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参考文献録

『蜘蛛の家』 ポール・ボウルズ 四方田犬彦・訳 白水社 1995(1982)
The spider’s house
 独立直前のモロッコを舞台とした長編。混沌の中で傍観者でい続けようとするアメリカ人男女の、それぞれの独善性が相対化されていておもしろい。
 しかしその相対化にもかかわらず、「アメリカ人」が他のどの国民・民族とも違う、特別な存在であることが「厳然たる事実」とされているのんが微妙。

 ポール・ボウルズ本人は当時、外国人排斥ムードに身の危険を感じてモロッコを離れているので、アメリカ人だけは不可侵、などと信じていたとも思えないのだが、少なくとも作品の中では、この不可侵性は相対化されることのない絶対的事実なのである。
「現地人」ばかりでなく、フランス人もイギリス人もすべて、混沌の中では「個」を失い、顔のない群衆の一部と化してしまう。もう一方の主人公である、モロッコ人少年アマールは「個人」として描かれるが、それは彼にスポットが当たっている場面に限られ、相対的に見れば彼も「顔のない群衆」の一部に過ぎない。
 ところが作家ステンハムと、彼と行動を共にする女リー・バロウズはアメリカ人なので、群衆の中にあっても常に不可侵のオーラに包まれているのである。

 一色伸幸・原作、山本直樹・画のコミック『僕らはみんな生きている』に、第三世界の某国で内戦に遭遇してしまった日本人たち(商社マンやバックパッカー)が、戦闘地帯を「わたしたちは日本人です」と宣言しながら通過しようとするシーンがある。
 まあ9割9分とまでは言わんが、9割8分の日本人は確実に、彼らと行動原理を共有しているであろう(実際にそう行動するかどうかはともかくとして)。私もその一人である自信がある。
「我々」だけは「彼ら」の中に在って不可侵のオーラに包まれていると信じる思い上がりを自嘲する。そのような視線が、『蜘蛛の家』には見当たらない。それに戸惑ってもうて、どうにも。

 あと、少年アマールは文盲なのだが、そのことを本人から告げられた作家ステンハムは、「つまり、きみは誰をも畏れることがないわけだ」と言う。
 短編「学ぶべきこの地」(『優雅な獲物』所収)のヒロインについてもそうだったが、文盲であることに、innocenceであるという象徴性を過剰に負わせすぎ、その図式がわかりやすすぎ、というきらいがある。

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