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参考文献録

『妖霊ハーリド』 F・マリオン・クロフォード 船木裕・訳 早川書房 1980(1891)
khaled
 再読……ほぼ四半世紀ぶり。内容よりも、天野喜孝のカバーイラストのほうが印象に残ってた。改めて見ると、やっぱ当時の天野絵はレオン・バクストの影響が強いなあ。こういうもろにオリエンタリズムなデザインだけじゃなくて、人物のポーズとかまんまバレエだし。

 クロフォードの著作はほかに数点邦訳が出てるが、いずれもゴシック・ホラーのようである。
ロバート・アーウィンの『必携アラビアン・ナイト』によると、19世紀のアラビアンナイト翻案小説ブームは、オリエンタリズムに加えてゴシック小説の隆盛と結び付いてるそうな。ウィリアム・ベックフォードの『ヴァテック』(1782)も、アラビアンナイト翻案小説としてよりもゴシック小説の古典として評価されてるわけだし。

『妖霊ハーリド』の訳者あとがきは、二世紀にわたって氾濫した「西欧風東洋物語」の中で「現在でも一読にあたいする作品となると僅かに三冊しかない」とし、この『ヴァテック』(Vathekを「ヴァセック」としてるが、原書はフランス語で書かれてるから「ヴァテック」だろう)とジョージ・メレディスの『シャグバットの毛剃り』(1855)と並べて本書を挙げている。
 んー………確かに本書は、「現在でも一読にあたいする作品」ではある。まあつまり、この邦訳が出た1980年当時から現在までに刊行された(国産および邦訳)ハイ・ファンタジーで、これより劣るものは無数にあるだろう。けど、『ヴァテック』と『シャグバットの毛剃り』と同列に並べられるかっつーと、甚だ疑問だ。

 一言で言うと、『妖霊ハーリド』は先行二作品に比べて、奇想が足りない。足りないのは「荒唐無稽さ」とか「ぶっとびかた」と言い換えてもいいが。『妖霊ハーリド』の訳が流麗で読みやすく、『ヴァテック』と『シャグバット』の邦訳がどちらも昭和初期のものだということを差し引いても、『ハーリド』はきれいにまとまりすぎている。よくできた小品といったところ。
 というわけで、訳者の持ち上げ方には疑問を持たざるを得ないものの、作品そのものはおもしろかった。イスラムについての知識もかなり正確だし。まあ『ヴァテック』や『シャグバット』より時代が下がるからでもあるんだろうけど。

 物語は古典的で、ジンのハーリドはアラーの許しなく人間の命を奪ったため、魂のない人間として地上に追放される。もはやジンに戻ることはできないが、もし一人の女が彼を愛してくれれば、魂を得て、死後は天国に行くことができる。だがその女、ジフワー姫は愛というものを知らなかった。かくてハーリドの苦難が始まる。

 ジフワー姫の父であるナジド国のスルタンに気に入られ、ハーリドは直ちに姫の婿になることができた。だが、愛してほしい、という要求に、彼女は「愛情ってなんですの?」と問い、ハーリドは返答に窮する。「あなた自身、こんなに単純な質問に答えられないのに、どうしてあなたを愛しているとわたくしに言ってほしいと思うのです?」
 あの手この手でジフワー姫の気を惹こうとする、ハーリドの努力は涙ぐましい。最初は魂を得るために姫の愛を欲していた彼だが、やがて彼女を愛するがために彼女にも愛してもらいたいと願うようになる。

 ジフワー姫の嫉妬を期待してハーリドが利用するのが、アルマスタというグルジア人の女奴隷である。可哀想な役回りのアルマスタではあるが、悪知恵だけは働く浅薄な女でもあり、後半は悪役になる。
 これは「我々(著者および読者)=東洋人」「他者=白人」という簡潔な逆転ではない。アルマスタは、赤毛であるところからしても白人は白人でも西欧人ではなく、東欧人(スラヴ)や北欧人(ヴァイキング)という「他者」(=野蛮な白人)である。

 マイケル・クライトンの『北人伝説』が優れているのは、文明的なムスリムであるイブン・ファドランを「我々」の側、野蛮な北人(=ヴァリャーギ。この時代、スカンディナヴィア人とスラヴ人の区別は明確でない)を「他者」としたところから出発して、イブン・ファドランが北人たちと親交を深めていくに従って、北人たちを「我々」の側へ引き寄せていくことだ。そして、終盤までにはイブン・ファドランと北人たちの間にあった垣根を取り払ってしまうのである。

『ヴァテック』と『シャグバットの毛剃り』感想

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