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参考文献録

『忌わしき者の城』 グレン・クック 船木裕・訳 早川書房 1992(1989)
 凡庸な異世界ファンタジー。読むに堪えないほどではなかったので、最後まで読み通す。
 解説の中村融氏は、世界観は舞台となる都市カシュマラーがアルジェリア辺り、侵略側のヘロデ人がオスマントルコがモデルだと推測していたが、舞台がマグリブなのはともかく、侵略者のヘロデ人はむしろ、名前が示すようにキリスト教化したローマ帝国、もしくはローマ帝国化したイスラエルを想定していると思われる。

 異世界のモデルとしては珍しい文化圏をわざわざ選択しているにもかかわらず、それほどエキゾティシズムを描き出せているとは言い難い。敢えて挙げるなら、「砂漠の剽悍な遊牧民ダルタル人」くらいなものか。ちなみに邦訳者の船木氏は、同じく中東風ファンタジーの『妖霊ハーリド』も訳しておられる。
 アーロン、ラエラ、アリフ、スタファ、ハンノ、ヨゼーといった中東風(もしくはセム系風)固有名詞には、うっすらと笑いが込み上げるが(「ダルタル人」て……)、語感が統一されているのは良いことである。一部の異世界ファンタジーにはその点、耐え難いものがあるからな。
 しかし、異世界ファンタジーに平気で「スパルタ風」とか書いてまうあたり(原文の忠実な訳であって、邦訳者の意訳ではあるまい)、感覚の違いなのかね。まあ日本語だって、語源を突き詰めていったら切りがないんだけど。

 読むに堪えないほどではないが凡庸、と述べたが、より具体的に欠点を挙げるなら、とにかくゴチャゴチャしすぎ、の一言に尽きる。普通の厚さの文庫本上下巻、400字詰め換算にして800枚程度と思われるが、登場人物表に載っている(つまりある程度出番のある)キャラクターだけで46名に上るのだ。さらにここに、数柱の神々が加わる(この世界では神々に実体はないが)。
 文章も構成もゴチャゴチャしていて、何がどうなってるのかよくわからない。プロットそのものは、そう複雑でもないんだけどねえ(複雑だったら、本当に収集がつかなくなっていたはずだ)。終盤も近くなって、ようやくいくらかおもしろくなってくる程度。

 なぜこの本を読んだのかといえば、「中東風」異世界がどのように描かれているのかに興味があったからである。異世界ファンタジーだろうと「現実」の世界が舞台だろうと、フィクションが特定の文化圏を舞台(モデル)にするのは、その文化圏と結び付いた題材を扱うのでなければ、単にエキゾティシズムを利用したいからである。
 で、本作品が中東風世界設定を選択したのは、単に他との差異化を図りたかった、すなわち中東のエキゾティシズムに期待したとしか思えないのだが、上記のとおり、それは成功しているとは言い難い。

 1989年に書かれた本作に、「我々(欧米人)」と「彼ら」という対立、すなわちオリエンタリズムは見られない。これは、中東は欧米(特にアメリカ)にとっては前時代と変わらず遠いままだが、情報だけは容易に入手できるようになった80年代の特徴なのかもしれない、となんとなく思ったりする。中東は当時、欧米人にとって「我ら」と「彼ら」という関係性を投影する必要もない遠い世界となっていたのではあるまいか。
 作者も読者も異世界ファンタジーにすっかり馴染んでいることも、一役買っているかもしれない。異世界ファンタジーの住人たちに感情移入するのと同じ感覚で、異世界同然の遠い中東世界の住人たちに感情移入できたわけだ。
 湾岸戦争、カフカスやバルカンの紛争、そして9.11を通じて、中東の人々は欧米人にとって再び「我ら」に対する「彼ら」となり、そして容易に感情移入のできない異質な集団となったのではあるまいか。日本人にとっては、さあどうだろうね。

 最大の収穫は、中村融氏による巻末解説で、中東を舞台にした小説を幾つか拾えたこと。これは探す方法がないに等しいんで、大変ありがたかった。しかし、ポール・ボウルズ(『シェルダリング・スカイ』の人)はやっぱり読むべきなのか。

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