« 参考文献録 | トップページ | 2010年度佐藤亜紀明治大学特別講義 第1回 ① »

2010年度佐藤亜紀明治大学特別講義 第1回 ②

「語った数だけ歴史があり、“事実”は存在しない」という言説への疑問。

 村上春樹の『アンダー・グラウンド』。
 インタビュー集とはいうものの、誰の発言であろうとことごとく「春樹語」に翻訳されており、村上春樹作品になってしまっている。しかし、それでも判る「事実」はある。
 それは、地下鉄サリン事件そのものというよりも、事件が切り取った「その日」の首都圏の断面図である。例えば地下鉄の線によって現れる、「階級」の違いとか(当時日本には存在しないとされていた)。
 例えば、永田町へ向かう線で被害に遭った人々のほとんどがインタビューを拒否した中、唯一答えたのが防衛庁の人たちだった、とか。
 例えば、印刷所に勤める中年男性は、サリンのビニール袋が下に置かれた、まさにその座席に座り、異臭に気づいていながら立たなかった。せっかく座れた席から、絶対に立ちたくなかったのである。そして、そのせっかく座れた席で深く眠っていたため、そんな位置にもかかわらずそれほど被害を受けなかったのである、とか。
 例えば、ある男性は衣服に染み込んだサリンを振り撒きながらタクシーに乗ったが途中で力尽きた(そして、タクシーの運転手が二次被害を受けた)。すでにホームに降りた時点で気分が悪くなり始めていたであろうに、そうまでして彼は出勤しなければならなかった、とか。

 こうした「現場の語り」は信用できないと言えるのだろうか。

 あるいは、史料は信用できない、という意見がある。古い時代であれば識字階級は社会の上層のほんの一握りだから、特に下層階級についての記録など偏見に満ちていて信用できたものではない、参照するだけ無駄だ、等々。
 しかし、例えばヨーロッパであれば、貴族の子供は乳母をはじめ下層階級の人間に囲まれて育った。彼らが下層民を知らない、と言えるだろうか。
 文化がある一線できれいに分けられるということはあり得ない。一人の人間の中でさえ、複数の文化が入り混じっている。

 駅の売店で売っているゆで卵はネットに入っている。ある一つの出来事、それ自体は、あのゆで卵のようなものかもしれない。我々が歴史と呼んでいるものは、その出来事=ゆで卵を包む言説のネットであり、中身である出来事そのものを我々が認識(あるいは解明)できることは永遠にない。
 もしかしたら、中身は空白かもしれない。しかしそうだとしても、それを包む言説が恣意的なものとは限らない。
 ゆで卵=出来事を包む言説一つ一つにも、それが出てくる状況(背景)がある。「南京大虐殺はなかった」という言説にも、それが生じた背景は存在する。

 出来事そのものという中身が認識できないからといって、なかったことにしようとする人々もいる。例には事欠かないが、その中身にこだわらざるを得ない人々もいる。
 例えば、海外で知人一家とTVを見ていると、登場した一人の政治家の顔を見て、それまでの和やかな空気が凍り付く。後で聞いたところによると、一家の祖母は戦時中、目の前で父親を殺されている(パルチザン同士の抗争だった)。その殺人者がTVで演説していた政治家だった、という。
 そういう人たちに向かって、当事者の記憶、語りはあてにならないから、そんな出来事など存在しなかったのだ、と言えるのか。

 歴史の捉え方の一つに、歴史=事件史というものがある。このやり方だと、事件一つ一つを個別に把握することになる。例えば「本能寺の変:1582年に明智光秀が京都の本能寺で織田信長を殺した」という具合に、出来事はすべて「○○○○年にA(人物)がB(場所)で××をした」というだけの個別の項目となり、それぞれの背景も互いの繋がりもまったく無視されることになる。だから歴史=暗記科目ということになる。

 出来事一つ一つが単独で存在するなどあり得ない。それを示したのが、ブローデルの『地中海』である。この大著は、まず地中海とその沿岸地域の地質学的解説から始まる。
地中海という構造(地形)によって気候風土が決定され、そこに住む人々の社会も決定される。そしてその気候が変動することによって社会も変動する。
 すなわち、ある「政治的決断」が成されるのは、無数の条件が重なった上に於いてであり、それらの条件を作ったのは、究極的には、気候であり、地形であり、地質学的変動ということになる。
 そんな巨大な構造の中で、人間が意思によって取り得る選択肢はせいぜい2つか3つである。
 人間の思考は社会階層に規定される、という立場を取れば、選択の幅はさらに狭まることになる。

 それでもなお、「歴史とは言説に過ぎない」と言えるのか。言説=ネットのみを語るのであれば、その表現はたかが知れている。

2010年度講義第1回①
2010年度講義第2回

2007年度講義 (第4回のみ出席)
2008年度講義第1回
2009年度講義第1回

|

« 参考文献録 | トップページ | 2010年度佐藤亜紀明治大学特別講義 第1回 ① »

鑑賞記2010」カテゴリの記事