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2010年度佐藤亜紀明治大学特別講義 第2回

何かが起こった瞬間、複数の人間が現場に居合わせたとして、同時にtwitをしたとする。他人がそれをリアルタイムで読んだとしても、出来事そのものを認識することはできない。
 その場に居合わせた人々自身であっても、出来事そのものを認識できはしない。観察者の数だけ情報の断片がある。出来事が丸のまま観察され、報告されることはない。

 だから、出来事そのものという「実体」はないのか? ……というのが、前回のお話。

 事件の総体を知っている、と人が錯覚している状態というのは、(事件を取り巻く)言説のネットワークがどのような形であるのかを知っている、ということである。ネット(網目)の形によって、中身を認識しているのである。

 そうした言説の網目の有効性が問われる時が来る。その瞬間に生まれるものがある。

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Isdr

 ゴヤの「サン・イシドロの草原」(上)と「サン・イシドロの巡礼」(下)。
 伝統的技法で描かれた「草原」の背景の群集は巡礼の人々である。つまり、二枚への絵は同じ主題を描いている。しかし「黒い絵」の「サン・イシドロの巡礼」のほうは、物事をありのままに写そう(無論、美化して)、という西洋絵画の伝統に関心がない。

 この二枚は描かれた時期が若い頃と晩年だが、次の二枚は同時期にセットで描かれたものである。

Goya_lucha00 「5月2日」

Goya_fusilamientos00 「5月3日」

「3日」や「黒い絵」では、人物はルーベンス的な立体的な肉体を持っていない。平面化され、記号化(キャラ化)されている。

 表現というものはどう変わり得るのか。表現が変化するということは、その表現によって包み込まれていた(あるいは包み込もうとしていた)実体が変化するということ。

 同時代の美術・文学・音楽は同じ傾向を持っている、と言えないことはない。ただし、どのように同じなのかという証明は非常に難しい。
 例えば、ゾラはセザンヌと親しかったが、画家を主人公にした小説を書いたら、「おまえは何も解っていない」と絶交された。画家が絵を描いている時、何を考えているかなど、小説家には解らないし、画家自身も解ってはいない。

 しかし彼らの間で共通するものはある。世界を把握する方法が似ているのである。それを鑑賞者は「同じ傾向」として感知しているのだろう。

「5月2日」と「3日」のテーマは一続きである。重要なのは、このような描き方の違いが起きた理由である。
 ゴヤ以前、ヴォルテールはポルトガル地震の惨禍に衝撃を受けて書いた『カンディード』で人物を機械人形のように平面化して描いている。これはゴヤの平面化された人物の描き方に通じる。

 表現は表現から作られる。表現は表現の網目からできていて、その網目が世界を包んでいる。網目が無効になった瞬間、表現は自ずと変わる。

 ゴヤのあの描き方をストレートに継承した者はいない。(ただし、皆無とは言えないかもしれない。いかにもゴヤらしいゴヤ作品だと思われていた「巨人」が、弟子の作品だと昨年判明した。それはともかく)スタイルだけ継承したのがマネである。

Mane07 「マクシミリアン皇帝の銃殺」

 人間が平面化され、「リアリティ」がない。写実性や固有色を否定した近代ヨーロッパ絵画は、ヨーロッパ絵画におけるミメーシス(模倣)の崩壊である。その原点はゴヤだと言える。彼自身にそんなつもりはなかったのだが。

 ゴヤにとってスペイン内戦は、表現を変えざるを得ない体験だった。見えている世界が変わってしまったので、表現も変えざるを得なかったのである。表現は必然性があって壊れるものである(だから「表現を壊そう」という意気込みで作られたものは碌でもない)。
世界が変容してしまえば、そこで表現された対象は、元の形をしていない(以前の方法で表現された形はしていない)。
 しかし世界は変容していくが、いったん確立された表現(様式)は、世界の変容よりも寿命が長い。刷新された表現を批評するには、その言葉もまた新たに作り出されなくてはならない。
 19世紀後半から20世紀初頭に新しく生まれた表現を、批評家たちは美しいとは思わなかった。彼らが美しいと思うのは、前時代以来のアカデミズム絵画だった。しかし彼らが新しい表現を評した言葉は的確だった。それが「印象派」であり「フォーヴィズム」である。何をもって美しいとするかという判断基準とは別の次元で、見る目は確かだったのである。

 大野晋が晩年に語った言葉:「最近の人はものをきちんと見ていないから、文章をきちんと書けない」
 これも、(皮肉抜きで)的確な評である。「きちんとした見方」すなわちそれまでの見方ではものをきちんと見ていない、つまりものの見方が違う。ものの見方が違う(=「きちんと見ていない」)から、表現もまた違ってくる(=「きちんとした文章が書けない」)のである。

 ……以上、前年までのまとめ。いよいよここから今年の本題「笙野頼子」である。

『母の発達』(1996)は、書き手(「=笙野頼子」とは限らない)が認識している世界と、一般的な世界の概念とのズレを描いている。世界を、書き手にとって見えているように書いている。
 世界(もしくは、少なくとも「母」の概念)の語り直し、書き換えである(ただし、この作品の段階では、まだ言語遊戯に留まっているきらいがある)。
母親を、言葉によって解体しているのである。語り手にとってだけでなく、母親自体も解体されていく。
 佐藤氏は初めてこの作品を読んだ時、書き手は悪意によって母親を解体しているのだと解釈した。しかし数年後再読して、母は意に反して解体されているのではないのだと気づいた。母の概念を解体することによって、母娘ともども解体され、浄化されるのである。

 これを、「お母さん、あなたは母である前に一人の人間なのです。自由になりましょう」という、いわゆるフェミニズム的な言葉に言い換えても、何一つ解体されない。言葉に魔術性がないからである。言葉の魔術性は、世界を変容させることが可能である。

第1回講義
 

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