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2010年度佐藤亜紀明治大学特別講義 第1回 ①

 5月29日。
 時間的にも気力的にもまとめるのがしんどいのだが、まとめておかないと後でノートを見返しても何が何だかわからないのは必至なので頑張る。

 まず、「これまでのお話」。

『トゥモロー・ワールド』や『宇宙戦争』といった、これまでになかった表現の映画が作られるようになった。
 どの辺が「これまでになかった表現」なのかというと、暴力の表現である。暴力が、人間に対して大々的な規模で振るわれるようになる。
『トゥモロー・ワールド』では、テロはなんの前触れもなく起こる。「爆発が起きるぞ」というサスペンスは一切無い。また、レンズに血痕が付着するといった、ドキュメンタリー手法で撮られているのだが、それはプロのカメラマンによって撮影されたのではない、偶々その場に居合せた人間が撮影したかのような映像である。こうした手法は娯楽映画にすっかり定着した。

 その下地は、ベルリンの壁崩壊以降の各地の紛争に於いて生まれていた。特に顕著なのがボスニア紛争である。
 それまで「難民」というのは我々とは違う「第三世界」の「可哀想な人たち」だった。「彼らも私たちと同じ人間なんだ」という想像力を働かせる必要があった。
 ボスニア紛争以降、難民とはベンツに乗ってipodを聴いているような、つまり「私たちと同じ」人々となった。「私たち」は、いつでも難民になり得る人々となったのである。

 1998年制作の『マーシャル・ロー』(エドワード・ズウィック監督)では、ニューヨークで大規模テロが起きるという設定の下、多数のイスラム系住民が軍隊によってスタジアムに収容される。「軍が市民をスタジアムに収容」というのは1973年のチリ・クーデターでやってることで、いやでもその後で行われた大虐殺を連想させる。
「米軍が自国民に対してそういうことをやりかねない」というのは、それまでに存在しなかった想像力である。こうした、アメリカの想像力の変化が顕在化するのは、言うまでもなく9.11以降である。

 ちなみに私はズウィック監督作品は『戦火の勇気』『グローリー』『ラスト・サムライ』『ブラッド・ダイヤモンド』しか観たことがないので、講義後、佐藤哲也氏に「ズウィックって才能があるんですかないんですか」と尋ねたら、「『レジェンド・オブ・フォール』は傑作だから観なさい」と叱られた。『グローリー』が駄目なのは、まだ若かったからだそうです。

 映画に於ける殴り合いの「型」の変遷。
 1948年ジョン・ヒューストン監督『黄金』ではボクシング。1963年の007シリーズの『ロシアより愛をこめて』ではプロレス(「型」は前者ほど明確ではないが、列車内での格闘シーンで網棚をリングのロープのように使うところなど)。
 どちらも男の筋力と体格にものを言わせた格闘なので、女が出る幕はない。それを変えたのはブルース・リーの登場である。服を着てれば全然強そうに見えず、脱いだら脱いだで、その肉体は持って生まれたのではなく鍛錬によって造り上げられたものである。
 つまり、恵まれた体格でない男および女も、技量を高めることによって強くなれる、という認識が生まれたのである。

 以降の映画に於ける格闘場面は、技をきれいに見せるものになる。その傾向は未だに続いているが、それとは異なる「型」が2002年の『ボーン・アイデンティティ』に始まるジェイソン・ボーン・シリーズである。
 このシリーズの格闘には「型」がない。二人の男が揉み合ってると思ったら、どっちかがダメージを喰らって倒れているのである。観客には何がどうなったのかは判らない。どのような攻撃をしたのか、という一打一打を撮っていないからである。

 攻撃側が「どのようにダメージを与えたのか」ではなく、攻撃された側が「どれだけのダメージを受けたか」だけを描く、というのは、『トゥモロー・ワールド』や『宇宙戦争』に於ける大々的な暴力の描き方に通じる。我々は何が何だかわからないうちに、大打撃を蒙るのである。

2010年度第1回講義②

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