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参考文献録

ジョージ・アレック・エフィンジャー 浅倉久志・訳 早川書房
『重力が衰えるとき』1989(1987)
 when gravity fails
『太陽の炎』1991(1989) a fire in the sun
『電脳沙漠』1992(1991) the exile kiss

 アラブの暗黒街ブーダイーンが舞台のハードボイルド風SF。ハードボイルド「風」なのは、パロディ的なお遊びの要素が強いから。この世界の人々は脳のプラグに人格モジュールを差し込むことで、どんな人格になることもでき、ジェイムズ・ボンドやネロ・ウルフのモジュールが普通に市販されてたりする。

 ブーダイーンという街が実に魅力的で、驚嘆させられた。文字どおり、驚くべき魅力だ。イスラム的色彩は、猥雑でどぎつい雰囲気を作り出すのに素晴らしく有効活用されている。あくまで「猥雑でどぎつい」味付けに使われているだけで、しかもその味付けも、くどすぎではない。イスラムについて知識がない・興味がない読者も、その味付けを充分に楽しめるだろう。
 それでいて、イスラムに関して私でさえ気づくような初歩的な誤謬はない。特定の「異文化」を扱ったフィクションて、呆れるほど初歩的なミスだらけか、衒学に走るかのどちらかだ。ていうか、その両方であることが多い。その異文化を専門に研究している著者であっても、唖然とするほど初歩的なミスを仕出かしてることもある。その一方で微に入り細に入り薀蓄を垂れ流しているのだから、げんなりさせられる。

 さらに驚くべきことに、この作品にはエドワード・サイードが批判する意味でのオリエンタリズムが存在しない。
 つまり、ここで描かれるイスラム圏(すなわち狭義のオリエント)は、「西」がいかに優れているか自画自賛するためのダシにされはいないのだ。「女性的」「倦怠」「停滞」「狂信」といったメタファーも押し付けられていない。「猥雑」と「暴力」は大盤振る舞いだが、これは世界中の「暗黒街」に共通したイメージであって、イスラムの特徴だと断じられてなどいない。
 また、「西」の自己批判のダシとして都合よく理想化した、裏返しのオリエンタリズムも見出せないのである。

 中東が「西」を照らしたり映したりする役割を負わされがちなのは、やっぱり距離が近いからなんだろう。その点、日本は「西」にとって、遠い上に歴史的にも関わりが少ないから、中東と違って「西」に繋がれた存在ではなく、「西」とは無関係な「奇妙な国」として愉しまれてきたわけだ。
 身勝手な役割を押し付けられてるのはオリエンタリズムと一緒だが、ジャポニズムは失笑したり不愉快な思いをさせられたりするレベルで済んでいる。オリエンタリズムは例えばアメリカの対イスラム圏政策に如実に反映されているが、ジャポニズムが対日本政策に反映されることは、少なくとも直接にはないはずだ。
 オリエンタリズムにも、「他者」の奇妙さを無責任に愉しむエキゾティシズムという側面はある。エフィンジャーのこのシリーズにも、そうした要素はあるが、あくまで味付け程度である。
 
 こうしたことはすべて、主人公マリードとブーダイーンの住人たちが、「他者」として書かれていないことに因っているのではないかと思う。欧米人が書く、中東が舞台のフィクションは、主人公が欧米人だったり、中東人であっても「他者」として位置づけられていることが多い。だからオリエンタリズムから逃れられないのである。
 ブーダイーンは、ムスリムのマリード(アルジェリア人とフランス人のハーフ)をはじめ、さまざまな人種や民族の住民によって構成されている。彼らは皆、「我々」で、「他者」はブーダイーンの外からやってくる余所者である。

「我々」といっても、想定される読者(アメリカ人)にとって本来「他者」であるキャラクターたちを、安易にアメリカナイズしているのではない。そして、それをやってのけたのがアメリカ人だというのもまた驚嘆すべき点なのである(いやマジで)。
 しかし、シリーズ3冊の訳者あとがきのどこにも、エフィンジャーがどういう経緯でイスラム圏に興味を持ち、これだけの見識を身に着けることができたのか説明は一切ない。第1作の『重力が衰えるとき』が生まれたきっかけは、知人のドラッグ・クイーンが殺された憤りだそうである。

 主人公たちを「我々」にすることに成功した大きな要因は、「俺」の一人称で語られるハードボイルドにしたことだと思う。
 ハードボイルドって、主人公がいかに自分がしょぼくて冴えないかを繰り返し強調しても、「でもおまえ、ほんまは『そういう俺ってかっこいい』て思てるやろ!?(そんで、作者もそういうんがかっこいい思てるやろ)」というのが露骨に透けて見えて辟易させられるから嫌いなんだが(まあ良作に巡り合えてないだけだという可能性はありますが)、このシリーズの主人公マリードにはそういうナルシシズムがほぼ無く(皆無とは言い切れんが)、本当にしょぼくて冴えないのが気に入りました。

 以下、個別の感想。各巻に付けた点数は辛めです。それぞれ+10点でもいい。

『重力が衰えるとき』
 一番おもしろかった。上に挙げた特徴は、実はこの第1作の特徴である。猥雑でさまざまな異文化が入り乱れた街ブーダイーンの造形が素晴らしい。舞台となる「街」が同時に主人公である小説としても成功しているし、ハードボイルドとしても入り組んだプロットは楽しめる。
 またSFとしても、人格モジュールというガジェット自体は今ではすっかりありふれてしまったが(言い方を変えれば、未だに有効なガジェットということだ)、使い方はおもしろい。古典作品のキャラクターのモジュールとか。100点満点で80点以上。

『太陽の炎』
 一匹狼の探偵だったマリードは、街の顔役の手下にされてしまう。それでも彼とブーダイーンの人々が依然「我々」であるのは著者の手腕というべきだろう。
 が、ブーダイーンの諸文化混淆の側面が薄れ、イスラム的要素が強くなったこと、またハードボイルドとしてもプロットが前作よりも直線的なのが惜しまれる。
 SFとしては、人格モジュールというガジェットは巧く応用されているが、インパクトのある新たなガジェットやアイディアの登場はなし。それに、1989年ていったらDNA鑑定はすでに実用目前だったと思うんだが、人格モジュールがあるような未来でなぜDNA鑑定やそれに類する技術がないのか。あると話の展開上不都合だからというのは明白だが、それならそれで、もっともらしい理由付けをしてほしかったなあ。100点満点で70点以上80点未満。

『電脳砂漠』
 異文化混淆の側面が後退し、イスラム的側面が強まるという傾向は、前作よりさらに促進されている。今やブーダイーンの顔役「パパ」の右腕となったマリードは、開巻いきなりパパとともに拉致され、死の砂漠に置き去りにされる。どれだけ手に汗握る脱出劇になるかと思えば、二人を助けたベドウィンの人々がどれだけ強靭かつ素朴かという描写が延々と続き、マリードは人生を見直すようにまでなってしまうのである。
『カリーラとディムナ』(平凡社東洋文庫)から引っ張ってきた動物寓話とか、入れる必要があったのか? というわけで、ブーダイーンに戻った時にはすでに頁数の半分が費やされているのである。後の展開はどうしても駆け足になる。やれやれ。

 ロバート・アーウィンの『アラビアン・ナイト必携』(「必携」が前に付くのか後ろに付くのかがどうしても憶えられない)によれば、アントワーヌ・ガランの『千夜一夜』翻訳刊行によって中東ブームに火が付き、いい加減な知識で書かれた中東ものが大量に生み出された。お蔭でまっとうな研究にも弾みが付いたが、中東についての正しい知識が増えるにつれて、逆に大衆の中東への興味は薄れていったという。
 研究が進むにつれて、大衆の興味と乖離してしていく――そこに因果関係があるのか否かアーウィンは言及していなかったが、やっぱり関係あるんだろう。『電脳砂漠』のアンバランスさは、明らかにエフィンジャーのイスラムへの知識が増大し、比例して興味も増大し、同時に反比例して他の要素への関心が薄れつつあったことを示している。
 第1作に於いてブーダイーンの魅力の一つだった諸文化混淆は、イスラムの知識が充分でないのを補う目的もあったかもしらんな。

 特定の事物について著者の知識と興味が深まり、マニアックになりすぎて読者置いてけぼり、というのはバリー・ヒューガードの『鳥姫伝』のシリーズにも言えるな。長く続く予定のシリーズが3巻目で止まってしまった理由は、ヒューガードとエフィンジャーでは異なるわけだけど、3巻目で読者置いてけぼりの黄信号が点灯してるのは一緒である。
 この因果関係は肝に銘じておこう。銘じておくだけな。
 100点満点で50点以上60点未満。辛めの採点ではありますが。

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