかった。
 まあつまり、全体として「感動的なノンフィクション」という俗悪な代物をただなぞっている(パロディとしてではなく、まったく無批判に)としか思えず、そこかしこにベタさを軽減しようとするためか幻想的(これも安い意味で)な要素が挿入されてるんだな。

『砂の子ども』を読んだ限りでは、そこまでちんけな作家だとは思えんので、ひたすら戸惑うばかりです。まあフランスでは、この安い幻想性で味付けした通俗性(抑圧されたヒロインの解放と恋と再びの抑圧と最終的な自立というベタなプロット+ベタなイスラム批判+お色気もあるでよ)が受けたんだろうな。

『あやまちの夜』感想

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